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森の幼稚園に拘ってしまう理由を考察

*前提条件:自分の思考と行動の特性

人は人、自分は自分

個人的な性格として、「人は人、自分は自分」というモノがある。なので、あまり他人に興味を持つことが無い。もちろん、話しかけられればちゃんと話を聞いて、コミュニケーションするが、自分から話しかけるというのはあんまりしない。もちろん、話しかけることもあるが、その場合って自分よりも無口な人に対してだったり、場を盛り上げようとサービス精神で(無理して)したりしていることが多い。基本「人は人、自分は自分」なので、自分に意識が向いていることが多い。

受け身で聞くのが専門

おそらくこれは、子どもの頃から友達から「キーくん!あのね~~~」というように話しかけられてから会話を始めることが多かった(下の方の「死ぬまで『キーくん』と呼ばれ続けたい」にその理由を書いてます…)ので、その意識が染みついてしまっている。自分から話しかけても1ラリーか2ラリーくらいで終わることがほとんど…(笑)

だけど、相手から話しかけてくれたら、「これをどういう方向へ持って行こうかな」と考える癖がついていて、結構な時間をインタビューアーになった感じで埋めることができる。感情がすぐ顔に表れるタイプなので、リアクションが相手に伝わりやすいのも聞く専には武器になる。

①大人に対する教育は性に合ってない

経験上、「大人に教育って無理なんじゃね?」と思っている。

仕事で管理職的な立場になって、下は高校生から、上はおじいちゃんおばあちゃんまで、総勢70名くらいをまとめる経験をしたことがある。もちろん、それ以外の仕事でも多くの多様な人達と接してきた。その中で私が強く感じたのは、「他人って、変わらなねぇ~(泣)」である。

高校生くらいになると、自分の考えを持つようになるし、年が増せば増すほど、それに固執する度合いが強くなっている気がする。そうすると、何かミスがあったので改善策を言ったり、より良い方法があるのでそれを教えたりした時に、素直に実行してくれず、変化が見られないのが嫌だった。

そもそも論、そういう人たちに限って、「挨拶をしない、返事をしない、時間を守らない」といった”マナー”が出来てないことが往々にしてあった。その人達に対して自分は、”シャットダウン”してしまっていた。つまり、心を閉ざし、最低限のコミュニケーションしかとらないようにしていた。

個人的には、そんな”子どもな大人達”を叱るなんていう「親代わり」なことなんてしたくないと思っていた。また、「その年でそんなんということは、これまでに周りの人が言ってあげたにもかかわらず無駄だった」のか、あるいは、「これまでの周りの人でさえも言えない程の人物だった」のかと推測してた。そうならば、「そんな人達に自分の時間を使うくらいなら、それは自分自身の為に使いたい」し、「同じようなミスを繰り返されても、自分がカバーすればいいだけ。むしろ、その人達とかかわることで生じるストレスの方が大きいから最小限にとどめたい」と考えていた。

そもそも論、「挨拶できない、言い訳ばかり言う、何度も同じミスを繰り返す」人に対して、どうやって敬意を持てというのだ?私はそこまで聖人ではない。もう、そのような人に対しては、「人は人、自分は自分」と割り切って、自分のことに集中していた。

大人の段階になると、大人自らが「学びたい、良くなりたい」という意欲を持たない限り、変化したり、成長すしたりすることは無いと思う。教育は自己教育であり、どんなに教えられても最終的にそれを身に着けられるかは「自分で自分を教育する=本人次第」だと考える。で、大人になるにつれて、思考が凝り固まり、現状維持を欲する者が大半になるのが世の相場だと思う。個人的には、そのような「自己教育を放棄した人達」に対して教育をしても「変化」を感じられない故に、自ら心を閉ざしてしまう事態に陥ったので、大人相手の教育は自分に向いてないなと思った。

②先生にもいろいろな種類があるが…

大学の先生には興味があった

これまでの自分の人生の中で、「高校、中学、小学校の先生」になろうと考えたことなんで1度も無かった。その最大の理由は、偏差値主義教育に加担したくないという思いである。「偏差値上げる為に勉強する」という手段と目的が逆になった愚行に自分は手を染めたくなかった。同じ理由で、塾講師とかのアルバイトも興味が出なかった。

でも、「大学の先生」には興味を持ったことが何度かある。学生達は少なからず自分の興味に合った学部を選ぶので、大学の先生として自分が興味を持っていることを教えたら、学生達に変化が起きそうだなと想像できた。

そもそも論、大学は学びの環境として学生の自由を尊重してるから良いなと思う。時間割り作りもそうだし、行きたくなければ行かなくても良い自由がある。時間が膨大にあり、学内学外を問わず自分で動けば多種多様な人々と出会える。そういう選択肢が豊富に準備されている環境においては、先生の言葉や行動がきっかけで学生が変わることなんてざらである。

幼稚園の先生は、森の幼稚園を知ってしまったが故に選択肢には入ってないですね…

③森の幼稚園が好きな理由

・子ども達のイキイキさを見れるから

授業を聞かずに寝ていたり、周りとおしゃべりしたりするといった”退屈そうな姿”はどこにもない。森の幼稚園では、開放的空間の中で、子ども達が自由にはしゃぎまわって、笑顔いっぱいに遊んでいる。単純にその姿を見てるだけで幸せじゃありませんか?

・単純に仕事として楽しいから

これまで社会人として働いた時の心持は、「早く仕事終わらないかな~」でした。毎日毎日、仕事を片付ける事ばかり考えていて、それじゃ楽しくないから笑顔になれません。1年間ヴァルトツヴェルゲ森の幼稚園で実習してた時は1回も「早く終わらないかな~」なんて思ったことがありません。むしろ、閉園した後でも子ども達と遊びたかった!(実際に閉園した後に子ども達から「キーくん、遊ぼう!」と言われたことがあるが、同僚の先生から、「先生にはプライベートの時間が必要なのよ。先生のプライベートを尊重しなさい。」と子ども達に伝えていた。「なるほど、ドイツはワークライフバランスに厳しいと聞いていたが、しっかりと線引きして守っているんだな。」と良い学びになった。)実習中は子ども達と接しているのでずっと笑顔でしたし、毎日が楽しくてあっという間に過ぎていきました。

・狭く深くの関係を浅く広く結べるから

先生一人に対して子ども達が約5人という少人数制。子ども達一人一人と余裕をもって向き合うことができるので、密な関係性を築くことが可能です。また、複数の先生と1つのグループを担当するので、子どもとの相性であったり、先生の強みだったりを考慮したうえで、適材適所の活動が行える。

・教育に熱心な保護者率高めだから

まず森の幼稚園を知っている時点で、教育の勉強をされているなと判断できると思います。また、森の幼稚園には家庭の援助によって成り立っている部分があるので、しっかりと保護者側は森の幼稚園についての理解を深めてくれます。そのような熱心な方々と共に子ども達を教育していけるわけですから、「預けるだけ」の保護者よりも良い関係性を築けるのは言うまでもありません。

・森という環境が素晴らしいから

森が子ども達の遊び場として最高であり、森の幼稚園は「子ども達にとっての最高のおもちゃ箱」であることは、少し考えれば誰でも理解できることなので省略。ここではいくつかの心理的影響を紹介☟

*カテドラル効果
・天井の高さは、人間の心理に影響するという法則
・低い部屋は細部に向かう思考を活性化し、綿密な作業に適している
 コンビニやファーストフードなど目的が明確で滞在時間が短い店舗に向く
・天井の高い部屋は抽象的思考や創造性を活性化させる
 住宅リフォーム店やカジノなど想像力を働かせて滞在時間の長い店に向く→森の中で想像力が活性化される理由

*緑色が持つ色彩効果
・心や身体の疲れをいやす。
・疲れた目を休ませる。
・鎮静作用で緊張を緩和する。
・リラックスの作用がある。
・穏やかな気持ちを与える
→緑色が人に良い理由

*バイオフィリア効果
・人間が自然と交わりたいと望む本能的、また遺伝的な欲求のこと
・1980年代にハーバード大学の生物学者エドワード O.ウィルソンが提起
・自然との触れ合いを通じて、ストレスの軽減、社交性や問題解決能力の向上、生理的機能の安定、健康の改善等の効力が期待される
・自然を感じられるオフィス環境(バイオフィリックデザイン)で働く人の方が、そうでない人に比べ、幸福度15%、生産性6%、創造性15%高いという調査結果
→自然が人間にとって良い理由

*神経面
・聞く、見る、嗅ぐ、味わう、触れるといった五感を使える⇒シナプスの構築に対して最も適した環境
・森の中での活動:木登り、ジャンプ、バランスなど運動能力の向上
・森の中にある多種多様な遊び場や道なき道:交渉、議論、検討、決断、戦略などの機会
・森の中にある葉っぱや棒など:想像力、コミュニケーション能力などの涵養
・森の中で起こる日々の変化や四季の移り変わり:柔軟かつ創造的な対応を習得
・直接的な体験:重力、静力学、関連性、対立、矛盾、原因、原則、自然に対する配慮を学ぶ
→森が子ども達の成長に良い理由

*健康面
・日光浴による骨の強化、免疫力の増進や殺菌作用
・体内のガン細胞を識別し、破壊するナチュラルキラー細胞の活性化
・最高血圧・最低血圧の低下、脈拍の減少等の自律神経系の改善
・アレルギーに抵抗する免疫システムの獲得
→森が子ども達を健康にする理由

*精神面
・ストレスホルモンの減少
・日光浴による気分を高揚させるホルモンの増加
・副交感神経活動の高まりと交感神経活動の抑制
・自然の中での遊びがADHSを長い間やわらげる
・温度、湿度、風、輻射熱などにおいて都市より快適
→森が子ども達の精神を良くする理由

蛇足だけど、「遊び」が子ども達にとって良い理由☟

*情緒面
・遊びが創造性と探究心の源であり、遊ぶことで集中力や創造力が養われる。
・子どものあらゆる感覚が刺激され、環境への適応力や子どもの個性を伸ばす。
・心身の安定や心の安らぎなどにも関与するセトロニン(通称「幸せホルモン」)の分泌機能が高まる。
・脳内シナプスの回路を形成し、思考力や言語能力を司る大脳新皮質を成長させる

*社会性
・異年齢交流による社会性の涵養
・コミュニケーション能力の向上
・認知判断能力(優先順位付け、スケジューリング、予測、委譲、決断、分析)の育成 

*森の幼稚園に対する個人的願望

死ぬまで「キーくん」と呼ばれ続けたい!

個人的にはこのあだ名に人生を救われたと思っている。幼稚園に通い始めた当初の自分はよく泣いていて、教室で一人ポツンと座っているような子どもだった。社会生活の第1歩で大きく躓いていたと思う。その様子を先生から聞いたおじいちゃんが僕に、「あだ名を付けたらいいんじゃない」と提案してきて、名前に入っている「き」から「キーくん」というあだ名を付けてくれた。で、おじいちゃんから「名前を言う時は『キーくん』って言うんだよ。」と教えてもらった。

その後、幼稚園でまた一人でポツンと座っている所に、ある子どもが自分に「名前何?」って声をかけてくれた時に、その子は答えとして「苗字+名前」を予想していたらしいが、私がおじいちゃんの言った通りにあだ名の「キーくん」と答えてしまったために、その子が不意を突かれて大笑いして、「面白いな、一緒に遊ぼうぜ。」と仲間に入れてもらった。それがきっかけで、教室で一人ポツン状態は無くなり、教室に入れば友達から「キーくん!キーくん!」と話しかけてもらえるようになった。

キーくんというあだ名が無ければ、今の自分とは全く違う人生を歩んでいたのではないかと思うし、キーくんというあだ名に自分は救われたなと感謝している。だからこそ、自分は一生キーくんと呼ばれるような人物でいたいし、それが実現できるのって、高校や中学の先生ではないし、小学校の先生はギリだと思うが、ベストはやっぱり幼稚園の先生だと思う。幼稚園児なら喜んでキーくんと私のことを呼んでくれる。

・伝いたい欲がめっちゃ大きい。

個人的に、自分の好きなことについて話すのが好きである。立川談志、ジーンケリー、花男、教育系の話、ドイツ留学、それにジョークやダジャレや小話など…。一回、大学で授業を担当したこともある。留学から帰った後に、1年生向けにドイツ語学科の3人の先生が15回(1人5回)授業をする講義で、尊敬するN先生から3回分の時間を頂いて留学経験を発表させて頂いた。70名くらいの1年生がいたが、毎回講義終了後にアンケートを取ったところ、ほぼ全員から「とても面白かった」、「面白かった」という評価を頂くことができた。

個人的にはまだ多くを知らない子ども達に対して、自分の好きなことを教えていきたいなと思う。早い段階で知ってもらえれば、それだけ深まる確率は高くなる。自分が教えたことが子ども達の人生に少しでも好影響を与えたのであれば、先生冥利に尽きる。

まとめ:子ども達を尊敬しているから


と、上記で色々書いたが、一番大きな理由はコレだと思う。森の幼稚園の子ども達が、自身の好奇心に従ってイキイキと遊ぶ姿、一生懸命な姿、無我夢中の姿は、自分にとってそうありたいなと思える対象である。

だからこそ、森の幼稚園の先生になって、子ども達がそうなれる環境を守っていきたいし、同時に、子ども達を見習って自分自身も、子ども達のような人生を送れるように精進していきたいと思っている。

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