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「自己責任」

私達は、あたかも取った行動が上手くいかなかった場合にのみ「責任」が発生すると勘違いしてはいないだろうか? しかし、行動を起こさない選択にも責任が発生するのではないだろうか?

極論から言うと、私達が自分の人生に対して負う責任は、全てが自分自身にあり、自分以外の人には俗さないように感じる。ただ、全責任は本人のみに属する中で、その結果の喜びを分かち合う仲間や、苦しみを分けて一緒に乗り切ろうとする仲間の存在は大切だろう。

そして、最善の決断には、「やる/YES」も「やらない/NO」もあり、各々が別の道の選択であり、どちらにもその道を選択した「責任」があるように感じる。なので、やらないことも流されることも、全ては自身の責任のように感じる。「やらない」という行動や「流される」という行動を選択しているとも言えよう。

なので、「やる」も「やらない」も助言を「聞く」も「聞かない」も、結局は本人の意思となるだろう。信頼する者の選択も究極的には本人の選択となろう。すると、「責任」のみに焦点を当てた場合には、ある意味「これは自己責任」という線引きも不可思議かもしれない。それは、社会の咎め先になるかならないかの問題なだけで、「責任」は常にあると言えるかもしれない。

「やらない/NO」を選ぶこともまた己の選択で、それはそれで人生の道が決まる(it'll define another path in our lives.)。

行動した時のリスクやベネフィットだけではなく、行動しなかった時のリスクやベネフィットもしっかり考えて「選択」しよう。

どちらをとっても、選択者の責任がある。(当然、その場から逃げるのも、第三の可能性を編み出すのも、リスクとベネフィットがあり、責任があろう。)

今を大切に生きよう!

追記:上記は、現時点での私の個人的考えであり、今後変わるかもしれないし、当然正しいことばかりではないだろう。自分の下すべき最善の決断を模索する中で、迷いながらも自身の決断を正当化しつつ、行動を起こすように自身を即す意図もあるかもしれない。同時に、ある行動のリスクが既に分かっているからこそ、一瞬でも楽になって改善したいと願う一方で、それが今までの対症療法同様に必ず別の悪夢の幕開けのトリガーとなることが明白なことが予想されるが故に抱く迷いもあろう。

それでも、仮に1ヶ月で地獄絵図突入となる予想ならば、その1ヶ月で回避手段を講じることはできるだろうか?入念にプランニングして、現状では回避が難しい危機を回避する道を築き上げられる可能性や手段も模索した方がいい。

追記2:
誰と接触するかや誰を信頼するかも自己責任とは書いたものの、では本当に全ての接触をコントロールし、選ぶことができるかという問いも至極自然だ。環境がコントロール外のこともある。しかしそれでも、自らの置かれた環境の中で必ず選択肢は存在する。その選択肢がどれも薔薇色のものばかりだったり、そもそも薔薇色のものが一つでもあるかも問われるかもしれない。たしかに、個々の置かれた状況で選択肢の幅も種類も違うだろう。生まれる前から、そしてその後も全て本人の「選択肢のみ」で形作られるとは考えていない。しかし、各々が自らの状況の中で下す決断には、本人の意志が宿り、それには本人への責任が発生すると考える。

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