王の旅立ち
とある王国に欲望に満ちた大王がいました。
彼は自らの赴くままに煩悩を貪り。
限りない欲楽の中で我を見失っていました。
ある時大王にこのような想いが沸き起こりました。
私は死んだらどうなるのか。
私は一体どこに逝くのか。
死後の世界に王たる居場所はあるのか。
かように大王の心はかき乱され。恐れに支配され。恐怖心から自己の救済を強く望みました。
広々とした庭園で思索に耽る大王でしたが。そこに示し合わせたかのように。一人のブラーフマナがやって来ました。
これはこれは大王よ。
あなた程優れた御方が何故に思索など為さっておられるのですか?
有り余る程の富と名声を手にしながら。
未だ人身の悩みは尽きないのですか?
このようにブラーフマナは大王に問いかけました。
大王はブラーフマナに向かって。
藻にも縋るような声で訴えかけました。
ああ。智慧深き御方よ。
私は大王という役目を得ながら。
悩みの種は雲が空を覆い尽くすが如く。
全く以て晴れないのです。
ゆえに偉大なる御方よ。
どうか哀れみを以て私に智慧をお与えください。私は真実が知りたいのです。大王という役目を得ながら。大王の富と名声を以てしても。私の悩みはひとつとして解決されません。人身の悩みは富では解決できず。また名声でも解決できず。また異性でも解決できない。人身の悩みは真に清らかとなられた。智慧深き御方のみが解決するのです。
ゆえに智慧深き御方よ。
どうか私に哀れみを以て智慧をお与えください。どうか私に智慧のご加護をお与えください。
大王はブラーフマナに向かって。
敬々しく礼拝しその御足に触れました。
ブラーフマナは答えました。
大王よ。
汝の悩みしかと心得た。
まことに清らかな悩みである。
ゆえに大王よ。
汝は智慧深き者を訪ね。
智慧深き集まりに帰依し。
智慧深き者を友とせよ。
王宮の奴隷の如き召し使いは汝に智慧を与えてくれたか?
王宮の女神の如き婦人は汝に智慧を与えてくれたか?
王宮の知性の如き知識人は汝に智慧を与えてくれたか?
この荘厳かつ美麗な宮殿で。
汝に智慧を与えた者は一人としていただろうか?
大王よ。
智慧ある者の中にあって幸福は廻る。
大王よ。
智慧なき者の中にあって不幸は廻る。
ゆえに大王よ。
王たる責務を放棄せよ。
あたかも如来が世俗の王の座を放棄し。
苦行者の王となり。出家修行者の王となり。聖者の王となり。菩薩の王となり。完全なる智慧の王者となられたように。
汝も王たる責務を放棄せよ。
限りない欲楽が詰め込まれた王の宮殿も。
汝の心ひとつ満たすことはできない。
如何なる願望も泡沫の如く満たしては消えゆく。あたかもそこになかったように。元々存在していなかったように。煩悩を満たす為の努力は水泡に帰す。
際限なく煩悩に触れようと煩悩は飽きることを知らない。
彼は底無しの飢えと渇きである。
ゆえに大王よ。
足るを知りなさい。
心がまことに清らかとなれば必ず足るを知る者となる。
ゆえに大王よ。
世俗を放棄せよ。
一切全ての責務から解放されよ。
欲楽の中にあって破滅は巡る。
今生において破滅し。来世において更に破滅し。地獄等の悪趣に赴き。悪業は巡り。止むことを知らず。底無しの悪業の渦に巻き込まれ。絶え間ない苦しみの果報は汝に返り続ける。
恐ろしきは無知なる己
恐ろしきは無知なる心。
恐ろしきは無限地獄の罪火たる悪業の連鎖。
底から底へと墜ちゆく哀れな煩悩を今この瞬間を以て手放せ。
ゆえに大王よ。
最善が何たるかを知れ。
何を以て救われ。
何を以て苦しむのか。
その本質を思索熟考せよ。
汝は今。
岐路に立たされている。
魔の軍勢は押し寄せ。
下劣な欲望に駆られ。
羞恥の心なく。
あたかも獣の如く煩悩を貪っている。
破滅を免れる手段を探れ。
煩悩を満たす手段は破滅への入り口だと理解せよ。
汝は破滅を恐れ正しく生きるべきである。
相応しからぬ行いを避け。相応しき行いを為せ。
正しさは破滅への因を破壊する。
ゆえに大王よ。
目を覚ませ。
汝は限りない欲楽と引き換えに。
終わりなき苦痛に墜ちようとしている。
智慧ある賢者は欲楽を貪らない。
それは破滅への門であり。
鬼の大口であり。
地獄への入り口である。
智者はこのように欲楽を識別し。相応しからぬ行いを避け。相応しき行いを為し。一切煩悩から解放され。限りない大楽を楽しみ。この世の全てから解放された。広々とした喜びを得る。
あたかも大草原の風の如く。
全ての自由を得。諸々の煩悩から解放され。何物にも囚われることなく。何者にも乱されることがない。たとえ恐ろしい閻魔の使いが智者の前に現れようと。心は動じることを知らず。不動であり。生老病死。全ての苦痛と束縛から完全に解放されている。決して恐れることなく。生死を望まず。生命の彼岸に辿り着き。彼らは生も死もない領域で静かに佇む。
ゆえに大王よ。
欲楽を捨て去れ。
今生培かった全てを放棄せよ。
放棄なしに如何なるものも得ることはない。
霊性の大果は一切放棄によって得られる。
ゆえに大王よ。
今生を捨て去れ。
全ての功徳の果報を解脱に向けよ。
汝は功徳の無駄遣いによって王たる運命を受けた。過去世において培かった膨大な功徳が今。過ぎゆく全てに浪費されている。それは全く以て無意味なことである。王の座に就けば破滅は免れない。限りない欲楽は必ず破滅をもたらす。煩悩と破滅は結ばれている。それは決して切れることがない。あたかも身体に影が寄り添うように。破滅は煩悩に付き従う。煩悩を捨て去らない限り。破滅は免れない。それは火を見るより明らかである。
ゆえに大王よ。
一切全てを放棄し出家修行者と共に生きよ。
汝は破滅に向かって直進している。
このまま王の座に留まれば破滅は免れない。
ゆえに大王よ。
地獄の大窯を恐れるなら出家せよ。
救いは放棄と修行にある。
一切を捨て去り一切を得よ。
ゆえに大王よ。
決断の時です。
意味深長なブラーフマナの説法は大王の心を深く揺れ動かしました。
大王は次のように答えます。
偉大なる智慧者よ。
私はあなたに深く深く頭を垂れます。
あなた様は私の過ちを正してくださった。
私は今生作り得た様々な過失により。あたかも人形が裂かれるように。地獄で大苦を受けざるを得ない。
ゆえにブラーフマナよ。
あなた様の御言葉に従い私は出家します。
死と老いと病とが私に迫っております。
宮殿の如何なる者も私を守ってはくださらないでしょう。
死と老いと病とが全ての財産を破壊する。
死と老いと病とが全ての名声を破壊する。
死と老いと病とが全ての生命を破壊する。
身体は無常である。
身体には様々な苦しみが内包され。
死。病。老い。
これら三つの苦しみから逃れられない。
ゆえに王たる身体に何らの価値もない。
身体は苦の巣窟である。
一切は止まることなく滅びゆく。
時は待つことを知らず。
死神の鎌は常に我らの首にぶら下がる。
全ては過ぎゆく。
時は急速に動き。止むことを知らず。恐れる者を呑み込み。恐れない者を呑み込み。そのどちらでもない者も容赦なく呑み込む。破壊の雨は止むことを知らず。絶えず降り続け。土砂災害を引き起こし。我らを無常なる大地へ深く叩きつける。
無常なる全てに情け容赦は存在しない。
生命の刹那は当てにならず。
突如として死は訪れる。
明日生きていられる保証はどこにもない。
今日生きていられる保証はどこにもない。
今この瞬間に死んでもおかしくない。
生命の刹那は当てにならず。
それを信じることは不和である。
もし私が出家を思い止まり悩んでしまったら。その間に死と老いと病とが私の命を粉砕するかもしれない。今生の罪状を以てして。破滅は確実である。そうなる前に私は出家し悟りを得たい。
私は自らの救済を強く望む。
それゆえに強烈な放棄の心が私に芽生える。
この放棄心を以てして。
私は力強く王たる責務一切を捨て去る。
私を縛りつけ。悪業を積ませ。煩悩に狂わせ。無知なる者との会合を以て。よりいっそう破滅へと近づく。然るにこれは苦の本流であり。誰もが羨むこの宮殿は。智慧の目を以て魔の巣窟であることを理解した。
もはやここには居られない。
この宮殿は紛れもなく破滅の因である。
私の心は解脱を求めている。
私はこの放棄心と解脱への渇望を以て。
一切全てを捨て去ると如来に祈願する。
偉大なる主よ。
どうか私を導きたまえ。
絶対なる御方よ。
その無限の哀れみによって我が煩悩を滅ぼしたまえ。
愛しき御方よ。
我が全ての穢れを滅ぼしたまえ。
最勝の智慧者よ。
どうか私の無明を破壊したまえ。
偉大なる正覚者よ。
どうか私の修行を導きたまえ。
絶対なる如来よ。
どうか私の穢れた疑念全てを払いたまえ。
意味深長な懺悔と賛歌を以て。
大王はブラーフマナと共に旅に出た。
この世の全てを捨て去って。
偉大なる智慧の旅路に彼は立つ。。。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?