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焼額山に身も心も凍る(TBC29)
これから盛夏を迎えようという時に冬の話で失礼します。
Wikipediaによると1991〜92のシーズンあるいは98〜99という事になりますが98は長野五輪の年なのでそれは無さそうです。
フリースタイルスキーのW杯が長野県の焼額山で開催されるというのでテレビ朝日もモーグルとエアリアルを中継する事になりました。
ゲレンデの中腹にプレハブ小屋を建て中継スタジオにしました。私達もprofileとレイン
聖地 St Andrews(TBC28)
少し時期は前後しますが、クラウドを検索したら写真が出てきたので懐かしさのあまり投稿します。昔話なので眠くなるかもしれません。
ゴルフ好きで少し歴史に関心のある方なら誰でも知っている「ゴルフの聖地」と呼ばれているゴルフコースがあります。
St Andrews Old Courseセントアンドルーズ・オールドコース
日本で桜田門外ノ変があって大老井伊直弼が暗殺された年、1860年に始まった全英オープン
ISDNはインターネットの夜明けぜよ(TBC27)
「世界にはインターネットというものがあるらしい。アメリカのパソコンと接続して日本では解禁されていない✖✖✖な写真がみれるらしい。」
若者なら誰でもが駆り立てられる新技術への欲求をエネルギー源にしてモデムというものを会社にねだり、電話のアナログ回線につないで「ピーヒャラピーヒャラ、ザザー、プピ」パソコンのCRTに上からすこしづつ表示されるモザイク模様。「なんだモザイクじゃないか・・・」やがて少しづつ
メディア王とNHK(TBC26)
どんなスポーツイベントにも独占的に放送あるいは配信元となる権利「放映権」というものがあります。オリンピックの放映権などはいろんな意味で有名ですね。アメリカのネットワークが財力にものを言わせて選手たちが過酷な時間帯に競技をしなければいけないようになって物議をかもしていたりします。
アメリカの男子ゴルフの最高峰と言えば、マスターズ、全米オープン、全米プロ、全米女子オープンでしょう。これらはずっと同じと
ギャングロールでフル画面CGだ!(TBC25)
ノンリニアProfileのハイライト機能でプロ野球中継とゴルフ中継に食い込んだB社でしたが、中継現場は制作技術部の仕切りで、局社員のTD(テクニカルディレクター)さんに嫌われたら仕事はできません。イスラエル発バーチャルマシンのレインボーで制作技術と険悪にならない様に、私は担当を外れProfileの別の機能で中継に関わる事にしました。
スーパーインポーズ、画面に動く文字を出す機能は当時の最先端VFE
Jリーグ開幕とレインボー!(TBC24)
1993年プロサッカーのJリーグが始まりました。
ニュースステーションでも大々的に伝えて、パーソナリティに川平慈英さんを迎えて賑やかにサッカーの結果をお伝えしていましたが「何か新しい仕掛けが欲しい」と常に言われていました。
そんな中、イスラエルから今で言うバーチャルスタジアムや軌道表示システムを売りに来ました。弾道ミサイルを迎撃するために作られたプログラムを当時民間用としては最高峰のシリコングラフ
ギャングロールでキー合成(TBC23)
いきなり耳慣れない言葉で失礼します。
1990年代、編集スタジオでは文字スーパーやDVEやCGを合成するのは容易でしたが、現場でしかもLIVEで合成するなど考えられない事でした。
生の映像に別の映像を合成する場合、キー合成という事をします。
ビスケットの側に輪郭を指定するキーを作ります。キーはいろんな呼び名があって、アルファチャンネル、マスク、ダウンストリームキー・・・ここでは単にキーと呼びます
VTRの職人vsノンリニア続編(TBC22)
ノンリニアを導入するにあたって、問題点がいくつかありました。
テスト運用している最中に結構壊れる。
いわゆるバグですね。
そのバグ潰しのためにソニーテクトロニクスの工場まで行ってバグ潰しを行いました。私達B社編集マンは野球の現場で1分1秒に追われながら編集する事が常だったので、機械の操作速度が尋常でなく速い。その速度にコントローラーとアプリが付いて来れない事態に陥ったのです。
それを対策するため
VTRの職人vsノンリニア(TBC21)
テレビでゴルフ中継をご覧になった事がありますか?
優勝を争う複数のプレイヤーがそれぞれ違うホールでプレーしていて、1人が打ち終わると別のホールでもう1人が打つ。大きな大会だと14番〜18番までの上がり5ホールくらいをカバーして放送されます。
でも考えると不思議ではありませんか?
ゴルフをプレイした経験のある方ならわかると思いますがゴルフは打つよりもはるかに長く歩き続けるスポーツです。A選手が17番
Y田さんとS藤さん(TBC20)
1986年からのB社時代に編集マンさこうを作ってくれた師匠が2人います。
Y田さんはスポーツ編集の上司で言わば「魂の師匠」追い込まれてもどんなに苦しくとも、とにかく放送時刻内に必ず形にして出す。カメラや音声や記者やアナが下手だろうがしくじろうが、とにかく形にして時間内に仕上げる。と言う哲学を徹底的に叩き込まれました。そしてニュースステーションという番組から課されたコンセプト「人間が感情を爆発させ
デジタルビデオ始めました(TBC19)
Wikipediaによると1994年頃だと言うことになります。(自分史の中ではもっと前なんだけどなぁ)
それまで頑なにコンピューターと触れ合うことを拒んで来た私でしたが編集機が新しくなってキーボードっぽい感じに慣れてきたのと、噂ではキーボードじゃ無いやつで操作するらしいというMacというのにチャレンジする事にしました。
フォトショップだのイラストレーターだのロゴモーションだの。
当時の個人向けPC
1インチ編集室(TBC18)
1995年当時B社には自社機のVTRは編集車の物だけで、あとは全てテレビ朝日の機材を保守管理しながら使う今で言えば人材派遣を行っていました。テレビ朝日の映像制作の下請け会社は複数あって、B社が一番新参だったので風当たりは強く営業担当のNさんなどは溜まったストレスの吐け口として無人の公園に向けて窓から生卵を投げたりしていました。
ライバル会社はフルサイズの編集室を複数持っていていつも予約が一杯でだか