創作と祈り バッドエンドはあり得ない

フランツ・カフカは書くことについて、

「人は、どうあっても
   書かねばならぬものだけを、
       書かねばなりません。」

と言ったという。

この言葉の真意はそれぞに想像するところだが、
この頃の私は、これを逆説的に感得している。

というのも、適応障害による鬱という、はじめての経験、
想像以上の精神的苦痛が回復に向かいつつある中で、
私は初期の絶望感や無力感の感触を失い始めた。

むしろ、それは元気になったと喜ぶ事である反面、
あれ程に落ち込んだ気分や時間の記憶が失われる怖さと、
その時期の自分が不思議ですらあるような感覚になる事が、
自らの失意の浅さと、より深い失望の可能性を予感させる。

要するに、精神的な病は発病も回復も明快ではないために、
原因や、再発の予防、対策も不明瞭で不十分に思えるのだ。

謎に元気になってしまった事が、私の新しい不安になった。


しかし、自らが残した日記や公開したnoteを読むと、
その時期の自分の切実な思いや、純粋な願いが読み取れる。

もちろん今とは違う見解や、不勉強な所も少なくないが、
今の私にとって、これらの文章は当時の記録として貴重だ。

そして、この時期に、どうしても書かねばならぬ事だった。
自らの不安を言語化し、眼前に並べ、客観視したかった。
形に残し、人目に晒し、自己の輪郭を確かめたかった。
その為に、書くことは私にとって不可欠な行為だった。

しかし、およそ健康になりつつある私に、その必要はない。
より正確に言うなら、必要に迫られていないというべきか。

書きたいことならあるし、書くネタも充分ある。
五泊六日の無計画なキャンプツーリングの出来事や、
絲山秋子「海の仙人」、政治経済について考えることなど。

書きたいとも思うし、実際に数行書いてはみるものの、
やはり初期の頃の衝動、書かねばならぬという思いがない。
それはカフカに言わせれば、書く必要が無いからだろうか。

最近、古本市で買った「カフカとの対話」を読み始めた。
それは、カフカと交流した青年のカフカについての記録で、
その中での彼は、作品で覗き見るような姿とは違っていた。

私は彼の作品を、なかなか通読することができない。
それは単純に抽象的で難解であるということもあるが、
何よりも目線の先にある絶望や失望の深さに絶えられない。
正直に言えば、読めば読むほど心底ウンザリしてしまうのだ。

一度、この鬱の状態なら共感して読めるのではと試したが、
いつも以上の不快感と嫌悪感が襲い、悪化しそうでよした。

そういう意味では、これは一種の同族嫌悪かと思ったが、
カフカが実際に語ったとされる言葉や、その仕草をみると、
彼は私より遥かに教養が深く、紳士的で、大人びていた。

語り手による神聖視(本人が認めている)を考慮しても、
カフカは優しく、真摯で、実に思慮深い人物に思える。
だからこそ、彼の観る絶望や失望という闇は底がない。

彼が覗く深淵は、あまりに深く、暗く、重い。
その為に自己の輪郭を失い、不安に苛まれる。

その結果、彼は必然的に書く必要に迫られる。
書かねば、書かねば自己を喪失するからだ。

…少し大袈裟に書きすぎたかもしれないが、そう思う。
だから私は、彼の作品が読めない。自分を失いそうで。
彼の書く不安と、その象徴や情景は、ちょっと深すぎる。

人間は(あるいは動物は)、不安と闘って生きてきた。

いつ襲われるか。いつ食うものがなくなるか。
いつ病気になるか。いつ怪我をして動けなくなるか。
いつ死ぬか分からない。その不安と闘い、生き抜いてきた。

そんな私達が求めるのは、安心であり、安定である。
それは今の世の中でも変わらず、むしろ表面化している。

人は安心と安定を、あるいは不安を紛らわす刺激を求める。
それは、愛とか幸福、金とか約束、趣味や作品と呼ばれる。
それに、言わずもがな、性や薬物等の快楽はその筆頭だ。

脈絡なく思われるだろうが、人間が他の動物と異なって持つ、
不安に直面しても、生きながらえる手段に「祈り」がある。

それは不安の尽きない人生において、不安を直視しながら、
それでも人間性を保って生きるための最後の砦である。

純粋な疑問から始まり、学び、現実的な諸問題に直面し、
解決の糸口を探り続けても、必ず絶望と失望に苛まれる。
それでも生き続ける方法は、わりと限定的だと思う。

まずは、不安を見ないこと、他の刺激や幻想で埋めること。
つぎに、不安を潰すこと、他者を虐げても安心を得ること。
または、不安を解決するアプローチを諦めずに続けること。
そして、不安とそれを観測する自己を絶えず記録すること。
最後に、不安を含めた世の中の全てを享受し、祈ることだ。

カフカは、不安とそれを観測する自己を書いて生きていた。
彼にとって、書くことと生きることはそうして直結していた。
だから彼は、書かなければならぬことを書き続けて生きた。

私はそのように解釈したからこそ、最近は書く事が少ない。
元気になってきたからこそ、書く必要性に駆られなくなった。

恐らく私はそもそも根っこのところは楽天的なのだと思う。
何とかなるし、何とかならない時は死ぬだけだと思っている。

別に死んでも構わないけれど、不自然な死は受け入れがたい。
理不尽に死ぬとしても、人為的システムの中で死にたくない。
それ故に、学び、絶望し、解消されない不安の中で生きる。

私は最終的には、祈るように生きるか、祈るように死にたい。
でも今はまだ、全て祈るに任せるには、少し早すぎる。

ただ、不安の中で生きるためには、祈りの要素が必要だ。
それは、幻想や創作、神またはフィクションと呼ばれる。

これは、動物的欲望や本能的刺激と区別する必要があるが、間違いなく人類に残された、祈りの一つのカタチである。
それは純粋な感覚であり、想像力であり、物語である。

共通の言語を持たない動植物や、風や水に語りかけること、
既にこの世に居ない人や、会ったことのない人と話すこと、
コーヒーをいれる練習をし、道具を育て、愛着を持つこと、
そんな、生活の些細な事柄に、勝手に意味を付けていく。

傲慢で、自己陶酔的で、孤独で、行き過ぎると危険な行為。
不確かで、証明のしようがなく、それでも確信的な幸せの形。

私はそんな、不安の中で創られた真珠のような祈りの形に、
幾度となく助けられながら、生き延びてきた自覚がある。

或いはそれは、無為で無力で無価値な石ころかもしれない。
それでも私は、それを慈しみ、愛でる感性までを尊く思う。

そして、そんな祈りの中だけは、バッドエンドはあり得ない。 

















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