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「つながりの作法」同じわけでもなく、違うわけでもないということとは

​もしあなたが「健常者」(この記事では表記)と呼ばれる側の人間なら、障害のある側の人間にとっての視線に立ち社会を見たことがありますか?

もしあなたが何かしら「健常者」と違う部分を持っている人間なら、社会は生きにくい場所であると感じたことはありますか?

ユーザーが健常者であることを前提に作られた社会で、健常者と違う部分を持ち合わせた人たちの目線に立って生活をすることは、健常者にとっては難しいことだと言えるでしょう。

反対に健常者とは違うと言われる人たちにとって、健常者が生きやすい社会に壁を感じることは当然であると言っても過言ではありません。

「つながりの作法」では、健常者とは違う要素を持ち合わせている2人が、彼らの経験をもとに「お互いの違いを認め合いながらつながることができるのか」について説いていきます。


社会や他者と「つながる」ことに苦労と苦痛を感じてきた障害当事者である2人は、「違いがある人が認め合い、つながるために必要なものは何なのか」について現代社会の根源的課題とします。

この記事では、「つながりの作法」で説かれている内容について解説をしていきます。

綾屋紗月の「つながらない身体」

綾屋紗月さんはアスペルガー症候群であると診断された当事者です。
アスペルガーである綾屋紗月さんにとって、全ての情報がバラバラの出来事として体に流れてきます。
多くの人にとって、聴覚や視覚から身体に入ってくる情報は無意識的に整理ができるものです。しかしアスペルガーである綾屋紗月さんにとっては、見えるものや聞こえてくるものが別々かつ同時に身体中を巡る感覚があるのです。
1度に流れてくるバラバラな情報それぞれに注意を向けながらつながりを見つけて話しをする必要があるため、井戸端会議のような状況が苦手だと言います。
このように、綾屋紗月さんは「つながらない」ことに悩んできたのです。

綾屋紗月さんTED。


熊谷晋一郎の「つながりすぎる身体」

脳性麻痺を持つ熊谷晋一郎さんは、赤ちゃんの頃からお母さんがつきっきりで必死でリハビリをしていました。
「健常者のような動きをしてほしい」と願い、彼の動きを矯正しようとしていたと言います。こうして彼はお母さんの手足となりました。

一方でお母さんは、熊谷晋一郎さんが言葉で言うまでもなく「お腹が空いた」とか「トイレに行きたい」と言った欲求を察知し、本人の気持ちを敏感にキャッチしながら動きます。熊谷晋一郎さん本人が言葉でお願いをする必要もないままにお母さんが手足となって動くのです。

この2人の関係は、状況に応じて両者が「行動をオーダーする頭」となり、「オーダーに従う手足」となり、いつもぴったりとくっついていました。
熊谷晋一郎さんはこの関係を、「つながりすぎる身体」と呼びます。

熊谷晋一郎氏についての記事を以前書きました。一読くださると、より理解が深まると思います。

両極端な少数派である2人、間に存在する多数派

アスペルガー症候群である綾屋紗月さんは「つながらない」ことに悩み、脳性麻痺の熊谷晋一郎さんは「つながりすぎる」ことに悩みを抱えていました。いわば両極端な立場であった2人ですが、「少数派」であるという共通点を持っています。
一方の多数派は、「つながりをうまく保てる」という、両極端な2人の間に存在する人たちであり、俗に言う「健常者」です。

そもそも「アスペルガー」や「脳性麻痺」というのは、そうでない人が多数派である世間で生活しているからこその「定型」の上に成り立ちます。だからこそ、少数派から見える世界が多数派にとっての「なぜそうなる?」という意見になると言えます。
社会にとっての共通の認識は、健常者と呼ばれる多数派にとっての見解が前提にできているのです。

構成的体制とは?多数派が定型の社会

綾屋紗月さんと熊谷晋一郎さんは、このような「社会にとっての共通認識」でできた常識について着目しています。
本文ではこれを「構成的体制」という言葉を用いて説明しています。
構成的体制とはあくまでもその社会にとっての共通認識であり、健常者が作り上げた社会のことだけを指しているわけではありません。

例えば、「アスペルガーである少数派の人」にとって、多数派である健常者は対立する立場にあります。
このとき、「健常者とはこういうものだ」「アスペルガーとはこういうものだ」という「常識」や、「アスペルガーは健常者により苦しめられているのだ」という考え方が形成されていきます。これが「構成的体制」となり、アスペルガーの人どうし、あるいは健常者どうしのつながりを作り上げていくのです。

✔アスペルガーどうしの対立が起こる
こうしてアスペルガーの人どうしが強い結束を作り上げていきます。しかし、「アスペルガーを持つ人である」とひとくくりにしてもそれぞれに個性がある人間です。アスペルガー的な部分についても、すべての人が同じ程度であるとは限りません。

そうして「正しいアスペルガーの姿」が作り上げられていき、その姿からズレることにより「仲間ではない」という意識が出てくると言います。

綾屋紗月さんは実際に、その状況が苦痛になっていった当事者です。
健常者が基準となっている社会に対しての対立に始まった、アスペルガー内に存在する社会にも「こうあるべき」という線引きがされてしまうのです。
こうして結局のところ、アスペルガーどうしの間にも「構成的体制」が作られることにより個性は否定され、押さえつけられてしまうのです。

✔個性の組み合わせは二の次
多数派である健常者にとっての社会とは別に、アスペルガーにとっての社会を作ったところで、結局「構成的体制」に支配されます。
このように、健常者にとっての社会にも、アスペルガーにとっての社会にも、「変わることのない固定概念」が存在し続けることにより、個性は2の次になってしまうのです。こうして身動きの取れない状況が生み出されていくと、綾屋紗月さんと熊谷晋一郎さんは考えています。

こうして結果的に戦いになっていき、対立関係が生まれることがあります。
しかし、これは少数派と多数派両者にとって、良好的な状況であるとは言えないのではないでしょうか。
常にどちらかが相手を押さえつけて、身動きが取れないような状況は苦痛であり、そのような状況を作り出す必要はどちらにもないはずです。

本書では、このような対立関係を生み出すのではなく、「コミュニケーション」を取るための方法についても着目しています。

違いを認めた上でつながること

同じであることを前提に作るコミュニティーは、健常者と障害者を対立させるだけでなく、障害者どうしのコミュニティーにすら壁を作ります。

そこで筆者である2人は、「違いを認めた上でつながる」ことは可能であるのかについて着目します。
本書では、その可能性を見出すための方法として、2つの実践例をあげました。

✔経験は動的、それを語ることは静的
経験というものは、貯蓄され、変わっていくものです。これ自体は動的なものですが、経験に意味を認識し、それを言葉にするためには、固定してとどめること、つまり静的なものにする必要があります。
動的な移り変わりの認識は、主体的な観点を客観的に変えることにつながります。

そして、客観的な観点を持つことで、自分の動的な経験とその意味を紐づけることができ、さらに自分の存在の輪郭が見えてくるのです。
そこで「自分」を見出しながら、外の社会にある情報も入手する力が求められるのです。
本書では、障害を抱える2人がその方法についてまで深掘りして説かれています。

私の自己紹介です。双極性障害当事者としての経験など書いていますので、是非ご覧ください。



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