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#三島由紀夫
三島由紀夫の書簡を読む⑨ 字引を引こう
天皇の神聖
この辺りから三島の正直なところと、そうでないところ、いわゆる仮面がちらつき始める。「神風連には、いちばん本質的な何かがある、と予感してゐます」と「かれらの右顧左眄ぶりがよく見えます」は正直であろう。
しかしそもそも『英霊の声』が昭和二十一年に書かれていれば、と思わないでもない。実際私は文壇人ではないが、昭和四十一年当時文壇人だったとして、まさに「なんですかこれは?」としか言えな
『決定版三島由紀夫全集』に校正ミスあり ① どこが決定版だ?
ついに見つけてしまった。これまで「コペルニスク」と印刷されてきたものを「コペルニクス」としれっと直した『決定版三島由紀夫全集』に校正ミスが見つかった。
それは『美しい星』の一節、第八章での大杉一雄の食事の場面。
まずここはぎりぎりOKだろう。
Löwenbräuのオー・ウムラウトの発音は口をoのままエーのようにするのでオーとエーの中間、なんてことは独逸語ペラペラの三島に関して言う話で
三島由紀夫の天皇論・遅延理由書が解らなかった人のために
彼の考えは独特ですからね、などと言われるとき、大抵はただ「わけがわからない」と突き放されているに過ぎない。
私の言いたいのは三島由紀夫の天皇論はただ単に訳が分からないということではない。まさに独特だということだ。
三島由紀夫の天皇論は分かっている範囲でさえ「そんなことありますか」というくらい奇抜なものなのだ。
今回はそのことを三つのテーマに絞ってみていきたいが、どうしてもテーマは四
三島由紀夫から見た夏目漱石の読者
三島由紀夫、安部公房だけではない。これまで見てきたように谷崎潤一郎も漱石の評価は低いし、太宰治に関しては「俗中の俗」と漱石を切り捨てている。三島由紀夫のこの発言も、夏目漱石というすでにこの世にない作家の死してなお消えない過剰な人気に対する反発の表れだ。
しかも芥川龍之介までスタイルは鴎外に近接し、漱石文学から何を継承したのかということさえ曖昧なので困る。
この三島由紀夫と安倍公房の対談は
三島由紀夫の『金閣寺』は天皇なのか?② そんなわけない
テネシー・ウィリアムズの見立ては、『仮面の告白』や『金閣寺』といったややこしい作品の基本構造をものの見事に言い当てている。少なくとも金閣寺そのものに何か決定的な咎があったわけではない。『金閣寺』では主人公の内的問題、吃音と有為子へのねじれた思いが八つ当たり的に金閣寺にぶつけられたに過ぎない。つまり八つ当たりの対象が金閣寺である必要性はなく、交換可能なものではあったとまでは言えるかもしれない。
三島由紀夫の『金閣寺』は天皇なのか?
これが天皇のアレゴリーだったならとても読む気がしないな
三島由紀夫の『金閣寺』の「金閣寺」は「天皇」と交換可能だという話は古くからある。
この考え方に関して私はこれまでそう大きく反対してこなかったし、そもそも論法の違いによってどうともとれるくらいに考えていた。つまりテクスト論的に作者の意図を無視して作品そのものでどう読むかと言えばシンプルに「そんなことは書いていない」とも言えるし、作者の意
「ふーん」の近代文学24 谷崎の「ふーん」
谷崎の文学世界は不自然だと三島由紀夫は書いている。(『「国を守る」とは何か』)。不自然というのは「時代と歴史の運命から超然としている」からだ。
そのことは谷崎の初期作品に猛烈な天皇批判を見出してみればさも尤もな話で、正直私自身は、三島由紀夫が絶賛するようには後期作品を素直に読むことができない。谷崎源氏まではいいとして『瘋癲老人日記』となると、片仮名がやかましいというのではなく、わざとらしさが
「ふーん」の近代文学⑫ 色んな終わりがあるけれど
三島由紀夫が最後の最後、自身の文学に「ふーん」したように見えるのは、『豊饒の海』が五部作の予定だったものが四部作になってしまったから転生と同時存在と二重人格とドッペルゲンゲルの物語――人類の普遍的相、人間性の相対主義、人間性の仮装舞踏会が書かれなかったからだが、私にはそもそも楯の会がどうも気に入らない。
あんなものがなかったらなと思わないではない。いや思う。
三島由紀夫にはペンで戦う式の