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家族介護者の方へ⑨「まだ介護が続いているような感覚の時期」

 いつも、このnoteを読んでくださっている方は、ありがとうございます。そのおかげで、こうして記事を、書き続けることができています。

 初めて読んでくださっている方は、見つけていただき、ありがとうございます。
 私は、臨床心理士/公認心理師越智誠(おちまこと)と申します。


(※いつも、このシリーズを読んでくださっている方は「介護ボケ」からですと、これまでとの内容の重複が避けられるかと思います)。

「家族介護者の方へ」

 このnoteでは、これまで介護者だった私自身の経験や、心理職として見聞きしてきたこと、学んだ事なども統合して、できるだけ一般的な事として、伝えることができれば、と考えて書いてきました。

 さらに、家族介護者の当事者というよりは、どちらかといえば、支援者や介護者の助けになりたいと考えている周囲の方々向けを意識してきました。

 それは、実際に介護をされている方々は、とても大変な毎日を送っていらっしゃるのは間違いないので、こうしたnoteの記事を読んでいる時間や余裕がないかもしれない、と思っていたからでした。

 ただ、実際にnoteを始めてみて、読んでくださるのは、当初に想定していた介護の専門家の方々もいらっしゃっるのですが、それと並んで、実際に今も介護をされている方々が読んでくださり、コメントをいただいたりすることに、気がつきました。とてもありがたいことでした。

 家族介護者には、こうしたnoteの記事を読むような時間も余力もないのではないか、という私自身の想定が間違っていたのが分かりました。こんな言い訳のようなことを書いて、失礼で申し訳ないのですが、やはり、実際に家族介護者の方へ直接伝える意識を持った記事も必要だと思うようになりました。

 これまでの内容と重複することも少なくないとは思うのですが、「介護の段階」によって、この「家族介護者の方へ」少しでも役に立つような記事として、書いていこうと思っています。

 9回目は、「まだ介護が続いているような感覚の時期」です。よろしかったら、その時期だと思っていただける家族介護者の方に、読んでいただければ、幸いです。

介護ボケ

 今はあまり言われなくなりましたが、一時期は、介護を終えた家族介護者に向けて「介護ボケ」という言葉がありました。

 介護を終えた後に、これまでの介護に専念するような生活が終わって、大変でありながら、どこか生きがいになっていた生活がなくなったことで、ぼんやりしてしまうのでは、と見られていたことがありました。

 もしくは深い悲しみに沈みすぎたり、過度のアルコール摂取をしてしまうのではないか、といった見守りというよりは、警戒心と共に語られることもあったようですが、あまり言われなくなったということは、そのことが事実として、あまり見られないからではないか、と思っています。

 詳細を書くのは、煩雑すぎるので省略しますが、私自身が、大学院で修士論文を執筆する際に、過去の論文などを探し読みましたが、「介護ボケ」がどれだけ実在するかに関しては、根拠が薄い可能性もあることが分かりました。

 熱心に介護をしている人が、介護を終えた場合に、虚脱感に襲われたり、生きがいをなくしたりするのではないか、といった外側の視線による推察から出てきた言葉であるかもしれません。

 逆に言えば、「介護ボケ」と見られるのを恐れ、まだ心身が疲労状態にあるにもかかわらず、無理に動き始めた場合には、本当に心身に支障を来たすことも考えられます。

 ですので、介護が終わった後、それまで自分自身の体調は二の次になっていて、それが介護が終わって、やっと自身の疲れに気がつき、思った以上に深い疲労感があるとき、場合によっては、自分のために病院に行き、診察を受けて欲しいのですが、そうでなくても、可能な限り、十分な休養をとってもらいたいと考えています。

続く悲しみ

 周囲の人から見れば、介護が終わったということは、家族を失うということですから、しばらく悲しみに暮れていたら、心配してくれると思います。

 でも、その期間が長くなれば、最初は、同情していた人たちも、いつまでも悲しんでいてはいけない、といった見方に変わっていく可能性もあります。

 確かに、悲しさが何ヶ月も続き、それだけではなくて、ずっと涙にくれる毎日になり、もしも、自分も死んでしまいたい、といった気持ちが続くようでしたら、それは、介護の生活の中で、あまりにも心身に負担がかかりすぎ、自力で回復するのが難しい状態になっていると思われます。

 その際は、抵抗感があるかもしれませんが、心療内科や、精神科カウンセリングを受けることが適切な対応だと考えられます。


まだ介護が続いているような感覚

 この「まだ介護が続いているような感覚」については、これまで何度もこのnoteで書いてきたと思いますので、ご存じの方もいらっしゃるかもしれませんが、私以外に、このことを話したり、書いたりしている人をまだ知りませんので、まだ広く知られていないようですので、今回も、改めて触れたいと思います。

 これは、私もさまざまな家族介護者の方に話を聞く中で、気がついた感覚です。

 介護が終わったあとの、「介護ボケ」などと言われるような状態とは違って、「まだ介護が続いているような感覚」は、一見、元気に見えます。おそらく、ご本人にも、体調の悪さなども感じることなく、介護が終わったあとの生活も、介護中とあまり変わらずに過ごされているのだと思います。

 ただ、すべての人に言えるわけではないとは思うのですが、もしかしたら、介護中と変わらなくて、まるで「介護が続いているような感覚」の場合もあると考えられます。

 そんなにきっちりと定義づけをするのも難しく、無理やり、自分を当てはまる必要もないのですが、介護中と同様に、ずっと緊張が解けない心身の状態が、変わらない場合に、「介護が続いているような感覚」と言ってもいいのかもしれません。

 それは、実は、介護中とあまり変わらず、心身への負担が続いている状態でもあります。

免疫機能の低下

 これが問題でないかと思うようになったのは、ある研究を知ってからです。

 Janice K.Kiecolt-Glaser et al(2003)は、介護ストレスが強い場合、血中のインターロイキン6が約4倍になり(このインターロイキン6とは、心臓病やある種のガンと関連があることが分かっているのですが)そのインターロイキン6は、被介護者の死後も少なくとも3年間は高濃度の状態が続いている、と報告しています。

 これが何を表しているのかと推測すると、介護が終っても、まだ介護を続けている時のような、ずっと緊張感が抜けない「非日常的な感覚」がいつまでも続き、そのため、体への負担も介護中と変わらないまま免疫機能が落ちている、という状態を示しているのではないか、と思いました。

(特に、この「待機」と「見守り」の習慣↓が抜けるのは難しいのではないかと感じています)。


 これもまだ推測に過ぎず、自分の狭い範囲の実感にすぎないのですが、例えば、介護が終わってから、ほどなく亡くなってしまう家族介護者の方も、少なくなくいらっしゃる印象があります。

 それは、介護が終わって、ホッとしたのでは、といった見られ方をすることの方が多いように感じていますが、実は、介護が終わっても、ずっと同じように心身の緊張が続き、「介護が続いているような感覚」のままで、そのために免疫機能が低く、それで病気になった可能性があるかもしれない、と思うようになりました。

 それは、介護中は、心身にかなり無理がかかっていたとしても、介護を必要とする家族(要介護者)がいるとすれば、自分自身のことは後回しにして、クルマの運転で言えば、ずっとアクセルを踏みっぱなしで、その習慣が変わらずに、介護が終わったあとも、心身に負担をかけ続けている。

 それが、介護が終わったあとも「介護が続いているような感覚」ではないか、と思っています。

夜中の習慣

 とても個人的な経験に過ぎませんが、私自身も介護をしてきた時がありました。そして、実母を亡くしたあとは、まだ義母(妻の母親)の介護が続いていたので、介護の感覚は変わらず、というよりは、それを継続しなければ、妻と一緒に介護を継続できなかったように思います。

 そして、義母が突然亡くなり、19年間の介護が突然終わったのが、2018年の年末でした。

 私は夜中の介護担当で、午前5時頃に眠る生活が何年も続いていたせいか、それから、1年ほど、ずっと早く眠ることに怖さと、なぜか罪悪感がありました。

 ですから、思ったよりも昼夜逆転の生活を修正するのに時間がかかってしまいました。

 夜中に1階に行くと、義母がいた部屋を、今は誰もいないのに、様子を伺う習慣も続いていました。だから、どの程度の緊張感かはわかりませんが、それも「介護が続いているような感覚」なのだと思います。

 それが、ある程度、抜けていったのは、1年が経った頃でした。
 儀式的に「一周忌」を、きちんと行ったわけではありませんが、親戚が集まり、1年が過ぎたことを確認できたので、もう不在であることが改めて身に染みたのかもしれません。

介護後

 このような個人的なことは、ごく一例に過ぎませんし、それこそ、介護が、人によってかなり違うのと同様に、本当に、介護後も多様だと考えられます。

 ただ、こうした例をあげたのは、介護が終わって、例えば何ヶ月か過ぎた頃に、まだ「介護が続いているような感覚」があったりしても、それは、それほど不自然ではない、といったことを思ってもらえたら、という気持ちがあったからです。

 介護というかなり大変な時間を過ごし、絶え間ない緊張を当たり前のようにしてしまった生活から、その時間を支えていた習慣を体から抜いていくのは、介護が終わったとしても、思った以上に大変なことなのではないか、と思っています。

 ですので、介護が終わって、1年近くが経っても、まだ介護中と変わらないような心身の状態が続いていたとしても、そのことで焦りとか、なんとかしなくちゃ、というような自身を叱咤激励する思いや、まだ気持ちの切り替えが出来ていないとして、情けなさを感じないでいただければ、と思っています。

 介護を続けてきた、というのは、改めて大変で、場合によっては過酷なことだと、改めて思っています。

リラックスを思い出すこと

  そうはいっても、「介護が続いているような感覚」が、心身に負担をかけている場合は、できれば、その感覚から抜け出たほうがいいように思います。

 ただ、この場合に、「抜け出ないと」といった、自らへの強制的な思いを持てば持つほど、それは逆に負担を増やしてしまい、さらに心身の消耗を招いてしまうようにも思われます。

 人によって環境は違うと思うのですが、可能であれば、意識的に、1年ほどはなるべくゆっくり出来たら、と思っています。同時に、日常に復帰するのに、それくらいの時間を見積もってもらえたら、焦るよりも、返って、「介護が続いているような感覚」が抜けやすくなるのでは、とも思います。

 介護に関わる時間が長いほど、またその密度が高いほど、やはり、介護という、非日常的な要素もある環境に適応していたのですから、そこから日常的な感覚に戻るには、だいたいは1年はかかる、と最初に思っていただければ、少し気が楽になるかもしれません(もちろん個人差はあります)。

 また、同時に、気持ちの部分の緊張感を意識的にリラックスさせるのは難しい場合もありますので、それに加えて、出来たら、体がリラックスを思い出すようなリラックス法に、意識的に、でも、あまり一生懸命になり過ぎず、ゆったりと取り組んで、自分の心身を大事にすることも始めていただければ、と思っています。


   今回は、以上です。

 次回は、「⑩介護体験を意味づける事への微妙な葛藤期」の予定です。


(参考資料)
Janice K.Kiecolt-Glaser,Kristopher j.Preacher,Robert C  
MacCallum,Cathietkinson,William
B.Malarkey,Ronald Glaser(2003):Chronic stress and age-related increases in the proinflammatory cytokine IL-6 PNAS ,100(15) ,9090-9095




(他にも、いろいろと介護のことを書いています↓。よろしかったら、読んでいただければ、うれしいです)。



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