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三島由紀夫の『金閣寺』を読む⑥   有為子は留守だった

 いよいよ第九章に入る。

食堂 じきどう

火廻要慎 ひのようじん

天歩艱難 天運に恵まれないために非常に苦労すること。今の私のようなものだな。いや、

 これ、当選したからそうでもないか。

 ささら 竹の先を細かく割って束ねたもの。

そこらの凡庸な人間はそんなことでは死なない。しかし私は貴重な人間になったのだから、どんな運命的な死を招き寄せるか知れなかった。

 西法太郎の『三島由紀夫事件 50年目の証言―警察と自衛隊は何を知っていたか』(新潮社、2020年)を読んで意外だったのは、三島にもう一つの遺書があり、そこに「富士の見える場所にブロンズ像を建てよ」という文言があったということだった。実際にはその願いは聞き入れられず、故郷にブロンズ像があるのは太宰治の方だという落ちのために、そんなことが書かれたのかとも疑う。

 私が何故そのブロンズ像に引っかかったかと言えば、決行の日の朝、水をコップ一杯飲み、褌の上に直にあの楯の会の制服のぴちぴちのスラックスを履き、村田英雄の宿泊先に電話して紅白歌合戦出場のお祝いの伝言を残し、『豊饒の海』の最終稿を受け取りに来る編集者との約束をすっぽかして、中古のコロナで隊員たちと市ヶ谷に向う道中、三島たちはなんと「唐獅子牡丹」を大合唱していたからだ。

 そこには選ばれし者の恍惚、一種のヒロイズムがあったと見做すべきだろう……か? この部分について私の中では何度も肯定と否定が繰り返されてきた。そもそも自分のブロンズ像を建てよとは真面な神経の持ち主なら露ほども考えないことだ。太宰治なら顔が真っ赤っかだ。鉄面皮とあざけるかもしれない。それほど醜悪な事態を望むヒロイズムの正体は何か?

 これが解らない。

 溝口や酒鬼薔薇君は自分を特別な人間だと信じている。『絶歌』において酒鬼薔薇君は「自分は時代の鉱脈を探り当てる特殊なアンテナを持っている」と書いており、閉鎖されたホームページでもカタツムリのように顔の横に指を立てるイラストを載せ、「特別なアンテナを持っている人同士で交信しましょう」と書いていたように記憶している。少々表記は異なるかもしれないが、要旨としてはそのようなことを書いていた。自分は他の人間とは違うんだという主張だった。

 しかしいつから溝口は特別な人間になったのか。これは前回屁理屈中の屁理屈として指摘したところ、「そして金閣のように不滅なものは消滅させることができるのだ。どうして人はそこに気がつかぬのだろう。私の独創性は疑うべくもなかった。」というところにある。人が気のつかないところに気がつく、だから自分は優れている、この理屈そのものは理解できなくはないが、そもそも「不滅なものは消滅させることができる」というのがあまりにもシンプルな屁理屈に過ぎないので、こちらとしてはどうしても「なにいっちゃってんの?」という感覚が起こる。自分は特別なので、どんな運命を引き寄せるかもしれないとは既に真面な考えではない。

 そもそも蓮實重彦が指摘した通り、人は凡庸から遠ざかろうとすればするほど凡庸になっていくものだ。その証拠に、凡庸さの罠を蓮實重彦が指摘する前に、同じようなことを何万人もの凡庸だか非凡だか解らない人たちが指摘している。何か馬鹿なことを言おうとすると、哲学者が先に言っていると書いたのは古代ギリシャの哲学者ではなかったか。つまり自らを特別な存在だと思い込む溝口こそは、もっとも凡庸な青年だったのである。このことは少し記憶しておいてほしい。そうしないといろんなことが曖昧なまま、終わってしまう。

羅切 人間の男性の外部生殖器を切断すること。

有為子は留守だった。 これすごくいい。

 老師から授業料やら金を受け取った溝口は、北新地で童貞を失おうとする。そこにまた有為子の空想が現れる。どれだけ気になっているのかというところだが、この三島の有為子は留守だった。という書き方は凄い。

 私には有為子は生前から、そういう二重の世界を自由に出入りしていたように思われる。あの悲劇的な事件のときも、彼女はこの世界を拒むかと思うと、次には又受け容れていた。死も有為子にとってはかりそめの事件であったかもしれない。彼女が金剛院の渡殿に残した血は、朝、窓をあけると同時に飛び翔った蝶が、窓枠に残して行った鱗粉のようなものにすぎなかったのかもしれない。(三島由紀夫『金閣寺』)

 この書きようは、ある意味屁理屈を超えたものだ。私は『絶歌』に有為子に当るものが描かれないことを指摘し、そのことから一連の事件のキーとなるのは最初のストーカー事件で、あとはむしろ付け足しだと考えている。そういう意味では金閣の美など、そもそも父親から与えられた観念であり、『仮面の告白』における園子のようなものだ。有為子は近江である。溝口は自分の対象をなんとか金閣に振り向けようと必死だが、つい有為子を思ってしまう。金閣を焼こうとすれば特別な人間になれるというアイデアそのものが凡庸さの表れだ。この感覚を捉えたからこそ酒鬼薔薇君は『絶歌』に有為子を登場させられなかったのではなかろうか。

嫖客 ひょうかく 花柳界に遊ぶ男の客。芸者買いをする男。

裏を返して   遊里で、初めて買った遊女を二度目に来てまた買い、遊興する。 また転じて、同じことをもう一度する意にもいう。作中では粋なことと評されるが、これも溝口の凡庸さを三島由紀夫が念押ししたというところではなかろうか。玄人に粋と褒められる、然しその実溝口には別の女を選ぶ度胸も余裕もなかったのである。

時花歌 はやりうた

いっかな   どんな情況になろうと一向に。どうしても。

 この章の終わり、溝口が童貞を失ったのち、老師は奇妙なふるまいを見せる。朝の散歩の後、両袖で顔を覆ってうずくまるのである。急な病気か、と思えば老師は経を読んでいる。行脚僧の庭詰めの姿勢に似ている。

 それを見て溝口は「私に見せているのだ」と考えた。そして放火の決行に老師の放逐などあてにすまいと思い定める。老師とは別の世界の住人になった。私はこのことを老師の公案が解かれたと見る。ずっと解らなかった老師の腹の底が見えたのだ。溝口は「無碍」になる。差しさわりがなくなり、自由になったのだ。もしも溝口の見立てが正しければ、老師はやはり単なる俗物である。逆に溝口の公案は解かれようもない。趙州らしきものの姿は見えない。

六月二十五日、朝鮮に動乱が勃発した。世界が確実に没落し破滅するという私の予感はまことになった。急がねばならぬ。(三島由紀夫『金閣寺』)

 これが第九章の結びである。この朝鮮戦争がいまだ「休戦中」であり、まだどう転ぶか分からないという点において、溝口の言い分は今も正しいと言えるかもしれない。



【余談】
 昭和二十五年六月の朝鮮戦争の勃発を受けて、八月警察予備隊令が公布、施行される。

 見ると大臣たちの花王、いわゆるサインが使われている。
 昭和天皇の裕仁の谷は八が離れ、二がかなり高い位置にある。

 二十世紀の後半の第一年―一九五一年がわたしたちの良心の前にひらかれた。昨年の六月二十五日、朝鮮に動乱がひきおこされて以来、日本では世界平和に対する一部の人々の確信がゆらいだ。一九四九年から、南北統一のために努力しつづけていた朝鮮の人々の間に、どうして戦争がひきおこされたのだったろう。こんにち、朝鮮についてわたしたちは客観的に信じるに足りるだけの真実を開かれていない
 やがて歴史が新しい頁を開くとき朝鮮で演じられているドラマの事実は世界に明らかにされるだろう。
(宮本百合子『世界は求めている、平和を!』)

 今ではウイキペディアで朝鮮戦争のことをあらかた知ることができるように思える。しかしその呼称さえ立場によって異なる出来事に、客観的事実など見つけようはないのではなかろうか。この戦いにはまだ勝者がいないことから、どちらの言い分が正しいとも決められない。

SNSでは昨年もあっちとそっちの意見が対立していた。

烏克蘭烏克蘭、啊!我們的台灣!

【余談②】

 こんな記事とこんなスレがあって、

Radditやらんと不味いのかと焦った。使わんと死ぬんかと。

いや、まだしょぼいな。むしろ

私も刹那的なトピックや今起こっていることについてはtwitterやインスタ見てますが
過去やある程度の期間内において重み付けされた情報となると、投稿サイトはとたんにだめになりますよ。
twitterだと古いものはそもそも引っ掛からなくなってきますし、googleと使いわけるようになったのが正しいと思います。

…が本当にGoogle内の人の反応だとしたら深刻。




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