『「40歳を過ぎてから、大学院に通う」ということ』⑨「面接と合格と手続き」
いつも、このnoteを読んでくださっている方は、ありがとうございます。おかげで、こうして記事を、書き続けることができています。
初めて読んでくださっている方は、見つけていただき、ありがとうございます。
私は、臨床心理士/公認心理師の越智誠(おちまこと)と申します。
(この『「40歳を超えてから、大学院に通う」ということ』シリーズを、いつも読んでくださっている方は、「面接前日の緊張」から読んでいただければ、重複を避けられるかと思います)。
大学院で学ぼうと思った理由
元々、私は家族介護者でした。
1999年に介護を始めてから、介護離職をせざるを得なくなり、介護に専念する年月の中で、家族介護者にこそ、特に心理的なサポートが必要だと思うようになりました。
そうしたことに関して、効果的な支援をしている専門家が、自分の無知のせいもあり、いるかどうか分からなかったので、自分で少しでも支援をしようと思うようになりました。
そして、臨床心理士の資格を取得するために、指定大学院の修了が必須条件だったので、入学しようと考えました。
私自身は、今、振り返っても、40歳を超えてから大学院に入学し、そして学んで修了したことは、とても意味があることでしたし、辛さや大変さもあったのですが、学ぶこと自体が初めて楽しく感じ、充実した時間でした。
「40歳を超えて、大学院に通うということ」を書こうと思った理由
それはとても恵まれていたことだとは思うのですが、その経験について、伝えることで、もしも、30代や40代や50代(もしくはそれ以上)になってから、大学院に進学する気持ちがある方に、少しでも肯定的な思いになってもらえるかもしれない、と不遜かもしれませんが、思いました。(もちろん、資格試験のために大学院へ入学するのは、やや一般的ではないかもしれませんが)。
同時に、家族介護者へ個別な心理的支援を仕事として続けてきたのですが、少なくとも臨床心理士で、この分野を専門としようと思っている方が、かなり少ないことは、この10年間感じてきました。
もしも、このnoteを読んでいらっしゃる方の中で、心理職に興味があり、臨床心理士や公認心理師を目指したい。さらには、家族介護者の心理的支援をしたいと思ってくださる方がいらっしゃるとしたら、できたら、さらに学ぶ機会を作っていただきたい、という思いもあり、改めて、こうして伝えることにしました。
この私のnoteの記事の中では、もしかしたら、かなり毛色が違うのかもしれませんし、不定期ですが、何回かに分けて、お伝えしようと思います。そして、当時のメモをもとにしているため、思ったよりも長い記事になっています。
よろしくお願いいたします。
今回は、臨床心理士になるため、介護をしながら大学院受験を目指し、勉強を始め、2度目の受験で筆記試験に合格し、次の「面接」に臨むときのことです。
面接前日の緊張
あしたは面接です。なんだか、この1週間は長く感じました。
雨がふっていて、かなり寒く、図書館へ行くのも、整形外科に行くのもやめて家にいました。一歩も外へ出ず、義母がセンターから帰ってきて、門の外で出迎えた時だけでした。
冷たい雨が降っています。
体調がいいんだか、悪いんだか分かりません。今日も、あした面接を受ける大学の教授の本をアマゾンで急に買って、あわてて読んでいました。児童虐待の事を書いた本がすごくよくて、こういう人が介護の事を書いてくれたらいいのに、と思い、できたら、こういう先生の元で勉強できたら、と思いました。
その一方で、介護者は精神的には、いわゆる虐待を受けている、といっていい状況で、それに加えて、周りの2次的被害もあって、こもりがちになり、そして、またストレスを増やす、という状況も多いように思っていました。
そういう事も含めて、介護者の状況をもう一度考え直す、というようにしたい、という考えに今のところなっています。そうすれば、介護者の強い怒り、というものの説明も、ある程度つくと思いました。ある意味では、介護に関しては、美談しか話す事を許されていないというか、それ以外の事を、実質上、聞く耳を持たない周囲によって、かなりそれで追いつめられていく。
極端かもしれませんが、そんなふうに思えることもありました。
さらには、たまに見る、社会への窓でもある新聞などで、介護の事に触れてあっても、がっかりするような事を、それも専門家というような人が言っているのを見ると、さらにがっかりして、傲慢かもしれませんが、自分でやっていくしかないんだ、と思うようになっています。
せっかく、介護に関心を持った人は、私ががっかりした人の意見を参考にしたせいか、一人で抱え込まないで。カイゴホリックにならないで。といった、返って嫌な思いになるようなことを言われたりもします。もしかしたら、かわいそうな介護者みたいな姿しか受け付けないのではないか、と感じることさえありました。
一方的な思いかもしれませんが、そんな事を考え、そういう研究や調査をする事によって、少しは介護の見られ方が、変わる可能性もあるのかもしれない、と思いました。そして、自分は、こういう書き方をすると、恥ずかしいのですが、介護の時間の中で、どうしても傷ついた部分があって、だから、その部分がおかしくなるのを注意はしなくてはいけなくて、そういうことも含めて、読んでいた本の著者である教授であれば、相談できるかもしれないと思いました。
そんなことを考えていると、この学校に入りたい、という気持ちというか、欲も出てきます。それも筆記試験で落ちたら、また勉強すればいい、と思えますが、もし面接で落ちたら、この学校自体と縁がない、と言われているようなものだから、そういう欲が出てきた分だけショックを受けるのだと思いました。
受かりたい、という気持ちになったのですが、でも、入学の事を決めるのは私ではなく、学校側だから、ベストをつくすけれど、それ以上はどうしようも出来ません。
どうしても入りたいんです、という熱意だけではどうしようもない、というのも、自分が合否を判定する側と仮定したら分かります。この人と一緒にいたくないな、と思われたら、そこで終わりで、それは、自分が間違っていなくても、縁だったり相性だったり、という、これも自分では、どうしようもないことで、すでに決まってしまっている気もします。
明日は、義姉にもらったマフラーをしていこう。うかったら、していきました、と報告し、ダメだったら、言わないでおこう。そんなことを思いました。
妻が一緒に、明日の服装のしたくをしてくれました。葬式以外でネクタイをしめるのは、10年ぶりくらいかもしれません。冬用しかないから、他の季節のネクタイも買った方がいいかも、などと思いました。ジャケットも、買ってから初めて着ました。まだ値札がついています。
けっこう緊張しているのが、自分で分かりました。
面接当日
朝、といっても午前10時にめざましが鳴る前に、高校時代の友人で勉強もよく出来たやつと会って話していて、お子様が一人亡くなった、という話題になった時に、夢から覚めました。
起きて、カロリーメイトを食べて、オリンピックのスケートを妻と見て、それから、あわてて、妻が昨日、手伝ってくれた格好をして、ネクタイをしめて、まだ腰痛があるのでコルセットもして、出かけました。ネクタイをしめたせいか、それほど寒さは感じません。
昨日、インターネットで調べた乗り換えの時刻の通りの電車に乗り、途中の駅で乗り換える時に、構内のパン屋さんでパンを買い、スタンプをまとめてもらい、これで10ポイントで食パンがもらえるとちょっとうれしく、電車に乗ってから、食事をして、最寄りの駅で降りて、コンビニで飲み物とチョコを買って、大学の構内に入りました。
入り口で受付の手続きをしていると、何人かの女性がいたのは見えました。みんな就職活動の時のようなダークスーツでした。
私は、上が紺色のジャケットで、ズボンがベージュで、中には青いセーターを着ているから、かなりカジュアルで、あ、ヤバいみたいな事も思ったのですが、もう仕方がありません。ただ、ネクタイをしてきてよかった、と思いました。
トイレに一回行き、集合時間になって、係の人が来ます。面接を受ける受験生は、自分も含めて6名。私以外は、全員女性でした。
さらに、部屋をうつります。そこで、受験番号順に待ちました。その途中で、昨日、一応、作った自分がしゃべりたいと思われる内容の資料を作ったファイルを読みました。なんだか緊張して、またトイレに行ったら、大便まで出ました。
ネクタイをしめなおそうとして、なんだか苦戦して、時間がかかりそうで、やめました。鼻の穴のへりの皮が少しだけめくれて、はなくそみたいだと思い、一生懸命とろうとしたが、なかなかとれません。はなくそに気をとられて、相手が聞いてくれなかったら、ヤだな、と思いつつ、少しとれて、そして、肌もがさがさだと思い、顔を洗い、少し潤いを足そうとしました。
もう一度くらいトイレに行ったら、一緒に面接試験を受ける女性が、廊下で、携帯で何か話していました。仕事の途中で来たような感じに見えました。
面接
面接は4番目。
縁起が悪いですが、そういう巡り合わせになるのも、いつものパターンのような気がします。
午後1時が最初の人で、わたしは、1時半くらいでした。一人、12分の予定。けっこう長いですが、そのくらいの時間をかけてくれた方がダメな時も、納得はいく気はしました。
そのくらいの長さがあれば、全く自分を出せずにダメだった、という事はありえないと思いました。まして、相手は、臨床心理学の専門家で、人に関しては間違いなくプロのはずだ、と思っていました。
声をかけられ、大きい机から、ドアの前のイスにうつりました。それから、そのドアの向こうに、またドアがあって、その中で面接が行われているようでした。もう、けっこう緊張しているのが、自分で分かりました。
名前を呼ばれ、一つ目のドアを開けて、中に入る。そこで、荷物を置こうと思ったら、中で、と言われました。さらに、もう一つのドアをノックして、部屋に入り、「失礼します。よろしくお願いします」と言って、荷物を置きましたが、持ってきたものも見ているんだろうな、と思いながら、「どうぞ」と言われて、座って、面接が始まりました。
横に長い机に、6人くらいの面接官が並んでいます。
いわゆる圧迫面接ではなく、もっと柔らかい雰囲気でしたが、やはり威圧感はありました。
ほぼ真ん中にベテランの男性教員が座っていて、私が話すとうつむいて、目を合わせずに、じっと聴いている姿が、やはり、凄みはありました。その男性教員に昔の仕事のことを聞かれ、プロゴルファーの凄さのようなことを話したら、少し興味を持ってくれたようでした。
質問
他にも、受験の動機や、介護の事や、いろいろと聞かれました。
介護をしていて、どれだけのことをしても、相手が忘れてしまうことはありますけど、それは、どう思いますか?
そうした質問をされ、少し考え、こんな答えをしたと思います。
その時だけ、少しでも楽しい時間を過ごしてもらえれば、あとは忘れても仕方がないと考えるようにしています。だから、言ってみれば、「一分間の幸福」のようなことを心がけているような気がします。
そして、今後のことについても、こんな話をされました。
大学は違う学部で、それも、社会人としての入学なので、入ってから、大変だと思いますが……。
これについては、答えは決まっています。というより、他にの言葉が考えつきませんでした。
そうですね。確かにおっしゃる通りだと思います。…がんばりたいと思っています。きちんと学んでいきたいと考えています。
さらに、その後の話も聞かれました。
もし、臨床心理士になったとしても、それだけで生活するのは難しいことがあると思いますが、どうですか?
これについては、受験勉強をする間にも、いろいろと調べてみました。どうやら、臨床心理士は、資格を取ったとしても、仕事が多くあるわけでもなく、常勤も少なく、大学院卒でありながら「ワーキングプア」と言っていいほど、収入が安定しないこと。順調に修了し、試験に合格したとしても、私は50歳を超えることになりそうなので、より仕事を得るのが難しそうなこと。
そんなことを含めて、考えてくれた話だと思いました。
こんなことを、答えたと思います。
そうですね。確かに、そんなようなことは、少しは知っているつもりです。それに、私の年齢では、もっと厳しいと思います。…ただ、現在、介護をしているだけで無職です。それよりは、少しは状況も良くなると思いますし、もしも、生活が厳しいときは、臨床心理士の仕事ももちろんですが、可能かどうか分かりませんが、以前していたライターの仕事も一緒にして、なんとか生きていきたいと考えています…。
全体的な雰囲気はウエルカムでホッとしたのですが、でも、全部聞いておいて、そして判断する、という事なのだろう、と思うと、時々、自分が調子に乗り過ぎたような気もしてきます。
面接は、けっこう早く終わったのですが、資格をとりたい。学びたい、というような事も含めて、そして、介護に生かしたい、というような事も言えました。
ただ、もう少し時間が経つと、ここの学校に決めた理由を言わなかった、とか、資格をとりたいだけか?と思われたんじゃないか、と、雰囲気がよくて、入りたい気持ちになっただけに、後悔しました。面接で落ちたら、来年受けても、もうダメなはずで、他の学校を受けるしかなくなるから、余計になんだか悩んでいました。
電車に乗って、帰りに図書館へ行き、整形外科へ行って牽引をしました。腰痛も、まだ続いていました。
家に帰ってきて、いろいろ後悔しているんだ、というと、妻に、「一応、言う事は言ったんだから、それでダメなら仕方がないよ」と言われました。ホントにそうでした。でも、ダメだったら、やっぱり、こう言えばよかった、などと後悔しそうですが、でも、そういう事を含めて、面接官は、見抜いているんだろうな、という気持ちにはなりました。
合格
それから、3日が経ちました。
昨日、というか、今日はあんまり眠れませんでした。いつものように義母の介護をしてから、午前4時頃に寝たのですが、6時くらいに目がさめてから、うつらうつらするくらいでした。
明らかに気になっていました。結果を知らせる書留郵便が、昨日の午前中に出しているはずなので、今日の午前中には着く予定で、それが気になっていました。この3日間、思ったよりも気になり続けて、そして、同じような場面と、自分の発言を思い出し、それに対してポジティブな評価とネガティブな評価が、自分の中だけで、交互に入り交じっていました。
玄関から、ピンポーンと音が鳴りました。
それで目がさめたのですが、妻が2階から1階に行って、また戻ってきて、もう少し寝ていようと思ったのですが、やっぱり気になり、時計を見たら午前8時半くらいで、自分にとっては、なんて早いんだ、と思ったのですが、起き上がって上着を着て、隣の部屋に行ったら、妻が大きい封筒を持っています。
「入学出願書在中」と表に書いてあったから、「これで、不合格だったら、わけわかんないよね」と言いながらはさみで丁寧に開けたら、ちょっといい紙に合格通知書と書いてありました。
妻が抱きついてきて、泣いていました。こんなに喜んでくれるなんて、ものすごくありがい。そんな気持ちになりました。
テレビではオリンピックのカーリングをやっていて、学生のようなたたずまいの中国チームに、ビジネスパーソンに見える日本チームが押されています。
合格できるなんて、夢のようで、頭がぼんやりしていました。もうしばらく起きていて、妻と話して、御礼を伝えました。ホントにありがたい。筆記試験は、特に今回は出来が悪いと思っていたので、受かったのは、何かに引っ張られている気がしました。いろいろな力が働いていると、大げさかもしれないけれど、思いました。
妻は、がんばったからだよ、と言ってくれましたが、この1ヶ月間の勉強量が少ないのは自分で、よく知っていました。だけど、合格できました。
目標
これから勉強の日々が始まり、出かける毎日が始まり、介護の日常は変わらないから、体への負担は増えるし、妻への負担も増えます。
この時間の中で勉強して、あらゆる力をあげ、2年後には卒業し、その後の臨床心理士の試験も合格する。それが、これからの目標になります。全くの無職で介護専念の時代は、10年で終わりました。
社会のリズムの中に、自分がゆるやかに組み込まれていくのが分かる気がします。これから2年間は一応、学生で、その後に資格試験に受かったら、臨床心理士という職業の人となります。仕事がない場合は、無職なのに、資格がある以上は、臨床心理士であることは変わりなくなります。
生活の糧にはなりませんよ、と面接で言われるような厳しい仕事ではあるのですが、やっとつかんだ未来へのきっかけだから、ここから一歩ずつ進んで行きたい。これからいろいろあるにしても、でも、もう前へ進むしかない。なんだか、うそみたいでした。
自分にもこういう事が起きる。正直いって、早くて来年だと思っていました。でも、もう進むしかなくなりました。これからも毎日、勉強して、介護をして、可能な限り、どちらの能力も上げていく毎日が、これからも続くだけで、それはある意味、これまでと変わりない事ですが、でも、確実に階段を上がった気持ちがします。
今日、家に打ち合わせで来てくれたケアマネージャーの人も、義理のお姉さんたちも、喜んでくれた、と聞きました。私は、出かけたので、妻から間接的に聞きました。夜中に弟に、メールをうったら、おめでとう、と電話がかかってきました。こんなにみんなに気にしてもらえて、喜んでもらえて、それが一番うれしく思えました。この10年で、こういうポジティブな知らせを、人に伝えたことがなかったですし、こんなに喜んでくれるとは思いませんでした。それが、とにかくうれしかった。
長い1日でした。
ずっと、ありがたいと思えていました。
これからは、少なくとも地上に出た生活になるのかもしれない。でも、調子に乗らず、とにかく毎日、毎日、介護をして、勉強を続ける事を忘れてはいけない、と思いました。
手続き
夜中遅くになり、手続きの書類を見ていたら、保証人だけでなく、副保証人まで必要な事が分かりました。妻だけでなく、もう一人必要になる。弟の顔が浮かんで、この欄に二人が並んでくれるのが筋ではないか、と思い、頼もうと思ったのですが、急にこんな事を頼んでは断られるのではないか、などとも思い、少し気が重くなり、よく眠れなくなりました。
次の日に、妻が姉二人と会うので、もし弟がダメだったら、お願いしてくれないだろうか?と頼んで、それは、大丈夫だったけれど、弟に、こういう大事な事をメールで頼んだりしたらダメなのではないか、などと思い、メールをうったら、夜中に全然問題ないです、と返事が来て、すごくありがたく思いました。
それで、なんだか、安心してしまいました。
そして、さらに次の日。合格発表の書類が届いてから、2日後の夜。弟に副保証人も頼めたし、あとは、書くだけと思いながら、また説明を読み返していたら、「必ず自筆」という言葉に気がつきました。微妙に目の前が暗くなるような気がしたのは、来週の金曜日に郵送で必着、の文字を見たからでした。
つまり、合格通知の書類を受け取ってから、一週間で、手続きを終わらせないといけないことになります。
今日は、日曜日の夜なので、最悪は、手続きの締め切りに間に合わないで合格取り消し、のイメージが浮かび、そんなことなら、そこだけ別の人が書けばいいか、みたいな事も思ったのですが、でも、そういうウソは、もし、ばれないとしても、将来的に、いい結果をもたらさないと思いました。
どうして、書類が届いた日に、もっと全部を確認しなかったのだろうと、後悔しました。
飛行機
今は、日曜日の夜で、締切りは金曜日で、でも、弟は転勤で四国にいます。介護は続いているので、日帰りで行くとして、火曜日に四国に行って、書類を書いてもらおうと考え、飛行機の空席状況を見たら、あいていました。
とにかく、今は、夜中でどうしようもないので、夜中の介護を終えて、寝て、あした起きてから、考えよう。そうしないと体調を崩してしまう、と思ったのですが、でも、次の日はいつもよりも早く目がさめました。
妻に相談したら、「行っておいでよ」と言われ、気持ちは飛行機に乗っていたのですが、とりあえず、弟に了承をとらないと、と思い、メールをうったら、しばらくたって電話がかかってきました。
明日の火曜日に、来てもらっても時間をとるのが難しい、という事で、方法は、2つあるんだけど、と言ってくれました。一つはファックスで送ってもらってそれに署名すること。もう一つは送ってもらったらすぐに送り返すこと。相談して、書類を送って送り返してもらうことにしました。なんだか、手数をかけて申し訳なかったけど、そうするしかありません。
宅配便
それから、郵便局に行ったら、今だと明日着く保証はありません、と言われ、コンビニで聞いたら、明日着きますよ、とあっさりと言ってくれて、ホッとして、宅配便はありがたいと思いました。とりあえず、書類を送ったら、すこし気が楽になりました。
放送大学の番組を録音して聞きながら食器を洗う毎日は変わらないけれど、その内容が少し近くなった気がしていました。そして、次の日の火曜日は銀行へ行って、定期預金を解約して、入学金を振り込みました。自分にとっては大金です。
これ、受験料ですか?と確認され、いえ、入学金です、と、金融機関のスタッフに答えることになったので、何かを疑われたのかもしれません。手続きをしている間、ずっと汗をかきつづけ、手続きが終わって、図書館へ行って、本を借り、印刷所に名刺の確認に行ってから、整形外科へ行って、腰の牽引をして家に帰りました。
何もしないまま昼寝をしたら、フットサルの試合の前に相手が大きな声を出すから、負けずにふざけんじゃねー、みたいなものすごい大声を出そうとして1回目は出ないで、あれ?とあせって、次に声が出たら、目がさめました。まだ20分もたっていなかったけど、それで目をさました。
夜10時過ぎに弟から電話がかかってきました。郵便局で今出した、と言われました。明日には着く、と続けてもらい、ものすごくホッとしました。会社で働いているのに、午後にも一度、自分の部屋に戻って見てくれたようです。
今日、火曜日に宅配便が着いたばかりのはずなのに、夜に郵便局に行ってくれたみたいで、すごく手際がよく、ものすごくありがたかったです。周りの人がこれだけ協力してくれるなんて、ホントに嬉しいものだと改めて思いました。ベストを尽くさないとバチがあたるとも感じました。
不安
水曜日になりました。
手続きの締め切りが、金曜日必着なので、あと2日です。
介護は続いているので、夜中の4時頃に眠る生活は変わりません。
まずは自分が若い頃卒業した、大学の卒業証明書が届くかどうかが不安になりました。寝ているのに気になっています。宛先が微妙に違っているのではないか、それで遅れるのではないか。
バイクの音がいつもより気になります。届いたのか、でも、違った。家の前で止まったような気がする、と思っているうちに眠っていたらしく、チャイムがなったのが午前11時過ぎで、自分がいつも起きる時刻で、それが大学からの手紙でした。ちゃんと届いてなんだかありがたかったです。
あとは肝心の、弟からの書類でした。
問い合わせの番号を聞いていたので、調べると、最寄りの大きい郵便局には、もう午後1時55分に届いているのがわかったので、それから30分くらいか、と思っていたら、チャイムがなりました。
来た来た来た来た。
妻に、悪いけど写真をカットするための台とカッターと、それから書類を書いてもらえるかな、と言いながら、玄関を出たら、確かに郵便局員でした。
手元に持っているものが、やけに四角なのが気になります。ハンコをおして、あれ、これは書類を丸めているのかな、などと思い、微妙に不安が大きくなり、階段を上がり、妻と一緒に荷物をあけたら、中からシステム手帳と、小さい時計が出てきました。すごくいい品で、合格祝いのようでした。ありがたいけど、あれ、書類は?と、ひやっとしました。ない、どこにもありません。
弟にメールを送ろうとして、さっきの確認番号を見たら、それとは違っていました。どうやら、これとは違う便で出したらしいのは、分かりましたが、ひやひやしました。ありがたかったけど、あせって、そして、もう来るだろう、と思いながら、また1時間くらいがたち、バイクが来たのですが、普通の郵便でした。
午後3時半で、まだ来ていません。できたら、今日中には、明日に着くように書類を出したいので、なんだかあせるけど、でも待つしかありません。
午後4時に、その書類は来ました。ちゃんとパッケージされています。副保証人に署名されているので、妻に保証人の欄を書いてもらい、あとは自分で書き、写真を妻に切ってもらい、貼って、郵便局へ着いたら、午後4時40分くらいでした。書留の速達。明日、着きますか?と聞いたら、都内ですから大丈夫です、と言われました。
木曜日には着くはずです。
見え方の変化
すごく、ホッとしました。
そして、ここのところ、確かに外の見え方が変わってきているのは、分かりました。
空気を吸えている感じがするのは、これまで息を止めるように生活してきたのかもしれない、と状況が変わって初めて気がつきました。がんばろう、と素直に思えます。
あれだけ、ばたばたしたのがウソみたいに、ちゃんと書類も出せました。
あとは入学して、勉強するだけだと思うと、不安はあるにしても、やっと、けっこう楽しみになってきたのが分かります。
ちょうど介護生活が10年が過ぎようとするころに、思わぬ変化が突然やってきました。自分としては、来年の受験が勝負だと思っていたので、意外でした。でも、これから肩書きを学生と書けるのは、うしろめたさがちょっと減るような気がします。
物音
やっと書類も出せたので、次の日の木曜日は、義母がデイサービスに行っている間に、久々に妻と買い物に出かけられて、外食まで出来ました。
明らかに、気持ちは変わってきています。
それから、家に帰ってきて、デイサービスから戻ってきた義母を迎えて、テレビを見て、洗濯ものを干していたら、義母の部屋から物音が聞こえ、妻の名前を呼んだら返事がなく、障子を開けたら、ベッドのそばで、義母がつかまり立ちをしていました。
もう、少し体が揺れています。
すごく怒ってしまいました。
何かにつかまってもやっと立てるか立てないかの程度で、“今度、転んだら骨を折って寝たきりですよ”と、ずっと医師からも言われていて、だから「一人で動かないでください」と言い続け、外での移動は車イスで、それでも不自由がないように、ずっと妻と2人で、ほぼ24時間体制でみてきて、そのすべてを台無しにする可能性のある行為だったので、すごく怒ってしまいました。それは、ほめられたことではありませんが、怒っていました。
こうしたことを、最近は、義母も滅多にしなくなっていたので、驚いたせいもあります。
コートが3着。その障子のところにかかっているのが、気持ちが悪い、と言って、それを何とかしようとしていたらしいのは分かりました。
それならば、言ってください。と怒ってしまいました。耳が聞こえないので、筆記ボードでも伝えました。妻がそのコートを片付けました。人の姿に見えたのかもしれません。でも、もし、さっき、無理に、つかまり立ちをしていたので、少しでもバランスを崩して転んでいたら、後ろにヒーターもあるし、頭をうっていた可能性もありました。
そうなったら、90歳を超えているのですから、どうなったか、分かりません。
ちょうど私が、部屋の前にいて、気がついて、それは義母からみたら、うるさい行動でもあるのも分かりますが、でも、気がついてよかった、と思いました。同時に、学校へ通うことが不安になります。こんな事は、またあるでしょう。私の不在の時間が多くなり、2年間、妻の負担が増えて大丈夫なのだろうか、という気持ちでした。
その時間の中で、妻が過労死、というのは本当に避けたいし、自分が変になっても嫌だし、でも、未来につなげるために、生き残る確率を少しでも増やすために、受験して、資格につなげようと考えたこと。夜中の介護をしても、学校へ行けるように、授業が夕方から始まる大学院を選んだことも、思い出しました。
自分と妻の未来のためでした。それでも、こういう事があると、介護は変わらずに続くのですから、本当に学校へ行ったりしたりしていいんだろうか、と不安が大きくなって、ふと忘れそうになります。
でも、社会とのつながりがその先に見えるから、ここ数日間、今までは土の中に暮らしているような感触だったのですが、実は水中にいるような、さらに息苦しい感覚だったのを、今の状況になって初めて知りました。
ただ、この10年間の事は忘れない。その意味をちゃんと振り返って、意味あるものにするためにも、臨床心理学を学びたい、と思ったことも、忘れない。
そんなことを、改めて思いました。
反省点
もし、2023年の今なら、受験する大学院について、さらには、その大学院の教員について、もっと知っておいた方がいいと、当然だけど、思います。
そして、面接の時に、その大学院に入学したい理由は、きちんと伝えた方がいいのは間違いありません。
さらには、合格した場合、その手続きの書類は、すぐに目を通して、何が必要なのかをなるべく早く、きちんと把握すべきだと思います。
私は、介護を続けることを前提に、夜中の介護の担当でしたから、夕方の講義中心で、さらには、社会人枠があって、卒業した大学の学部が臨床心理学部でなくても受験できる、という条件を優先させました。それは、ある意味では、邪道ですが、入学後、教員の方々も含め、とても恵まれていた環境で、それは、とても幸運だったと、今でも思います。
後年、ある関係者の方に、臨床心理学大学院の受験について、聞いたことがあります。
まず、筆記試験で、定められた人数を、成績順に面接をします。そして、その中で優れた人を合格とするというよりは、今後、臨床心理士になった場合に、その職業に関しては、適していないと思われる人を、不合格にする。そのために、面接が行われている、といった話ですが、なんだか納得した記憶があります。
その後、臨床心理士試験でも、筆記試験の後に、面接がありました。
そのとき、どの点を見られていたのかは、今でも分かりません。
(他にも、介護のことをいろいろと書いています↓。よろしかったら、読んでもらえたら、うれしいです)。
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