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<思想編>ドイツの森の幼稚園で実習している自分が抱いている教育観を、2万8418文字使って全部吐き出してみた!




自分が考える教育的信念


☆子ども達に自由を与えることが出来る少人数体制でやりたい


保育士1人対子ども20、30では保育士死んでしまう!!(https://note.com/69_k/n/nbbeb355ffb91)

ご尤もなご意見。僕はそれが嫌だから、『子ども達約15人に大人達3名』のドイツの森の幼稚園へ行く。

その体制を知っていて、体験する者として、発信する義務があると勝手に感じてる。


*実習先のドイツの森の幼稚園における保育士人数と対応できる子どもの人数について


子ども達の人数が多いにもかかわらず、先生の人数が少ないと、どうしても先生が子ども達を”管理する”方向になってしまいがちだと思う。


管理するってなると、先生も子供も精神衛生的に良くないと思うんですよね。先生の立場だったら、子ども達が言うことを聞かなかったらイライラするだろうし。

個人的には逆に、「子ども達が従ってくれる」感じも嫌なんですよね。自由が好きなので、子ども達を支配するのはあんまし好きじゃない。己の欲せざるところ人に施す事勿れ。

個人的にはやはり、子ども達を「集団」として見るのではなくて、「一人ひとり」として見ていきたいというのがある☟

<一人の尊厳>

人間は一人として迎えられ、一人として遇せられるべき、当然の尊厳をもっている。ただに人間ばかりでなく、宇宙の一物といえども、もの皆個体の存在をもっているのであるが、人間において、特にその尊厳をもつ。

これは、必ずしも、心理学的にいわゆる個性の別という意味ではない。個性は相対的のものであって、一人の価値はその個性の価値であるが、人間の一人は絶対のものである。各個人の人間が銘々に有する、神聖なる尊厳である。すなはち、全ての人間は、その個性を尊重せられる権利をもつと共に、先ずその前に、一人として迎えられるべき尊厳をもっている。

この意味において、一人を一人として迎えないことは、人間の尊厳をおかすことである。一人の一人たることを忘れるのは、人間に対する最根本的の無礼である。

今我等は、新しき子供を迎えた。一団の新入園児を迎えたのでもなく、一組の新入学生を迎えたのでもない。我等の迎えたものは、その一人ひとりである。一人ひとりが、人間としての一人の尊厳をもって、我等の前にあるのである。一人ひとりたることを忘れるのは、人間に対する、全ての誤りの出発点である。一人ひとりたることを無視するのは、人間に対するあらゆる罪の基である。

幼きが故に、一人の尊厳に、一毫のかわりもない。

幼稚園雑草(上)p33~p34


でも、日本の教育制度で「保育士1人に対して子ども20人」って、もう保育士は子どもを「集団」として捉えないとやっていけない状況になってると思うんですよね。

これって逆説的に言えば、子どもを従わせるのが上手な保育士がいて、それで今まで何とかやってこれたからこそ、「保育士1人対して子ども20人」という状況が改善されないのではないか?

従わせるのが上手な先生というのは、いわば、山登りで子ども達を山頂まで引っ張っていくイメージが個人的にはある。頂上までの道筋は先頭にいる先生が決めて、子ども達はその先生の後ろを付いて行くみたいな感じ。

個人的に目指したい先生像というのは、”子どもを手の平で転がせる先生”である。つまり、山登りにおいて、子ども達に好きなルートを選ばせる。そして、子ども達はAルート、Bルート、Cルートなどの様々な道を通っていくのだが、最終的には山頂に辿り着くのである。その時に先生は、子ども達が選んだルートの状況などを考えて、それぞれの子どもに対して適切な助言をして、頂上へ到達するサポートを行うのである。


ただ、それをするには膨大な準備が必要なのである。前者の引っ張るタイプの先生は「自分の進む道」だけの情報を仕入れておけばよい。そして、子ども達を先導するだけである。

後者の先生は、「あらゆるルート」の情報を仕入れなければならない。なぜなら、子ども達がどの道を選ぶか分からないから。子ども達がどんな道を選んでも対応できるように準備する量は、前者の先生の準備の量とは比にならない。

だけど、それをすることによって、やっと、子ども達に選択の自由を与え、子ども達の「主体性」を引き出すことが出来ると思ってます。

前者の「絶対にこの道を行かないといけない!」と子ども達に言う先生よりも、後者の「自分の好きな道を選んで良いよ!」と子ども達に言える先生に自分はなりたいと思っている。

そうやって、「子ども達に自由な選択をさせて、好き勝手にやらせているのに、子ども達は最終的にゴールにたどり着く」という芸当が出来る先生には、腕があると思う。

そういう観点から見ると、森の幼稚園は明らかに後者のタイプである。食事の時間以外は子ども達の自由遊びの時間になっているので、子ども達が起こすあらゆる可能性について先生は対応できなければならない。

子どもの数だけ求めてくるモノは違ってくるので、それらに全部対応できるようになるのは大変なことだと思うけど、その大変さのおかげで、こっち側がずっと勉強し続けることが出来るっていうのが、とても良いなと思う。

倉橋惣三の言葉を借りれば、

自分の修養を離れて人の教育は出来ない。

幼稚園雑草(上)p109

ということである。

子ども達の自由を守るために、陰であらゆる努力をし尽して、実践では子ども達の様々な要求にちょちょいのちょいと対応して、好き勝手にさせてるように見えて、実は子どもを手の平で転がしている先生を目指したい。そう思って日々の実習に取り組んでいるし、だからこそ全ての状況が自分の血となり肉となり、より良い先生になる為の糧になっているなと実感している。


☆自分のどの行動が、子どもに対して多大な影響を与えるかどうか分からないから、子どもといる時は常にその時のベストの自分を出す


大人が言った何気ない一言がその子どもにとっては一生心に残っているという事例は、よくあることだと思います☟(良い思い出も悪い思い出も…)

モノは言いよう…

「お前はこういう音楽が好きに違いない、嫌いならやかましくて寝ていられない」

多様な考え・捉え方「悩んでるうちが花」【生き方のコツ】(https://note.com/angrybreakfast/n/n17f668bb0f9e?magazine_key=m153f7fadd6ef)


先生が言ってくれた、ゆうひくんの文章は面白い!

たったの一言、一瞬の出来事だ。

文章が好きになった僕は、あの時の先生と同じように、誰かを勇気づけられるような言葉を伝えたい。

小学校の時に先生に言われた一言で、文章が好きになった。(https://note.com/yuhi1321/n/n03a9af86e672)


何がその人の自信になるか分からんな…

「あんたと話すのは面白い」

子供と過ごすということ【生き方のコツ】(https://note.com/angrybreakfast/n/n077304a5dc12?magazine_key=m153f7fadd6ef)


だからこそ、「職業」として子ども達と接する自分の場合は、常に自分のベストを出し続けたいと思うのです。子ども達の前では自分をさらけ出して、全力でぶつからないといけないなと思います。なぁなぁな気持ちで、相手の人生にかかわるなんて出来ないです。ましてや、仕事としてやるんですから。

自分自身をぶつけた結果として、「Führe sie nicht den leichtesten Weg, aber den schönsten.(子ども達を最もラクな道ではなく、最も素敵な道へと導く)」ことを達成出来たら、最高だと思ってます。


*原点とFühre sie nicht den leichtesten Weg, aber den schönsten.(子ども達を最もラクな道ではなく、最も素敵な道へと導く)


というか、子ども達に対して大人は、自分の歩んできた道しか教えられないと思うので、自分自身が素敵な道を歩んでないと、子ども達を素敵な道へと導くことはできないと思っている。

〉それ以外の教育の在り方…を知らないので、…押し付け…ているという「負の連鎖」

先生になる人ってのは、日本から出たり、違う教育を受けた経験を持ってたりする人がなった方が良いと思う。

日本の学校が150年経っても変わらない本当の理由(https://note.com/oa_oa/n/n967669d99210)


自分が素敵な道を歩んでいるかどうかは棚に上げておいて(笑)、自分が出来ることといえば、ただただ自分自身を出すことであると思うし、そういう風に全力で向き合ってくれる大人の存在が、子ども達にとっては嬉しいのではないかと思う。

子供にとってうれしいことは、我等がいかに立派な人間であるかよりも、我等をいかに十分に彼等に与えてくれるかである。子供にとってもっとも幸福なことも、教育にとってもっとも肝心なことも、恐らくこれに他あるまい。我等は何をやるかでなくて、我等自身を与えることである。それだけが我等に出来る。 幼稚園雑草(上)p17

倉橋惣三の著書『幼稚園真諦』についてのまとめ+『幼稚園雑草』の再掲


〉A君に足りなかったことは、学習したことや、A君なりに頑張ったことに対する教師の評価だった…細かく褒めていくことを意識して…成功した体験を、確実に積み重ねていきました。

学級崩壊の原因となった張本人が、学級のヒーローになるまで(https://sasaeru.info/n/n3e6193b5cebb)


個人的には教育も芸だと思っている。教育にはその人の個性が出るので。それで、自分が崇拝している立川談志曰く、

<芸>はうまい/まずい、面白い/面白くない、などではなくて、その演者の人間性、パーソナリティー、存在をいかに出すかなんだと気が付いた。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
演者の人間性を、非常識な、不明確な、ワケの分からない部分まで含めて、丸ごとさらけ出すことこそが現代の芸かもしれませんナ。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
落語というのは「演者のパーソナリティー」以外の何物でもない。ナニ、落語ばかりでなく、芸能の全てといってもいい。

<芸>はうまい/まずい、面白い/面白くない、などではなくて、その演者の人間性、パーソナリティー、存在をいかに出すかなんだと気が付いた。


ということなので、やっぱり、自分を出していかないといけないのだなと思うのです。自分を出さないといけないからこそ、普段から精進を重ねて、子どもに見せれるような自分を作っていかないといけないのだと思います。

何も努力してないありのままの自分を見せたところで「芸」にはならない。

自分の内から出るものが芸になると思う☟


*個人的芸術論


あと、やっぱり子ども達は”その人”を要求してると思うんですよね。例えば、子ども達から「キーくん、鬼ごっこしようよ」と言われた時に、『ごめん、今忙しいから出来んわ…。他の先生に質問してみたら?』って返すと、「え~、じゃあ、いいわ」ってなることがあるんです。

なので、子ども達から求められてるという意識は常に持っておいて、子どもと関わる時は全身全霊で臨みたいと思っている。

―――自分でなければならない。―――・・・何事でもこういう心持があってこそ、自分のしていることに力が入る。それでこそ、相手に充分に徹底し得る。・・・どうしたら、どうしたらとばかり考えていて、自分が一人ひとりの子供たちの為にどの位必要のものだということは、一度だって思いもしない。子供たちは要求しているのだ。私を要求しているのだ。私からではない。私をだ。私からお噺を聞きたいばかりじゃない。お噺を私から聞きたがっているのだ。私と遊びたいのだ。 幼稚園雑草(上)p138~139

倉橋惣三の著書『幼稚園真諦』についてのまとめ+『幼稚園雑草』の再掲


で、子ども達と接する時に、子どもを楽しませたいと思うのであれば、絶対に「自分が楽しむ」ということが必要かなと思ってます。「自分が楽しむ=相手を楽しませる」の法則です。

芸で思い出すのは留学した時の2つの教育学の授業。当時の私のドイツ語力は惨憺たるもので、どちらの授業も、内容は全く理解できなかった。けれど、一方は見ていてとても面白く、片方は退屈な時間が流れていた。

面白い授業の先生はイタリア系の若い男性が担当していた。「流石イタリア!」と思わせるようなお洒落なスーツを身にまとった先生が教壇に腰掛けて一言二言話した後は決まって、生徒たちとの議論合戦だった。講義室内を歩き回りながら、「これは~~~で、・・・だけど、前列のそこの君。このことについてどう思う?」みたいな感じでどんどん生徒に質問を投げかけるし、生徒も負けじと、先生が説明中でも手を挙げて今すぐにでも答えたいと思わんばかりの姿勢を示す。先生が持っている教育への熱い思いが講義から読み取れたし、その思いから溢れ出てくる行動の熱さが、聞いている生徒にも伝わって、講義室全体が熱気に包まれたような雰囲気だった。授業が終わっても先生の元に質問してくる学生が毎回現れていた。私としては授業の内容は全く分からなかったが、先生の情熱を感じることが出来たし、何より先生を見ているだけでとても楽しかった。

もう一方の、退屈だった授業の先生は上記の先生とは全くの逆と言ってよい。年配のおじいちゃん先生で、教壇に立つやいなやパワポの準備を始める。そして、パワポの説明をしだしたらそこから立ち位置は変わらない。パワポのスライドは文字がびっしり書いてあって、先生がそれを読み上げるだけ。なんか前年度と同じスライド使ってないかと勘繰ってしまう。先生が読み上げるだけの退屈な時間が続くだけなので、聞く側も携帯をいじったり、友達と会話したりする人もちらほら。苦行に耐えて、睡魔に打ち勝ったら、生徒たちは一目散に教室から出ていき、先生がいそいそとパワポの片づけをする。私としては授業の内容は全く分からなかったし、先生の情熱を感じることもできなかった。有意義に感じたことはただの一度もなかった。

両方の授業を言語的に理解することが出来なかったが故に、先生の質の違いをまざまざと感じ取ることが出来たのは大きな経験だった。聞き手によっては、「熱い先生は苦手」って言う人もいるから、一概に良い悪いは判断できないが、少なくとも自分の好みは前者の熱い先生だった。

聞く側で好みがそれぞれ違うけれど、「楽しくやっている人を見てると自分も楽しくなる」のは共通の感覚かなと思う。自分は酒を飲んで酔っ払うとジョークや小話をなりふり構わず連発してしまうのだが、ある飲み会で尊敬する先生から、「君の話は全く面白くないが、君がそんなに楽しそうに話している姿を見てると、なんだが楽しくなるよ。」と言われて、ハッとした。それ以来、「まずは自分が楽しむ」ということを第一に考えて行動するように心がけてます。他人を楽しませれるかは他人次第だけど、自分が楽しめば少なくともその空間には必ず楽しんでいる人が存在するということになるので、とりあえずはその状態を目指すようにしてます。

やっぱり、厭々やったり、やらされたり、こなしてるだけの感じだと、本人が楽しそうじゃないから、受け手側も全然楽しめないんですよね。そういうのにアタってしまった時は反面教師として学びの機会にはなるが、なるべく避けれたら嬉しい。

個人的に、先生になるのは、免許を持った時ではなく、子ども達から「この人が私の先生」と認めてくれた時だと思っているので、資格を持ったからといって驕らずに、子ども達と人間対人間の関係でコミュニケーションしていく必要があるかなと。「”先生”だから」と子ども達が従順になるより、「キーくんだから」という理由で子ども達が慕ってくれるような先生像が理想です。

だからこそ、たとえ教員免許を持っていなくても、生徒が「この人から学びたい、この人は先生だ」と思えば、その人は生徒にとって”先生”です。

前述したツマラナイ講義をした先生は、確かに大学の先生であるかもしれませんが、僕にとって「先生」ではありませんでした。講義内容以前にその人の形式(スタイル)に疑問を持ったからです。その道を教える者であるならば、聞く人全員をその道に引きずり込んでやろうという気概を持って、「その道を歩んで得た結果」を楽しく語ってほしいものです。

内容ではなく「形式」ならば全員を納得させられるのでは!?

確かに、全員を納得させることは難しいと思います。授業を例としても、聞き手の学生は、「理系科目が好き」「文系科目が好き」と千差万別なので、内容だけで全員を楽しませるの難しい。だからこそやっぱり僕は、「まず先生が楽しんで授業すること」が大切だと思います。そしたら聞き手は、「俺はこの科目嫌いなのに、先生は楽しそうだな。なんでだ?」という風にその科目に興味を持つきっかけになるかもしれないからです。

少なくとも、楽しんでいる人を見るのはつまらなくないので、その授業の時間は無意味な物になることはありません。まず自分が楽しむことでやっと、周りの人たちを楽しませることができる。「自分が楽しむ=相手を楽しませる」の法則だと思います。

・私が留学しようと思ったきっかけ

そもそも私が留学したいなと思った最初のきっかけは、留学を楽しそうに語る予備校の英語の先生でした。

「留学は素晴らしい、留学中に~をした、人生が変わった、~を見た、~を食べた、~出会った、~な体験をした、~へ行った」って、

授業の度に何度も楽しそうに言うんです。

それを聞いていくうちに洗脳みたいな感じで、「あの先生があんなに楽しそうなんだから、自分もいつか留学したいな」とぼんやりと自分の中に留学が入ってきました。

大学に入って、明確な留学する目的を運よく見つけられましたが、その幸運もこの先生との出会いがあったからこそ、アンテナが立っていて、留学の情報をキャッチできたと思っています。

<芸>はうまい/まずい、面白い/面白くない、などではなくて、その演者の人間性、パーソナリティー、存在をいかに出すかなんだと気が付いた。


自分が楽しむことによって、自分の創造力をいかんなく発揮することが出来ます☟

先生が子供の先生であるゆえんは、その能力において進んでいることでは済みません。能力において先生であるだけでは誘導保育案の先生としては足りません。創造性が子供たちより強く盛んでなければなりません。(P94)

倉橋惣三の著書『幼稚園真諦』についてのまとめ+『幼稚園雑草』の再掲


以下の二つの言葉は至極名言だし、相手を楽しませる為にも、常に自分の心の中に留めておきたい☟

自分の信念👇

子どもを楽しませるのは良いことである。子どもと共に楽しむのはさらに良いことである。子どもを上手に遊ばせ得る人は偉い人である。子どもと一緒に自分も愉快に楽しく遊び得る人は一層偉い人である。倉橋惣三「幼稚園雑草(上)」

https://note.com/kikun_waldkita/n/n9cabb0cd4d1e

<子どもっぽさを志向する理由>

村人から「馬鹿爺さん」と嘲り呼ばれながら子供たちと遊んでいた、天才と自信とを蔵するこの大愚こそ、フレーベルが真に幼児教育上の第一人者たることを得た意味深き教訓なのである(幼稚園雑草(下)p64)。

https://note.com/kikun_waldkita/n/n4b1cf875cfc7


自分が楽しんで相手を楽しませることを体現していたのはジーンケリーだと思う。彼が楽しく踊っている姿を見だけで、コチラは楽しくなる。エンターテイナーとして、個人的な理想像☟


*ジーンケリーがタップダンスの可能性を広げたように、自分も森の幼稚園の可能性を広げたい


相手を楽しませる為に、自分から楽しむのは50%くらい大事なイメージで、残りの50%は、そこに没頭せずに周りが見えているかどうかが大事になると思う。つまり、相手を楽しませる為に”熱い自分”で頑張りつつも、それと反対に50%は、冷ややかに周りを見ている”冷めている自分”を共存させることが重要になる。

子供の相手に欠くことの出来ないものは積極、大胆、長閑さと共に、細心と、深慮と、慎重とだ。子供といっしょに笑いながら、ふざけながら、おどけながらも、自分を自ら戒め慎みてみだるところのない一点の厳粛味、それのないものには子供は託せられない。 幼稚園雑草(上)p32

倉橋惣三の著書『幼稚園真諦』についてのまとめ+『幼稚園雑草』の再掲


この精神バランスが結構難しいんですよね。まだまだペーペーなのでこれから経験を積んでいって慣れていきたいと思う。


☆「小さい頃の経験がその子の一生を決めるみたいな論調」には傾倒したくない


ノーベル経済学賞を受賞したジェームズ・ヘックマン教授が、著書 『幼児教育の経済学』 の中で、教育投資の効率が一番良いのが幼児教育であると明らかにし、5歳までの教育がその子の人生を変えるみたいな論調がそれ以降に結構盛んになった。

確かにそうかもしれないが、個人的には、「人間はいつでも変われる」と思っている(人との出会いや周囲の環境の変化によってどうにでも転がるのだから当然)ので、幼児教育に期待し過ぎないようにしようと思ってます。

あと、森の幼稚園と一般の幼稚園出身の子ども達を比較した研究結果で、前者の方が様々な分野で優れていることが報告されているけど、だからといって、全ての子ども達が森の幼稚園に入園すれば良いのにとは思っていない。

子ども達を見ていると、外で遊ぶのが好きな子もいれば、中で静かに遊ぶのが好きな子もいるので、その子に合った教育環境に行けるかどうかが勝負だと思います。論文の結果ばかり見て、目の前の子どもを見ていないという状況は避けていきたいと思う。

(今回のコロナ茶番には、論文の結果に騙されて、普通なら気付くような当たり前のことが見えなくなってしまった”論文バカ”が結構いた。


*コロナ茶番に嫌気がさしたし、若者に未来は無いから、日本を去る。

コロナ茶番を正当化する為に都合よく書かれた論文を元にして、自分の理論の妥当性を主張するなんて、愚の骨頂である。論文なんか読んでないで、現実を見ろ)


☆教育とは『”今日”を”育”てる、つまり、今日育』である。


良い先生とは?

自分と関わった子ども達の内、1人だけでもいいから、「好転」や「好影響」を与えようという意識を持って自分の仕事に取り組む人。

教育とは『今日育』だと思ってるので、「昨日よりも今日、今日よりも明日」を胸に、今日を良いものに育てようとする『今日育』者でありたい。


「教育とは何か?」という質問に対して、「文字通り、先生が生徒に”教”えて、生徒を”育”てるのが教育」や「生徒と先生が”共”に”育”つで、共育」という回答が一般的かなと思う。

個人的には、教育を仕事(プロ)として行うのだから、自分なりの教育観を持ちたいなと考えていた。そして、自分のこれまでの経験を踏まえて、自分なりに出した答えが「今日育」である。

自分の感覚としては、

今日の積み重ねで出来た過去は、今の自分を支えてくれる。
今日を育てた先にある未来が、今の自分を導いてくれる。

みたいな部分が少なからずある。よって、

子ども達の今日を育てることが出来たら、子ども達は過去の自分に支えられて、未来の自分へと前進していけると思っている。

じゃあ、具体的に「今日育」ってなんやねん?となるので、次の章で説明します。


自分が考える”今日育”の目標


☆お前にあげたいものは香りのよい健康とかちとるにむづかしくはぐくむにむづかしい自分を愛する心だ。


個人的には「健康」と「自分を愛する心」を手に入れることが出来たら、今日育は成功だと思う。その2つの土台があれば、後はその子自身が好きなように自分の人生を築いてくれると信じている。

この考えに至ったきっかけが、自分が大学生の頃に読んだ詩である☟

「奈々子に」 吉野 弘

赤い林檎(りんご)の頬をして
眠っている 奈々子。

お前のお母さんの頬の赤さは
そっくり
奈々子の頬にいってしまって
ひところのお母さんの
つややかな頬は少し青ざめた
お父さんにも ちょっと
酸っぱい思いがふえた。


唐突だが
奈々子
お父さんは お前に多くを期待しないだろう。
ひとが
ほかからの期待に応えようとして
どんなに
自分を駄目にしてしまうか
お父さんは はっきり
知ってしまったから。


お父さんが
お前にあげたいものは
健康と
自分を愛する心だ。


ひとが
ひとでなくなるのは
自分を愛することをやめるときだ。
自分を愛することをやめるとき
ひとは
他人を愛することをやめ
世界を見失ってしまう


自分があるとき
他人があり
世界がある


お父さんにも
お母さんにも
酸っぱい苦労がふえた。
苦労は
今は
お前にあげられない。


お前にあげたいものは
香りのよい健康と
かちとるにむづかしく
はぐくむにむづかしい
自分を愛する心だ。

お前にあげたいものは香りのよい健康とかちとるにむづかしくはぐくむにむづかしい自分を愛する心だ。


また、自分の好きな漫画である「赤ちゃんと僕」にも、「健康な体と精神を養う」という言葉が出てくる。

〈名言〉

うちは、子ども達を腫れ物に触る様にビクビクしながら預かるなんて真っ平ごめんです。

人様から任された大切な子ども達をのびのびと育てたい。

うちのモットーは、健康な体と精神を養うことです。

それが嫌なら他の保育園なり幼稚園をお勧めします。(赤ちゃんと僕)


このシーンの言葉を無理やり詩にかこつけると、

健康な体=香りのよい健康

健康な精神=かちとるにむづかしくはぐくむにむづかしい自分を愛する心

という風にピタリと一致する!笑

では、「自分を愛する心」とは何か?「愛する」とは何か?

個人的にはこの言葉を定義に使いたい☟

愛とは何かを受けとりたいという望みではなく、何かを与えたいという望みである。(Liebe ist der Wunsch, etwas zu geben, nicht zu erhalten.)

ベルトルト・ブレヒト


つまり、自分を愛する心とは、「自分に何かを与えたい」ということである。

「何か」とは何か?まぁ、それは人によって違うのであろうが、

個人的には生きる意味を、「誰かに生きる勇気を与えるために生きてるのよ、誰かに勇気をもらいながら。(宇宙兄弟)」と解釈しているので、

「何かとは、『生きる勇気』である!」と答えたい。

で、生きる勇気って、先述した

今日の積み重ねで出来た過去は、今の自分を支えてくれる。
今日を育てた先にある未来が、今の自分を導いてくれる。

みたいな感じで、過去と未来によって作られるモノじゃないかなと思うのです。

過去というのは、「挑戦、成功、失敗、努力、頑張り、没頭」みたいなイメージ。そういう経験が、今の自分を後ろから支えてくれるのではないかと。

未来というのは、「夢、目標、理想、憧れ、好奇心、想像力」みたいなイメージ。そういう情熱が、今の自分を前へと導いてくれるのではないかと。

で、その過去と未来を作るのに、森の幼稚園ってメチャクチャ良いんじゃね?と個人的に思っているわけです。


なぜ森の幼稚園なのか?


森の幼稚園は、子ども達が挑戦できる環境を備えていて、様々な体験を与えてくれるし(過去を形成する)、子ども達の好奇心と想像力を刺激して、絶えない情熱を与えてくれる(未来を形成する)んですよね。

これによって、「自分を愛する心」が育まれるかなと思ってます。

あと、「健康」という面でも言わずもがな、自然環境に触れることによる免疫システムの強化や外遊びによる身体操作能力の向上などが挙げられます。

ここで一応、森という環境における心理的な効果をご紹介☟


*カテドラル効果

・天井の高さは、人間の心理に影響するという法則
・低い部屋は細部に向かう思考を活性化し、綿密な作業に適している
 コンビニやファーストフードなど目的が明確で滞在時間が短い店舗に向く
・天井の高い部屋は抽象的思考や創造性を活性化させる
 住宅リフォーム店やカジノなど想像力を働かせて滞在時間の長い店に向く→森の中で想像力が活性化される理由


*緑色が持つ色彩効果

・心や身体の疲れをいやす。
・疲れた目を休ませる。
・鎮静作用で緊張を緩和する。
・リラックスの作用がある。
・穏やかな気持ちを与える
→緑色が人に良い理由


*バイオフィリア効果

・人間が自然と交わりたいと望む本能的、また遺伝的な欲求のこと
・1980年代にハーバード大学の生物学者エドワード O.ウィルソンが提起
・自然との触れ合いを通じて、ストレスの軽減、社交性や問題解決能力の向上、生理的機能の安定、健康の改善等の効力が期待される
・自然を感じられるオフィス環境(バイオフィリックデザイン)で働く人の方が、そうでない人に比べ、幸福度15%、生産性6%、創造性15%高いという調査結果
→自然が人間にとって良い理由


(上記の効果は、大学生の時に読んだこの本から仕入れました☟)

*「要点で学ぶ、デザインの法則150」という本は、知的好奇心がくすぐられて、メチャクチャ面白かった!

https://note.com/kikun_waldkita/n/n09b13dadacb6


*森が神経面に与える影響

・聞く、見る、嗅ぐ、味わう、触れるといった五感を使える☞シナプスの構築に対して最も適した環境
・森の中での活動☞木登り、ジャンプ、バランスなど運動能力の向上
・森の中にある多種多様な遊び場や道なき道☞交渉、議論、検討、決断、戦略などの機会
・森の中にある葉っぱや棒など☞想像力、コミュニケーション能力などの涵養
・森の中で起こる日々の変化や四季の移り変わり☞柔軟かつ創造的な対応を習得
・直接的な体験☞重力、静力学、関連性、対立、矛盾、原因、原則、自然に対する配慮を学ぶ


*森が健康面に与える影響

・日光浴による骨の強化、免疫力の増進や殺菌作用
・体内のガン細胞を識別し、破壊するナチュラルキラー細胞の活性化
・最高血圧・最低血圧の低下、脈拍の減少等の自律神経系の改善
・アレルギーに抵抗する免疫システムの獲得


*森が精神面に与える影響

・ストレスホルモンの減少
・日光浴による気分を高揚させるホルモンの増加
・副交感神経活動の高まりと交感神経活動の抑制
・自然の中での遊びがADHSを長い間やわらげる
・温度、湿度、風、輻射熱などにおいて都市より快適


あと、森の幼稚園での「遊び環境」も子ども達に対して様々なメリットを与えていると思う☟


・登降園や食事以外はすべて自由遊び☞子ども達のやる気を促進し、集中力を高める。遊びが創造性と探究心の源であり、遊ぶことで集中力や創造力が養われる。心身の安定や心の安らぎなどにも関与するセトロニン(通称「幸せホルモン」)の分泌機能が高まる。脳内シナプスの回路を形成し、思考力や言語能力を司る大脳新皮質を成長させる。また、子ども達が協力して遊ぶことによって、コミュニケーション能力や問題解決能力、認知判断能力(優先順位付け、スケジューリング、予測、委譲、決断、分析)の育成が可能となる。

・森には危険がたくさん☞子ども達はルールを守る必要性を知る

・遊具が少ない☞我慢をしたり、一緒に使ったりすることを学ぶ。森の中にあるモノを使って、想像力豊かに遊ぶ。

・異年齢保育☞お兄ちゃんやお姉ちゃんとしての自覚が社会的行動へとつながる。異年齢交流による社会性の涵養。

・周りの自然環境への興味と直接体験☞好奇心を育てて、創造的な思考を養う。子どものあらゆる感覚が刺激され、環境への適応力や子どもの個性を伸ばす。

こういう素晴らしい環境を森の幼稚園は子ども達に提供しているので、一般の幼稚園出身の子ども達と比較した時に、良い結果が出るのは、自分にとっては何ら不思議ではない☟


*森の幼稚園の効果(ペーターヘフナーの研究について)


こういう効果をちゃんと外に発信していかないと、日本の”森のようちえん”は単なる自然保育の域から脱することは出来ないと思う。

やっぱり、自分達の有用性を説明する際に科学的知見を混ぜることは大切だと思う。ドイツの森の幼稚園のホームページを見ていると、ペーターヘフナーの研究(古い感じはあるけど…)だったり、「神経学、発達心理学、森林医学、教育学、精神科学」などの知見を掲載していて、森の幼稚園は効果があるんだなと納得できる。そういうのが、ドイツで森の幼稚園がちゃんとした幼児教育施設と認められて、しっかりと補助金が出るという制度に繋がっていると思われる。役所の人も科学的知見があれば納得してくれるだろう。

一方、日本の森のようちえんのホームページにはそういう研究結果を掲載しているところは殆ど無い。その代わりに、思いとかを載せているだけなので、なんかイマイチだなと思う。それに加えて、日本では森のようちえんは設置基準などの観点から認可外に分類されており、補助金がもらえない。もちろん、国の「施設が揃ってないと学校と認めない」という古い価値観が時代遅れ過ぎるということが諸悪の根源ではあるけども、森のようちえん側も、役所が納得するような森のようちえんの効果を示して、有無を言わさずに認めさすことも大事なのではないかと思う。

”森のようちえん”をされてる方がジャパンアウトドアリーダーズアワード2022のファイナリストになっていた!


そういった科学的な発信が出来ないと、「生活と絡める」みたいな方向に走ってしまい、大人の欲望に子どもが振り回される形が出来上がってしまうこともあるのだと思う☟

なんか日本の”森のようちえん”って、やたらと生活と絡めたがるよなと感じてしまう。

個人的にはまず、「子ども達の成長」ってのが第一にある。で、幼児期というのは子どもの身体的な発達が盛んに行われる時期なので、うんと体を動かせる環境が子ども達にとって大切だと思う。

とすると、室内の幼稚園だったら、「ボール遊びは危ないからしちゃダメ」と言われることで子ども達の遊びが制限されてしまったりとか、「みんなで一緒に~しましょうね」とか言われて主体的な活動が出来なかったりとかする。その一方で、森の幼稚園は空間的広さを子ども達に提供できるし、子ども達は自由遊びに没頭できる。だから、自分は森の幼稚園は子ども達の成長にとって一番良いと思うから、森の幼稚園をやっていきたいなと思っているのである。

なので、「生活と絡める」ってのは、もちろんやっても良いとは思うけど、個人的にはあんまし乗り気ではない部分が大きい。極端に言えば、それぞれの家庭でやれば良いじゃんって感じがする。他の家族と合同でやったりしても良いし。わざわざ子ども達の遊びを潰してまでやることなのかという思いがある。子ども達がやりたいと言ってるならやっても良いとは思うけど…

個人的に1つエピソードがあって、日本のある森のようちえんを訪問した際の出来事である。その森のようちえんは月に2,3回行われる”イベント型”だった。訪問した日は「タケノコを掘って、茹でて食べる」というプログラムが10時頃から予定されていた。子ども達に加えて、保護者の方も大勢参加されていた。

自分は最初から子ども達と楽しく遊んでいた。で、10時頃から子ども達がタケノコ堀りを開始するのだが、なかなか上手くいかずに、子ども達の集中力が切れて、遊び始めてしまった。で、自分の所に来て「キーくん、一緒に遊ぼう!」と言うので対応していた。

子ども達と遊びながらタケノコの方を見ていると、結局、大人達が自分で堀りだしていた。で、自分達で茹でていた。子ども達はタケノコのことなんか忘れて、自分達の遊びに夢中である。

で、11時頃になってタケノコが食べれる状態になったので、遊んでる子ども達の所に大人達が来て、「出来立てが美味しんだから、今すぐ食べなさい!」って言って、無理矢理子ども達の遊びを終わらせて、準備が出来たテーブルに行かせようとしたのである。もちろん子ども達は「嫌だ!まだ遊びたい!お腹空いてない!」と反論していたが、親の「出来立てが美味しんだから!」という謎の1点張りで連れていかれてしまった…

なんかね、「子ども達の姿は見ずに、大人たちがやらせたいだけじゃん」という感じに思った。大人達でタケノコ掘って、自分達で茹でて、出来立てを子ども達に無理やり食わせて、それがあんたらの望む”自然体験”か?って話。

別に岡本さんの森のようちえんがそんな風だということは思わないけど、森の幼稚園ってまずは「幼稚園」だからなと思う。

幼児教育施設なわけで、子ども達の成長の為に最善を尽くす場所であり、森という「開放的な空間」や「想像力溢れる遊びの可能性」を与えてくれる場所が子ども達の成長に良いと思った人が森の幼稚園をやるもんだと思っている。

特に、自分が体験したドイツの森の幼稚園ではそういう生活に絡めたことなんてほとんどやらないし、食育とかも、ドイツの子ども達が持ってくる「きゅうり、リンゴ、パン」という工夫も無くどさっと入れているお弁当箱を見る度に、色々と無理しなくていいんだなと思ってしまう。

なんか個人的には、「自分が小さい頃に自然体験をして良い経験をしたから、それを子ども達にもさせてあげたい」みたいな動機で森のようちえんをやる人が日本に多いような気がする(森のようちえんの設立に関する思いとか読むと、そういう文章がよく出てくるなと思う)。ただそれって、自分の思いが先行してしまってる状態なわけで、ともすれば、子ども達の姿を置き去りにしている感もある。森の幼稚園を自分勝手な理想を実現させるための道具に使うなって話である。そんなに自然体験させたいなら、家で自分の子どもに対してやってろって話である。

その最悪の例が、上記で述べたタケノコ掘りの件であったり、「サッカーボールは自然物じゃないから、この森のようちえんでサッカーをすることは禁止です!」とサッカーをしたいと言った子どもに言い放った日本のある森のようちえんだと思う。(https://note.com/kikun_waldkita/n/nfe5d751277e2)

別に日本の森のようちえんの全てがそんな感じだとは思ってないけど、考えの出発点が違う、つまり、自分は「子ども達の成長にとって良いものは何か?」という問いに対して、「森の幼稚園」という回答を導き出したのに対して、「自分が自然体験をした良い思い出がある!是非ともそれを子ども達にさせることが出来る場所を見つけたい!」という己の欲求に対して、「森のようちえん」を引っ張り出した人達とは本質が違うので、そこと自分を森の幼稚園という括りで一緒にしてもらうのは、御免被るって話なのである。

”森のようちえん”をされてる方がジャパンアウトドアリーダーズアワード2022のファイナリストになっていた!


ちなみに、自分が森の幼稚園に出会ってからずっと思っていた

個人的にはまず、「子ども達の成長」ってのが第一にある。で、幼児期というのは子どもの身体的な発達が盛んに行われる時期なので、うんと体を動かせる環境が子ども達にとって大切だと思う。

とすると、室内の幼稚園だったら、「ボール遊びは危ないからしちゃダメ」と言われることで子ども達の遊びが制限されてしまったりとか、「みんなで一緒に~しましょうね」とか言われて主体的な活動が出来なかったりとかする。その一方で、森の幼稚園は空間的広さを子ども達に提供できるし、子ども達は自由遊びに没頭できる。だから、自分は森の幼稚園は子ども達の成長にとって一番良いと思うから、森の幼稚園をやっていきたいなと思っているのである。

”森のようちえん”をされてる方がジャパンアウトドアリーダーズアワード2022のファイナリストになっていた!

という思いは、倉橋惣三の幼稚園雑草に書いてあった、

殊に今日の時代の特殊なる要求として、幼児の神経系統の教育、換言すれば幼児の神経系統の保護とその鍛錬とか、新しい目標でなければならないと考えるのであります。・・・しからば野外に出まして、酸素の供給を充分にして自由に自然物を以て遊ばせ、そうして末端の神経の作用を後にして、足、腰、肩というような大きな筋肉の使用を先ず以てさせることが幼児教育の新目標に合ったことなのであります。

幼稚園雑草(下)p95~108

と重なっている。

なので自分が初めて幼稚園雑草を読んだ時は、「この人、俺と同じこと考えてるじゃん!」と共感したし、その相手が”日本のフレーベル”とまで呼ばれた日本の幼児教育の父”倉橋惣三”だったことは、自分にとってとても嬉しかった。この人と似た感覚を持っているのだから、自分の教育的センスはそこまで狂ってはいないだろうと自信を持つことが出来た。


自分にとって子どもの存在とは


☆子どもは人生に『彩り』を与えてくれる存在


*一目惚れして即買いしてしまった「Der Besuch」という、超絶素敵なドイツの絵本を、皆さん(特に、子どもと携わっている方々)に紹介させて頂きたい!!!

何でこの絵本がビビッときたのか自分なりに分析すると、自分が子ども達と交流していた時に感じていること、つまり、「子どもの存在自体が周りをイキイキとさせてくれる」ということを、これまでになく美しく描いているからだと思います。

子どもと接することで、子ども達から様々な色を受け取って、自分の人生が色鮮やかな彩溢れるモノになっていく感覚があります。子ども達を相手に働くというのはとても楽しいですし、もし給料がもらえないとしても、自分は森の幼稚園の先生になりたいなと思っています。

この絵本では、子どもから大人への色付けが描かれていましたが、個人的にはその逆のこともやっていきたいなと考えています。子どもと一口に言っても様々な子どもがいますから、最初のエリーゼみたいに灰色の子どもがいたっておかしくありません。そんな子どもに出会った時に、エミールのように色付けしてあげるのが大人の役目ではないかと思います。


☆尊敬する気持ち

〉「好き」→「嫌い」、「かわいい」→「かわいくない」になりがちかなと思います。何が起きても無条件に子供を愛する強さがあれば良いですが中々難しいでしょう。

まさに。なので、子どもを尊敬できる人がなるべきだと思う。

「子供が好き?」(https://note.com/teachingboxer/n/nb02703b32a4b)


個人的には子どもは全然好きじゃない。好き嫌いじゃなくて、自分の人生に彩りを与えてくれる存在なので、有り難いというか、尊敬している気持ちが強い。

あと、一生懸命遊んでる子ども達の姿も素敵だなと思うんですよね。で、個人的には、何かに一生懸命に取り組む人は信頼できると考えているので、子ども達に対しては安心して接することが出来るんだと思います。

個人的には「一生懸命頑張ってる姿」を見た時に、その人を信頼できるなと感じる。

一方で、一生懸命頑張らないといけない時に、頑張ってない姿を見ると、その人を信頼しようとは思わないかな…

子どもとの信頼関係が全ての基盤である。そこを無…(https://note.com/youpon720/n/n82e6f92f48e5)


自分が森の幼稚園の先生をやるというのは、森の中でイキイキと遊ぶ子供たちの姿に感銘を受けているので、その環境を先生として守っていきたいっていう思いが強いです。子ども達に無限の可能性と成長のチャンスを与えることが出来る森の幼稚園は、子ども達にとって最高のおもちゃ箱だと思っているので、自分が森の幼稚園の先生になって、子ども達がそのおもちゃ箱で遊べる環境を作って守っていきたい。

〉あなたが保育士を続ける理由

保育士や幼稚園教諭ではなく、「森の幼稚園の先生」であり続けたい。森の幼稚園の本場のドイツで生きたい。

「森の幼稚園の先生」という仕事が好き。子どもは好きじゃなくて、尊敬してる。

保育士は子ども好き?(https://note.com/hanauta_utaou/n/na6925261c4a0)


☆「子どもらしい子ども」は「大人らしい大人」に育つ


子どもの時は、「今」や「自分」のことを考えがちだし、何か一つのことに熱中する感じが多いかなと思ってます。

それが成長するにしたがって、「過去・未来」や「他人」のことに思いを馳せれるようになったり、マルチタスク的な行動がとれるようになってくるイメージがあります。

そういう風に、最初は自分中心だったのが、徐々にその範囲が広がって物事を考えられるようになるのが、「大人らしい大人」って気がするのです。

つまり、「子どもらしい子ども(=今や自分のことを考えがち、熱中しがち)」が成長する過程で「大人らしい大人(=過去・未来、他人について考えることが出来て、マルチタスクが可能)」に育つのではないかなと思っています。

一方で、これが反対になると結構キツイのかなと思います。つまり、「大人らしい子ども」は「子どもらしい大人」になるのではないかということです。

子どもの時に、他人の事ばっかり気にしたり、過去や未来の事を考えて今を大切にできなかったり、何でもかんでもやらされたりして、子どもらしくいられずに、やけに大人びた振る舞いしてしまう「大人っぽい子ども」は、その反動で、大人になってから、今の事しか考えない、自分の事しか考えない、一つのことに固執してしまう「子どもっぽい大人」になってしまうのかなと思います☟


なので、個人的には子どもが子どもらしくいれる環境が大事かなと思っています。

上記の考えは、「上手にそして巧みに遊ぶ幼児は、その素質と能力の圏内でも上手にそして巧みに学習するだろうし、そして立派なひと・人間になるであろう」というフレーベルの文章を読んだ時にふと思ったのです。

「上手にそして巧みに遊ぶ幼児は、その素質と能力の圏内でも上手にそして巧みに学習するだろうし、そして立派なひと・人間になるであろう」

あまり有名でないフレーベルの名言?笑

まぁ、個人的には人生のどの段階でも変わるチャンスはあると思うけど、幼児と接する以上は胸に刻んでおきたい。



自分にとっての仕事の条件


☆自分の知っている人を笑顔にしたい

個人的には、「知っている人」の笑い声を作っていきたいなと思っている。そういうタイプなので、仕事仲間や仕事相手との関係性は深い方が好き。

となると、「森の幼稚園の先生」は自分にとって合っているのである。仕事相手は、関係性を築けた子ども達とその保護者。仕事仲間は、相互理解し合っている先生達。しかも、「子ども達15人くらいで3人の先生」という小規模グループ。「浅く広く」の関係ではなくて、「狭く深く」の関係が築けるのは嬉しい。

「まだ出会ったことのない人の笑い声を作っていく」というのは、ミスチルのような「歌手」であったり、「製造業」に携わる人向けみたいな感じがする。要するに、「自分の作った商品が、全国に届き、手に取ってくれた人が喜ぶ」みたいな。まぁ、ほとんどの職種ってマス相手なので、”何処の誰かも知らない人”の笑顔を作っていくのが一般的かもしれないですね。

個人的にはそういうのはあんまし好きじゃないって感じなんですよね…笑

”仕事、志事、私事”…ミスチルの「彩り」やケツメイシの「トレイン」を参考に考えてみる


☆相手の笑顔を直接見たい

個人的には、自分のやったことで相手が喜ぶ表情を直接見たいという思いがある。「直接見る」というのが、自分の仕事に対する一番の報酬になる。なので、全国に届けるとなると、喜んでる姿は直接見えないので「なんだかな~」と思ってしまう。

となると、「森の幼稚園の先生」は自分にとって合っているのである。自分がしたことに対して子ども達は直ぐに反応してくれるからだ。基本、子ども達を笑顔にするので、その表情を直接見れることで、モチベーションが爆上がりする。

”仕事、志事、私事”…ミスチルの「彩り」やケツメイシの「トレイン」を参考に考えてみる


☆充実感のある疲れが欲しい

①「ボーっとしてる」のが一番苦痛

現場現場によって忙しさが異なるのですが、僕としては、「ボーっとしてる」現場が一番嫌でしたね。

なんたって、時間が経つのが遅い!

そして、ボーっとしてるのが一番疲れる。その疲れっていうのは、「充実感が無い」疲れなんですよね。なんか、「自分、何してんだろう?」って考えこんじゃいます。もちろん、肉体的にも、立ってるだけの方が負担が大きいなと感じる。

森の幼稚園で実習してた頃は、帰りの電車の中で100%寝るほど疲れてましたが、メンタル的には充実感に溢れてて最高な気分でした。

結局は、充実感が欲しいんですよ、自分は。で、その充実感を感じられるのが、「自分の持てる力を出し切った」時なんですよね。ボーっとしてることって、僕以外の人でもできるじゃないですか?だったら、僕はやりたくないわけですよ。このボーっとしてる時間で、子ども達何人を楽しくさせることが出来るだろうかって考えちゃうわけです。

ボーっとしてるのは自分にとって「不完全燃焼」の状態なので、嫌なんですよね。自分を完全燃焼させて、充実感を得たいのです。

昨日で仕事納め!個人的に仕事で気を付けていたことを振り返る!


☆人の心の中に生きれるような深い関係性を築きたい…かも…

②人の心の中で生きたい

先生として働く上での最大の魅力はこれだと思います。生徒の心の中に、自分が死んでも生きられるというのが素晴らしいと思います。

もちろん、警備員だってちゃんと仕事をすれば、通行人の方や運転手の方に顔と名前を覚えてもらうことだってあると思います。

ただ、自分としては、長い時間を共に過ごした人達の心の中で生きたいなと思うわけです。人の心の中に生きれるような深い関係性を築きたいと願うのです。

昨日で仕事納め!個人的に仕事で気を付けていたことを振り返る!


上記のような気持ちはあるんですけど、一方で、早く忘れて欲しいという矛盾した気持ちを抱えているのです…笑☟

自分のことを忘れて欲しくないけど、忘れて欲しい

こういう思いを持ってますね。幼稚園の段階で子ども達と楽しく遊ぶことで、子ども達にとって魅力的な先生として認知してもらい、子ども達の思い出の中で生き続けたいなという望みがあります。しかし、その一方で、自分の事なんて一刻も早く忘れ去って欲しいとも思います。幼稚園を卒業した後の人生において、その時の楽しさを上回るような経験をどんどんと積んで欲しいと思うからです。幼稚園の楽しい思い出なんて遥か遠く、深い谷底に落ちてしまうような、楽しい思い出をたくさん創ってもらいたいなと思っています。

こんなこと考えてる幼稚園の先生っているんですかね…?笑

⑤倉橋惣三が思う「先生の二面性」とは?(幼稚園雑草より抜粋)


☆「早く終われ~」とは思わない

・単純に仕事として楽しいから

これまで社会人として働いた時の心持は、「早く仕事終わらないかな~」でした。毎日毎日、仕事を片付ける事ばかり考えていて、それじゃ楽しくないから笑顔になれません。1年間ヴァルトツヴェルゲ森の幼稚園で実習してた時は1回も「早く終わらないかな~」なんて思ったことがありません。むしろ、閉園した後でも子ども達と遊びたかった!(実際に閉園した後に子ども達から「キーくん、遊ぼう!」と言われたことがあるが、同僚の先生から、「先生にはプライベートの時間が必要なのよ。先生のプライベートを尊重しなさい。」と子ども達に伝えていた。「なるほど、ドイツはワークライフバランスに厳しいと聞いていたが、しっかりと線引きして守っているんだな。」と良い学びになった。)実習中は子ども達と接しているのでずっと笑顔でしたし、毎日が楽しくてあっという間に過ぎていきました。

森の幼稚園に拘ってしまう理由を考察


☆キーくんであり続けられたら最高

死ぬまで「キーくん」と呼ばれ続けたい!

個人的にはこのあだ名に人生を救われたと思っている。幼稚園に通い始めた当初の自分はよく泣いていて、教室で一人ポツンと座っているような子どもだった。社会生活の第1歩で大きく躓いていたと思う。その様子を先生から聞いたおじいちゃんが僕に、「あだ名を付けたらいいんじゃない」と提案してきて、名前に入っている「き」から「キーくん」というあだ名を付けてくれた。で、おじいちゃんから「名前を言う時は『キーくん』って言うんだよ。」と教えてもらった。

その後、幼稚園でまた一人でポツンと座っている所に、ある子どもが自分に「名前何?」って声をかけてくれた時に、その子は答えとして「苗字+名前」を予想していたらしいが、私がおじいちゃんの言った通りにあだ名の「キーくん」と答えてしまったために、その子が不意を突かれて大笑いして、「面白いな、一緒に遊ぼうぜ。」と仲間に入れてもらった。それがきっかけで、教室で一人ポツン状態は無くなり、教室に入れば友達から「キーくん!キーくん!」と話しかけてもらえるようになった。

キーくんというあだ名が無ければ、今の自分とは全く違う人生を歩んでいたのではないかと思うし、キーくんというあだ名に自分は救われたなと感謝している。だからこそ、自分は一生キーくんと呼ばれるような人物でいたいし、それが実現できるのって、高校や中学の先生ではないし、小学校の先生はギリだと思うが、ベストはやっぱり幼稚園の先生だと思う。幼稚園児なら喜んでキーくんと私のことを呼んでくれる。

森の幼稚園に拘ってしまう理由を考察


☆尊敬する人達と一緒に働きたい

昔は「好きな事を仕事にしたい」と考えていたが、今では考え方が変わった。個人的には、「『尊敬』という感情を持てることを仕事にした方が良い」と今は考えている。

なんか、「好き」という感情は「嫌い」を産むが故に、長期的に働けないなと感じています。あと、「好き」っていう表現が、対象の一部分しか見てないみたいなニュアンスが感じられるので、「なぜそれを仕事に?」っていう質問に対して、「好きだからです。」って答えちゃう会話は、なんか深みがないなと感じています。

で、「尊敬」というのは、対象の「好き」も「嫌い」もひっくるめて、尊敬しているという事なので、嫌な部分を見てしまっても耐えることが出来て、長期的に続けられそうだなって感じがします。また、ひっくるめて尊敬してるが故に、対象をしっかりと把握して、「自分独自の信念に基づいてその仕事をしてる」みたいなニュアンスが醸し出されてて、なんか深さを感じます。

A:「なぜ、先生になったのですか?」 「子どもが好きだからです。子ども達の笑顔、遊ぶ姿、成長していく過程、どれも最高ですよね!」

B:「なぜ、先生になったのですか?」 「子どもを尊敬しているからです。もちろん、言う事を聞いてくれなかったり、予想外のことをしでかして困らせられることも多々ありますが、そんなことも含めて、子ども達が私の人生に”彩り”を与えてくれていることに、とても感謝しています。だからこそ、私は尊敬する子ども達と共に時間を過ごせる先生という職業を選び、子ども達がイキイキと遊んで逞しく育つ環境を作って守り、尊敬する子ども達の成長に付き添っていきたいと思っているのです。」

なんか、個人的には、Bの自分でありたいですね。というか、子どもが好きっていう感覚が無いので、端からBしかありえないのだが・・・笑

”仕事、志事、私事”…ミスチルの「彩り」やケツメイシの「トレイン」を参考に考えてみる


☆自分自身に対して「責任」と「期待」を感じられる仕事をしたい

今の自分が仕事に対して思うことは、

仕事とは、「自分に対する責任と期待である」ということである。

責任とは、やはり、「プロとしてお金をもらっている以上、それに見合った事を成すというプロ意識」を、”自分で”自分の中に育てること。

他人から言われているようじゃまだまだかなと思うし、他人に植え付けられてしまうと、その人がいない時に手を抜くなんてことも起こり得る。どんな時でもプロでいる為には、”自分で”意識づけて育てていく必要があると思う。

期待とは、「自分が望む方向へ歩んでいる」という将来へのポジティブな気持ちである。

社会人として様々な場所でお世話になったが、この「期待」を持てない所では長く続かなかった。やっぱり、「責任」感だけでは、どうしても自己犠牲になってしまうし、結局は、その責任に押しつぶされてしまうことを学んだ。

責任だけの為に働く毎日は、ミスチルの「彩り」にあるように、”モノクロの毎日”であった。期待があれば、「達成感」とか「充実感」とかを得られるので、自分の人生に彩りがつくのだが、責任感だけで仕事をしていたので、「失意」とか「焦燥」とかしか得られず、自分の毎日から彩りが少しずつ消えていった。

”仕事、志事、私事”…ミスチルの「彩り」やケツメイシの「トレイン」を参考に考えてみる


☆子ども達がその人を先生と認めた時に初めて、その人は先生になれる


「先生」という資格は、幼稚園で働く為に必要な資格であり、その資格を持っているからといって、子ども達の先生になれるかといったら別問題かと思う。やっぱり先生とは子ども達が「この人は先生だ」と認めてくれた時に初めて先生になれるのではないかと思う。


プロとしてお金を頂く己の行為に対して、論理の裏付けが出来てないままやってしまう”できちゃった子育て”は、マズいということですね。


17歳くらいのときかな。ほかにやることもないから、休みのたびに上野の芸大(東京芸術大学)にふらっと遊びに行ってたのよ。そしたら教授たちと話すようになって。しばらくいろんなことを話していたら、ふと疑問に思ってね。「やっていることは同じなのに、なんで向こうは先生って呼ばれてるんだ」って。だけど、よくよく考えてみると、物を作ることに対する意識が違ってたんだよ。俺たち職人は慣れで物を作ってたけど、先生たちは、ものをつくるのに「裏づけ」を持っていた。自分が研究する対象を調べつくして、莫大な知識に基づいてものをつくっていた。そこが違っていた。俺が天ぷらに使う素材に関して勉強するようになったのはそれからだ。慣れでものをつくるんじゃなくて、「油というものはどんなものなのか」「なぜそれを使うのか」、これを徹底的に探究した。そして毎日、作っていく工程ひとつひとつを「これがベストか?」と自問自答する。それを積み重ねていくと、自分の中にたくさんのデータができる。俺は工程や素材に関するデータを20000くらい持ってるよ。それくらい知識があって初めて、素材を最大限に活かすとこができるんだ。

一流は「これがベストか?」と自分に問い続けている――天ぷら職人・早乙女哲哉氏の仕事論


だからこそ、子どもとは何か、教育とは何か、学校とは何かみたいな問いに対してきちんと自分なりの意見を持っていたいと思うし、9月から始まるAusbildungでしっかりと教育学を勉強して、知識を身につけていきたいと思う。


教育関係で好きな言葉


☆情熱を持って前進‼

今年一年間、前面に掲げたことば覚えていますか?

『情熱を持って前進』

みんなにもそうであってほしいし、自分自身にもこうあり続けたい、といましめる思いをこめていました。

大きな行事の時にはもちろんみんなも意識したかと思います。「持ってくるもの 熱い心」と連絡帳にも書いてもらったね。

でも、一番大切な日常、特別なことのない日常も熱い心を持って進みたい、物事に対して冷めてほしくないと思っていたよ。

うまくいってもうまくいかなくても、成功しても失敗しても、みんなが一生懸命本気で練習したり、努力したことなら満足できる。やらなきゃよかった…なんて中途半端な言葉は出ないはず。

一年間、64の教室の中にいろんな情熱がいつも存在していて、あきらめそうになっても、また立ち上がり一歩ふみ出していたね、私もそのやる気に支えられて一年間充実した日々をすごせました。ありがとう。

一人でも、もちろんがんばることはできる。だけど、みんなの力が集まった力ははかりしれないよ。

中学校でも「情熱を持って前進‼」

小学校のクラスの卒業文集より、H先生からのメッセージ


☆いつも子供を守ろと保育園に対し苦情を言ってきますけどね、これだけは言っときます。子どもは見るもの・聞くもの・手で触るもの、なんでも体験した事を吸収するんです。学習能力が凄まじいんですよ。その能力を止めてしまうのは、いくら親でも許しませんよ。(赤ちゃんと僕)


☆失敗するのが当たり前。成功したら男前。失敗は頭の上ではなくて、足下に置いていく。


☆どれだけ熱心に応援しようとも、それを仕事にしている人間には敵わない(仕事か趣味か:田中慎弥)


☆好きにならなきゃ好きな理由はわからない。だったら、直感を信じてみませんか?理想と違うからとか、条件が合わないからとか、そんなの時間のムダ。人生は一度きりなんです!ガッツいていこう!!


☆ひな…よくやった!!

ひな…よくやった!!

最近のいじめがえげつねーのは じーちゃんも新聞やTVのニュースでいやっちゅうほど見て知ってる!! 見るたび俺ァかわいそうでたまらなかったっ

なのにお前は… そんなおっかねえ所で 友達を助けようとしたんだな!?

すげえ勇気だ!! 大人にだってめったに出来ることじゃねぇ!! お前はすごい!!

俺の自慢の孫だ!! お前は何ひとつ間違っちゃいねぇ!! 友達を助けたんだ!! 胸をはれ!!

今日のドイツ語141:日本の子どもの自殺について報道したドイツのニュース番組で、字幕を全て訳してみた



☆学校だけが世界じゃないんだ(←人が群がってる間に成長するのではなくて、群れから外れて一人になった間に成長する。)


*イジメとか辛い学校生活に関しては、これに気付けるかどうかが勝負って感じがする…(10:09~)https://youtu.be/UqwKFTgWhP8


*『ヒツジで終わる習慣、ライオンに変わる決断』と『「大学時代」自分のために絶対やっておきたいこと』

人が群がってる間に成長するのではなくて、群れから外れて一人になった間に成長する。

『「大学時代」自分のために絶対やっておきたいこと』


☆俺は自分の手で足で考えて動いて、自分の人生を手に入れたいんや!

外に出たいんや!外にはいろんな世界があって、いっぱい色んな人が自分らの思い思いの時間を生きてて、信じられへんくらい良い奴とか悪い奴とか、自分と全く違う色んな人間がごちゃまんとして世界を作っとんねや。成功するとか、野垂れ死ぬとか、どっちが上とか下とかとか、そんなんは問題じゃなくて、俺、そん中にいたいんや!俺分かったんや。コネも金も才能もなくても、カッコ悪くてもみじめでも、俺は自分の手で足で考えて動いて、自分の人生を手に入れたいんや!

マインドゲーム 1:21:20~1:21:51
「The Actors Studio Interview」と「10の質問」と「10周年」


☆自由は秩序を作り、強制は無秩序を作る。(ファーブル:昆虫の行動研究の先駆者)


☆若人よ、自分にとっての幸せとは何か、それを問うことこそが前向きな悩み方だ。自分にとっての幸せをつねに問い続けるのさえ忘れなければ、人生は有意義なものになる。


☆よい大人=『経済的独立+自分に居心地のいい人間関係を自力で開拓+「自分が選んだ」と自分に言い聞かせる姿勢』(by 中島義道)


☆若い時の辛労、買うてもせよっ。立て茂雄、ホレ、お前の足はそのためについとるんだよ。


☆自分に対して嘘をつかないこと


人生で大切なことは?という質問に『自分に対して嘘をつかないこと』と北野武が言ってたのを読んで、ずっと心に残ってる。自分が自分を裏切ったらどうしようもないからその通りだと思う。

小学校の先生から“嘘をつかない”ことの本質を学んだ(https://note.com/goldwell/n/n118b37b81b11


雑感


☆学校とは「思い出作りに最適な場所」。「様々な基準(=嫌な事や好きな事)を知る場所」。


2016年から既に、学校とは「思い出作りに最適な場所」と考えています。2013年に大学に入学して、当時は教育学部に所属していました。だけど、教職免除課程だったので、教育系の講義は一切受けませんでした。で、文学部に転部して、ドイツ語は学部で専門的に勉強、教育関係は独学で勉強した。


>「成績が悪くなり、塾に行けずに学校も不登校になった」品川メンタルクリニックには週に2人は「受験うつ」の小5や小6の児童が訪れる

学力意外の色んな基準を学べるのが学校なのに…

学力重視の保護者が見落としているんじゃないかと思うこと(https://note.com/kajikyoryokutai/n/n2df999e8611f


〉学校のいちばんいいところは「興味がないこともむりやり勉強させられる」ことだ。独学でいちばん難しいことがそれだからだ。

なるへそ過ぎる…

子供と過ごすということ【生き方のコツ】(https://note.com/angrybreakfast/n/n077304a5dc12?magazine_key=m153f7fadd6ef


☆森の幼稚園とは「子ども達にとっての最高のおもちゃ箱」。


1年間の実習を始める初日、森の幼稚園に着いた瞬間に撮った写真。

真ん中がレンナー先生、左がガブリエルで、右がアレキサンダー、先生の前にいるのはソフィー。

素敵すぎる風景に衝撃が走り、「森の幼稚園は子ども達にとって最高のおもちゃ箱である」という信念が萌芽した思い出の1枚。


☆先生の役割とは


先生は付添人、子ども達の話し相手、健全な雰囲気を作り、子ども達に耳を傾け、観察し、関心と積極的な寄り添いによって子ども達の学習過程を支援し、子ども達の活動の為の資源を準備し、刺激を与え、チーム内で連絡を取り合ったり、子ども達との仕事の経験を省みたりし、保護者の相談相手となる。


*「良い先生というのは、生徒達に対して、彼らが何を出来るのかを示すものです。」というセリフが、大好きなドイツのコメディードラマに出ていたので紹介!


☆世界の多様さに目をみはること。それが外国語学習の一番に楽しいことではないでしょうか。


☆『ドイツの仕掛け絵本にハマったきっかけの絵本「In meinem kleinen Herzen(私の小さな心の中)」』と『個人的に好きな本まとめ』


☆日本の森のようちえんに対して触れた記事☟


*”森のようちえん”をされてる方がジャパンアウトドアリーダーズアワード2022のファイナリストになっていた!


☆20代までにしておきたいこと


・留学する
・スポーツや音楽などで、何か一芸を持つ
・色んな事に挑戦して、向き不向きを知る
・自分の好きな事や考え方を理解する←日記を書いたり、人生年表を作ったりする

4月の読書感想文「20代にしておきたい17のこと」 #71https://note.com/new_watachanko/n/n725f62ea94ba


なぜ勉強するのか?


勉強の目的ってのは、

「自立して生きていく際の選択肢を広げる」

「勉強はしたいと思うモノ」

って感じなのかなと思いました。

たぶん、この「なんで勉強しないといけないのか?」って質問をする生徒が抱える心情的部分って、

「この教科は”俺にとって”全然面白くないし、”俺の”将来に何の役にも立たねえのに、何で”俺は”勉強しないといけないの?」って感じかなと思ってます。

勉強得意な子が「なぜ勉強しなくちゃいけないの?」って質問しませんよね…?笑

なので、「”俺”は勉強したくない!」という気持ちをぶつける為に、あえて「なぜ勉強しないといけないのか?」と問いかけているのかなと思います。

で、考えるべきなのは、この質問に答えたところで「その子が勉強をするようになるのか?」ということです。

本人が「嫌っ!」って言っているモノを説得させてやらせるって相当難しいなと思います。

「勉強することで選択肢が増えるよ!」って言ったところで、「そんなんどうでもいいわ!」って返されたら終わりです。

そういう難しい状況にの中で、成功するしないは一先ず置いといて、その子に個人的に伝えたいなと思うのは、

「その苦手な部分が貴方を決めるのではなく、得意な部分が貴方を決めるのだから、その苦手な部分を過大に捉えるのは良くない」

という事ですかね。

苦手な部分に気が行き過ぎて、「俺って駄目な人間じゃん…」って思わないで欲しい訳です。苦手なことを理由に自己肯定感を下げないで欲しいのです。

嫌いな教科があれば、好きな教科があるはずですから、嫌いな教科にぶち当たってる時は好きな教科(教科が無ければ、得意な事!)のことを考えて、「俺には~があるから大丈夫だし!」って心のバランスを保ってほしいですね。


*「しゃくだけど 勉強には にんじんと同じくらい栄養があるみたいよ 食べなきゃ」(森高千里 『勉強の歌』)


☆勉強は自分の認知特性に合ったやり方でして欲しい☟


*自分の認知特性に合った「完全なる個人的な趣味」の有料マガジンを始めます!


☆勉強をきっかけに「考える人」になって欲しい…☟


*コロナのワクチン、打たないといけないの?


☆考えることが出来ないと、「騙され」て、「狂う」ことになる☟


「戦争」を「感染対策」に置き換えれば、コロナ茶番の総括の出来上がり☟

正しい情報は国民には知らされず、多くの国民は、この”感染対策”は「正しい”感染対策”である」という政府の言葉や報道を信じて、”感染対策”に協力しました。


*狂うにも程がある

https://note.com/kikun_waldkita/n/n0a2be0f09480?magazine_key=mb15e8979c2e0

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