『三四郎』の謎について25 知らん人は何を咎めていたのか?
これも以前書いたことの繰り返しのようではありますが、念のためちゃんと整理しておきましょう。
いや、何回読み直してもこの場面凄くないですか。普通この書き方だとこの「知らん人」は作中何か意味合いを持ってきますよね。ところがこの「知らん人」の登場はこの場限りで、何故三四郎と美禰子を睨みつけたのかその説明は全くないんです。これは奇妙だなと思うしかない書き方なんですが、今までこの「知らん人」は何だと思っていましたか?
本当に唯の通りすがりの人に睨まれた?
睨みますかね?
このキャラクター、私が知る限り、日本文学でも世界文学でも類似のものがちょっと思い当たらないんですよね。
唯一村上春樹さんの『騎士団長殺し』の「白いスバルフォレスターの男」が似た使い方をされていますね。その外には思い当たりません。何度も書いた通り、私はこの「知らん人」について村上春樹さんの『騎士団長殺し』を立ち読みした時、「ああ、なるほど」と腑に落ちました。それまでは腑に落ちていませんでした。つまり「白いスバルフォレスターの男」の登場シーンを読んでなるほどと思いました。この二人そっくりですね。
しかしこれ、単なる偶然ですかね? 村上作品の中には漱石を意識して書いたものもあるので、ひょっとしたら何かつながりがあるのかもしれません。何しろ「白い森を育む男」と「黒い池の女」でしょう。話ができすぎていませんか。
ということでまあ、「白いスバルフォレスターの男」の使い方と「知らん人」の使い方はよく似ています。それにしても漱石の場合凄いのは一切のフォローなしですからね。漱石ってそれぐらいやってくる人なんですよ。
私が『こころ』の先生が大げさに自殺して静を残すのは、乃木静子の不自然な死に目を向けさせる仕掛けだ、と書いても「ふーん」としか反応しない人の考えていることの中に「だったとしたら、もう一つ二つ明示的な因縁付をやってくるんじゃないかな」といった真っ当な小説作法があると思うんですが、漱石の場合、「知らん人」くらいのやりっぱなしがあるわけです。村上春樹さんは小説作法にのっとって「白いスバルフォレスターの男」の意味づけを後で整理しますね。漱石はそんなことはしていないんです。「知らん人」は再登場もしないし、思い出されすらしないんです。
で、ついつい忘れられてしまうんですが、そもそもこの「知らん人」は、なんで三四郎と美禰子を睨みつけるんでしたっけ?
これ、解るよって人います?
テストだったらなんて答えますか?
普通ここはテストにはならないですよね。正解が見つからないので。
でも一応考えてみてください。
考えました?
考えていないでしょう?
近代文学2.0では感覚ではなくロジックで読むことが基本です。つまり、どんな理屈があれば睨むことができるのかなと考えます。
私はここを夏目漱石先生の特別出演と見ています。二人の交際に漱石は反対なんです。焼きもちと云うわけではなくて、道徳的にいかんということなんでしょうね。しかし若い二人なんだから、そんなもの他人が憎悪まで出してくることはないんじゃないかと思いませんか。
ですから一応「知らん人」の立ち位置が解ったとして、何を咎めているのかは謎ではありませんか。
これもですね、テストに出せる問題と答えはないとはいいながら、一つ解釈を示しておきますよ。当然根拠を明らかにして。
実は「知らん人」が夏目漱石の特別出演なら、三四郎の顔面を離れた視座を持つ話者以上に小説の世界を知っていたわけでしょう。それが身体性ではなくまさに身体を持って作中に現れ、登場人物に直接関与したということはですよ、三四郎の顔面を離れた視座を持つ話者でさえ知り得ないある事実を知っていて、それで二人の不道徳を責めるために出て来たと考えるべきではないでしょうか。
その根拠はここです。
作中「野々宮さん」は119回「野々宮君」は72回、話者も「さん」と「君」をまぜこぜに使っていますね。この場面「野々宮さんは、招待状を引き千切って床の上に捨てた」とありますが、披露宴には出席しておいて野々宮は明らかに美禰子の結婚が不快だということが解りますよね。というか怒っていますよね。これ、何をいまさらという感じもするんですが、みなさんどうですか?
ということは、野々宮はやはり美禰子を奪われたことを怒っているのであって、納得なんかしていないわけでしょう。三四郎ではありませんが、何か交際しているようなしないようなそういうところがあって、ダマサレタ感というものを持っているわけです。
二人の交際は白い花、手紙、蝉の羽根のようなリボンなどで仄めかされる訳です。リボンには三四郎もやられて、
……体調迄崩すわけです。つまり明示的ではない美禰子と野々宮の交際を三四郎は一応キャッチしている前提になりますよね。勿論美禰子は野々宮と見えない会話をしている訳です。この会話、三四郎の顔面を離れた視座を持つ話者でさえ知りませんよ。
ただそれを「知らん人」は知っているわけです。だからこそ二人を睨みつける資格があるわけです。何の資格もないのに睨みつけたら頭の可笑しいチンピラですよ。二人を睨みつけることのできるのは夏目漱石だけです。
読者?
読者の皆さんも知らん人に共感できていましたか?
私の場合「野々宮さんは、招待状を引き千切って床の上に捨てた」が落ち着かない感じがあったのですが、それが知らん人の態度によって、そういうことかと腑に落ちました。
おそらく美禰子は野々宮ともぎりぎりの駆け引きをしていたんでしょうね。「知らん人」に睨まれる程度には。
美禰子の結婚が急なのは、そして見境なくよし子の縁談相手に嫁いだのは、そうした美禰子の性格、「知らん人」に睨まれる程度には不道徳な気の多さと流されやすさというものが影響しての事かもしれません。
今回もなかなか見えにくいところの話でした。このあたりはけしてすっと理解できるとは思っていません。また「ほかならない」とも思っていません。まだ「ほかなる」かもしれません。
ただこうして、百年以上ほったらかしにされていることでもロジックで丁寧に読んでいくのが近代文学2.0なんです。
納得できた人は本を買ってね。
[余談]
歌舞伎の一節に
入鹿の大臣こそ歌一首得詠まいで、花を折らずに歸つたと申して笑ひませう
というのがある。「面向不背玉」という演目だ。
三四郎たちの見た芝居がこの翻案なら面白いのだが。
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