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天ぷらの専門性から見えてくる子育ての専門性とは?ホリエモンの「保育士誰でもできる論争(2017年)」に対する私見

前回のこぼれ話は置いといて、前々回の通り、天ぷらの神様と呼ばれるほど天ぷらの専門性を極められた早乙女哲哉さんの考え方を通じて、子育ての専門性について、自分なりに一考したいと思います。

結構、長くなってしまったので、結論を先に書くと、これに凝縮することができると思います☟

17歳くらいのときかな。ほかにやることもないから、休みのたびに上野の芸大(東京芸術大学)にふらっと遊びに行ってたのよ。そしたら教授たちと話すようになって。しばらくいろんなことを話していたら、ふと疑問に思ってね。「やっていることは同じなのに、なんで向こうは先生って呼ばれてるんだ」って。だけど、よくよく考えてみると、物を作ることに対する意識が違ってたんだよ。俺たち職人は慣れで物を作ってたけど、先生たちは、ものをつくるのに「裏づけ」を持っていた。自分が研究する対象を調べつくして、莫大な知識に基づいてものをつくっていた。そこが違っていた。俺が天ぷらに使う素材に関して勉強するようになったのはそれからだ。慣れでものをつくるんじゃなくて、「油というものはどんなものなのか」「なぜそれを使うのか」、これを徹底的に探究した。そして毎日、作っていく工程ひとつひとつを「これがベストか?」と自問自答する。それを積み重ねていくと、自分の中にたくさんのデータができる。俺は工程や素材に関するデータを20000くらい持ってるよ。それくらい知識があって初めて、素材を最大限に活かすとこができるんだ。

一流は「これがベストか?」と自分に問い続けている――天ぷら職人・早乙女哲哉氏の仕事論
https://next.rikunabi.com/journal/20161130_P/

プロとしてお金を頂く己の行為に対して、論理の裏付けが出来てないままやってしまう”できちゃった子育て”は、マズいということですね。

天ぷらと子育ての共通性

・どちらの「行為」も、”誰でもできる”

私が一番共通しているなと感じているのは、

天ぷらを作る「行為」と子育てという「行為」は、
どちらも誰でもできると考えられていること

である。天ぷらは、どの家庭でも作れる。子育ては、どの親でもしているし、子どもと接する仕事をしている人も行っている。それらはつまり、プロや素人といった立場を問わずに、誰でも一家言持っているということである。だからこそ、ホリエモンみたく「誰でもできる」と言われても仕方がない部分はある。皆それぞれ自分なりの経験を持っているので、そこを基準にして物事を言ってしまうのであろう。

そんな状況の中で早乙女さんは著書の中で天ぷら作りについてこう仰っている。

 うん、作る基本があまりにいい加減なの。材料のことを考えない、それ以前に材料のことを知らない。だから、仕入れにしても下ごしらえにしても、料理とまるでリンクしてないんだよ。つまり、どこもかしこも”できちゃった料理”なんだね。
 こんな材料が売っていたから買ってきて作りました、冷蔵庫にあったから作りましたって、家庭の主婦じゃないんだからさァ。基本的なことをよく知らないから、はじもなくそういうことができちゃうんだ。で、お客さんに「いかがですかァ?」なんて聞いちゃってさ。笑っちゃうよ。
 最初っからお客が唸る料理だってわかっていて作るのがプロでしょ?売れればなんでもやっちゃうというか、第一、そんなものがうまいはずがない。結局、材料の取れた場所、とれた季節、鮮度、調理のテクニック、調理に使う道具なんかを熟知してないから、やっていいことと、やっちゃいけないことがわからないんだよ。

『天ぷら「みかわ」 名人の仕事』早乙女哲哉 P.9~10

「基本的なこと」が分かっていない素人が作った、「できちゃった料理」。たしかに、そんなモノでお金は頂くことはできないだろう。子育ても同じではないだろうか。教育学部の生徒を除けば、大半の親達は子どものことを勉強せずに、子ども達の基本的なことが分からない状態のままで、子育て期間に放り込まれ、その中で、情報に振り回されて、あれが良い、これは良くないと、奔走するのが相場ではないか。その状態は、早乙女さんが指摘されたことを踏まえると、「できちゃった子育て」と言っても言い過ぎではない気がする。

もちろん、家庭で食べる素人が作った天ぷらは不味いものでは決してないだろうし、その料理で家族を養ってるのだから、それを否定されるべきものではない。同様に家庭内の子育ては他人からお金をもらっているわけではないので、家庭の方針に従ってご自由にしたら良いと思う。ただ、仕事として、何かを提供して、その対価として、お金を得るという経済活動をする際に、その「できちゃった料理」を提供されたらたまったもんじゃないなという話であり、それは、子育ても同じではないだろうか?

著書以外の話ではあるが、こちらのラジオに早乙女さんがゲスト出演された際に、こんなことを仰っていた。(8:23~から)

油についてもね、一般の人たちはあんまりわかってないんですよ。分かったつもりだけなの。料理の先生もそうです。ほとんどわかったつもりでしゃべってる。・・・「サラダ油とごま油は何対何が良いんですか?」という質問が必ず来るが、ゴマは油の種類を指してて、サラダは油の生成法を指しているから、質問になり得ない。・・・(論理的な説明が続く)

【みかわ是山居】第90回:天ぷら職人の手しごと|早乙女 哲哉氏 https://www.youtube.com/watch?v=hU-aFSVAlks

なんか身近において勘違いしてることや知らないことって多々あるような気がするので、自分の仕事分野においては、せめて表面上で分かった気にならず、正しい知識を理解していきたいと思う。プロと素人における差の一つには、プロは自分の行動原理を論理的に説明できることがあると思う。「~~~という理屈だから・・・するんだよ」と自分の専門分野のことくらいは興味を持って勉強して、論理的に伝えられないとね。自分がお金を頂いている行為を、他人に説明できないなんて、話にならないでしょ?笑

・プロ側の意識に問題がある

”できちゃった料理”がそこかしこに蔓延している理由について、早乙女さんは以下のように分析されている。

どうしてこうなっちゃたのかって?・・・お客さんのほうはたしかに進歩してきましたよ。いろんなメディアに触発されてね。東京じゅう食べ歩いたりして、相当ちゃんとした人が出てきていると思う。・・・それに比べて料理人のほうがまだまだモノを作ることに対して未成熟なんだね。自分の作品と言えるような仕事をしている人はほとんどいない。え?そりゃ材料なんか昔よりずいぶん恵まれているさ。・・・物流も進歩したよね。・・・じゃあ、材料を生かすとはどういうことかっていうことになるけど、例えば「こりゃあ一級品のシロシタカレイですよ」とかって言うけどね、そこまでで売りモノにしちゃうからダメなのさ。一級品の素材だからちょっと味つければなんでもできちゃうなんてね、一級品のシロシタカレイをたまたま手に入れた人はみんなプロの料理人になっちゃうよ。
 要するに、材料の取れた場所も旬も鮮度も形も大きさもすべてクリアしたというのは、そりゃ最低限の手段がそろったにすぎないんですよ。とれた場所を売りモノにしてもダメ、旬を売りモノにしてもダメ、鮮度も形も大きさも、それだけでは売りモノにはならないの。
 で、何が売りモノになるのかっていうと、そうしたことすべての最大公約数を見つけ出すことが売りモノになるの。それが「モノを作る」ということだね。裏を返すと、そうした要素がすべてクリアできたときには、おのずと料理方法は決まってくるということです。
 そういった最大公約数に至る前には1つの料理に対して百とか二百とかね、チェックポイントがそんだけあるでしょ。えっ?あるんだよ!材料から始まって、道具やら自分のテクニックも含んだところまで考えると、チェックポイントなんて百や二百は軽くあるの。・・・で、そうやって材料を色んな意味でチェックしてくると、自分が選んだものに対してどういう調理の仕方がベストなのか、ひとりでに決まってくるんですよ。キスのいちばんのよさを自分が知ったうえで、さらに下ごしらえから調理まで、いくつもの仕事をクリアして初めてお客さんに提供するわけね。それが、私の言うところの最大公約数。

『天ぷら「みかわ」 名人の仕事』早乙女哲哉 P.10~11

シロタカカレイの例を早乙女さんが書かれているが、これを子育てに当てはめると「子どもができて親になった」とか「教員免許を取得して先生になった」とかが適当だろう。つまり、子どもができたからといって、自動的に良い親になれるものではないし、教員免許を取得したからといって、それが良い先生の証にはならない。早乙女さんの言うところの「売りモノ」にならないである。で、それを鼻にかけて日々を生活してしまうことで精進を行わなければ、「自分の作品と言えるような仕事」は一生できずに、”できちゃった子育て”の域を抜け出せずに終わってしまうだろう。

そして、勉強しない親や先生は無知ゆえに自身の妄想に基づいた迷惑な行動や問題を解決して状況を改善しようという志を持たないことで、きちんとした人達の負担となる…

親側の問題
先生側の問題

で、チェックポイントが百や二百あるという話だが、子どもを相手にして考えるとその数は膨大なモノになるのは想像に難くない。例えば、ほんの一例であるが、一人の子どもに対してのチェックポイントとしては、ササッと今思いついたモノを書き出してみても、

パーソナルな面としては、
・名前
・性別
・年齢
・身長
・体重
・容姿
・住所
・持病やアレルギー
・その日の健康状態
・その日の精神状態
・誕生日
・両親のこと
・兄弟のこと
・祖父母のこと
・持って来た物などなど

個性的な面としては、
・友人関係、恋愛関係、親との関係、先生との関係
・趣味
・性格
・好きなことや嫌いなこと
・得意なことや苦手なこと
・やりたいことややりたくないこと
・できることやできないこと
・心理や考え方の癖
・寒がりや暑がり
・内向や外向
・アクティブや物静か
・習い事
・夢
・熱中していること
・昨日の出来事
・これまでの過去などなど

外的な面としては、
・天気
・時間帯
・気温
・湿度
・気候
・行事
・四季
・面積の広さ
・遊具
・建物
・地域の特徴
・危険な場所や安全な場所
・緊急時の連絡先
・災害や事件時の対応
・地面の状況
・教育方法
・教育方針
・花壇や動物小屋の状況(あれば)などなど

とかは把握しておきたいし(抜けてる部分があれば是非とも指摘して頂きたい)、子どもの数は20~30人としたら、知っておくべき量も20~30倍になる。膨大な数であることは言うまでもない。こう考えると、我が子の把握だけでも親としては大変なのに、その何十倍の量を把握しなければならないのが保育士というプロとしての仕事を行う上での前提にある。

だからこそ、子育ての際に、「今、子どもを怒ったのは何故か?」とか、「AくんにはBの遊具を与え、CちゃんにはDの遊びをさせたのは何故か?」とか、「なぜ今そのワードを使って声掛けをしたのか?」とかを他人から質問された時、子育てのプロとしては自分が行った子育てにおける一挙手一投足に対して、「なんとなく」と答えるんじゃなくて、上記のようなポイントをチェックしたうえで論理的に答えられないといけないと思う。例えば、怒るにしても、「同じ過ちを繰り返すと命にかかわることなので、この1回の失敗で終わらせるためにも、さっきはきつい言葉を使って印象に残るように怒りました。この子どもとは信頼関係ができているから少々怒っても関係性は壊れないと判断しました。ただ、その子どもの性格的には、納得して理解できた時はいつも『ハイ!』って言って行動を止めてくれるんですけど、さっき起こった時は、返事をせずになんで怒られてるのか不思議そうな表情をしてなんとなく行動を止めたので、もしかしたらまだ理解できてないかもしれません。なので、あとでもう一度、同じ場面になって時のことを想像させて、どう答えるか質問して、理解度をチェックしてみたいと思います。」みたいに、常に理論的に話せるようにしないといけないかなと思う。

そうやって、自分の論理を作っていけば、ゆくゆくは早乙女さんが言われる自分の作品と言えるような仕事、つまり「自分の作品と言えるような子育て」ができるのではないかと思う。論理だてることの重要性について、リクナビネクストのインタビューで早乙女さんが答えられてる部分があったので抜粋☟

17歳くらいのときかな。ほかにやることもないから、休みのたびに上野の芸大(東京芸術大学)にふらっと遊びに行ってたのよ。そしたら教授たちと話すようになって。しばらくいろんなことを話していたら、ふと疑問に思ってね。「やっていることは同じなのに、なんで向こうは先生って呼ばれてるんだ」って。だけど、よくよく考えてみると、物を作ることに対する意識が違ってたんだよ。俺たち職人は慣れで物を作ってたけど、先生たちは、ものをつくるのに「裏づけ」を持っていた。自分が研究する対象を調べつくして、莫大な知識に基づいてものをつくっていた。そこが違っていた。俺が天ぷらに使う素材に関して勉強するようになったのはそれからだ。慣れでものをつくるんじゃなくて、「油というものはどんなものなのか」「なぜそれを使うのか」、これを徹底的に探究した。そして毎日、作っていく工程ひとつひとつを「これがベストか?」と自問自答する。それを積み重ねていくと、自分の中にたくさんのデータができる。俺は工程や素材に関するデータを20000くらい持ってるよ。それくらい知識があって初めて、素材を最大限に活かすとこができるんだ。

一流は「これがベストか?」と自分に問い続けている――天ぷら職人・早乙女哲哉氏の仕事論
https://next.rikunabi.com/journal/20161130_P/

ちなみに蛇足だが、親が子どもを育てたことのない先生に向かって「親の気持ちが分からないくせに」などと言う事例を聞いたことがある。しかし、それはチェックポイントの大変さを知っていない無知な親の戯言だと思って聞き流せばいいと個人的には思う。そもそも論、その親に対しては、「先生の気持ちが分からないくせに何言ってんだ」と言ってやりたいし、我が子だけをチェックすればいい親と違って、先生はその何十倍の子ども達1人1人に対して膨大なポイントをチェックしているのである。そんな先生の事情を知らず、自分のことを棚に上げてモノ申してくるのは、先生にとって害悪でしかない。

天ぷらと子育ての非共通性

食材には意思は無いが、子どもには意思がある

当たり前のことだが、子どもに何かをしたって、その通りになる保証などどこにもない。子どもには意思がある。そもそも論、こっちがしたことを拒否することだってあり得る。「1に1を加えれば必ず2になる」みたいに単純にいかないのが子育てであろう。

専門性について、

こういう意見を述べる人も少なくないと思うが、こう言われると子どもを何か「物」として考えているようで正直反吐が出ますよね。「必ず東大に合格させる勉強法があれば俺に教えてくれよ」って感じです。人間は金太郎飴じゃないんだから、「こうすればこうなる」みたいなのは通用しないのが理解できないのかな?呆

まぁでも、狙いを持って取り組むのは当然のことだと思うんですよね。目標(というか”狙い”)を持って、自分の仕事に取り組む大切さを先述のリクナビのインタビューで早乙女さんが仰っていたので抜粋☟

もうひとつ大事なのは、“最終形”を描いてから始めること。よく、「素材はどうやって選んでいるんですか」って聞かれるけど、いい素材を揃えればいいわけじゃない。どういうものを作りたいのかを最初に思い浮かべて、それに合わせて「じゃあ、油はどういうものを使えばいい」とか「粉はどうするとか」とか「どこの魚を使うか」と決めていく。“最終形”をしっかり持っていないで始めちゃうから、ぐちゃぐちゃになっちゃうの。それじゃ、命を懸けてキスを獲ってきた漁師に申し訳が立たないよ。神経張りつめて運んできた仲買とかね、自分の手元に来るまでにいろんな人の手がかかってる。その人たちの思いを考えると、1つも無駄にはできないよ。

一流は「これがベストか?」と自分に問い続けている――天ぷら職人・早乙女哲哉氏の仕事論
https://next.rikunabi.com/journal/20161130_P/

ただね、その狙いと言うのが、子どもの姿を決めるものだと良くない気がするんですよね。例えば、「思いやりのある子に育てる」とか、「将来はサッカー選手になるように育てる」とかです。子どもの姿を大人側が勝手に決めてる目標ですよね。こういう発想が、そもそも論、先ほど紹介した「必ず東大に合格させる」と同じ穴のムジナなんですよ。思いやりの心を持てるかどうかはその子自身の問題だし、サッカー選手になるか決めるのはその子のやるべきこと。子育てと言うよりかは、本当は「子育ち」って言った方が良いのかもしれないが、子どもの将来はその子が決めるわけなので、外部が決める必要はないかと。

じゃあ、狙いはどういうモノなのかといったら、「自分自身に対すること」になると思うんです。子どもがどうのこうのではなく、育ちゆく子どもに対して自分が何をできるかということです。例えば、「サッカー好きな子どもに強いシュートの蹴り方を教えたい」とか、「塗り絵が好きな子どもに園ににある色鉛筆にはない色を見せてあげたい」とかですかね。あるいは、もし親が子どもに大学に行って欲しいと思っているなら、「大学進学に興味が無い我が子に対して、大学生活を楽しんでいる人との交流する機会を作ってあげたい」みたいな感じです。何と言うか、親や教師の考えている理想の姿へ誘導しようとする意図があったとしても、そこへ踏み込むか踏み込まないかの選択の余地が、誘導の対象者(ここで言う子ども)に残されるべきなんじゃないかなと考えています。

だって、その子どもには意志があるんだから。天ぷらの具材みたいに何も言わず、何も反抗せず、早乙女さんの切りたいように切られて、揚げたいように揚げられる、「意思が無いモノ」を、子育てで相手にしているわけではないので。そこが、天ぷらと子育ての非共通性じゃないかと思います。「モノ作り」と「人作り」の違いですよね。

個人的な教育目標は既にコチラの記事で書きましたが、

「香りのよい健康」と「かちとるにむづかしくはぐくむにむづかしい自分を愛する心」を、自分が交流する子ども達に与えること

です。健康で、自己肯定感があれば、どんな人生を送るにしても、それらが生き抜いていく基盤となることができるのではないかと思いますので。幼児という、

・大好きな親の元を離れ、これから死ぬまで属すことになる社会生活への第一歩を踏み出す時期にいる人間
・身体的な発達を爆発的に遂げようとする人間

が私の相手ですから、個人的には、上記2つの基盤の能力を身に着けさせることが重要じゃないかなと思います。その能力を基盤として、あとはその子ども本人が好き勝手に自分の人生を開拓していってもらえればいいなと思います。

ただ、個人的には、「小さい頃の経験がその子の一生を決めるみたいな論調」には傾倒したくないという思いがあります。個人的には、「人間はいつでも変われる」と思ってる(人との出会いや周囲の環境の変化によってどうにでも転がるのだから当然)ので、幼児教育に期待しすぎるのは良くないかと思います。別にインターナショナルスクールに通わなくたって、大人から語学始めて身に着けることは出来ますし、小さい頃は引っ込み思案だったけど、成長するにつれて社交的になったなんて類の話はたくさんあります。幼児教育はもちろん大事なので自分の仕事として誇りを持ちたいですが、その子の人生はその子自身でいつでも何とでもすることができるという希望も持ち合わせておきたいと思います。

子育てのプロとして、自分の人生を生きている子ども達にできることは、ヴァルトツヴェルゲの先生方が仰っていたように、「来てくれた子ども達が、今日という1日を楽しんでくれること」程度のものだと思います。それをたいそうにやれ「東大に合格する子供に育て上げる」とか「挨拶のできる子に育てる」とか、思い上がりも甚だしいなと。子どもを意思の無い物として見ている証拠です。

「自分がその子どもを育てた」なんて言葉は自分の人生で言いたくないですね。それは自分から言うモノではなくて、相手から言ってもらうモノであるのが大前提ですし、実際はその子がそうなるように成長しただけの話です。その人生にたまたま鉢合わせて、その子が成長する時にプロとしてちょこっとだけお手伝いさせてもらった(かかわった)みたいな感覚だと思いたいですね。早乙女さんの考えるプロの定義も、自分の考えとマッチしていて嬉しいです。

私はね、料理のプロというのはあくまでも、おいしいものを食べたい人とか、いい気分になりたい人のお手伝いができる人―——そういう意味でしかプロだと思っていない。うん、プロっていうのはそんな程度だと思う。その分野のエキスパートとして、お客さんのお手伝いをしてあげられる、そういった人たちがやっぱし作家でありアーティストなんだと思うね。もう「一流の料理人だ」っつーてね、そのなかでも「オレは特別だ」みたいな顔してるやつがいるけど、そんなデカい顔をするようなものじゃないんだよね。どんなに手段的なものをそろえようと、どんなにテクニック的なものに自信があろうと、そこまで自分を高めたところで、ようやっとプロとして皆さんのお手伝いができる、というくらいなものなの。それを偉そうに「これはオレの作品だ」みたいなことをいってねぇ(笑)。たしかに料理も作品なんだけどさ、そりゃ私も作品であるという意識は持っているけどね。だけど作品なんてそんな程度のモン。お客さんがいい気分になるためのお手伝いをするという程度のものなんだ。

『天ぷら「みかわ」 名人の仕事』早乙女哲哉 P.15~16

子ども達がいい気分になる(来てくれた子ども達が、今日という1日を楽しんでくれること)ためのお手伝いを、子育てのプロとしてできるように、これから頑張っていきたいと思います。

まとめ:保育の専門性とは

今のところの自分の定義は、上記の文章をまとめると、

・チェックポイントで相手を熟知し、常にベストな選択肢を選び続ける
・自分の仕事分野における正しい知識を習得し、行動の裏付けができる
・育つ者に対する自己目標を設定し、成し遂げる為の最適解を準備する
・プロとして子どもがいい気分になる(1日を楽しむ)お手伝いをする

という感じですかね。まぁ個人的にはドイツで職業訓練を受ける時に教育理論を学ぶので、今回はその肉(教育理論)付けをする為の骨格(思考基盤)を創り上げたかなという感じです。

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