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<芸>はうまい/まずい、面白い/面白くない、などではなくて、その演者の人間性、パーソナリティー、存在をいかに出すかなんだと気が付いた。


「談志の遺言」より抜粋

教育は芸だと思う。というか、生きることそれ自体がそもそも芸なのでは。「芸は身を助く」というが、いろんな経験をして、いろんな技術を持っている人はそれが魅力になると思う。その魅力の度合いによって、教育という芸のしやすさが変わってくると思う。

芸で思い出すのは留学した時の2つの教育学の授業。当時の私のドイツ語力は惨憺たるもので、どちらの授業も、内容は全く理解できなかった。けれど、一方は見ていてとても面白く、片方は退屈な時間が流れていた。

面白い授業の先生はイタリア系の若い男性が担当していた。「流石イタリア!」と思わせるようなお洒落なスーツを身にまとった先生が教壇に腰掛けて一言二言話した後は決まって、生徒たちとの議論合戦だった。講義室内を歩き回りながら、「これは~~~で、・・・だけど、前列のそこの君。このことについてどう思う?」みたいな感じでどんどん生徒に質問を投げかけるし、生徒も負けじと、先生が説明中でも手を挙げて今すぐにでも答えたいと思わんばかりの姿勢を示す。先生が持っている教育への熱い思いが講義から読み取れたし、その思いから溢れ出てくる行動の熱さが、聞いている生徒にも伝わって、講義室全体が熱気に包まれたような雰囲気だった。授業が終わっても先生の元に質問してくる学生が毎回現れていた。私としては授業の内容は全く分からなかったが、先生の情熱を感じることが出来たし、何より先生を見ているだけでとても楽しかった。

もう一方の、退屈だった授業の先生は上記の先生とは全くの逆と言ってよい。年配のおじいちゃん先生で、教壇に立つやいなやパワポの準備を始める。そして、パワポの説明をしだしたらそこから立ち位置は変わらない。パワポのスライドは文字がびっしり書いてあって、先生がそれを読み上げるだけ。なんか前年度と同じスライド使ってないかと勘繰ってしまう。先生が読み上げるだけの退屈な時間が続くだけなので、聞く側も携帯をいじったり、友達と会話したりする人もちらほら。苦行に耐えて、睡魔に打ち勝ったら、生徒たちは一目散に教室から出ていき、先生がいそいそとパワポの片づけをする。私としては授業の内容は全く分からなかったし、先生の情熱を感じることもできなかった。有意義に感じたことはただの一度もなかった。

両方の授業を言語的に理解することが出来なかったが故に、先生の質の違いをまざまざと感じ取ることが出来たのは大きな経験だった。聞き手によっては、「熱い先生は苦手」って言う人もいるから、一概に良い悪いは判断できないが、少なくとも自分の好みは前者の熱い先生だった。

聞く側で好みがそれぞれ違うけれど、「楽しくやっている人を見てると自分も楽しくなる」のは共通の感覚かなと思う。自分は酒を飲んで酔っ払うとジョークや小話をなりふり構わず連発してしまうのだが、ある飲み会で尊敬する先生から、「君の話は全く面白くないが、君がそんなに楽しそうに話している姿を見てると、なんだが楽しくなるよ。」と言われて、ハッとした。それ以来、「まずは自分が楽しむ」ということを第一に考えて行動するように心がけてます。他人を楽しませれるかは他人次第だけど、自分が楽しめば少なくともその空間には必ず楽しんでいる人が存在するということになるので、とりあえずはその状態を目指すようにしてます。

やっぱり、厭々やったり、やらされたり、こなしてるだけの感じだと、本人が楽しそうじゃないから、受け手側も全然楽しめないんですよね。そういうのにアタってしまった時は反面教師として学びの機会にはなるが、なるべく避けれたら嬉しい。

談志の遺言の中には他にもパーソナリティーの重要性を示す名言が☟

演者の人間性を、非常識な、不明確な、ワケの分からない部分まで含めて、丸ごとさらけ出すことこそが現代の芸かもしれませんナ。


落語というのは「演者のパーソナリティー」以外の何物でもない。ナニ、落語ばかりでなく、芸能の全てといってもいい。


個人的に、先生になるのは、免許を持った時ではなく、子ども達から「この人が私の先生」と認めてくれた時だと思っているので、資格を持ったからといって驕らずに、子ども達と人間対人間の関係でコミュニケーションしていく必要があるかなと。「”先生”だから」と子ども達が従順になるより、「キーくんだから」という理由で子ども達が慕ってくれるような先生像が理想です。

パーソナリティーで勝負!!!

<4月15日 追記>

・だからこそ、たとえ教員免許を持っていなくても、
生徒が「この人から学びたい、この人は先生だ」と思えば、
その人は生徒にとって”先生”です。
前述したツマラナイ講義をした先生は、
確かに大学の先生であるかもしれませんが、
僕にとって「先生」ではありませんでした。
講義内容以前にその人の形式(スタイル)に疑問を持ったからです。
その道を教える者であるならば、
聞く人全員をその道に引きずり込んでやろうという気概を持って、
「その道を歩んで得た結果」を楽しく語ってほしいものです。
内容ではなく「形式」ならば全員を納得させられるのでは!?
 確かに、全員を納得させることは難しいと思います。
授業を例としても、聞き手の学生は、
「理系科目が好き」「文系科目が好き」と千差万別なので、
内容だけで全員を楽しませるの難しい。
だからこそやっぱり僕は、
「まず先生が楽しんで授業すること」が大切だと思います。
そしたら聞き手は、
「俺はこの科目嫌いなのに、先生は楽しそうだな。なんでだ?」という風に
その科目に興味を持つきっかけになるかもしれないからです。
少なくとも、楽しんでいる人を見るのはつまらなくないので、
その授業の時間は無意味な物になることはありません。
まず自分が楽しむことでやっと、
周りの人たちを楽しませることができる。
「自分が楽しむ=相手を楽しませる」の法則だと思います。

講義室の中
講義室の扉

・私が留学しようと思ったきっかけ
 
そもそも私が留学したいなと思った最初のきっかけは、
留学を楽しそうに語る予備校の英語の先生でした。
 
「留学は素晴らしい、留学中に~をした、人生が変わった、~を見た、~を食べた、~出会った、~な体験をした、~へ行った」って、
 
授業の度に何度も楽しそうに言うんです。
 
それを聞いていくうちに洗脳みたいな感じで、
「あの先生があんなに楽しそうなんだから、自分もいつか留学したいな」と
ぼんやりと自分の中に留学が入ってきました。

大学に入って、明確な留学する目的を運よく見つけられましたが、その幸運もこの先生との出会いがあったからこそ、アンテナが立っていて、留学の情報をキャッチできたと思っています。

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