見出し画像

芥川龍之介の『素戔嗚尊』が解らない⑤ 同じ比喩を二回使う馬鹿があるか

 これまで芥川作品は誰にも読まれていないと繰り返し書くたびに、何の根拠もなく「そんなことはないんじゃないの」と受け流してきた人たちには、この事実を真剣に受け止めてもらいたい。

 おそらく「よき」「さすが」問題、津波、妊娠時期問題だけではない、芥川作品独特の「読まれにくさ」というものがあり、そのことで結果として芥川作品は誰にも読まれてこなかったのではなかろうか。

 例えば昨日、

針金雀花はヨーロッパ原産、明治期に観賞用として持ち込まれたもので、この作品が書かれた当時は日本には自生していない。いや仮に高天原が百済であろうとも針金雀花が自生している訳はないのだ。日本で自生が確認されるのが1950年というから昭和二十五年。
 つまり芥川が死んでから二十三年後に初めて針金雀花の自生が確認されたということだ。

 こんなことを書いた。これまで芥川作品を読んだふりをしてきた人たちは、「そういうことはあまり気にならないね」と誤魔化すかもしれないが、一事が万事、針金雀花が気にならない人は明治二十七年における陸軍一等主計の制服も気にならないのだろうし、甘露寺明子の片足立ちの意味さえ曖昧なのではなかろうか。

 それではけして芥川作品を読んだとは言えない。

 それではAudibleで聞き流すのと同じ、眺めただけに過ぎないのだ。「ウレタソ」みたいなものだ。


巣を壊された蜜蜂のごとく?


「ほんとうですわ。」
「どうして嘘だと御思い?」
「あなたばかり鳩が可愛いのじゃございません。」
 彼はしばらく返答も忘れて、まるで巣を壊された蜜蜂のごとく、三方から彼の耳を襲って来る女たちの声に驚嘆していた。

(芥川龍之介『素戔嗚尊』)

 プロの書き手ならば、いや素人にしても、最低限「書く」という行為に研鑽した者であれば誰しも、わざとでなければやらないことがある。これは良し悪しの話ですらなく、わざとでなくやってしまえばたちまち単に「だらしない書き手」と見做されてしまう。

 かりに「まるで巣を壊された蜜蜂のごとく」と書いてしまったからには、この後再び鉢の比喩は使わないのが当たり前だ。これは誰が決めたルールというものではないが、大抵の商業出版された小説では守られていて、「当たり前」以外に説明が出来ないことだ。なんなら同じ比喩が二回使われた作品がちょっと思いつかない。

 が、その内に眼の下の部落からは、思いもよらない火事の煙が、風の断たえた中空へ一すじまっ直すぐに上り始めた。老人はその煙の中に立ち昇る火の粉を眺めても、やはり膝を抱きながら、気楽そうに小声の歌を唱って、一向驚くらしい気色も見せなかった。しかし間もなく部落からは、まるで蜂の巣を壊したような人どよめきの音が聞えて来た。

(芥川龍之介『素戔嗚尊』)

 最晩年に意識朦朧で書いたのでなければこんなことはあり得ないのだ。ありえるとしたらわざとであり、わざとであると知らせるためには敢えてもう一回蜂の巣が壊されなくてはならない。そうであれば「くどいぞ」と笑うことができる。しかしながら『素戔嗚尊』に「蜂」は二回しか出てこない。他には「虻」が一度出てくるが「虻」の巣は壊されない。

 これはただごとではない。

 しかも最初は「蜜蜂」、二回目が「蜂」で完全に意識してくりかえしたとは認識しずらい。この微妙なずれが実に気持ち悪い。

 あの芥川龍之介が、一つの作品の中で二回、ほぼ同じ比喩を使う意味が一体どこにあるというのか。これがイージーミスであり得るのか?

 私にはとてもそうは思えない。

 ではイージーミス以外のどんな理由があり得るのか、それも解らない。

 一作品の中で冷蔵庫の比喩を二回使う書き手はいない。

 しかしこれを書いているのはどうも芥川龍之介なのだ。本当にそうかと一文字ずつ調べていった。例えば「手ん手」は青空文庫の中では、芥川龍之介が『地獄変』『冬』で使ったほかは鴎外の『ファウスト』『ヰタ・セクスアリス』『杯』、泉鏡花『草迷宮』『神鑿』などわずか十三例しか確認できない。どうも芥川の語彙なのだ。「毒口」も20例の裡三つが芥川のもの。

標準語大辞典 全国国語教育促進会審詞委員会 編商務印書館 1936年

 例えば「羞憤の念」などほぼシナ語だ。これが芥川でないわけはないのだが……。

三回使えばいいわけではない


 しかし三回使えば笑えるというものでもない。

千曳の大岩を担いだ彼は、二足三足蹌踉(そうろう)と流れの汀から歩みを運ぶと、必死と食いしばった歯の間から、ほとんど呻吟する様な声で、「好いいか渡すぞ。」と相手を呼んだ。

(芥川龍之介『素戔嗚尊』)

「逃げたな、何、逃げようと云っても、逃がしはしないぞ。」
 彼は髪も着物も焼かれながら、戸口の簾を切り払って、蹌踉と家の外へ出た。

(芥川龍之介『素戔嗚尊』)

 彼等はまず彼の鬚を、一本残らずむしり取った。それから彼の手足の爪を、まるで貝でも剥がすように、未練未釈なく抜いてしまった。その上彼の縄を解くと、ほとんど手足も利かない彼へ、手ん手に石を投げつけたり、慓悍な狩犬をけしかけたりした。彼は血にまみれながら、ほとんど高這いをしないばかりに、蹌踉と部落を逃れて行った。

(芥川龍之介『素戔嗚尊』)

 三度の「陽炎」に比べればこちらのほうがまだ許せるが、それにしても少々やかましい。酒鬼薔薇くんの『絶歌』に二度「蝉の啼音」という言葉が出てきて、「珍しい言葉を何度も使うと馬鹿が今覚えた言葉を使いたがるみたいに見えるのになぜだろう」と確認したら作中バイブルとされてている三島由紀夫の『金閣寺』に「蝉の啼音」という言葉が使われていることが解った。では芥川は何故「蹌踉」を三度使ったのだろうか?

 それは、

山の向うに穴居している、慓悍の名を得た侏儒でさえ彼に出合う度毎に、必ず一人ずつは屍骸になった。

(芥川龍之介『素戔嗚尊』)

 彼は獣のように、飮んだり食ったりした。盤や坏は見る見る内に、一つ残らず空からになった。女は健啖な彼を眺めながら子供のように微笑していた。彼に刀子を加えようとした、以前の慓悍な気色などは、どこを探しても見えなかった。

(芥川龍之介『素戔嗚尊』)

 この「慓悍」を三度使うためなのか?

 天才芥川が馬鹿の真似をしている?


天心の月?

 この時部落の後にある、草山の楡の木の下には、髯の長い一人の老人が天心の月を眺めながら、悠々と腰を下していた。物静な春の夜は、藪木の花のかすかな匂いを柔かく靄に包んだまま、ここでもただ梟の声が、ちょうど山その物の吐息のように、一天の疎らな星の光を時々曇らせているばかりであった。

(芥川龍之介『素戔嗚尊』)

 少しでも俳句を齧ったことのある人なら、誰でもここに引っかかる筈だ。「天心の月」とは空の真ん中、高い高度にある月のことで、普通は秋冬の月を意味する。春の月は低いので「天心の月」とは言わない。

https://www.iijlab.net/members/ew/buson.pdf

 夜半、月の光が一川の蘆と柳とに溢れた時、川の水と微風とは静に囁き交しながら、橋の下の尾生の死骸を、やさしく海の方へ運んで行った。が、尾生の魂は、寂しい天心の月の光に、思い憧れたせいかも知れない。ひそかに死骸を抜け出すと、ほのかに明るんだ空の向うへ、まるで水の匂や藻の匂が音もなく川から立ち昇るように、うらうらと高く昇ってしまった。…… 

(芥川龍之介『尾生の信』)

 どうも芥川は「天心の月」を知っている。知っていてわざと春に「天心の月」を持って来ている。何のためなのかは分からない。わからないが確かに何かやっている。

 読み手を試している?

 確かにそういう要素はあるだろう。

 しかし同じような比喩を二回使っておいて、今更読み手を試されても……。と思わないでもない。

 これは芥川作品が読み飛ばされていることに芥川自身が自覚的で、自棄になって書かれたことではないかと一瞬疑う。しかし芥川程自分の作品に真摯であったものがそんな馬鹿なことをするはずがないとすぐに思い直す。

 確かにこれは明らかに馬鹿なことなのだ。恐らく文学は「そんなことはないんじゃないの」と「そういうことはあまり気にならないね」の対極にあるものだ。飲食店の前だろうと平気で犬に糞をさせる人には無関係な話だが、この話はまだ続く。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?