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「家族介護者にこそ、個別で心理的な支援が必要」と考えるようになった経過と、その理由(後編)。

 いつも、読んでくださっている方は、ありがとうございます。
 おかげさまで、こうして書き続けることができています。

(前編を読んでくださった方は、「調査と分析」から読んでいただければ、重複を避けられるかと思います)。


 初めて見つけていただいた方も、ありがとうございます。
 臨床心理士/公認心理師の越智誠(おちまこと)と申します。

 現在、家族介護者への個別で心理的な支援として「介護者相談」をおこなわせてもらっています。今年(2024年)で、周囲の方々のご尽力のおかげで11年目を迎えました。

 実際に関わらせていただくと、潜在的な需要も含めて、その必要性を強く感じているのですが、介護の世界から少しでも遠いと、同業者の方々であっても、「家族介護者への個別で心理的な支援の必要性」を、すぐには理解されないことが、今でも続いていることに改めて気がつきました。

 すでにこの「家族介護者支援note」でも、何度もお伝えしていることとは思うのですが、こうした大事なことは繰り返し伝えていくべきだと考え、今回、改めて「家族介護者に個別で心理的支援が必要な理由」を前編・後編に分けて、お伝えしようと思いました。

 やや長くなりましたが、興味を持たれた項目だけでも読んでいただければ、ありがたく思います。


介護離職

 突然、母親に介護が必要になったのは、私が30代の頃でした。

 気持ちの準備もしていませんでしたし、まだ介護保険が始まるか、始まらないかの頃でしたから、どこへ相談したらいいかもわからず、視界が狭くなり、路頭に迷うという実感を初めて感じました。

 それまで母が通い続けた病院では、「認知症ですね」と言われ、迷惑をかけないでくださいと追い込まれるばかりでした。その中で、私自身は心房細動の発作を起こし、循環器科の医師からは、「次にまた大きい発作を起こしたら死にますよ。無理しないでください」と言われました。

 介護か、仕事か、両方続けたら、過労死すると思いました。

 だから、介護を選んで、仕事をあきらめることにしました。それは、自分にとってはかなり辛いことでした。

 そのうちに、妻の母親も介護が必要になったので、自宅では義母を妻と一緒に介護をし、母には療養型の病院に入院してもらい、毎日のように通うことにしました。


(この病院に通い続けた行為を、のちに「通い介護」と名付けたほうがいいと考えました)

 その生活が何年も続くと、慣れてはきましたが、この介護の生活の大変さや孤立感を、誰にも理解されないと思っていました。(妻は別ですが)。

 その時間の中で、家族介護者にこそ、心理的な支援が必要だと強く思うようになりました。

 だから、微力ながら、そのうちに自分でも、その支援に関わろうと考えるようになり、臨床心理士という資格を取ろうと思い、勉強を始め、介護は続けながら大学院に通うようになり、そこでも、介護者の心理的支援は、それほど関心を持たれていないことを知りました。

 それもあって、修士論文のテーマを「家族介護者の心理の再考」に選んで、そして、過去の論文や書籍を読んで、生意気かもしれませんが、やはり、まだ家族介護者の心理は理解されていないのではないか、と感じました。

 ここまでが、前編です。

 前編は、家族介護者にこそ、『「個別で心理的な支援が必要」と考えるようになった経過』が主なテーマになったと思うのですが、後編は、『「個別で心理的な支援が必要」と考えるようになった理由』が中心になります。

 よろしくお願いします。

調査と分析

 介護は継続し、さまざまな勉強や実習をしながら、修士論文のための調査も始めました。

 家族介護者のインタビューを行いたいと考えたのですが、さまざまな団体に申し込んでも断れることが多かったので、自分の知っている人たちにお願いしようと考えました。

 それは縁故法と言われる方法です。インタビューの分析方法はGT A(グラウンデッド・セオリー・アプローチ)を選択しました。これは、とても手間と時間がかかりますが、質的研究の代表的な分析の一つですし、何よりも、インタビューでのデータと徹底的に向き合うこともでき、また、通常の調査のように何百といった数ではなく、言葉の質のようなものが重視されるということですし、インタビューイの言葉そのものを提示できるということもあって、選びました。

 元々知っている方々でも、それほど大変な思いをされていたのか、とインタビューのたびに新鮮で、驚くことが多かったですし、平均で120分ほど、多い方は5時間も話をしていただきました。

 通常は一人1時間程度のインタビューが適している、といったことが言われていたのですが、それは分析を始めて気がつきました。

 2時間のインタビューのデータをGTAで分析すると、その手間と時間は、1時間のデータの2倍ではなく、感覚的には3倍から4倍に増える感じでした。

 それもあって、予定では2年で終える大学院を、主に修士論文が書き上がらない、という理由で3年で修了することになりました。

共通する「介護環境」

 修士論文は、長くなりました。

 A4の1枚に40字×40字で、約120枚になりました。幸いにも学内では評価してもらい、専攻長賞までいただいたので、ありがたかったのですが、他の方より1年長くかけている後ろめたさもありました。

 何より、その内容について自信が持てたのは、調査に協力していただいた方々が、率直に正直に、介護のことを話していただいたからでした。

 分析や考察よりも、その方々の言葉の力がとてもあると思っているので、いまだに、この修士論文をもとにした書籍を出して、家族介護者の理解を広めたい気持ちは続いています。(出版社に企画を送付などは続けていますが、これについては、うまくいっていません)。

 そうした調査、分析、考察をする中で、最初に改めて気がついたのは、家族介護者であれば、共通する「介護環境」でした。その大変さが十分に理解されていないことが、家族介護者への無理解とも思えることが多い、そもそもの原因ではないかと考えるようになりました。

 大学院を修了し、臨床心理士の資格を取得し、介護者支援の時間の中でも、家族介護者の心理的支援について、できるだけ広く伝えようとしてきました。

 自分自身の活動としては、修士論文に書いたり、心理臨床学会で口頭発表したり、市民講座や、大学のゲスト講師の時に伝える、という程度ですので、とても大規模とは言えません。

 それでも自分としては広く伝えたい思いはあるものの、10年以上、家族介護者の心理的支援に関わりながらも、まだ社会の常識になるには遠いままなので、自分の力不足も感じています。

 この家族介護者の「介護環境」は、介護をされている方々でしたら、ごく当たり前のことばかりですが、調査、分析、考察を進める中で、広く明らかにしたほうがいいと考えるようなことでした。

 それを、「介護環境の3つの基本構造と、ひとつの法則」と名付けました。

「介護環境の3つの基本構造」
①介護は突然始まる。
②介護は、いつまで続くかわからない。
③介護の終わりは、要介護者の死である。

 ひとつの法則
◎きちんと介護をすればするほど、介護期間は長くなる。

  このことについて、一つずつ、説明していきます。

①介護は突然始まる

 多くの方にとって、介護は実際に始まるまでは縁遠いものだと思います。

 私もそうでした。

 今から振り返れば、その兆候のようなものはあったのですが、自分自身が30代だったこともあり、より情報は少なく、どうしたらいいのかわからなくなりました、ということは先ほども書いたのですが、おそらくはどんな人にとっても十分な準備や予備知識を持って介護を始める、といったことは難しいのではないでしょうか。

 私が介護を始めざるを得なかった約20年前よりも、介護という言葉自体は、目に触れることが多くなりました。もし、介護が始まったら、どうすればいいのか。そうした話は以前よりもされるようになり、特に地域包括支援センターという固有名詞を覚えておけば、自分の地域と一緒に検索すれば、すぐに見つかるはずです。

 家族が介護が必要になったときに、それまでと違う言動や行動をはじめてしまったときに、どのような対応をすればいいのか。その知識や情報も以前よりは多く接することができるようになりました。

 ただ、初めてそうした状況に遭遇した時は、できたら、まだ介護が必要かどうかに対して、すぐに判断するのも難しいと思います。
 同時に、どれだけ知識や情報があったとしても、介護が始まったとすぐに覚悟ができる場合もそれほど多くないのではないでしょうか。さらには、症状も個別性が高い時は、どう対応すればいいのか、わからないことも少なくないはずです。

 それに、地域包括支援センターも、平日しか開いていない地域もありますし、認知症の症状では救急車を呼ぶことも難しいと思います。

 さらには、これだけ介護に関する情報が増えてきたとしても、なんとなく知ってはいても、自分に関係することとして具体的に学ぼう、という人は、以前よりも増えてきたとしても、できたら、介護が必要でないことを望んでしまうことが今でも少なくないでしょうから、実際は介護が本当に切実になってきてから、本格的に情報を集めることになることが多いのではないでしょうか。

 だから、今でも、介護は突然始まることが多いはずです。

 それは、急に違う時間が流れ始めることですし、ほとんどの人にとっては、初めての経験になると思います。私もそうでしたが、それはまるで災害に巻き込まれるような感覚でした。そうした心理的な状態は「危機」に遭遇したと言ってもいいのだと思います。

 そうであれば、その状況だけでも、心理的にも「危機」的になり、場合によっては、気持ちが不安定になってもおかしくありません。

 介護が始まったとき、周囲の専門家の視線は、要介護者に向いています。介護が必要になった人に対して、適切な介護、もしくは医療を提供するためにはどうしたらいいのか。そのために、家族には、その適切な協力が要求されるはずです。

 家族の心理が「危機」的になっているかもしれない、といったことを考えてくれる周囲の専門家は、まずいないと思います。そこまで気を配ってくれる専門家もいるかもしれませんが、その心理的な支援が、その介護の専門家に対しては、過大な負担になる可能性もあります。

 ただ、家族介護者となる家族に対して、この時点で心理的な支援をした方が、それ以降の介護生活にスムーズに入れる可能性も高くなり、何よりこれから長く介護をすることになることも多い家族介護者の精神を安定させるのは、要介護者にとっても明らかにプラスのはずです。

 ですから「介護が始まるとき」は、介護に巻き込まれるような心理状態で、混乱している家族介護者に、具体的な介護の方法や、介護を始めていくことを伝えるだけではなく、家族の気持ちそのものを支援していく存在が必要になると考えています。

 そのために心理職が関わることが重要になってくるのではないでしょうか。

介護の専門家との違い

(雑誌『介護支援専門員』)
https://publish.m-review.co.jp/magazine/detail/J0023_1102

「家族に認知症のことを理解してほしい」というケアマネージャーや現場の人の話をよく聞くが、これはなかなか難しい。なぜなら家族は自分の家のことしかわからないから、比べる基準が何にもない。また、これまでの生活の延長の中で少しずつ症状が出てくるため気づきにくく、『年のせい』『昔からの性格』と片づけてしまいがちである。家族が状態を理解できるようになるには、随分、進行してからという場合が多く、介護者が高齢の場合や別居の場合には、なおさら時間がかかる。『ボケにはなりたくない』と誰もが思っているだけに『うちの家族は違う』と思いたいし、世間体もずっと気になっている

(雑誌『介護支援専門員』2009年1月号 より)

 これは、10年以上前の、現在は休刊になってしまった専門雑誌の記事ですが、ここで指摘されていることは、この時よりも「改善」されてきているとはいえ、基本的にはそれほど変わっていないように感じています。

 ましてや、ここ10年では、実際には100%予防できないことが明らかなのに「介護予防」や「認知症予防」という言葉の方が多く聞かれるようになり、「介護」や「認知症」がより忌避されるべきものとして扱われるようになってきているように思います。

 ですから、「認知症」について知ろうというよりも、「認知症予防」への関心の方が今も高いように感じています。

 30年前と比べれば認知症についての情報は比較にならないほど増えているうえに、当事者の発言も多くなっていて、認知症への社会的理解や受容が進展しているかのように思われているが、国民の意識のなかでは、今でも誤解と偏見に基づく“何もわからなくなって、迷惑をかける悲惨な病”という認知症観が深く刻印されているように思う。認知症は、本人にとっては“なりたくない病”なのであり、家族など身近な人にとっては“なってほしくない病”なのである。多くの人が認知症を自覚した時から、行く末が不安になり絶望感を訴える。「こういう病になって人生が終わった」と言った人がいるし、「ボケは脅威だ」としぼりだすように言う人もいた。 

(『認知症の人のこころを読み解く』より)

 この書籍が出版されたのは2023年ですので、この30年でも、現場の専門家の実感としては、それほど変わっていないということのようです。

 さらに一般的な事でいえば、社会人は普段の生活で手一杯で、もしかしたら自分の近い将来にやってくる介護生活への情報をふんだんに得ている人は、介護の専門家や研究家以外だったら、ごく少数派であるのだと思います。

 ですから、突然の介護の始まりの際にも、すでに豊富な知識や経験。どこに頼るべきかを知っている専門家では、ほとんど何も知らない一般的な人の、介護のはじまりの戸惑いや混乱や不安感の大きさは理解し難いかもしれません。

 私自身、ホームヘルパー(訪問介護士)2級取得の時にも感じたのですが、プロの介護者はいつ介護者になるかを決められます。そして、介護に関する一般的な事柄を学び、個別な現場に生かしていくことができるのだと思います。

 その一方、家族介護者は、多くはいきなり介護者となり、あとは目の前の要介護者への対応がある意味ではすべてになることも少なくありません。

 特定の要介護者(家族)にとって完全にオーダーメイドの介護者になっていくのですから、介護に関する一般的な知識には欠けていることもあり得そうです。

 おそらく最初から、プロの介護者と家族介護者では、介護に対しての姿勢が、質的な違いがあるように思います。そうした家族介護者の気持ちを踏まえ、プロの介護者や専門家との違いを理解していないと、同じような場所にいながら、意志の疎通がお互いに困難になる可能性が高いのではないでしょうか。

 ですので、繰り返しになりますが、この突然始まる介護に巻き込まれる感覚は、知識や情報や景観などが豊富な専門家には、理解するのが難しいかもしれません。

 2023年の記事では「8日に1件」のペースで起こってしまっている介護殺人や介護心中の事件は、場合によっては、2ヶ月や3ヶ月など、介護を始めてからまもなく起こってしまうことがあります。

   そうした事件に関して、「まだ始まったばかりなのに」といったコメントが寄せられることがありますが、介護が突然始まり、家族介護者は最初の「危機」の中にいると考えれば、その期間も、当然ながら、とても危険性が高い状況なのは間違いないはずです。

   だからこそ、家族介護者の気持ちに焦点をあてた個別的な心理的支援が必要になるのだと思います。

②介護は、いつまで続くかわからない

 最初の家族介護者の心理的な危機は、介護の始まりです。それは、突然始まり、介護という状況に引きずり込まれるような気持ちを味わうことによって生じる混乱だと思います。

  ですから、心理的支援があれば、その混乱を最小限に抑えることができるかもしれません。

   ただ、現時点では、そうした支援が受けられることは少なく、要介護者への介護の具体的な方法に関する支援などで、そうした負担感も減ることはあるかもしれませんが、なんとか、最初の「介護の始まり」の危機を乗り越えられて、介護生活に少し慣れてきた頃に、ふと気がつくことがあります。

 この介護を続ける日々は、いつまで続くのだろう。そして、その答えは誰も知らない。

 この「いつまで続くかわからない」ということは、人間の精神的な負担の中では、かなり重い部類に入り、それが長すぎると、負担感が蓄積し、それを解消することができないため、本当に精神的なダメージが大きくなることも少なくありません。

 つい最近でいえば、まだ終息していない新型コロナウイルスの感染に関して、日本では2020年にコロナ禍といえる状況になり、感染予防に対して最大級の警戒を続ける期間が続いたのですが、その時間の中で、辛さを招く要因として、この緊張状態が「いつまで続くかわからない」があったのではないかと思います。

 ですので、個人的な実感として、2018年の年末に19年間の介護生活が突然終わったのですが、それから昼夜逆転になってしまった生活リズムを修正するのに思ったよりも時間がかかり、ようやく少し戻ってきたと思った頃にコロナ禍になりました。

 持病を抱えていて重症化リスクのある家族もいたので、とにかく感染しないように生活することになりました。その緊張感が途切れない毎日の感覚は、妙な言い方ですが、少し懐かしさを感じました。

「いつまで続くかわからない」日々は、介護をしている時と似ていたからです。

 今も、コロナ禍は終息したわけではなく、介護に関わる方達にとっては、同じように緊張感の続く毎日だとは思うのですが、コロナ禍のように「いつまで続くかわからない」ことに対応し続けるのは、介護の毎日との類似性を感じられた家族介護者の方も、実は少なくないのではないか、とも勝手ながら思っています。

 いつまで続くかわからない。

 それが、どれだけ人間の精神にとって負担になるのか。

 前編でも触れたフランクルは、こう指摘しています。

 かつての収容所囚人の体験の報告や談話が一致して示していることは、収容所において最も重苦しいことは囚人がいつまで自分が収容所にいなければならないか全く知らないという事実であった。

(『夜と霧』より)

 その結果、その「いつまで続くかわからない」環境の中では、時間への感覚が変わるという分析もしています。

 彼は普通の人間がするように将来に向かって存在するということはもはやできないのである。

 我々はすでに別な生活状態において、たとえば失業者において、彼が似たような心理的状態になるのを知っている。失業者の存在は仮のものになり、彼もまた未来をさして、また未来における目的をさして生きることはできないのである。

(『夜と霧』より)

 これは、失業者だけではなく、家族介護者にも当てはまりそうです。「いつまで続くかわからない」に対応するために、少し先の未来を考えにくくなり、目の前のことに集中する傾向が強くなってくるように思っています。

 それは、家族介護者が、介護環境に適応するために身につけていく「非日常的とも言える感覚」という名称を、修士論文でつけました。そのときは仮説に過ぎませんでしたが、それから10年が経ち、家族介護者の心理的支援を継続する中でも、それを否定できるような経験はしていません。

 だから私が、収容所では一日の長さは1週間よりも長いと言ったとき、私の仲間はいつも賛成してくれた。それほど時間体験は不気味な逆説的なものであった。

(『夜と霧』より)

介護は終わらない  

 さらに、日本国内の研究でも、家族介護者のことについて、こうした調査がされています。

 介護している家族は、二四時間拘束される精神的重圧のうえ、夜昼とない介護仕事の重荷を負わされる。それがどんなに辛いことかは、やってみないとわからない。
「一晩でいいからぐっすりと眠ってみたい」。これが痴呆性老人などを介護している家族共通の呻き声である

(『高齢者医療と福祉』より)

 最近の研究でも、1日何時間介護に関わっているか?といった調査をしているのですが、その調査の場合は、具体的な介護に関わっている時間だけを問題にしているようです。

 ただ、この『高齢者医療と福祉』によると、「介護している家族は、二四時間拘束される精神的重圧」と表現されていて、この方が家族介護者の実感にはより近いと思われます。

 つまりは、「24時間拘束される精神的重圧」が、「いつまで続くかわからない」環境が、家族介護者にとっては、一般的と言っていいことを、私自身は、大学院の修士論文の研究のための調査のインタビューで改めて思い知らされました。

 さらにその後、臨床心理士の資格取得後、(公認心理師も資格取得しました)介護者の心理的支援に関わって10年が経ちますが、介護をすることが「いつまで続くかわからない」が、介護者にとってはおそらくは最も辛く、そのことに対して、どう対応していくかが、介護地獄になるかどうかの境目ではないかと確信するようになりました。

「介護を心理的には24時間体制で続けなくてはいけないけれど、それがいつまで続くのかわからない」

 この環境に対応するには、環境調整では限界があります。どれだけ介護負担を減らしたとしても、家族介護者である限り、介護から完全に逃れることはできません。

 そうであれば、その「いつまで続くかわからない」状況で生きている介護者を支援するのであれば、心理的支援が不可欠だと、介護者の支援をすることが多くなるたびに思うようになりました。

 家族介護者から往々にして聞こえるのは、高齢者が入所・入院をしても、あるいは亡くなったとしても『介護は終らない』という感想である

(『在宅介護における高齢者と家族』より)

 そして、この「入所・入院をしても、あるいは亡くなったとしても『介護は終わらない』という感想」は、一見不思議なことにも思えるのですが、「いつまで続くかわからない」介護を続けるためには、「いつまでも続けられるような」心の構えをつくっていくしかありません。

 それは大げさではなく、介護が永久に続いても、対応できるような心理にしていくということで、クルマで言えば、ずっとエンジンを回し続け、何が起こるかわからない介護に対して、いつでも対応できる気持ちにしていく、ということだと思います。

 そうなれば、当然のことながら入所や入院をしたとしても、要介護者への気遣いという基本的な介護の気持ちが止まるわけもなく、場合によっては、要介護者である家族が亡くなったとしても、それで緊張感を保つ気持ちのエンジンが止まるわけはないはずです。

 5年も10年も、24時間体制で緊張を保ち続ける状況を作り上げたとすれば、それはほとんど無意識のレベルであり、要介護者が亡くなったとき、悲しさはあったとしても、いってみれば、すぐにエンジンを切れるわけはないのだと思います。

 Janice K.Kiecolt-Glaser et al(2003)は、介護ストレスが強い場合、血中のインターロイキン6が約4倍になり(このインターロイキン6とは、心臓病やある種のガンと関連があることが分かっているのですが)そのインターロイキン6は、被介護者の死後も少なくとも3年間は高濃度の状態が続いている、と報告しています。

 この「終わらない介護」に関しても、心理的な支援が必要なのは、私にとっては必然と考えられるのですが、家族介護者への個別な心理的支援の必要性すら、それほど広まっていない現時点では共有してもらうのは、難しいかもしれません。

 同時に『前編』で触れた、プロの介護者が(しかもベテランであっても)、自分自身の家族を介護を始めてから、とても辛いと訴えるのは、介護の専門家ではあり得ない、この「24時間の緊張感が、いつまで続くかわからない」負担感に関して、述べられたものではないでしょうか。

なぜ、介護を継続するのか

 日本においてこそ、介護からの解放の選択肢も内包した「家族介護者支援」についての社会的議論が必要とされているのではないか。「高齢者の尊厳」を大切にする介護理念がやっと政策化された今日、新たなステップは家族介護者の尊厳に向けられるべきである

(『高齢者介護をめぐる家族の位置』より)

 こうした論文が書かれてから、20年が経とうとしていますが、「家族介護者の尊厳」が大切にされることは、今だに届かない理想にしか思えません。

 だが、どうして「トラウマ体験にも近い厳しい介護体験」をしたり、介護者自身も病気になったりと、辛い思いをしているのに、介護を継続するのだろう、という疑問を持つ専門家や支援者は実は少なくないのかもしれません。

 というよりも、場合によっては、そうした無理をしているように思える介護者に対して、愚かな選択、という言葉を向けた専門家もいました。

 ただ、それは、介護の専門家であっても、専門医であっても、心理職であっても、理解できなくても自然ではないかという思いもあります。

 介護の最大の負担感は「いつまで続くか分からない」という“拘束感”であると考えられるのですが、支援者や専門家から見た最大の矛盾点は、その“拘束感”を作り続けているのは、介護をやめないという選択をしている、介護者自身でもあるということかもしれません。

 でも、なぜ、それでも介護を継続するのかと、質問する気が起きなかったのは、インタビュー調査や、介護者支援の経験で知り合った方々には、自分も含めて、介護を途中で止める、というような発想をしている方々が少なかったからではないか、という印象があります。(もちろん、介護を最初からしない。もしくは途中で止める。さらには続けるという選択も、介護者の自由で、どの選択も正解だとは思いますが)。

 もちろん、そこには、要介護者への思いも基本的にはあるはずですが、要介護者への思いがありつつも、「いつまで続くかわからない」介護環境への適応のために、先のことを考えられずに、目の前の1日だけに集中するような感覚---介護を継続するために必要な非日常的とも思える感覚----を身につけてきたわけですし、さらに覚悟も加わっていることが多いのですから、そうした状態になった家族介護者は、大げさにいえば「介護がいつまで続いても続けられるような存在になっている」から、とも思われます。

 ただ、それは心理的な負担が重くても、その負担感を負担と感じないような適応状態でもあるので、そうした適応的な状況を維持しながらも、その負担感を和らげるような関わりが必要になってくると思います。

 そして、介護者が、どの状態や段階にあるのかは、微妙で繊細な判断が必要になりますので、やはり、心理的な支援が個別的に行われることが必要不可欠ではないでしょうか。

さまざまな視点

 さらに、介護の継続に関しては、他にも様々な要素が複雑に関わっていることを、いろいろな人が指摘しています。

他の家族・親族や公的サービスからの支援が満足のゆくものでないため、それらに対する意地が介護者を動機づける場合である。周囲からの冷たい仕打ちに逆に発奮して被介護者を守り、介護を継続しようとする動機づけを持つこともある

 介護者が最も頻繁に挙げた信念は「あとで後悔しないように生きたい」であった。この信念において介護は自分がその人生の中でやり遂げなければならないものととらえられ、そのため、介護者役割を満足に果たせないと「後悔しない人生を送りたい」の原則に反することになる

(『痴呆老人の家族介護に関する研究』より)

 介護されようがされまいが、老人は死んでいくだろう。しかし、どうせ死んでしまうんだから老人を介護する必要などないとはわれわれの多くは考えない。死にゆく老人を介護しなければならないとわれわれの多くは感じている。さきほど介護は合理性を超えるといったのはこのことだ。

(『なぜ老人を介護するのか』より)

 人間はケアへの欲求というものをもっており、また、他者とのケアのかかわりを通じて、ケアする人自身がある力を得たり、自分という存在の確認をしたりする

(『ケア学』より)

「介護はそもそも苦しみか」と問われたら、私は必ずしもそうとは言いきれないと思います。私自身、介護が必要な家族が2人いて、さまざまな困難も経験しましたが、自分にとって大切な人のそばにいて、共に時間を過ごすというのは、とても豊かな経験であったとも思うのです。

(『認知症ケア最前線 』vol26より)

 

なぜ、介護から離れられないのか

 それでも、介護の専門家などから見て、疑問に思うことがあるのではないでしょうか。

 介護が「いつまで続くのかわからない」のであれば、そこから離れて、気分転換を適切に行えばいいのではないか。収容所とは違って、介護者はどこかに閉じ込められているわけではないのに、拘束感に囚われているのは、家族介護者自身の問題なのではないか。

 そうしたことをはっきりとは言わないとしても、こうした見方をする専門家もいるようです。

 とくに、在宅介護をしている家族には強迫的な性格の人が多く、生真面目で、完全に介護をしようとするために、精魂尽きてうつ病などでダウンすることが少なくないようです

(『明解地方学』より)

 介護が始まってからの家族介護者は、「状況が先で対応があと」という日々を過ごしていることが多いので、おそらくは知らないうちに、だんだんと介護のスキルもあがってきていると考えられます。

 そして、日々状況が変っていく要介護者に対応するために、意識のスピードももしかしたら上がってきているかもしれません。そして、24時間365日体制で、介護を継続している場合も少なくありません。

 そんな生活をしていると、もし、その緊張状態から完全に離れたら、次に、その生活に復帰すると対応できないのではないか、と不安になったり、さらにはいったん気を抜いて、休息をとってしまったら、もう2度とこの負担や負担感の多い生活に、戻る気力がなくなるのではないか、とも感じているように思います。

 もしくは、あまりにも完全に介護への気持ちをオフにしてしまうと、再び戻ってくるのはとても辛く、その経験を元にして、薄く介護の意識を持ち続けながら休息した方が楽な気がする。

 そうした気持ちはかなり共感できるように思いますし、介護を長く丁寧に継続している家族介護者ほど、その程度の差はあっても、(物理的距離があったとしても)要介護者に対して常に気を配り続けている。だからこそ、細やかな介護を継続していることができると、思うことも少なくありません。

 
 それでも専門家から見れば、十分な休息をとるのが難しいような家族介護者は、“強迫的な性格”に見えるかもしれません。

 それでも、介護を続けていく中で、やむを得ず、そう見えるような介護になっている場合が多い、というのが大学院の修士論文での調査や分析での印象でしたが、それから10年以上が経ち、介護者の心理的支援を継続する中で、今ではほぼ確信に近くなってきました。

 そうした家族介護者の現実を把握し、前述したような家族介護者の気持ちを理解しようとした上で、休息をどうとってもらうか?を考える、という手順を踏まなければ、家族介護者が、支援を受け入れるのは難しいと思われます。

 それこそが、丁寧な心理的支援ではないでしょうか。

 しかし、実際は“家族介護者の心身を守らなければ、要介護者も守れない”と主張をしながらも“家族に休息を義務づけるなどの制度が必要”(毎日新聞,2009.3.3)と「強制的」な気配の強い結論になっているのが、家族介護者のケアをする支援者というのが10年以上前のことでしたが、今も、そうした制度すら成立していません。

 ただ、この「休息を義務づける」ような支援の方法では、家族介護者に拒否される可能性が高いのではないでしょうか。

③介護の終わりは、要介護者の死である

 介護の終わりは、言うまでもなく、「要介護者の死」になります。

 それは、当然のことなのですが、それを常に意識するのは、とても辛くなると思います。

 介護は、言ってみれば、とても長いターミナルケア、という見方もできます。

 そう考えたら、それだけで過酷な状況にあり、そのことは、どんな環境調整をしたとしても変えられることではありません。やはり、心理的支援が有効ではないでしょうか。

 しかも、介護生活が続く中で、ふと介護が終わらないだろうか、といった思いが気持ちをよぎることは誰にでもあるはずです。

 ただ、真面目に介護に取り組んでいる方ほど、その介護の終わりというのは、要介護者の死ということに改めて気づいてしまい、私は、この人の死を願ってしまったんだ、といった自責の念に囚われてしまうことさえあるようです。

 こうした家族介護者の心理を理解しようとした上で、心理的支援をしていく必要があるのだと思います。

「ひとつの法則」

 今回の最後に紹介する「ひとつの法則」は、言ってみれば、ジレンマに関することです。

 介護は突然始まる。
 介護はいつ終わるかわからない
 介護の終わりは、要介護者の死。

 そうした介護環境は、それぞれ一つの要因だけでも、過酷と言っていい、という話をこれまでしてきたつもりです。

 そして、それぞれの大変さというのは、具体的に何かを変えることもできるのですが、それだけでなく、環境調整といった変化が難しいことも少なくありません。だからこそ、家族介護者には、個別的な心理的支援が必要ではないか、という説明をしてきました。

 ここにもう一つ法則を付け加えるとすれば、「介護を丁寧にすればするほど、介護の時間は長くなる可能性が高くなる」ということだと思います。

 介護しているときは、要介護者の家族にできるだけ長生きしてほしい。
 それと同時に、介護が辛いときは、介護の終わりを願ってしまう。

 そんな矛盾した思いを抱きながら暮らしているのが家族介護者ではないでしょうか。

 
 さらには、私もそうでしたが、介護の合間に、必死な時間の隙間のような瞬間に、ふと思うことがありました。

 今、自分はなるべく介護を一生懸命しているのは、要介護者の家族が少しでも快適であればいいなと思ってやっていたはずです。だけど、一方では、確率的には、それが丁寧であればあるほど、この介護の時間は長くなるのも事実でしょう。それは自分にとっては大変な時間が長引くということです。

 そんなことを思って、それは完全にジレンマだと気づき、どこにも置き所のない思いになったことも少なくありませんでした。

 そして、介護の終わりを思いすぎると、自責の念を持つことと同様に、この「ひとつの法則」のこともあまり考えすぎると、そのジレンマによって、ちょっと苦しくなるようなこともあります。

 そうした思いを、ふと持つこともある家族介護者も、少なくないように思っています。

 それも含めて支援するとなれば、やはり心理的な支援が必要になるのではないでしょうか。


『後編』は、家族介護者にこそ、心理的な支援が必要な理由を中心に述べさせてもらいました。

 長くなりましたが、読んでいただき、ありがとうございました。
 疑問点、反論などございましたら、伝えていただくと、さらに、ありがたく思います。

 よろしくお願いいたします。





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