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「ふーん」の近代文学⑫ 色んな終わりがあるけれど

 三島由紀夫が最後の最後、自身の文学に「ふーん」したように見えるのは、『豊饒の海』が五部作の予定だったものが四部作になってしまったから転生と同時存在と二重人格とドッペルゲンゲルの物語――人類の普遍的相、人間性の相対主義、人間性の仮装舞踏会が書かれなかったからだが、私にはそもそも楯の会がどうも気に入らない。

 あんなものがなかったらなと思わないではない。いや思う。

 ぼくはあなたと同じように、戦争中の恐怖があるんだろうと思うけど、日本の文士としての職業について、ずうっと考えてきたね。ぼくは戦争中、少年だったから、言論統制のおかげでギューギューしぼられたり、文芸報国会に入らないと妻子が飢えて泣くという経験はないけれど、いつ、そういう時代が来るか、そういう時代がきたらどうしよう、ということをずっと考えてきたね。そして、もしそういうことになっても、日本の文士のああいうやり方だけはしたくない、そう思う一心で「縦の会」を作ったんだよ。そこにいれば、兵隊さんには使われる。だけども報道班員にはならないよ。

(「剣か花か」『決定版 三島由紀夫全集 第四十巻』新潮社 2004年)

 三島由紀夫にはペンで戦う式の報道班員のいやらしさが許せなかったのだろう。だから楯の会は出来た。

 しかしふと気になることがある。この対談の相手は野坂昭如、初出は昭和四十五年一月。その数か月前の対談の日、この時点で三島由紀夫はまだ生きようとしていた。

おれはあと一年すると剣道の錬士をとれるんだ。錬士をとると高校まで先生になれる。田舎の草深いところでもって、剣道を教えてやるということができるのだよ。

(「剣か花か」『決定版 三島由紀夫全集 第四十巻』新潮社 2004年)

 本多繁邦を覗き魔にした時点で、三島は老いさらばえて生きる未来を捨てていたはずだ。本多繁邦は一つの可能性であり、思考実験だったはずだ。「あと一年すると」「できるのだよ」も一つの可能性であり、思考実験だったとするには、何か余りにも未練がましい生々しさがありはすまいか。

 三島は剣道の稽古を十一年続けて五段の錬士となった。それは並大抵のことではない。

 いくつものほぼ完成された遺作のある芥川に対して、夏目漱石の遺作は自身最長の書きかけ一つであった。三島は子供が夏休みの宿題を片付けるように何とかぎりぎり間に合わせた。終わり方はいろいろある。

三島 おれは、いつポックリいってもいいと思っている。だが、ガンなんかはイヤだな。
野坂 第三次世界大戦なんかでもって、ハッと気がついたら死んでいた、なんていうのはいちばんいいですね。
三島 それはいいね。

(「剣か花か」『決定版 三島由紀夫全集 第四十巻』新潮社 2004年)

 いや、死んだら気がつけない。

 それにしてもいつの間にかどこかへ消えて行った三島の未来を考えると、三島が本当に「ふーん」したのは自身の文学に対してではなく、自身の生命に対してだったようにも思える。

 富士の見えるところに自身のブロンズ像を建てよというまがまがしい遺言に見えるヒロイズムは、花と散る命に幣を強請る我儘であろうか。





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