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「40歳を超えてから、大学院に通う」ということ』⑤「天才という存在」

 いつも、このnoteを読んでくださっている方は、ありがとうございます。おかげで、こうして記事を、書き続けることができています。

 初めて読んでくださっている方は、見つけていただき、ありがとうございます。
 私は、臨床心理士/公認心理師越智誠(おちまこと)と申します。


(この『「40歳を超えてから、大学院に通う」ということ』シリーズを、いつも読んでくださっている方は、「受験勉強」から読んでいただければ、重複を避けられるかと思います)。

大学院で学ぼうと思った理由

 元々、私は家族介護者でした。
 1999年に介護を始めてから、介護離職をせざるを得なくなり、介護に専念する年月の中で、家族介護者にこそ、特に心理的なサポートが必要だと思うようになりました。

 そうしたことに関して、効果的な支援をしている専門家が、自分の無知のせいもあり、いるかどうか分からなかったので、自分で少しでも支援をしようと思うようになりました。

 そして、臨床心理士の資格を取得するために、指定大学院の修了が必須条件だったので、入学しようと考えました。

 私自身は、今、振り返っても、40歳を超えてから大学院に入学し、そして学んで修了したことは、とても意味があることでしたし、辛さや大変さもあったのですが、学ぶこと自体が初めて楽しく感じ、充実した時間でした。

「40歳を超えて、大学院に通うということ」を書こうと思った理由

 それはとても恵まれていたことだとは思うのですが、その経験について、伝えることで、もしも、30代や40代や50代(もしくはそれ以上)になってから、大学院に進学する気持ちがある方に、少しでも肯定的な思いになってもらえるかもしれない、と不遜かもしれませんが、思いました。(もちろん、資格試験のために大学院へ入学するのは、やや一般的ではないかもしれませんが)。

 同時に、家族介護者へ個別な心理的支援を仕事として続けてきたのですが、少なくとも臨床心理士で、この分野を専門としようと思っている方が、かなり少ないことは、この10年間感じてきました。

 もしも、このnoteを読んでいらっしゃる方の中で、心理職に興味があり、臨床心理士公認心理師を目指したい。さらには、家族介護者の心理的支援をしたいと思ってくださる方がいらっしゃるとしたら、できたら、さらに学ぶ機会を作っていただきたい、という思いもあり、改めて、こうして伝えることにしました。

 この私のnoteの記事の中では、もしかしたら、かなり毛色が違うのかもしれませんし、不定期ですが、何回かに分けて、お伝えしようと思います。

 よろしくお願いいたします。


受験勉強

 ずっと勉強も得意ではなかったのですが、受験勉強はもっと苦手でした。
 それは若い時からずっと、暗記する力が弱かったことも理由の一つです。

 ただ、自分自身が介護者となり、いろいろな人たちとも知り合い、介護者にこそ心理的な支援が必要だと強く感じ、自分自身が支援に関わろうと考え、そのために大学院で学ぼうと決めたので、学ぶ意欲自体は低くありませんでした。

 介護を続けながらですが、試行錯誤をしながら、少しずつ臨床心理学を中心に心理学を学べるようになってきた。本格的に勉強を始めてから1年が経つ頃には、そんなふうに思うようになりました。

 本屋に通い、どんな参考書で学べばいいか。模擬試験を受けて、その対応方法を考える。オープンキャンパスに行き、さらにどんな準備をすればいいのかのイメージもできました。

 だんだん、どんなことを学べばいいのかがわかってきました。

繰り返し

 受験勉強であれば、一種の競技に近いところがあるので、その方法を反復練習によって、身につけていく、という作業が必要になることを、心身で思い出し始めました。

 若い頃から、愚かな部分が多かったので、学問であれば、その基本から考えなくてはいけないと思いすぎて、受験には向かないスピードでしか学ぶことができませんでした。大学の受験勉強の途中で、模擬試験などを繰り返す中で、これは一種のクイズなんだ、と思えてから気持ちが楽になり成績が上がったことがありました。

 もちろん、臨床心理士になったとすれば、そんな受験勉強だけのスキルでは、仕事に対応するには、どうしようもないのは何となく予感しながらも、その前に、大学院に入学しないと始まりません。

 1990年代にスクールカウンセラーの制度ができ、その役割を担った臨床心理士に注目が集まり、臨床心理系の大学院の人気が高まり、この前行ったオープンキャンパスでも、大学院でありながら倍率が5倍とか、高いと8倍などと言われたので、学力が上がらないと、当然ながら合格することはできません。

 そのために、どんな勉強をすればいいのかは分かってきました。
 基本的に過去問を解いて、分からないところを学び、また過去問や模擬試験を解いていく。そして、覚えるべきことも分かってくるし、自分が苦手で理解すべきことは理解しようとする。

 その繰り返しをしていくしかありません。

 心理統計も、心理検査も、自分にとっては未知のものでしたが、過去問や模擬試験を受けて、できないことを手がかりとして勉強をしました。本当の基礎から積み上げていくのが本筋だとは思うのですが、それだと、合格するまでにどれだけの年数がかかるか分かりません。

 ですから、受験のための勉強をすることにしたのですが、それは、ある部屋の中をひたすら掃除するような作業に思えました。臨床心理学も当然学問ですから、学ぶべきことは無数にあるのですが、その中で、大学院に合格するための勉強をするのは、私にとっては掃除するべき部屋を決めることに近いイメージでした。

 さらに、何度も過去問を解いて、模擬試験を受けて、その問題を解けるようにする。その繰り返しでした。

 私にとっては、同じ部屋を何度も何度も掃除をし続けることと感覚的には一緒なので、それが大学院受験を突破するためには必要なのですが、同じことを繰り返すのが、とても苦手で苦痛でした。

 こうしたことがうまくできないので、昔から、受験勉強そのものに向いていないと、改めて思い知らされました。 

フロイトという存在

 たぶん、受験勉強としては間違っていると思うのですが、臨床心理学の大学院に行くことを考えたときに、最初に読んだのが「フロイト全集」でした。

 フロイトがいたからこそ、臨床心理学という学問ができたと考えていたのですが、最初、フロイトは医学的な方向から研究を重ねていて、その厳密さに少し驚くような気持ちでした。さらには、心理療法やカウンセリングと言われる方法の基礎になったのは間違いないのだと改めて思いました。

 そして、人間には無意識があって、それは本人にもコントロールできない、という「常識」を、発見した人、という認識だったのですが、今は、これは変なことと思われにくくなっているのですが、このことを言い出した時は、おそらくは、伝わらないだろう、という前提があるせいか、フロイトの文章にはとても熱がこもっていると思いました。

 当時の私は、基礎的な教養や、心理学もほとんど分かっていない人間でしたが、それまではほとんど語られていないことを、フロイトが広く伝えようとしている姿勢は、少し分かったような気になって、それは、本当にフロイト研究をされている方からは怒られそうですが、改めてすごいと思いました。

 受験勉強自体は、かなり単調に感じていましたが、こうした「天才」が切り開いた学問をしているんだと思えることは、やる気を引き起こしてくれる事実でした。

転移

両親などの重要な他者に対する抑圧された感情が分析家自身に向けられるとかある。これを転移と言う。

 これは、精神分析学の基礎として、今はごく当たり前に語られていたり、もしくは、古いのではないかと否定されている、といったこともいろいろと読んでいると分かってくるのですが、これも、フロイトが臨床実践の中から生み出した理論だと思いました。

 ただの受験生なので生意気なのですが、フロイトが実践の中で発見したことを理論として一般化したことに、フェアさを感じていました。

 これは本当にフロイト研究をしている方から見たら、間違った考え方の可能性はあるのですが、この「転移」という概念を広く伝えようとしたフロイトのことを想像してみました。

 面接の中で、「転移」が起こり、それはきちんと扱えば、治療に向けて有効なはずですが、その状態を「自分だけが起こせる」として、秘術のように扱い「私だけが治療をできる」といった行動を取れば、もしかしたら、フロイトは、経済的にはもっと潤った可能性もあったかもしれません。

 だけど、フロイトは「転移」として、自分だけではなく、同じ状況になったら、どんな治療者でも起こり得る現象と理論化しました。

 それは開かれていて、フェアな姿勢だと思いました。

 フロイトは精神分析学の始祖でもあるのですが、この姿勢が、臨床心理学が学問として発展していく基礎を作ったと思えたら、そうしたことにわずかでも繋がるために、今の受験勉強をしていく必要があると考えられたら、頑張れるような気持ちになれました。

 学ぼうとしている分野に、フェアな天才がいた、と思えるのは心強いことでした。

(20世紀の2人の「天才」の往復書簡の本です↓)。


認知心理学

 臨床心理学の大学院を受験するとしても、臨床心理学だけではなく、心理学全般を学ぶ必要があります。

 心理統計も、英語も勉強しましたが、個人的には認知心理学が、もっとも縁遠く感じていました。例えば、発達心理学だと、人間そのものを考えているような気がしたのですが、認知心理学は、もしかしたら粗い理解かもしれませんが、医学に近いように思っていたからです。

 だけど、認知心理学は、少しでも学ぶと不思議な気持ちになってきます。

 私たちは、「世界そのもの」を感じているわけではない。視覚も聴覚も、感覚というのは、「世界」を、目や耳などの感覚器官を通して感じて、それを脳で処理してから、初めて「世界」を感じることができる。

 これも浅い理解だと思うのですが、そんなことを考えると、本当に「世界」を見ていないし、聞いていないし、自分は、自分の脳を通してしか、何も分からないと思うと、それは哲学の領域の話のように思えました。

 その一方で、認知心理学という学問を追求している人たちは、限りなく脳科学のようになっていくのではないか。少なくとも、人間の内側について調べ、分析し、考えていく学問ではないか。そんなことを感じていました。

「アフォーダンス」

 この分野で、「アフォーダンス」という概念を提唱している J.J.ギブソンという学者の存在を知りました。

ジェイムズ・ギブソンは、環境が私たちの知覚と行動に与える影響(アフォーダンス)を最初に研究した人物として有名です。

ギブソンは、物理的な環境が私たちの知覚に与える影響を指摘したことに加え、社会的な環境が私たちの知覚に与える影響も指摘しました。物理的な環境がもたらすアフォーダンスとは、例えば、私たちが椅子を見つけた際に、それは座るものであるという情報を得、実際に座るという行動を引き起こします。

このように、ギブソンは、物理的・社会的な環境が私たちの知覚と行動にもたらす影響を明らかにし、周りの環境が発達と密接に関わっていることを指摘した人物です。

 これも、本当に理解していなかったのかもしれませんが、認知心理学者であるギブソンが、人間の内側だけを追求するのではなく、外側の「世界」に視点を置いているところが、なんだかすごいと感じていました。

 これまで認知心理学が、人間の内側の追求を続けてきたはずで、ギブソンも、そうしたことを学んでいたはずなのに、それは本人にとっては必然なのかもしれませんが、まるで視点の逆転を起こしたように思えました。内側の学問を、外側の学問でもあるようにしたように思いました。

 どの分野にも「天才」はいるんだと改めて思いました。

 自分は地道に一つずつ学び、そして覚えていくしかないのですが、それでも、その退屈に思える受験勉強も、フロイトや、ギブソンのような「天才」のことが、もう少しわかるかもしれないと考えると、それは、自分にとっては同じ部屋を掃除し続けるような退屈な行為かもしれないけれど、意味があるかも、と思ったりしました。

 それは、気持ちの励みになりました。

 直接、受験勉強には関係ないかもしれませんが、心理学を発展させてきた「偉人」のことを知るのも、大きな視点で捉えればプラスになるように思います。


(現代では、この人↓の影響を受けていないカウンセラーも、臨床心理士もいない、と言われているような存在です)。

(「欲求の5段階説」を提唱したことで有名な心理学者です↓)。

(セラピストの中で「天才」と言われるような人です↓)。

 
 今回は以上です。

 次回は、「⑥入試」の予定です。



(他にも、いろいろと介護のことを書いています↓。よろしかったら、読んでもらえたら、うれしいです)。





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 この記事を読んでくださり、ありがとうございました。もし、お役に立ったり、面白いと感じたりしたとき、よろしかったら、無理のない範囲でサポートをしていただければ、と思っています。この『家族介護者支援note』を書き続けるための力になります。  よろしくお願いいたします。