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フリークスVSキャメロン・ディアス! 境界線ギリギリの怪作『メリーに首ったけ』
これにはたまげた!今や大スター、キャメロン・ディアスの出世作っていうから、それなりに面白いんだろうと思って観たのだが、これがフリークスだらけ、タブーを犯すギリギリまで迫った怪作だった。キャメロン・ディアスのチャーミングなイメージだけで判断すると、良くも悪くも裏切られるに違いない。
なんせオープニングから凄い。脱力系米国ロックスター、相当マイナーなジョナサン・リッチマンが木の上で歌ってる場面か
パパのいないアメリカ映画
「なぜアメリカ映画にパパはいないのだろう?」
映画『グラディエーター』を観てそう思いました。いつもアメリカ映画の主人公にはパパがいない。そしてパパを探し、愛し、憎んでいるのでは、と。
基本的に手に汗握る大活劇なんですが、話の軸は、皇帝マルクスに愛されぬ息子コモドゥスの悲しみと憎しみなんです。息子の非力さ、邪悪さに気付いているマルクスはその権力を委譲しようとせず、一介の農民だったマキシマ
ポランスキーが描く、間借人の居心地悪さ
例えばこの映画に、ユダヤ人ピアニストとナチス将校の心の交流を期待していたら、がっかりすることは間違いない。
美談でも、感動的な物語でもない。涙を流す場面なんてほとんどない。
映画『戦場のピアニスト』は、徹底的に「居心地の悪さ」を描いた、ロマン・ポランスキー流サスペンス映画だと思う。
物語は、主人公であるピアニスト、W・シュピルマンが、ラジオ放送のためにピアノ演奏している場面から始まる。突
「アメリカ人じゃなくて良かった」と思うとき(2005-05-06)
「アメリカ人じゃなくて良かった」
と思う瞬間がある。1つは滞在経験のある人から、食生活の貧しさを聞かされるとき。
もう1つは「プロム」を舞台にした映画を見たときだ。
「行進」を意味する「promenade」を語源とするらしい「プロム」は、言ってみれば「卒業パーティ」だ。その年の卒業生から男女の代表的人気者を選ぶ。各自パートナーを見つけ、男女カップルで出席するのがベスト。1人でも出席資格は
ためらう男が踊りに至る決意(2005-05-12)
男だけで踊る映画がある。
『フル・モンティ』?そう、炭坑の失業者が一念発起してストリップに挑戦する英国産コメディだ。
『プリシラ』?いいとこついてるよ。ゲイダンサーが興業のために大陸を横断するオーストラリア産ロードムービーね。
えっ『ウオーターボーイズ』?シンクロナイズドスイミングを文化祭で披露するために奮闘する高校生を描いた日本映画ね。あれもダンスの一種と考えれば確かにそうだ。
で
ボブ・ディランが残した70年代の悪あがき
なんとなく、かつ無責任な印象を言えば、60年代に拳を振り上げた「若者たち」は、70年代は拳の下ろしどころに困って悪あがきし、80年代は決まりの悪い心地良さに溺れてしまったように見えるわけです。
ネットフリックスで公開されたボブ・ディランのドキュメンタリー映画「ローリングサンダーレビュー」は、さしづめそんな「若者たち」の悪あがきの記録ではないかと感じました。
1975年にボブ・ディランが
「世界の中心で、愛を叫ぶ」で脚本を考える
「世界の中心で、愛を叫ぶ」で、映画とテレビドラマ、原作の関係について考えさせられました。
遅ればせながら小説「世界の中心で、愛を叫ぶ」を読みました。武者小路実篤の「愛と死」などと同じく「愛した人が死ぬ」ことをてらいもなく描いた悲劇。愚直なぐらいストレートな「愛と死」などとは違って、恋人アキを白血病で失った主人公、朔太郎の回想と現在を交互に描く構成上の工夫がありました。
映画版は祖父のエピソ
パパのいないスタートレック 『スタートレック』
続編『スタートレック イントゥ・ダークネス』を先に見たのは失敗だった。なるほど。そもそも『スタートレック』はパパなし映画だったんだ。
【ネタバレ注意です】
なんとカーク船長は、父親と死別していたことが明らかになる。
そうだったのか。
トレッキアン(熱狂的な「スタートレック」ファン)ではないどころか、『イントゥ・ダークネス』で初めて『スタートレック』を観た私にとっては衝撃だった。
そして、やは
元祖いじめられっ子映画 映画『マイ・ボディガード』
マッチョな正義の味方が悪を打ち倒す。最近の米国映画の傾向だが、米国が常にマッチョだったわけじゃない。
ロバート・オルドリッチやジョン・フランケンハイマーのようにダメダメな弱者を描き続けた監督だっているし、『がんばれベアーズ!』や『真夜中のカーボーイ』(ママ)のように、ダメ人間を描いた大ヒット作もある。
過去だけじゃない。
『ダイハード』や『ランボー』のようなマッチョ映画の陰で、ずっと米国