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「ふーん」の近代文学⑩ 無理がある?

 それでも流石に三島由紀夫は近代文学じゃないんじゃないかとまだ考えている人がいる? いない?

 三島由紀夫本人としても鴎外だけは認めているけれども漱石なんかは軽く見ていて、芥川や太宰、それから島崎藤村なんかも馬鹿にしている。そして王朝物語に連なる意識があるから、やはり近代文学ではない?

 ぼくはそんな人間のユートピアというものは、ちょっと飽きあきしたんだ。いまだから飽きあきしたんじゃない。日本の近代文学の歴史の中において飽きあきしたんだ。飽きあきしているときに、世間が信じていないことから行動を起こすようになったものだからあわてているんですよ、ほんとうの話。いいださんみたいに、そこから出発できる人はしあわせだけれども。近代文学はもう百年やっていてそのことはもうわかっている。どうせだめだけどやりますということは、とても……。

(「政治行為の象徴性について」『決定版 三島由紀夫全集』新潮社 2004年)

 はい。近代文学です。

 近代ゴリラですもの。

[余談]


 ぼくらが、いわゆる新宿米タン(米軍燃料タンク車阻止闘争)のときに手入れを受けましてね、どこかに卵が置いてあったら、これは武器だというので押収された。核時代に、卵がゆゆしきものとして押収されるということに、ぼくは喜劇性を感じたわけですけどもね。(笑)

(「政治行為の象徴性について」『決定版 三島由紀夫全集』新潮社 2004年)

 石段を三十六おりる。電車がごうっごうっと通る。岩崎の塀が冷酷に聳えている。あの塀へ頭をぶつけて壊してやろうかと思う。時雨はいつか休んで電車の停留所に五六人待っている。背の高い黒紋付が蝙蝠傘を畳んで空を仰いでいた。
「先生」と一人坊っちの高柳君は呼びかけた。
「やあ妙な所で逢いましたね。散歩かね」
「ええ」と高柳君は答えた。
「天気のわるいのによく散歩するですね。――岩崎の塀を三度周るといい散歩になる。ハハハハ」
 高柳君はちょっといい心持ちになった。

(夏目漱石『野分』)


 こうして夏目漱石と三島由紀夫と村上春樹はつながって見える。三島由紀夫にとっては喜劇であるものが村上春樹にとっては一貫したスタンス、弱さという正義になってしまう。

 しかしこのまま卵の価格が高騰すれば、みんなプチブル自慢に見えてしまうかもしれない。

 おそろしや。

三島由紀夫が「唐獅子牡丹」を歌った場所だもの。


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