『坊っちゃん』の現在
夏目漱石の『行人』は『坊っちゃん』や『こころ』と同じような物語構造を持っている。基本的に回想の形で過去の出来事が語られながら、現在がそっと挟み込まれる。
例えば『坊っちゃん』において、
この「今となつては」が清の死後にあることはまず読み誤ることはなかろう。しかし案外見落とされているのが、
この「只懲役に行かないで生きて居る許りである」という現在が街鉄の技士としての生活だという点や、
この物理学校の三年間に比べれば、街鉄の技士としての生活は呑気でもないことが仄めかされていることは見逃されがちのようだ。
『行人』の現在
多くの批評家によって『行人』は読み誤られてきた。その物語構造を捉えきれない者たちが「分裂」と言い出すのは他人事ながら少々、いやかなり気恥ずかしい。自分なら舌噛んで死にたくなるだろう。『行人』の現在がHさんの手紙の後にあることを理解できなければ、たとえどんなペンネームを用いようとも『行人』を読んだことにはならない。
作中六回現れる「今の自分」のうち、五回はあくまで「当時の自分」に置き換え可能である。しかしどうも一つだけ「当時の自分」という「現時点から見て過去の自分」に置き換えが利かず、文字通りHさんの手紙を読み終わった後の「現在の自分」としか読めないものがある。
これは「当時の自分」と交換可能な「今の自分」である。
これはまさに語られている過去におけるその時の自分である。
この二つの「今の自分」は「友達」の章で病院に三沢を見舞う自分の未来にはあるが、Hさんの手紙の後にいる自分ではない。
これもシンプルに当時の私でHさんの手紙の前にある。
ここで「当時の自分」と比較される「今の自分」は現在の自分である。比較されなければ曖昧なところ、「当時の自分」を出してきたのでもう交換できなくなる。ここでHさんの手紙を読んで兄に対する尊敬を取り戻した現在の自分が現れる。
帰してやりたくても帰せない
先生が死んだかどうかわからないという人はもう少し読む力を身に着けるべきであろう。清が死んでいないという人はあるまい。では一郎の死に関してはどうか?
一郎が生きているのであれば償いもできよう。ここにもこっそり現れる現在は、Hさんの手紙の後にあり、一郎の死後にある二郎の現在である。「おれ」が清に三円を返せないのと同じ理屈で、二郎は一郎に償いが出来ない。
こうして整理してみると案外単純なことのようだが、こんなことが案外できていない。出来ていないで適当に読み散らかして、適当に書き散らかしていたのが近代文学1.0の世界だ。
物語構造が理解できていなくても部分の読みだけで内容を語ることができるということがあろうか?
私にはそういうものが単に間違いとしか読めない。
物凄くシンプルに言えば物語構造とは、
ここにあるのは水とはちみつとレモンだけれど、はちみつは太るし、レモンは酸っぱいから飲むとしたら水だな、と書いてあるのに、明治の知識人共通の問題として水を飲むかはちみつを飲むかレモンを飲むかという三択があると言い張るのではなく、「飲むとしたら水」と読むということだ。
しかし案外こんなことができない。
できないなら黙っていればいいものを好きなことを書き散らしている。それではいけない。少しは真面目にやらなくてはならない。
そういう人は私の本を買って勉強しなくてはならない。