『「介護時間」の光景』(203)「席」。4.23。
いつも読んでくださっている方は、ありがとうございます。おかげで、こうして書き続けることができています。
(※この「介護時間の光景」シリーズを、いつも読んでくださっている方は、よろしければ、「2002年4月23日」から読んでいただければ、これまでとの重複を避けられるかと思います)。
初めて読んでくださっている方は、見つけていただき、ありがとうございます。
私は、臨床心理士/公認心理師の越智誠(おちまこと)と申します。
「介護時間」の光景
この『「介護時間」の光景』シリーズは、介護をしていた時間に、私自身が、家族介護者として、どんなことを考えたのか?どんなものを見ていたのか?どんな気持ちでいたのか?を、お伝えしていこうと思っています。
それは、とても個人的で、断片的なことに過ぎませんが、それでも家族介護者の気持ちの理解の一助になるのではないか、とも思っています。
今回も、昔の話で申し訳ないのですが、前半は「2002年4月23日」のことです。終盤に、今日「2024年4月23日」のことを書いています。
(※この『「介護時間」の光景』では、特に前半部分は、その時のメモをほぼそのまま載せています。希望も出口も見えない状況で書かれたものなので、実際に介護をされている方が読まれた場合には、気持ちが滅入ってしまう可能性もありますので、ご注意くだされば、幸いです)。
2002年の頃
個人的で、しかも昔の話ですが、1999年に母親に介護が必要になり、私自身も心臓の病気になったので、2000年に、母には入院してもらい、そこに毎日のように片道2時間をかけて、通っていました。妻の母親にも、介護が必要になってきました。
仕事もやめ、帰ってきてからは、妻と一緒に、義母(妻の母親)の介護をする毎日でした。
入院してもらってからも、母親の症状は悪くなって、よくなって、また悪化して、少し回復して、の状態が続いていました。
だから、また、いつ症状が悪くなり会話もできなくなるのではないか、という恐れがあり、母親の変化に敏感になっていたように思います。
それに、この療養型の病院に来る前、それまで母親が長年通っていた病院で、いろいろとひどい目にあったこともあって、医療関係者全般を、まだ信じられませんでした。大げさにいえば外へ出れば、周りの全部が敵に見えていました。
ただ介護をして、土の中で息をひそめるような日々でした。私自身は、2000年の夏に心臓の発作を起こし、「過労死一歩手前。今度、無理すると死にますよ」と医師に言われていました。そのせいか、1年が経つころでも、時々、めまいに襲われていました。それが2001年の頃でした。
2002年になってからも、同じような状況が、まだ続いていたのですが、春頃には、病院にさまざまな減額措置があるといったことも教えてもらい、ほんの少しだけ気持ちが軽くなっていたと思います。
周りのことは見えていなかったと思いますが、それでも、毎日の、身の回りの些細なことを、メモしていました。
2002年4月23日
『午後4時15分頃病院に着く。
近々、外出を予定していて、母がその話を覚えていて、うれしそうだった。
そのあとに、同じ病棟の女性の患者が亡くなったことを聞く。
その人のことを私も知っていた。
つい最近まで元気だったのに。
6月に母と一緒に誕生会を祝えたはずだったのに。
その後、時間が経ち、母が描いた絵の話になる。
これは?
「洋ランを描いたのよ。そうしたら、十二ひとえ、っていう名前で、珍しかったのよ」。
そのことが正しいかどうか、知識がなくて確認のしようがないけれど、なんだか良かったと思った。
午後5時30分から夕食。
午後6時頃、夕食中に、メガネのサックがうんぬん、というようなことを話しかけてくる人がいて、何かしらのトラブルかと思ったら、母がメガネ入れを忘れたのではないかと心配してくれていて、何か楽しげに話をしていて、ほっとはしたのだけど、その内容の確かなところは、分からなかった。
だいたい35分くらいで食事が終わる。
すぐにトイレへ行く。
「朝、2周するのよ」。
母が、急にそんな話をしたが、それは、病棟の中を朝方歩くようで、それだけ動けるのだったら、よかった。
午後7時に病院を出る。
「外出のこと、楽しみにしている」と言われる。
覚えていてくれて、よかった』
席
いつもの電車。
7人がけの横1列の座席のタイプの車両。
ある座席はぎっしりとすき間なく人が座っていて、その向かいの座席には一人も座っていない。
不思議なくらいアンバランスだった。
(2002年4月23日)
それからも、その生活は続き、いつ終わるか分からない気持ちで過ごした。
だが、2007年に母が病院で亡くなり「通い介護」も終わった。義母の在宅介護は続いていたが、臨床心理学の勉強を始め、大学院に入学し、2014年には臨床心理士の資格を取得し、その年に、介護者相談も始めることができた。
2018年12月には、義母が103歳で亡くなり、19年間、妻と一緒に取り組んできた介護生活も突然終わった。2019年には公認心理師の資格も取得できた。昼夜逆転のリズムが少し修正できた頃、コロナ禍になった。
2024年4月23日
天気が微妙で、曇りがちの空だ。
どうやら、昼間は雨は降らないような天気予報だったので、少したまった洗濯物を洗濯機に入れた。
けっこう、いっぱいになったので、最初は「普通洗い」にしようと思ったのだけど、ちょっと考えて「念入り」にかえて、スイッチを入れた。
庭の柿の木の葉っぱは、見るたびに大きくなっているように思う。
時間
4月からやる事が増えた。
それは、やるべきことでもあると感じているので、今のところ充実感もあるせいか、時間の流れ方がちょっと変わったような気がする。密度が少しだけ上がって、だから、ずっと毎日が早く過ぎているような感じから、いい意味で、微妙に引っかかりが増えたように思う。
ありがたい。
ケアについて
かなり以前(1997年)に出版されたのだけど、読み損なっていた本を読んだ。
それは、のちに「ケアの思想」についても幅広く展開する著者の原点のような印象があり、同時に、この時に提示されている課題などは、今も(解決されないまま)それほど変わっていないような気もした。
こうした前提のようなものは、今読んでも確かにそうだと思えるのだけど、この新書が発行されてから20年以上が経つのに、あまり常識になっていないのは残念にも思えるし、このことがまだ広まっていないから、「介護は誰でもできる」といった粗い見方を許しているのかもしれない、などと思う。
これも、日本で言えば、少しズレるかもしれないけれど、介護保険の運営をどう継続するのか。ばかりに、この20年が費やされてきたように思えてしまい、微妙に無力感に襲われる。
介護の現場の人たちは、介護の質を上げようと努力してきたのは、垣間見てきたつもりだけど、介護の業界全体や、介護に関わる政策に関しては、本当にケアの質を上げるための努力や工夫がされてきたのか、と思うと、疑問が残るままだ。
この指摘がされてから、やはり長い年月が経っているはずなのに、心理職の一人として、心理専門職が、医療・福祉のシステムに位置づけられているのか。と考えると、特に福祉の中で、心理職をどう活かしていくか?については、ずっと曖昧なままかもしれない、と感じてきた。だから、ここで指摘されていることは、残念ながら、2020年代の現在でも、課題のままでもあると思う。
すでに自分も心理職の一人として働いているのだから、すでに、こうした「空白」地帯として残されていることに無縁ではないし、責任もあるのだけど、それでも、あまりにも変わっていないことに、ちょっとショックを受けてしまう。
こうした変化の少なさを改めて目の当たりにすると、家族介護者への個別な心理的支援の必要性を訴えてきたつもりでも、それを受け止める土壌自体が、この社会にないかもしれない、と思って、諦めに近い気持ちにもなりかけたりする。
というところから、また少しずつでも、とても微力でも、始めなければいけないのだろうとは、思う
(他にも、介護のことをいろいろと書いています↓。よろしかったら、読んでもらえたら、うれしいです)。
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