『「介護時間」の光景』(200)「月」。4.1。
いつも読んでくださっている方は、ありがとうございます。おかげで、こうして書き続けることができています。
(※この「介護時間の光景」シリーズを、いつも読んでくださっている方は、よろしければ、「2002年4月1日」から読んでいただければ、これまでとの重複を避けられるかと思います)。
初めて読んでくださっている方は、見つけていただき、ありがとうございます。
私は、臨床心理士/公認心理師の越智誠(おちまこと)と申します。
「介護時間」の光景
この『「介護時間」の光景』シリーズは、介護をしていた時間に、私自身が、家族介護者として、どんなことを考えたのか?どんなものを見ていたのか?どんな気持ちでいたのか?を、お伝えしていこうと思っています。
それは、とても個人的で、断片的なことに過ぎませんが、それでも家族介護者の気持ちの理解の一助になるのではないか、とも思っています。
今回も、昔の話で申し訳ないのですが、前半は「2002年4月1日」のことです。終盤に、今日「2024年4月1日」のことを書いています。
(※この『「介護時間」の光景』では、特に前半部分は、その時のメモをほぼそのまま載せています。希望も出口も見えない状況で書かれたものなので、実際に介護をされている方が読まれた場合には、気持ちが滅入ってしまう可能性もありますので、ご注意くだされば、幸いです)。
2002年の頃
個人的で、しかも昔の話ですが、1999年に母親に介護が必要になり、私自身も心臓の病気になったので、2000年に、母には入院してもらい、そこに毎日のように片道2時間をかけて、通っていました。妻の母親にも、介護が必要になってきました。
仕事もやめ、帰ってきてからは、妻と一緒に、義母(妻の母親)の介護をする毎日でした。
入院してもらってからも、母親の症状は悪くなって、よくなって、また悪化して、少し回復して、の状態が続いていました。
だから、また、いつ症状が悪くなり会話もできなくなるのではないか、という恐れがあり、母親の変化に敏感になっていたように思います。
それに、この療養型の病院に来る前、それまで母親が長年通っていた病院で、いろいろとひどい目にあったこともあって、医療関係者全般を、まだ信じられませんでした。大げさにいえば外へ出れば、周りの全部が敵に見えていました。
ただ介護をして、土の中で息をひそめるような日々でした。私自身は、2000年の夏に心臓の発作を起こし、「過労死一歩手前。今度、無理すると死にますよ」と医師に言われていました。そのせいか、1年が経つころでも、時々、めまいに襲われていました。それが2001年の頃でした。
2002年になってからも、同じような状況が、まだ続いていたのですが、春頃には、病院にさまざまな減額措置があるといったことも教えてもらい、ほんの少しだけ気持ちが軽くなっていたと思います。
周りのことは見えていなかったと思いますが、それでも、毎日の、身の回りの些細なことを、メモしていました。
2002年4月1日
『あたたかい日。午後2時15分頃家を出る。
午後4時15分に着く。
病棟に入ったら、患者さんに「おかえりなさい」などと言われる。
スタッフの方に「毎日、お疲れ様」などとも言われる。
病室に入ると、ベッドに横になっている母。少したって、トイレへ行く。
小さい机の上のスケッチブックに、母が花を描いてあった。それを壁に貼った。
少しぼんやりしていて、反応が鈍い。
病棟の中を一緒に少し歩く。
明るい日差しが病室の中にも差し込んでいるけれど、何かでも、前よりぼんやりしている感じになっている。
午後5時30分に、いつものように夕食。
45分かかる。
終わってから、すぐトイレへ行く。
机の上のメモには、昔の俳句が書いてあったり、3月31日には「春雪だなあ、と思った」とあった。
他のメモが日付が少しゴチャゴチャになったりしているけれど、昨日は雪が降ったから、確かにあっていた。
他にも「堺屋太一 宮本信子」など人名も並んでいるけれど、おそらくはテレビで見たと思われる人の名前だった。
トイレから戻ってきて、目薬をさしているのだけど、本当にさせているか、ちょっと疑問。ただ、自分でやろうとしているので、あまり手出しはしない方がいいかもしれない。
午後7時前。病棟の遠くの方から、切迫した叫び声が聞こえてくる。
そろそろ帰る準備をする』
月
病院を出て、空を見る。
昨日は、雷がすごかった。
母は、野球のナイターを見て、それから寝たそうだ。
今日は、とてもおだやかな月が出ている。
病室を出るとき、「バナナがあるうちは、いいから」と母にまた言われた。
(2002年4月1日)
それからも、その生活は続き、いつ終わるか分からない気持ちで過ごした。
だが、2007年に母が病院で亡くなり「通い介護」も終わった。義母の在宅介護は続いていたが、臨床心理学の勉強を始め、2010年に大学院に入学し、2014年には臨床心理士の資格を取得し、その年に、介護者相談も始めることができた。
2018年12月には、義母が103歳で亡くなり、19年間、妻と一緒に取り組んできた介護生活も突然終わった。2019年には公認心理師の資格も取得できた。昼夜逆転のリズムが少し修正できた頃、コロナ禍になった。
2024年4月1日
月がかわった。
新年度のはじまりでもある4月1日が、ちょうど月曜日になることも珍しいと思うけれど、天候は不安定で、晴れているのに、いつにわか雨が降るのかわからないらしい。
だから、洗濯物を部屋に取り込むこともしなくてはいけないから、空模様に敏感になっている。
3月は寒かったけれど、やっとあたたかくなってきたので、100メートルほど先に見える桜並木に少し桜が咲いて、色がちょっと変わってきたようだ。
確かに、春が来ている。柿の緑の葉も、いつの間にか目立ってきた。
入社式のニュースも流れている。私自身は、そうした式をするような会社で勤めた事がなく、個人的には入社式がなくてありがたかったから、今日から働く人の不安を想像する。
変化
まだコロナ禍が終息していないので、持病を持つ家族がいると、感染しないように、という思いはずっと続いているし、感染予防についてできることは継続している。
人がたくさんいるところには、なるべく行かなくなって4年が経つので、その縮こまるような思いもずっと続くと当たり前になってきていたのだけど、4月から少しの変化があることで、これまでが萎縮に近い感覚になっていたのに、改めて気がついた。
新しいことは不安もあるけれど、期待もある。
どちらにしても、どんなことでも始めてみないとどうなるのか、分からないせいだろう。
そんな当たり前のことを思う。
やる気について
この30年にわたって、どうやら、いろいろな職場が大変になる一方なのを、この書籍↑を読んで、再確認した思いになった。
自分の仕事は、心理士(師)だからなのか、毎日が順調にいっている人と関わるよりは、様々なことで困っている人と接する機会の方が多い。
ただ、どうやら社会全体でも、構造的におかしなところがあるのではないか、と薄々思ってきた。本当に変えるのは難しいのだけど、環境調整をした方が状況がよくなる人は、想像以上に多いと感じてきた。
日本の会社という組織について書かれた本だったが、その外側にいて、しかも社会的に何の力もない人間が、具体的に働きかけるのは無理だとしても、こうしたことを知っていると、自分を責める人に、「あなたのせいではない」ということを、もう少し自信を持って伝えられそうだと思った。
(他にも、介護のことをいろいろと書いています↓。よろしかったら、読んでもらえたら、うれしいです)。
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