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「家族介護者にこそ、個別で心理的な支援が必要」と考えるようになった経過と、その理由(前編)。

 いつも、読んでくださっている方は、ありがとうございます。おかげさまで、こうして書き続けることができています。

 初めて見つけてもらった方も、ありがとうございます。
 臨床心理士/公認心理師の越智誠(おちまこと)
と申します。

 現在、家族介護者への個別で心理的な支援として「介護者相談」をおこなわせてもらっています。今年(2024年)で、周囲の方々のご尽力のおかげで11年目を迎えました。

 実際に関わらせていただくと、潜在的な需要も含めて、その必要性を強く感じているのですが、介護の世界から少しでも遠いと、同業者の方々であっても、「家族介護者への個別で心理的な支援の必要性」を、すぐには理解されないことが、今でも続いていることに改めて気がつきました。

 すでにこの「家族介護者支援note」でも、何度もお伝えしていることとは思うのですが、こうした大事なことは繰り返し、伝えていくべきだと考え、今回、改めて「家族介護者に個別で心理的支援が必要な理由」を前編・後編に分けて、お伝えしようと思いました。

 やや長くなりましたが、興味を持たれた項目だけでも読んでいただければ、ありがたく思います。


突然始まる介護

 おそらく他の多くの人と同じように、私にとっても、介護が始まるときは突然でした。

 あとから考えたら、さまざまな兆候はあったのですが、母親が、明らかに意味の通らないことを話し続ける姿を見たときは、ずっと誰かがみないとダメなのだろう、ということを突きつけられているような気がしました。

 それから病院へ連れて行き、その病院でいつも母を診てくれている内科医には何度も精神科の医師の受診をお願いしました。こうした症状が出たのは初めてだったので、当然の要求だとも思ったのですが、内科医は、なぜか、〝ああまあ考えます〟といったあいまいな態度のまま、母はベッドで安静にしているだけで、そのまま2週間が経つころ、理由もわからずに回復しました。

 そのことについての説明も足りなくて、家族は不安を抱えるだけになりました。いつ、また症状が出るのかわかりません。ただ、恐怖を抱えるようになりました。

 そこから、不安定な日々が続き、一時期は母親が回復したのかと思えるときもあったのですが、振り返ると、意味が通らない言葉を早口で発し続けた母をみたとき、誰かがみなくてはいけない。そして、それは私だから、これで社会的には私は終わったのだろう、と予感したときから介護は始まっていたのでしょうが、本格的に覚悟したのは、それから1年ほど経った時でした。


その後のことは、こちらにも書いています。内容が重なるところはありますし、やや長い記事ですが、自己紹介がわりになるかと思います)


介護が始まったときの戸惑い

 母親の介護を始めたとき、自分がたった一人で知らない街にただ立っているような気がしました。何もわからずに、ただ立ちすくむというような感覚は初めてで、それは、それまで自分が環境に恵まれていた、ということかもしれませんが、どうしたらいいかわかりませんでした。

 それは、まるで災害に巻き込まれたような思いでした。

 それまで何の準備もなく、ただ環境が激変し、だけど、誰もどうしたらいいのかを伝えてくれない。

 そのころは1999年から2000年にかけてなので、介護保険が始まったばかりで、地域包括支援センターもありません。それに、母親は病院に連れて行って、治療をしてもらうしかないと思い込んでいました。

 ただ、病院に対しても信頼感は無くなっていました。母親の症状が悪くなり、病院に連れ行き入院をしても、迷惑にならないように、と言われ続け、病院に泊まり込んだり、精神科の閉鎖病棟に連れて行ってから、いろいろな見落としがあったことがわかっても、その最初の病院は、謝ることもありません。

 だけど、母親が、そこをすごく信頼していたたために、病院をかえることができませんでした。

 そうした中で、私自身が、母親が他の病室へ行くのを防ぐために、病院の個室への泊まり込みを暗に強制されたことが続いて、心房細動の発作を起こしました。もう死ぬと思ったので、目の前の母親も、他の家族に迷惑だから、一緒に連れて行こう、と冷たく思うほど追い込まれていました。

 そのとき、心臓細動の発作を抑える薬を点滴しても、まだ不整脈がおさまらない私に対して、その病院の看護婦長は、「今日、他にみてくれる人はいませんか?」を繰り返すだけでした。

 そうした経験もあったせいか、余計に、誰も頼れない、と思っていたせいもあります。

 何しろ、とにかくちゃんとみてくれる病院に入院させないと。母親が少しでも落ち着くようにしないと。

 そんなことばかりを考えていました。

 だけど、その最初の病院関係者は、もう高齢者の母親に対しては、痴呆ですね、(当時は、まだ認知症とは言われていませんでした)というだけで、あとは、具体的に紹介してくれるわけでもなく、ただ、専門の病院に入院することをすすめるだけでした。

 どうしたらいいか、わかりませんでした。

 患者である母に注意が向けられることがあっても、家族のことは病院だけではなく、さまざまな専門家の目に入っていないようでした。家族に声をかけられるときは、母親に関して、何か不都合なことがあったときだけだったと思います。

老人性障害、という診断

 当時、何度も症状が急激に上下する母親に対して、何度も頼んで、最初の病院ではやっと精神科医に診てもらいました。

 老人性精神障害、という診断をされました。

 そのころは、痴呆に関しては、もっと穏やかなイメージを勝手に持っていましたので(今になれば、それも誤解なのはわかりますが)、なんとなくその診断名に納得しましたが、でも、そうなると、病院以外に連れて行く場所が思いつかなくなりました。

 心臓の発作を起こし、これ以上無理すると、今度大きい発作を起こしたら死にますよ、と循環器の医師に言われましたので、もう母親の個室に私が泊まり込むこともできません。妻の母親も高齢で、そろそろ身体介護が必要になるので目を離せません。もちろん、親戚など他の誰かに頼むことができたら、自分が心臓の発作を起こす前に依頼しています。

 そんな私に対して、この病院の看護部長は、家政婦を頼むことをほぼ強制しました。1日1万円ほどかかります。でも、他の病院が見つかるまで、他の選択肢がありません。さらには、プロの付き添いを頼むことは、そのころはすでに禁止されていたようなので、これが誰かにバレると病院の存続に関わります、と軽く脅されましたが、私の心臓に対しての心配や労いは一切ありません。

 それから、母をプロの付き添いの人にお願いしながら入院状態を継続し、私も母の病室にもいたのですが、その合間に、母親のような精神症状の高齢者でも長く入院できる病院を、私自身が自分で電話をして、クルマに乗って探しました。

 でも、どの病院に行っても満床で、いつベッドが空くかわかりませんと言われ続けて、目の前が暗いまま、毎日を過ごしました。

 幸運にも1ヶ月くらいで、療養型の病院から連絡があって、急にベッドが空いたと言われました。

 少しホッとしました。

 だけど、次の病院でどうなるか分かりませんでしたし、母の症状がどうなるのかも何も見えないままだったので、不安すぎて、その不安が当たり前になっていたので、緊張感がそれほどゆるむことはありませんでした。

 母は新しい病院に移りました。

病院に通う、ということ

 それでも、母親が病院にいて、そこに毎日のように通い、家に帰ってくると義母がいて、妻と一緒に身体介護をする日常にも慣れてきます。

 心臓の病気は完治しませんし、ずっと薬を飲んでいましたので、仕事と介護の両方をすると、おそらく過労死すると感じていたので、仕事を辞めて介護に専念することにしました。

 当時、実は少し発想がおかしくなっていたのでしょうけれど、でも、本人としては冷静に、とにかく介護をきちんとして、母と義母が少しでも快適になって、子供はいないので妻も含めて、できるだけ負担が減るように暮らしたい。それができなくなったら、死ねばいいんだ、と思っていました。

 そう思うことで、それが異常なこととはいえ、やっと、当時の生活を続けることができたのだと思います。

 母を病院に預けたと言っても、そこで安心できなかったのは、ここに至るまでの何年かで、母親の症状は上下していたからでした。悪くなると、意思の疎通ができなくなり、何を言っているのか分からなくなるのですが、それでも毎日、そばにいるようにして話しかけたりしていると、1ヶ月ほど経つと、何の前触れもなく、ごく普通のコミュニケーションがとれるようになりました。

 医師に聞いても、原因はわからず、ましてや家族がいることの効用などについては触れないようにしているようでしたので、もし、通わなくなって、そのまま意思の疎通ができない状態に固定されたとしても、それは、認知症が悪化した、ということだけでしょうから、特に医療者にとっては、日常的な光景でしょうけれど、家族にとってはショックになるはずです。

 だから、自分が通うことに対して、母親の症状にプラスになっているかどうかはわからないけれど、もし、通わなくなって悪くなってしまったら、と想像するとやはり怖くて、病院に通っていました。

 そうした恐怖に引きずられるような思いで、毎日のように片道2時間かけて病院に通っていたのですが、やはり、よく病院に通っていらした人が、同じような思いを抱いていたことを知ったのは、何年も経ってからでした。

 そして、介護を続けていく中で、最も辛いのは、この時間がいつ終わるかわからないことだと思っていたのは、私だけではなく、多くの介護者がどうやらそうらしいと知るのは、もっと後のことでした。

 ただ、そうした年月の中で、家族介護者に必要なのは、何より心理的な支援ではないか。それも、個別な心理的支援ではないか、と思うようになりました。

 それは、善意であったとしても、周囲の人が専門家であっても、介護者の気持ちをあまりにも理解してくれない、という実感が強くなっていたからでした。私が介護に専念することを決めたのは、まだ30代で、世間的には中年ですが、家族介護者としては「若手」で、だからこそ、同じような立場の人が周囲にはいなくて、より孤立感が増していたのだと思います。


(のちに、調査や分析の結果、こうして病院や施設に通い続ける介護者の行為を「通い介護」と名付けた方が正確ではないか、という一応の結論を見ました)

臨床心理士という資格

 家族介護者にこそ、心理的支援が必要である。

 そのことに関して、ただ介護に専念している頃から、どこか確信を得ていたのは、周囲の、同じように介護をしている人に、その考えを聞いてみても、誰も反対する人はいなかったせいもあります。

 何より、身体的な負担は、介護の専門家によって軽減されることが多かったのですが、介護者としての気持ちの負担感は、どうやれば軽くなるのかが分かりませんでした。その前提として、家族介護者の心理が理解されていないと感じながら、10年ほどが過ぎました。

 介護を始めて3年ほど経ったときに、介護訪問員の3級、続けて2級も取得しました。今では無くなってしまった資格ですが、いわゆる「介護ヘルパー」と言われていた資格です。

 家族の介護をするのが精一杯で「ペーパーヘルパー」に過ぎませんでしたが、主に、さまざまな介護の専門家と知り合えたのは、母や義母の介護に関わってもらったりするためでした。そうした方々に対して、ありがたいと思うことも多くあったのですが、自分が取得した、その資格が、介護者の心理的支援とは直接関係がないのもわかってきました。

 介護保険も2000年から始まっていましたが、その対象はあくまでも介護を受ける側の人です。極端に言えば、家族は、その介護をスムーズに進めるための存在でした。

 年月が経つほど、家族介護者の心理的な支援をしている人が、どこにもいないと思いました。だから、微力ながら自分で始めようと思って、色々と調べて、心理的支援をするのなら資格を取った方がいい。ということも知り、「カウンセラーになるには」という本を借りてきて、最初に紹介されていたのが「臨床心理士」という資格でした。

 その資格取得のためには大学院を修了していなくてはいけなくて、正直、しんどいと感じましたが、介護の当事者が、介護者の支援をしようとする以上、より客観的な視点を持つ必要があるのは感じていましたから、学ぶ期間も、訓練の期間も最も長いと思われる臨床心理士を目指すことにしました。

家族介護者の心理をテーマにした修士論文

 介護を続けながら、臨床心理学の勉強を始めて、当時は大学院にも関わらず、かなりの倍率だった臨床心理学専攻に、幸運にも合格することができて、40代後半でしたが、通い始めることができました。

 大学院の生活は、想像以上に充実して、楽しいものとなりました。それは、本当に周囲の人に恵まれていたとは思うのですが、学ぶことが体質を変えるから辛い反面、それで自分が変わっていく、という意味でも、初めて学ぶことが楽しいと思えました。

 ただ、想像と違っていて、ちょっと驚いたのが、介護に関する関心の低さでした。心理士になって、成長途中の子どもや若い人を相手に仕事をしようとしている学生がほとんどで、他の大学院には高齢者臨床の研究室があると聞くようにもなりましたが、それ自体が珍しい存在のようでした。のちに、その高齢者臨床の世界でも、介護者の心理に関心を持つ人がほとんどいないことを知りました。

 それもあって、修士論文のテーマは、「家族介護者の心理の再考」に決めました。

 指導教授には、「再考」というところが、やや攻撃的だと指摘されていましたが、確かにその思いはありました。

 それまでの論文や資料を読み込むところから研究は始まるのが基本で、大学院生では、まだ研究といっても初歩とはいえ、まず臨床心理学、もしくは心理学で、高齢者関連を扱う人が少ないことを感じていました。

 介護に関しては、さらに少ないこと。論文があっても、隣接領域の看護学だったり、福祉学や医学だったりするのですが、場合によっては、介護者のことをテーマにしながら、どうしてこんなに理解しようとしないのだろう、と勝手ながら怒りを感じることも少なくありませんでした。

 ですので、まずは家族介護者に話を聞こうと思いました。

 ただ、そうした言葉を紹介するだけでは、論文にならないので、人の言葉を分析する、といったこと自体が失礼な気もしたのですが、言葉や思いがなるべく伝わりやすい分析をしたいと探しました。

 それは質的研究という分野になるのですが、その中で「グラウンデッド・セオリー・アプローチ」という方法を知り、その代表的な研究者の書いたこの書籍↑を読んで、この方法を選択しようと決めました。

 調査であり、分析であり、科学的方法でありながら、自分のお子さんを亡くす、という辛い経験をした方々の気持ちが、大事にされている、と思えたからです。

 ただ、この方法を選択する人は、ほとんどいないようでした。それは、とんでもなく手間と時間がかかる分析方法だったからでした。


専門家の視点

 自分が介護をしている家族介護者でいる場合、認知症や、介護に関わる医療関係者や専門家から聴かれる言葉のほとんどは、要介護者への対応に関することでした。

 例えば、母親が精神症状によって、意味が通っていないながらも、こちらの気持ちを嫌な感じに刺激することを繰り返すことがありましたが、そうしたとき、精神科医には、何度も言われました。

 そこで怒っても、いいことは一つもありません。もし、怒りそうになったら、席をはずすようにしてください。

 それは、とても正しいことだし、その医師はこちらのことも考えてくれているとは思いました。でも、同時に、それは限られた時間だけ関わるのであれば可能ですが、24時間体制で関わらなくてはいけない家族にとっては、とても難しいことだと感じていました。

 そうした専門家が見ている点は、要介護者(介護を受けている側)が、どれだけ正しい扱いを受けているかどうかで、家族介護者の気持ちはあまり考慮されていないようでした。

 その傾向は現在も続いています。

 認知症の患者に関しては、その思いに対して丁寧に考えようとしている専門医であっても、家族に対しては、このようにやや厳しい見方をしているように感じます。

「変わっていく姿を認めたくない」「(それまで)できたことはしてもらいたい」という家族の嘆きは大きいのだが、励ましているつもりの指摘であっても、よい結果になることはない。中核症状のために不自由になった行動も、できれば温かく見守ってほしい。排泄などの失敗があっても、黙って後始末をしているという介護者もいる。

 しかし、家族が立派な介護者になることはできない。わたしは、当初は指摘を7割くらいに減らしてもらうように話しているが、5割にもなれば認知症の人の表情が変わり、穏やかになってくる。  

(『認知症の人のこころを読み解く』より)

 認知症が進行しつつある家族に対して、怖さと共に、もしくは、1日中、同じようなことを繰り返す相手と話をする苦痛を考えたら、「当初は7割くらいに減らす」という目的は、私には高すぎるハードルに感じます。

 最初はせいぜい、9割くらいに減少させる方が適切ではないかと思えるのは、毎日、介護だけで大変な家族介護者の負担を考えてしまうからです。

 ただ、現在も、家族介護者の大変さが十分に理解されていないせいで、専門家の家族介護者への要望も厳しいままではないかと感じています。

 それは、大学院に入学し、修士論文を介護者をテーマにして書こうとして、さまざまな資料に接しているときも同様でした。

理解されていない「家族介護者の心理的な大変さ」

 さまざまな資料にあたって、共通する見方としては、介護の問題は、突き詰めれば、食べることと排泄になる、といった言説が多いように思いました。

 もしくは、プロの介護者からは、3大介護は、食事、入浴、排泄、という指摘もありました。

 確かに、それはそうだと思いました。

 ただ、それは施設での介護に偏りすぎていないだろうか、という違和感はずっとありました。

 特に在宅介護では、生活を共にしながら介護をしていることが、大変さにつながる一番の要因でもあるのですが、そこに対して言及している専門家は、ほとんどいなかったように思います。

 介護されている家族の話を聞くことがあるじゃないですか。どんなに大変でつらいかというのを涙ながらに話す家族がいるでしょ。正直言って私、あれよくわからなかったんですよ。大変たって家族は一人みてるだけでしょ。こっちはプロではあるけれど、何十人もみてるんだから、なんて思ってたんです。

(『介護の専門性とは何か』より)

 介護のプロからの家族介護者への見方が出ている率直で貴重な言葉だと思います。そんなふうに思っているのかもしれないと感じていても、こうして文章に残されることは、ほとんどありません。

 でも『一人夜勤』をやってから、あの介護している家族の気持ちがよくわかるんですよ

寂しいんですよ

孤独感、ああ、これが家族の大変さなんだと思いましたね

(『介護の専門性とは何か』より)

 ただ、ここで紹介されているプロの介護者は、こうして家族介護者の大変さを理解しようとしているので、それは、とても良心的かもしれないと思いましたが、家族介護者として介護をしていて、最も辛いのは、この「孤独感」ではないように感じていました。

 誰もがいつ終るかを知らなかったからです。それが、ひょっとすると、強制収容所のなかで一番気分がふさぐ事実の一つでさえあったかもしれないというのが、仲間たちの一致した証言です。

(『それでも人生にイエスと言う』より)

 まだ大学院に入る前、心理学を勉強する前に、フランクルの名著『夜と霧』を読んで、全く違う体験をしているはずなのに、とても共感をし、他の著者も読むようになりました。

 そして、この「いつ終わるかわからない」ことが、「一番気分がふさぐ事実の一つ」という指摘が、特に家族介護者にも共通するように思いました。

 ただ、このことは(20年前でも)家族介護者の間では常識のようになっていた感触があったのですが、介護の専門家の間では、もしかすると、ほとんど実感として分かられていなかったようですし、今でも、それほど理解されていないように思います。

 森田さんは独身で、実家で自分の両親と一緒に暮らしている。
 食事の用意や掃除、洗濯などの家事は全て母親がやってくれていたのだが、半年ほど前から認知症の症状が見られ始めたのだという。
「昨日、母親をお風呂に入れてるとき、バカ!って怒鳴られて、シャワーでお湯をかけられて……。私、カッとなってほっぺを叩いちゃっ……」
 最後まで言い終えることができず、森田さんは嗚咽をもらした。
「利用者さんにはこんなことしたことないのに…私、今までずっと介護の仕事をしてきたのに……それなのに……」 

 森田さんは、自身が介護士であること、母親の認知症がそれほど重度でないことから、施設に入れるとは考えていなかったらしい。自分の経験があれば、母親ひとりくらいの面倒は見ていける……そう思っていたのだそうだ。
 この話を聞いたとき、私は介護の仕事に就く前に通っていた講座の先生のことを思い出した。
 その先生は、「自分の実の親を介護することはできない」と言っていた。
 昔をよく知っているだけに、自分の親が変わっていくことを受け入れられない。他人の介助の場合と異なり、仕事だからと割り切ることもできない。他人だからこそ、介護することができる……介護職を経験した今ならば、この言葉がよくわかる。きっと、もがくほどきつく締まる縄で縛られたように、実の親だからと一生懸命になった分だけ、苦しみの縄で締め付けられてゆくのではないだろうか。

(『気がつけば認知症介護の沼にいた』より)

 こうした文章を読むと、自分の実の親を、今でも在宅介護を続けている人に対して、どれだけの大変さの中で続けているのかを想像し、だからこそ、心理的な支援が必要という方向に考えて欲しいと思うのですが、そうした思考にすすめている場合がほとんどないのは、残念です。

 さらにこの書籍は2023年に出版されたのですが、ここでも家族介護者の心理的な大変さの、かなり重大なことである「いつまで続くか分からない」に関しては触れられていませんし、この書籍だけではなく、介護の(しかもベテラン)専門家が、実際に自分の親の介護を始めたときに、その辛さが違う、と訴えている姿が描写されていることも何度も読んだことがありました。

 できたら、プロの介護者と、家族介護者の心理的な大変さは、どう違うのかを、もっと掘り下げて調査して欲しいのですが、その点について取り上げている人を、ほとんど知りません。

 また、家族介護者の心理的な大変さについて、「介護者と、要介護者との関係性の違い」(親子や、配偶者など)についての研究は読んだこともありましたが、申し訳ないのですが、あまりピンと来ませんでした。

 それは、どのような家族介護者にも共通する「介護環境」について触れられていなかったからだと思います。


(※「後編」に続きます)





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