「障がい者という呼び方を排除したい」というのは傲慢なのではないか?
障がい者福祉事業とは、ある程度の熱量がなければ続けられないし、使命感をもって職務を遂行されている方が本当に多いと感じています。
また一方で、人員配置と障害等級を計画的に行えば、障害福祉サービスは大きな損失もなく微増ながらも経営を成り立たせていくことも一般企業に比べれば容易かもしれません。
そんな中に在って、障がい者に関わる福祉事業者の一部では、タイトルのような理念を胸に支援をされている方もいます。
私は障がい者福祉事業に籍を置いて一年にも満たない身ですが、この「障がい者という呼び方を排除したい」という言葉に違和感を感じています。
ということで、今回は障がい者という呼び方について少し触れたいと思います。
最後までお付き合いいただけると幸いです。
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…とは言え、業界の新参者が障がい者福祉の歴史や変遷を語るのはおこがましいので、さっそく結論から申し上げます。
「障がい者という呼び方を排除したい」とは、自らが健常者であり支援する側であるという歪んだアイデンティティによって引き起こされている差別的発言だと私は感じています。
私個人としては、排除すべきは「健常者」という呼び方だと思います。
障がい者福祉では、障がい特性を個性だと捉えています。
発達障害では、よく「コミュニケーション」「想像力」「社会性」について、何らかの生きづらさがあるとしていますが、あなたは、この3つについて自分が正常であると断言できますか?
「人見知り」や「冗談が通じない」、「社交性がない」といった性質の方は、その特性が顕現化していないだけで、人生の発達段階において、何らかの成長課題をクリアできていない状態にあると考えることも出来ます。
これは、ドイツ出身の発達心理学者で、アイデンティティの提唱者であるエリクソンの心理社会的発達理論に照らし合わせることで、理解が進むと思われます。
昨今では「大人の発達障害」が社会的課題として採り上げられることもありますが、これもまた、成長途中で得るはずだった心理的課題のクリアが成されないことで、その影響が顕著に出現していると考えることも出来るのではないでしょうか。
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私自身、アイデンティティの獲得が一般的な獲得時期より遅かったと思いますし、自律神経失調症の罹患経験もありますし、静動脈奇形という先天性の身体異常もあります。
ですから、健常者であるという自負は全くなく、障がいを抱えている人間だと考えたほうが、気持ちの上で納得感があります。
…そうは言っても、今の自分は健康体で何不自由なく暮らしているという方もいることでしょう。
しかし、例えば事故などにより身体や内臓器官に欠損ができてしまえば身体障害ですし、病気などにより脳の機能に異常が出れば高次脳機能障害となります。
なにより、老化でさまざまな機能が低下すれば、それもまた障害です。
そう考えれば、障がい者という言葉ではなく、健常者という言葉を排除したほうが私としては肚落ちします。
「健常者=普通」ではなく、あなたが個性ある一人の人間であるならば、何らかの生きづらさを抱え、葛藤した経験があるでしょう。
その葛藤が自己の能力に由来したものであるならば、「障がい者=普通」という概念に対し、抵抗感は生まれないと思うのですが、いかがでしょうか?
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今回は難しいテーマだったと書き進めるうちに改めて感じています。
決して、誰かの価値観を覆したいわけではないのです。
私たちは、知らず知らず驕り高ぶってしまう性質が大なり小なり自我に刻まれており、その無自覚な自我が、常に誰かを傷つけている可能性を考え続けなければならないのではないでしょうか?
自分という存在は、決して社会を俯瞰する立場にいるのではなく、社会という生きづらさを感じる真っ只中にあるという自覚が、他者理解に繋がるのではないかと思うのです。
かつての制度上、社会生活において障がい特性が顕著な方と接する機会がない方もいるでしょう。
しかし、すでにあなたの身近に、彼らは存在しているのです。
最初は未知な存在のように感じるかもしれません。
ですが、あなたと同じように、彼らも生きづらさを抱えています。
その存在に寄り添い、受け容れる心が、もしかしたら真の意味で障がい者という概念を排除するのかもしれません。
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ということで、最後までお読みいただきありがとうございました。
今回の投稿は以上です。
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