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三島由紀夫の『金閣寺』は天皇なのか?
これが天皇のアレゴリーだったならとても読む気がしないな
三島由紀夫の『金閣寺』の「金閣寺」は「天皇」と交換可能だという話は古くからある。
伊藤勝彦は、「戦時下の非日常」と「戦後の日常性」とで、金閣の像が大きく変貌する点から三島の問題性を捉え、主人公が終戦の日に〈金閣と私との関係は絶たれた〉と実感し、〈美がそこにをり、私はこちらにゐるといふ事態〉が再現された戦後の金閣に、〈不満と焦燥を覚え〉、〈疎外された〉ことに着目しながら、戦時下における軍人たちが求めた「自我滅却の栄光の根拠」である「絶対者」への帰一が、「一つの世界の全体を象徴しうるようなもの」(「神格天皇」)という形であったことを鑑みつつ、そういった性質の「自分を超えた絶対者」「絶対の他者」という存在が、常に三島の前に厳然とあり、その「他者と自己との間の橋を見いだすこと」が、三島の「唯一の文学的課題」だったとし、「自分はこちら側におり、向うには永遠に自分を拒みつづけている世界」があり、「それから隔てられてある」ことは三島にとって耐えがたく、それゆえに、「相手をこわしてもいいから、その中に没入してゆきたいと思う」のが、『金閣寺』のテーマだと考察している。
この考え方に関して私はこれまでそう大きく反対してこなかったし、そもそも論法の違いによってどうともとれるくらいに考えていた。つまりテクスト論的に作者の意図を無視して作品そのものでどう読むかと言えばシンプルに「そんなことは書いていない」とも言えるし、作者の意図を前提にしなくても作者の問題として読み解けば「金閣寺」=「天皇」という見立ても可能なのではないかと考えていた。
当然小林秀雄との対談「美のかたち——『金閣寺』を巡って」ではそういう話は一切出ていないし、匂わせもない。戦後しばらくは「ノンポリ」であったことは本人の申し出により明らかで、三島由紀夫の右傾化を昭和三十六年の『憂国』、その後の仮装パーティーで身につけた日本陸軍の軍服以降のものだと見做せば、昭和三十一年の『金閣寺』に無理に天皇を押し付ける必要はないのではないか、という程度に思っていた。
確かに『憂国』以降、あるいはそれは『風流夢譚』読後以降と言っても良いかもしれないが、三島由紀夫という作家は突然天皇について語り始め、次第にエスカレートして、最後は天皇陛下万歳で死んでしまった。その印象があまりに強いため人事評価でいう所の「期末効果」で、あたかも「三島由紀夫は最初から天皇に憑りつかれていた」かのような判断をしてしまいかねないが、初期作品、例えば『仮面の告白』や『潮騒』には天皇の気配はまるでないことは確かだ。
私はむしろ金閣寺と対になっているのは「有為子」であると考えており、案外そのことが軽視されていることの方に不満があった。
今改めて初期の対談を読み返していて、「これが天皇のアレゴリーだったならとても読む気がしないな」という三島由紀夫自身の言葉を見て、「あ、これはないな」と確信した。金閣寺は天皇ではない。小林秀雄との対談のタイトルの通り、「金閣寺」とは具体に還元されない「美」だ。
河上(徹太郎) いや、それで充分ですよ。ただね、へんなこと言いますとね、つまりこういう立場の封建君主の存在というものと、今の日本の、天皇でもいいが、……天皇でなくてもいいが、そういうものとのアレゴリーというものを、作者なり、或いは読者が意識してやしないかという余計な心配をしたんですけども……。
三島 僕全然感じないです。読み方が足りないのかな……。
河上 いやいや。貴方のような人で、感じない読者が居れば安心した。
三島 これでアレゴリーをつけられたら読めませんね。作者がアレゴリーに敏感で、そういうことを感じさせないように苦心してるんじゃないかと思って、全然純粋な小説として読んだんです。これが天皇のアレゴリーだったならとても読む気がしないな。
これは田宮虎彦の歴史小説に関する寸評である。
そこではっと気がつく。三島由紀夫は晩年、三島由紀夫とは何ぞやと問われれば、『憂国』一冊を読めば足りると強弁していた。もし皇居突入計画が『風流夢譚』のように実現していたら「金閣を焼かねばならぬ」→「天皇陛下に熱い握飯を差し上げる」とうまい話になりかねなかったものの、実際に三島は自分と『金閣寺』を重ねなかった。
たしかに「金閣寺」=「天皇」という見立ては陰謀論のような解りやすさを持っている。解ることで安心したい気持ちを満たしてくれる。
美ということだけを思いつめると、人間はこの世で最も暗黒な思想にしらずしらずぶつかるのである。人間は多分そういう風にできている。
この「美」を美のままで理解することはなかなか負担である。
しかし金閣寺は「美」なんだろう。今日そう確信した。
これ、何について今更書いているんだろうと疑問のあなた、今、三島由紀夫論がどういう状況なのか、確認してみて欲しい。
こんなことでいいわけがない。
うまい話はいくらでも拵えられる。
そんなものに酔ってはいけない。
目を醒ませ。
そうでなければ一升瓶を抱えて落ちろ。
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