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#エッセイ
夕暮れの柴犬、茶トラ、白い犬。
夕暮れどき、近所でよく見かける柴犬の子犬がまた一回りデカくなっていた。ぷりっと引き締まったもふもふのお尻を惜しげもなく晒し、その上にはご機嫌なしっぽがくるんと丸まっている。ときどきご主人の顔を見上げながらぴょぴょぴょと跳ねるように歩く。私は後ろからそのかわいらしいお尻を眺めながら幸福のおすそわけをいただく。尊い。
人間と暮らしを共にする生きものは尊い。猫も犬もハムスターもうさぎも、人間たちのあい
前略、死にたがりの君へ
わたしは生への執着が強いほうで、本気で死にたいとは思わないのだけど、それでも「死んでしまいたい」と思ったことはあります。
たった一度だけ、会社帰りの駅のホームで、この線を踏み越えたら死ぬのだなとごく当たり前のことが過った日がありました。その後、何事もなかったように——実際何事もなかったのですが、地下鉄に乗り、家に帰ってご飯を用意して、風呂に入って寝ました。よく覚えていないけどきっとそうでした。
縮毛矯正に失敗した日の思い出
失敗作。
鏡に映る自分の顔、そしてそこに張り付くうねるセミロングの髪を見た瞬間、その言葉が私の頭を埋め尽くした。先日、行きつけの美容室でかけた縮毛矯正。たっぷり3時間、諭吉先生2枚分。それらとこのうねうねもわもわした顔周りの髪の毛を天秤にかけてもその差が埋まらないのは明白だ。
「弱めの薬剤でダメージを落として、自然な仕上がりを目指します」
そんな美容師の甘い言葉を信じるべきじゃなかった。信じ
私の悲しみは私のものです
世の中は右を向いても左を向いても、誰かの悲しみで溢れている。
そんな世界の隅っこで私は平凡に生きている。住む家には屋根があって窓があって、暗くなったら灯りをつけて、寒かったり暑かったりしたらエアコンをつけて、食べたいものを食べて、インターネットやテレビを眺めて、お風呂に入って暖かい布団で眠る。突然頭の上に爆弾を落とされたり、誰かに拘束されて自由を奪われたり、日常の中でそういう恐怖を感じることはま
さようなら、死にゆく承認欲求
今からおよそ1年と半年前の私はこんな記事を書いていた。
このときの私は前の会社を辞めたてほやほやで、退職ハイとも言うべき精神状態だった。今はスローペースながら外に働きに出て、それなりに適当に家事をして、わりと健全な精神と肉体で暮らしている。Twitterはするけど。
そうして最近ふと気付いた。
ヤツが死にかけている。承認欲求ってヤツが。
これから先どうやって生きていこう、仕事はどうしよう、私
ただ歩きたい日、元たい焼き屋さんと、あんみつと。
ただどこかに向かって歩きたい日というのがあります。
何か買い物をしようとか、あれが食べたいとか、そういった目的のようなものはありません。ごちゃごちゃと散らかってしまった頭のなかを空っぽにして、ただ外の空気を吸ってお日さまの下を歩きたい。目的はないけれどどこかに向かってずんずん歩きたい。そういう日がわたしにはあります。
そういう日、たいていの場合はひとつ隣の駅に向かって歩きます。時間にして30分
私はいったい何を憎めばいいのでしょうか
人の死に関することを書きます。心が元気じゃないなと思う方はそっとブラウザを閉じていただければ幸いです。
季節外れのカバー画像は祖母の家に咲いていた紫陽花。
教えてください。私はいったい何を憎めばいいのでしょうか。
流行から1年半経っても収束の兆しの見えないウイルスでしょうか。政府でしょうか。オリンピックでしょうか。飲み会でしょうか。人間でしょうか。
いずれにせよ、母はたったひとりの弟を見送
何も言わないからって何も考えていないわけじゃない
夏だ。
生命のエネルギーが爆発するような暑い季節に、タイムラインがたくさんの声で溢れている。怒り、憎悪、悲しみ、呆れ、諦め。正直ちょっと疲れた。さまざまなニュースに何も思わないわけではないけれど、そのひとつひとつに反応するのはとてもエネルギーがいる。
本当は真正面から向き合って私はこう思います、それは間違っていると思います、そんな声を上げて世の中をよくしていこうとするべきなのだろう。そうやって
映画は体験だ 〜川越スカラ座がよすぎて飛んだ〜
『街の上で』の前売券が手元に1枚残っていた。
さて、どこで観ようか。この映画は4月にミニシアターで公開が始まってシネコンに拡大し、また各地のミニシアターで順次公開が始まっている。
とはいえ公開からすでに2ヶ月。公開が終わっていたりまだかかっていても時間が合わなかったりする。それにこんなときだからあまり遠出はできない。
関東の劇場情報をスクロールしながら悩む。それからふと、リストの真ん中あたり
どうせいつか死ぬのなら【500字くらいでなんか書く】
どうせいつか死ぬのなら、好きなものは好きと言っておきたいと思う。
好きなドラマと映画の話しかしていないので信じてもらえないかもしれないが、私は好きなものを好きと言うのがとことん苦手だった。今でも好きなものについて書いたり誰かに伝えたりするのは少し怖い。私の「好き」は間違っているんじゃないかと不安なのだ。
本当はそれが杞憂だと分かっている。私の好きは誰かの嫌いで、誰かの「興味ない」で、その逆も然
伝えたいことがない人はマイクの前に立つべからず
結構前のこと。NHKで「コロナ禍のRADIO」という番組を見た。正確には、夫が録画して見ていたのを横からチラ見した。ラジオを通してコロナ禍の大学生のリアルを届けるアナウンサー志望の学生を特集したドキュメンタリー番組だ。そこで耳にした、学生の所属するゼミの先生の言葉が記憶に残っている。
伝えたいことがない人はマイクの前に立つべからず
どうやら放送の界隈では有名な言葉らしい。つまり、マイクの前で話