見出し画像

三島由紀夫・林房雄の「対話・日本人論」をどう読むか④ エクスターゼに気をつけて

三島 今の日本は小規模ながら結局、なんのために命を捨てるかとか、何のために身を捨てるかという、個人的な契機というものが見つからない。それをただ昔をたずねて、天皇制だ、なんだといっていたら、すぐ反撃をくらうけれども、天皇制というのは一つのことば、あるいは比喩であって、そういうものがないことはたしかですよ。僕はそういうものの本質は、日本人の神の観念でもいいし、なんかどこかにあるだろうという考えが、だんだん強くなっているのですが。

(「対話・日本人論」『決定版三島由紀夫全集第三十九巻』新潮社2004年)

 先日『金閣寺』は天皇ではないと書いた。

 そもそも三島由紀夫の天皇論というものは複雑で解り難い上に、その時々で言っていることがふらふらと変化するので「金閣寺=天皇」という誤解が生まれたという一面もあろうが、三島由紀夫の人物を論ずるのに、三島由紀夫の主要作品の解釈だけで押し切ろうとする方法論にそもそも破綻はないだろうか。

 例えばここでは天皇制というものがただの言葉であり、比喩に過ぎなくて、交換可能なものであることがはっきり述べられている。無論のちに「絶対者が存在しなければ創り出さなくてはならない」などと言われていることとはずれがある。ずれはあるが、そもそも絶対者の存在を認めていないという点では合致する。

 そしてここで言われている「なんのために命を捨てるか」という行動のロジックは目的ありきではないことが丁寧に論理立てられる。

三島 国学でも宣長の幽顕思想は、幽界顕界がそれぞれ所を得て分かれている。これは静態学的ロジックで、行動の原理にならない。篤胤へ来ると、「玉襷」などそうだが、幽顕一貫ということになって、ここではじめて行動哲学になるのです。神風連の思想的師父の林桜園の「宇気比考」へ来れば、さらに一歩すすめて、すべて神意のまにまに、ということになり、行動哲学の動態性が完成する。
 話は飛びますが、前期ハイデッガー哲学では、実存とは、本来脱目的であって、実存は時間性の「脱自(エクスターゼ)」の中にある。エクスターゼも、実存(エクジステンス)も本来、ギリシャ語のエクスタテイコンから来ているので、遊魂、恍惚、などの意味を含むのですね。
 そうですか。
三島 ええ、ハイデッガーも妙なことをいっていて、実存から外に開かれて、世界に開かれて現実化されるというけれども、実存から外に開かれるということは、結局、一種の恍惚感において開かれている。その恍惚感を与えるものがないというのは、いまワイワイいっているあれですね。それで本当に自分が実存に到達すれば、そこでそういう恍惚感が起こって、それが外に開かれて、行動になっていくかという問題ですが、あらゆる人にそういうことを求めても無理でしょう。

(「対話・日本人論」『決定版三島由紀夫全集第三十九巻』新潮社2004年)

 林の「そうですか」は「さっぱり分からない」と翻訳してもいいだろう。

出入幽顯とは伊邪那岐神がその女神なる伊邪那美神の夜美國へ赴かれしを追ひてゆき給ひやがて駈けかへり給ふことをいへる者

古事記選釋 千秋季隆 述早稲田大學出版部 1800年

 幽顯とは平たく言えば「この世とあの世」のことである。天皇はこの世とあの世を行き来できる存在であるという考え方もある。これは幽顯の解釈にもよるが実際に天皇の祖先が生きたままあの世に行ったことになっているので「そんな馬鹿な」で片付けられる問題ではないようだ。

宇氣比考ノ大意宇氣比ハ、本邦大古ノ語ニシテ、今世ノ語意ニ解釋スレハ、大畧誓約祈禱ノ字ニ當ル、之ヲ神代ニ徵スルニ、天照太神、須佐之男命ト高天原ニテ、宇氣比シテ數多ノ神々ヲ產ミ給ヒシヨリ起リテ、我朝ノ宇氣比ハ、惟神ナル、(深妙不可思議ノ)玄理アリテ、此道ニ通スル者ハ、天下ノ事ニ於テ、不可爲ノ事アル無シ、其例ヲ舉クレハ、古史ニ載スル、皇孫ノ妣、鹿葦津姫ノ、火焰中ニ在テ、安々ト御子ヲ產ミ給ヒシカ如キ神武天皇ノ、酒甕水飴等ノ誓禱ニ由テ、東征基業ノ殊効ヲ得給ヒシカ如キ、皆此道ニ因テ大功ヲ奏シ給ヒシナリ、其他崇神帝ハ、此道ニ因テ國ノ治平ヲ致シ給ヒ、神功皇后ハ、此道ヲ用テ、征韓ノ功ヲ遂ケ給ヒ、天武帝ノ雷雨ヲ退ケ、語臣猪磨カ、其女ノ讐敵ナル和邇ヲ捕殺セシカ如キ、皆宇氣比ノ奇靈ナル證トスルニ足レリ。

血史 前編 木村弦雄 著長崎次郎 1896年

通常『惟神』といふ語はヰシン又はユヰシンと音讀しても、カムナガラと訓讀しても、いづれにしてもよいと思ふ。
カムナガラといふのは、我が固有語であつて、其れに惟神又は隨神などの漢語をあてたものと思はれ、漢籍の中では普通に見當らない語であるから、カムナガラと訓めば、直ぐに其の意義があらはれる。
古典のカムナガラといふ語が、此く解せられる場合もある。天皇を『現御神』、『現人神』と申し上げる思想から、天皇が神にますまゝにといふ意で、カムナガラと申すは當然である。

御即位礼勅語衍義 亘理章三郎 著中文館 1929年

カムナガラ、畧案ずるに、神トマシマシテといふばかりの意なり。獨語のゲットリッヒ、(英語のゴットライク)や之に當らむ。

神道綱要 山本信哉 著明世堂 1942年

日本書紀續日本紀萬葉集等に見えた「カムナガラ」は、神體の意義に解すれば、いづれも明瞭である。「神ノママニ」又は「神ニテマシマス」等の解義も、要は神體の意に歸するけれど、なほ解き方が不徹底を免れぬ。
隨神を「カムナガラ」と訓ませたのも、「神の身々」の義で、矢張り神體の義となる。日本書紀孝德天皇大化三年の條記載惟神の注に、「惟神者、謂隨神道亦自有神道也」とあるのを、書紀集解には削除した。
案ずるに「カムナガラ」とは、「神の體」の轉音で、神體の義と信ずる。「カミノカラ」と云ふのは、音調が圓滑でないために、「カムナガラ」と云うたのである。

国体明徴指導原理 新井無二郎 著大成書院 1936年

カムナガラと言ふ語の最も古い用例は延喜式祝詞の中に見えてゐる「神奈我良」と言ふ文字であると思ふ。萬葉集にも「神在隨」·「神長柄」·「神隨」などの文字が見えてゐる。


皇道体現の教育 : 教育生活四十箇年 山口袈裟治 著同文書院 1930年

 どうも妙なことを言っているのは三島の方で、「あらゆる人にそういうことを求めても無理でしょう」というのは当たり前の話で、みんなが恍惚感の中で世界に開かれたら、それこそ新興宗教の集団自殺になってしまうし、飽くまで比喩として言えば一億火の玉玉砕になってしまう。

 しかしハイデッガー迄持ち出してくる三島由紀夫が真剣であることも確かである。平田篤胤と云えば日本こそが扶桑国であり、三皇五帝の本国だと説いた国学者である。しかし平田篤胤も大真面目に持ち出している。

 そして言っている事はさっぱり分からないが行動には目的がないということだけは確かだ。ここを取り違えて三島由紀夫論を書いてしまうととんでもない恥さらしになる。三島由紀夫は「お国のために」死んだわけではない。

 神のまにまに、これが『葉隠』の「死ぬことと見つけたり」に直結するかどうかは別として、ハイデッガーでいいのなら、天照太神と須佐之男命の「契約」はどうでもよくなる。この「契約」も姉弟の近親相姦のように読めることもどうでもよくなる。なんなら神が存在しなくても惟神、紙のまにまにで行動できそうでさえある。

 ハイデッガーの「脱自」はこれもまた極端にかみ砕いて言えば、「人間の内面は何もない、空っぽなので、外へでていくしかない」ということで、まさに中身がからっぽで何もない三島由紀夫にぴったりのアイデアだ。Ekstaseに恍惚、陶酔の意味があることもよくできた話だ。しかしよくできた話には用心しよう。

 そうやすやすと「解った」と言ってしまわないことが大切だ。エクスタシーの時、日本語では「行く」と言い、英語では「來る」という。英語では出て行っていない。「脱自」していないのだ。

 この話の少し前に三島は敢えて「言葉はインターナショナルではない」と明言している。従って恍惚感で開かれるという下りは日本と亜米利加はなんでもさかさま。道路のことはロードという程度の与太話に過ぎない。

 しかし三島由紀夫の言っていることは出鱈目ではない。この話の流れを辿ってみると、

・朝起きて飯を食って仕事をして帰って寝た、という生活は歴史ではない
・西洋人は年を取ると隠居して公園で日向ぼっこをして幸せだというがそれは日本人の民族性には合わない

 としてふつふつと戦後二十年の日本の生活水準の向上だけには満足できないもの、一応は成功と言ってみたものを突き崩そうという矛盾と云えば矛盾、葛藤と云えば葛藤のようなものが神風連に対する心酔と共に湧き上がってくる流れがあるのだ。

 大学生でもあるまいにいまさらハイデッガーを持ち出してエクスターゼと言い、本居宣長や平田篤胤を持ち出してくる三島由紀夫は、例えば芥川龍之介の『素戔嗚尊』のように何かを探していたように見える。

 それ以来彼はたった一人、ある時は海を渡り、ある時はまた山を越えて、いろいろな国をさまよって歩いた。しかしどの国のどの部落も、未嘗て彼の足を止めさせるには足らなかった。それらは皆名こそ変っていたが、そこに住んでいる民の心は、高天原の国と同じ事であった。彼は――高天原の国に未練のなかった彼は、それらの民に一臂の労を借してやった事はあっても、それらの民の一人となって、老いようと思った事は一度もなかった。「素戔嗚よ。お前は何を探しているのだ。おれと一しょに来い。おれと一しょに来い。……」

(芥川龍之介『素戔嗚尊』)

 芥川龍之介の小説の中でも一二を争う出鱈目な作品である『素戔嗚尊』を理解しようとした時、その一つの手立ては素戔嗚を三島由紀夫に重ねてみることだ。素戔嗚も三島由紀夫も生活水準の向上ではない何かを探していた。そのふるまいはいささか狂人じみている。
 しかし三島由紀夫は大真面目である。

 私も大真面目だ。芥川が真面目であったかどうかは謎だ。



 これであの国の債務保証した日本が詰んだことが確実に。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?