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三島由紀夫の書簡を読む⑨ 字引を引こう

天皇の神聖

「英霊の声」は文壇では冷たいあしらひで、かれらの右顧左眄ぶりがよく見えます。
 天皇の神聖は、伊藤博文の憲法にはじまるなどといふ亀井勝一郎説を、山本健吉氏まで信じてゐるのは情けないことです。それで一そう神風連に興味を持ちました。神風連には、いちばん本質的な何かがある、と予感してゐます。
                  昭和四十一年六月十日

(「清水文雄宛書簡」『決定版 三島由紀夫全集第三十八巻』)

 この辺りから三島の正直なところと、そうでないところ、いわゆる仮面がちらつき始める。「神風連には、いちばん本質的な何かがある、と予感してゐます」と「かれらの右顧左眄ぶりがよく見えます」は正直であろう。

 しかしそもそも『英霊の声』が昭和二十一年に書かれていれば、と思わないでもない。実際私は文壇人ではないが、昭和四十一年当時文壇人だったとして、まさに「なんですかこれは?」としか言えなかったのではなかろうか。お心がけ立派ですとか、天皇制を廃しましょうとは言えなかったのではなかろうか。それに三島は天皇の無謬性なども主張していた。なら南北朝などないでしょ、と文句を言ってもしょうがない。何しろこれが三島由紀夫だからだ。

 やはりどう考えても『英霊の声』は「今更何を?」という作品なのだ。無論そこには戦後の生活水準の向上への批判がある。

 しかし林房雄に対しては「成功していませんか。つまりこの物質的繁栄というというのは」と言っているのだ。この矛盾こそが三島らしさだと言って言えなくもない。

 ただそこに挟まれた「天皇の神聖は、伊藤博文の憲法にはじまるなどといふ亀井勝一郎説を、山本健吉氏まで信じてゐるのは情けないことです」というのは法科出身の立場からはまずは受け止めなければならないところではないか。

 当然和辻哲郎のように上代から天皇の神聖というものは存在していて、「大化前後に於ける我が国家の整備が天皇の神聖なる権威と不可分に結びついている」「天皇の神性性は既にこの教団的結合に於いてその基礎として存するのであって法的意味に於ける困家の成立の時に祭事の総担者とし始まるのではない」と見てきたように綴るものはいなくもないが、これはやはり見てきたわけではないので妄想の一つに過ぎないのであって、天皇の神聖がそれまで曖昧であったことは憲法に明記されることによってこそ明らかになったと考えるべきだろう。 

尊皇思想とその伝統 [1] 和辻哲郎 著[和辻哲郎]


国民統合の象徴 和辻哲郎 著[和辻哲郎] 1948年



大風呂敷の計画


 小生もこの時世にやむもやまれぬものを感じてをり、今度お目にかかつた時お話しいたしますが、甚だ大風呂敷の計画も建ててをります。文学は文学として、あくまでそつとしておき、行動は行動で純粋に、何とか君国に報ずる方法はないかと考へてをります。この二つをゴッチャにすることは好みません。
                昭和四十三年二月二十二日

(「清水文雄宛書簡」『決定版 三島由紀夫全集第三十八巻』)

 これは三島由紀夫の公式見解であつて、いわばよそ行きの言葉である。「文学は文学として、あくまでそつとしておき、行動は行動で純粋に」は著書でも繰り返し述べられていて、ある意味では清水文雄に手紙で書く必要のない文章だ。

 つまりここは正直か仮面かということで言えば仮面である。「この二つをゴッチャにすることは好みません」と言いながら最後には自分の体が一つしかないことを思い知らされる。そして三島由紀夫作品の解釈から三島由紀夫の行動を読み解こうとする「ゴッチャ」な人が現れる。
 石橋と書いて「しゃっきょう」と読ませれば能の言葉である。そこから「本当は宮中で天皇を殺したい」という三島の本音は読み取れまい。『金閣寺』に羅切という言葉が出てくるから去勢願望があるわけでもなかろう。

 ただ「君国に報ず」は戦後ぱたりと使われなくなったレトロな言葉だ。ここにはレトリックがある。清水文雄にはそのレトリックが届いていただろう。まさに大風呂敷だ。



鴎外以来随一の名文


 來るすぐ前に、中公の「日本の文学」の解説を書かされ、内田百閒を読み返してみて、今更ながらその文章の立派さに感じ入りました。ひよつとすると鴎外以来随一の名文ではないでせうか。
                  昭和四十五年三月五日

(「清水文雄宛書簡」『決定版 三島由紀夫全集第三十八巻』)

 ここは案外忘れていたこと。確かに内田百閒は井伏鱒二的な面白さではあるが、「文章の立派さに感じ入りました」とは独特な評価ではなかろうか。内田百閒は面白いが、立派とは言われない。鴎外以来随一の名文と言われてしまうと、坪内逍遥には「紅葉山人以後、文章にあれほど苦心した人は有るまいと思ふ」として芥川龍之介が褒められているのに、と考えてしまう。

 しかしまあ、三島の語彙としての「立派」は保田與重郎にも向けられるので、そういう意味では内田百閒なのか、と納得するよりない。




禁句


「豊饒の海」は終りつつありますが、「これが終つたら……」といふ言葉を、家族にも出版社にも、禁句にさせてゐます。小生にとつては、これが終ることが世界の終りに他ならないからです。
                昭和四十五年十一月十七日

(「清水文雄宛書簡」『決定版 三島由紀夫全集第三十八巻』)

 これが三島由紀夫の面白いところ。禁句をわざわざ宣伝している。「小生にとつては、これが終ることが世界の終りに他ならないからです」は作文。いよいよこういうことになりましたと察してくださいというメッセージだ。



偽善、欺瞞の甚だしきもの

 それはさうと、昨今の政治情勢は、小生がもし二十五歳であつて、政治的関心があつたら、気が狂ふだらう、と思はれます。偽善、欺瞞の甚だしきもの。そしてこの見かけの平和の裡に、癌症状は着々進行し、失つたら二度と取り返しのつかぬ「日本」は、無視され軽んぜられ、蹂躙され、一日一日影が薄くなつてゆきます。
                   昭和四十五年十一月十七日

(「清水文雄宛書簡」『決定版 三島由紀夫全集第三十八巻』)

 この辺りの言い回しも何度か繰り返されている三島由紀夫の公式見解だ。癌云々の下りは楯の会の解散命令にも入っていた。

 それにしても今、二十五歳の三島由紀夫が存在したならば、生首になる程度で片がついたであろうか。


款(よしみ)

「款(よしみ)を通じた」といふ一行が気になつて辞引まで引いてみたのですが、やつぱり釈然としませんでした。
             昭和二十二年六月二十九日

(「清水基吉宛書簡」『決定版 三島由紀夫全集第三十八巻』)


「款を通ずる」は普通に使われる表現だ。「かんをつうずる」と読むのが一般的ではあるものの「款」の意味に「よしみ」があるので「よしみをつうずる」と読めなくもない。「款」という字は「款言」と「款語」で全く意味が変わる言葉なので、意味がぼんやりしていたのであろうか。「款言」が例外的で、概ね「したしくなる」方向性の言葉である。

 しかし三島由紀夫でさえ解らない字はちゃんと字引を引いて調べるのだと感心した。



安吾

 むしろ坂口安吾は新しい。彼にはヘンな照れくささなどありませんから。太宰、石川、——この二人は高貴な文学への背反者です。正しい壮大な背反者でなく、背中から唾を引つかける卑賎な裏切者です。小者です。
               昭和二十二年七月二十七日     

(「清水基吉宛書簡」『決定版 三島由紀夫全集第三十八巻』)


 この三島由紀夫の文学観は独特で、太宰、織田作、安吾のデカダン三銃士から安吾を切り離そうとするものだ。女の扱いとか勉強の仕方など、安吾こそがいちばんデカダンに見えるが、三島由紀夫の見解は異なるらしい。

 石川淳は太宰、安吾とともに無頼派と呼ばれていたわけだが、森鴎外の熱烈な信仰者でもあり、鴎外好きの三島由紀夫と肌が合うかと思えば小者扱いだ。

 無論それも愛するが故の諫言であり款言ではない。



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