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⑤倉橋惣三が思う「先生の二面性」とは?(幼稚園雑草より抜粋)

A. 子供の相手に欠くことの出来ないものは積極、大胆、長閑さと共に、細心と、深慮と、慎重とだ。子供といっしょに笑いながら、ふざけながら、おどけながらも、自分を自ら戒め慎みてみだるところのない一点の厳粛味

子供は遊ぶ。我等は子供と共に遊ぶ。しかしおとなの遊びに子供を使ってはならない。子供は自由だ。我等は子供に自由を与えてやりたい。しかし、子供にいかなる生活をさせるかにはおのずから限度がある。みだるべからざる規矩がある。子供は自由だが、子供の相手をするものには、守るべきところがなくてはならぬ。子供の相手に消極は禁物だ。神経質の苦労性のあぶながりでは、思い切った子供の相手は出来るものではない。全般的態度として、積極と、大胆と、ある長閑さとは、子供を大きく育てる上に極めて必要なことだ。しかし、積極と冒険と粗慢と、長閑と余裕とは、似てしかし違う。子供の相手という、大にして微、微にして大なることにおいて、殊に、似てしかしてはなはだしく違う。子供の相手に欠くことの出来ないものは積極、大胆、長閑さと共に、細心と、深慮と、慎重とだ。子供といっしょに笑いながら、ふざけながら、おどけながらも、自分を自ら戒め慎みてみだるところのない一点の厳粛味、それのないものには子供は託せられない。

幼稚園雑草(上)p32

めちゃくちゃ分かる~。そうなんですよね。「細心さを払いながら積極的であること」、「深慮の上に成り立つ大胆さ」、「慎重と長閑さの両立」、「子供といっしょに笑いながら、ふざけながら、おどけながらも、自分を自ら戒め慎みてみだるところのない一点の厳粛味」は、よく言葉で表現してくれたなと思います。両極端な性質を自分の中に存在させることの難しさですよね。

子ども達と遊びながらギリギリのラインを攻めるというか、安全か危険かという崖っぷちぎりぎりの所で判断する感じなんですよね。以前書いたハンモック事件は自分の力不足故に失敗してしまった事例ですが、ただ、木登りをどこまでの高さ登らせるかとか、ハンモックを揺らすスピードはどのくらいがいいかとかっていうのは、子ども達の楽しさや喜びがMAXになると同時に、それをちょっと超えてしまうと安全を脅かすことになるんですよね。その見極めには経験やセンスがモノを言うんでしょうね。

あと、子ども達と遊んでいる時も周りの状況を把握しといて、危険な所はあるかとか、他で遊んでいる子ども達を間接視野に入れながら、目の前の子ども達を楽しませたりとか、なんか「メタ認知」的な能力、「目の前の子どもとの遊びに一生懸命な自分」と「周りで遊んでいる子ども達や園全体を考えている自分」を両立させる感覚は、普通の幼稚園よりも、森の幼稚園は求められると思いますね。周囲の環境が自然だったり、危険を伴う遊びが多いですから当然ですよね。

なんか、「もう一人の自分」というか、「一生懸命やっている自分と冷めてる自分(特に子どもの遊びは自分が子どもの頃に経験したことがあるから分かっているし、大人な自分としては”先が読めたり”、面白さを感じなかったりするので、結構簡単に作れる)を混在させる」というか、「1人の人間を50対50の割合に分ける」というか・・・そういったことが出来るようになりたいので意識はしています。

で、「もう一人の自分」を作ることもあれば、「そのもう一人の自分に『自分がその行動をした時の相手の気持ち』を考えさせる『=相手の立場になってみる』」こともありますね。

声掛けや伝える内容とかも、「今、このタイミングで良いか」とか「この言葉を使って表現して理解できるか」とか、「表情をどのようにしたら効果的か」とかを配慮しますよね。何度も言ってきた内容なのか、それとも初めて言う内容なのかによっても、子ども達の受け取り方も違うので、過去のことを考慮しないといけないですし、それを言うことで子ども達がどういう未来になっていくのかを見越したうえで伝えるので、子ども達の「過去、現在、未来」に気を配って言葉を使うのも大変なことだと思いますね。子ども達が成長するかどうかの瀬戸際に立って、自分の行動を選んで、子ども達と関わっていくのが結構スリリングだなと思います。

なんかどれだけ自分以外の”立場”になれるかというのが結構重要な能力だなと思ってます。例えば、目の前にいる子どもの立場になって遊びを最高のモノにしたり、同僚の立場になって疲れ具合やメンタル面などに気を遣ったり、保護者の立場になってどういうコミュニケーションをとれば家庭と幼稚園の連携が出来るか考えたり、はたまた”遊具”や”遊び環境”の立場になって、使う人にとってのチェックポイントを想像したり等々。

思いやりとは何か。「目に見えないモノを見ること」。

と、「高校サッカー 涙のロッカールーム」みたいな題名の本の中に書いてあってなるほどなと思いました。相手の心の中とかは見えないですし、一見何事も無いと思える所にも意外なチェックポイントは隠れているものですよね。見えないからこそ、相手の立場になって、目に見えないモノを見ようとする努力(=思いやり)が必要なのではないかなと思ってます。

個人的、先生としての相反する教育美学

自分のことを忘れて欲しくないけど、忘れて欲しい

こういう思いを持ってますね。幼稚園の段階で子ども達と楽しく遊ぶことで、子ども達にとって魅力的な先生として認知してもらい、子ども達の思い出の中で生き続けたいなという望みがあります。しかし、その一方で、自分の事なんて一刻も早く忘れ去って欲しいとも思います。幼稚園を卒業した後の人生において、その時の楽しさを上回るような経験をどんどんと積んで欲しいと思うからです。幼稚園の楽しい思い出なんて遥か遠く、深い谷底に落ちてしまうような、楽しい思い出をたくさん創ってもらいたいなと思っています。

こんなこと考えてる幼稚園の先生っているんですかね…?笑

仲良くしたいが為に、最初は仲良くしない

1年間ドイツに留学していた時に、色々なご縁が重なって、スウェーデンの保育研修に参加することが出来ました。その研修には教育関係の仕事を長く勤めていらっしゃる方々が多く参加されていました。その方々は、日本からスウェーデンへ向かい、自分はドイツからスウェーデンに行き、現地で合流する流れでした。

ここで書きたいのは、あるスウェーデンの森の幼稚園を視察した時の出来事です。森の幼稚園に到着した参加者の方々は、登園してきた子ども達に対して「可愛い~」って言ってはしゃいだり、あろうことか、子ども達に近寄って話しかけたり、遊びに加わろうとしていました。

個人的にはそういう態度や行動って、子ども達のことを考えてないよなって思うのです。登園してきた子ども達がまず一番最初にすることって、「安心」を見つけることでしょ?家族より外の範囲の人達との社会性を築いていく最初の時期にあたるんだから、親と離れることに一抹の不安を覚えるのは当然かと。そこで、子ども達は幼稚園に到着したら、好きな先生や友達と話をしたり、自分の好きな遊びをしたりすることで、自分が幼稚園にいても安心する感覚を作ろうとしているハズです。そんなその幼稚園生活の一日の基礎作りをしている子ども達に向かって、見知らぬ人かつ見た目が全く異なる外人が幼稚園にいたり、あろうことか近寄ってきたりしたら、子ども達はどう思うでしょうか?きっと不安になるだろうと私は考えています。なので、私は、他の園にお邪魔する際は、最初はなるべく目立たないようにして、子ども達が一秒でも早く幼稚園で安心を見つけられるように協力するようにしています。

そういう考え方をしているので、登園してきた子ども達に対して、自分の欲望のままに行動するベテラン教育者を見た時にビックリしましたね。案の定、子ども達から不審がられてましたし、ファーストコンタクトが最悪なモノになってしまったので、今日一日で修正するのはキツイだろうなと遠目から見て思っていました。

僕は朝の会が終わって、子ども達が自由遊びの時間に入った頃に、コミュニケーションを図りましたね。もう朝の会というルーティーンを終えて、子ども達が幼稚園での生活リズムをつかんできたと判断したからです。こういう時はいつも1人で遊んでる子をターゲットにします。なぜなら、1対1で直接的なコミュニケーションがとりやすい(2人とかだと、片方が自分に好感を持ってくれたとしても、もう片方が良く思ってくれなかったら、どっかに行ってしまい、関係性を築けなくなる)、一人で没頭するタイプなので自分に興味を持ってくれたら深い関係性を築ける確率が高い子ども一人と仲良くできればその様子を見ている周りの子ども達が自然と寄って来てくれるという理由があります。

最初はその子の遊びを遠目から観察して、次第に距離を詰めていき、気づくか気付かないところで「自分」が遊び始めるんです。砂をいじったり、生き物を捕まえたりとかして自分で楽しんでると、運良くその子が自分の存在に気付いた時に、「何が楽しいの?」って興味を持ちながら寄ってきます。そしたらもうこっちのもんです。二人でキャッキャッと楽しんでいたら、他の子ども達も寄って来て、最終的には気の合う子ども達と深い関係性を築ける。

結局、その森の幼稚園の研修で子ども達からずっと人気があったのは僕だけでした。他の参加者には子ども達は予想通り寄り付かなかったですし、多くの参加者から「なんでそんなにキーくんは人気なん?」って質問されたりしました。参加者の中には30年以上幼稚園の先生をやっているというベテランの方もいらっしゃいましたが、まさかその方から上記の質問をもらうとは思ってませんでしたね。子ども達はスウェーデン語を話していて、僕を含めて参加者全員はスウェーデン語を話せませんでしたが、それでも関係性に違いが出てくるのはひとえに、「子どもの立場に立って行動できているかという意識」ではないかと、その出来事を通じて思いました。

まぁ、「可愛い~」って言いながら近寄っていく気持ちも分からんではないですが(実際に可愛いし、初めて外国人の子ども達と接する女性の先生だったらなおさら母性本能をくすぐられて我慢できないだろうと。)、研修中ということや、子ども達の生活にお邪魔させてもらってるという意識を”メタ認識”として持っておかないと、ただただ感情の赴くままに行動してたらエライ目に合うなと思いますね。

こんなこと考えてる幼稚園の先生っていないんですかね…?笑

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