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前略、死にたがりの君へ

わたしは生への執着が強いほうで、本気で死にたいとは思わないのだけど、それでも「死んでしまいたい」と思ったことはあります。

たった一度だけ、会社帰りの駅のホームで、この線を踏み越えたら死ぬのだなとごく当たり前のことが過った日がありました。その後、何事もなかったように——実際何事もなかったのですが、地下鉄に乗り、家に帰ってご飯を用意して、風呂に入って寝ました。よく覚えていないけどきっとそうでした。

消えてしまいたい、とよく思いました。わたしも世間も、全てが消えてしまうスイッチがあれば押してみたい。生きているだけで十分だとは到底思えなくて、自意識過剰で、理想とプライドばかりが高くて、自分はもっとできる、"みんな"がやれることをやれるはず、と自分で自分の首を絞めながら生きていました。あの頃、わたしの中には死にたがりの君がいました。

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そんなことを振り返りながら、わたしは今、わたしの左腕に挿さったチューブからくすんだ赤色が流れてゆくのを眺めています。その赤色はシュンシュン、ときどきピロリ、と音を立てる機械を通って黄色い液体と赤い液体に分けられていきます。

死にたがりの君の思いとは裏腹に、わたしはどうしても生きてしまうようで、今もからだの中をあたたかい血液が流れています。幸いなことにわたしの血液は意外と優秀で、少しくらいはひとの役に立つみたいです。

献血をしようと思ったのは、なんとなく、でした。前に観たドラマでがんを患った人が輸血を受けているシーンを覚えていたのもあるかもしれません。献血のいいところは、ただ「生きている」だけで誰かの力になれるところ。だめなところは針を刺すのがちょっと憂鬱で、水をたくさん飲むので尿意との戦いが勃発するところです。

仕事を辞めてから君の声はずいぶん小さくなりました。あのとき「消えてしまいたい」の声の中でただ生きることを肯定するのは難しかったけれど、寝て起きて食べてを繰り返したわたしの肉体は生きながらえて、今こうして誰かのために血を抜かれるに至ります。

死にたがりの君がただ生きることは、いつか役に立ちます。別に献血じゃなくても、誰かのためじゃなくても、必ず。たとえば電車で妊婦さんに席を譲るとか、レジの店員さんにありがとうって言うとか、おいしいプリンを食べるとか。

前略、死にたがりの君へ。あのとき生きてくれてありがとう。わたしは元気です。

献血ルームより

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