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『「40歳を超えて、大学院へ行く」ということ』㉖「クリスマス」と「電話」-----大学院1年生・12月後半。

 初めて読んでくださっている方は、見つけていただき、ありがとうございます。
 私は、臨床心理士/公認心理師越智誠(おちまこと)と申します。

 
 いつも、このnoteを読んでくださっている方は、ありがとうございます。おかげで、こうして記事を、書き続けることができています。

(※この『「40歳を超えてから、大学院に通う」ということ』シリーズを、いつも読んでくださっている方は、「一日」から読んでいただければ、重複を避けられるかと思います。今回は、大学院に4月に入学し、半年以上が経った12月後半の話です)。


大学院で学ぼうと思った理由

 元々、私は家族介護者でした。

 1999年に介護を始めてから、介護離職をせざるを得なくなり、介護に専念する年月の中で、家族介護者にこそ、特に心理的なサポートが必要だと思うようになりました。

 そうしたことに関して、効果的な支援をしている専門家が、自分の無知のせいもあり、いるかどうか分からなかったので、自分で少しでも支援をしようと思うようになりました。

 そして、臨床心理士の資格を取得するために、指定大学院の修了が必須条件だったので、入学しようと考えました。それが実現したのが2010年です。介護に専念して10年が過ぎた頃でした。
 私自身は、今、振り返っても、40歳を超えてから大学院に入学し、そして学んで修了したことは、とても意味があることでしたし、辛さや大変さもあったのですが、学ぶこと自体が初めて楽しく感じ、充実した時間でした。

「40歳を超えて、大学院に通うということ」を書こうと思った理由

 それはとても恵まれていたことだとは思うのですが、その経験について、(すでに10年以上前のことになってしまいましたが)伝えることで、もしも、30代や40代や50代(もしくはそれ以上)になってから、大学院に進学する気持ちがある方に、少しでも肯定的な思いになってもらえるかもしれない、と不遜かもしれませんが、思いました。

(もちろん、資格試験のために大学院へ入学するのは、やや一般的ではないかもしれませんが)。

 同時に、家族介護者へ個別な心理的支援を仕事として続けてきたのですが、少なくとも臨床心理士で、この分野を専門としようと思っている方が、かなり少ないことは、この約10年間でも感じてきました。

 もしも、このnoteを読んでいらっしゃる方の中で、心理職に興味があり、臨床心理士公認心理師を目指したい。

 さらには、家族介護者の心理的支援をしたいと思ってくださる方がいらっしゃるとしたら、できたら、さらに学ぶ機会を作っていただきたい、という思いもあり、改めて、こうして伝えることにしました。

 この私のnoteの記事の中では、もしかしたら、かなり毛色が違うのかもしれませんし、不定期ですが、何回かに分けて、お伝えしようと思います。そして、当時のメモをもとにしているため、思ったよりも長い記事になっています。
 よろしくお願いいたします。

 今回は、40代後半になってから、介護を続けながらも、臨床心理学専攻の大学院に通えることになり、秋の新学期も進んで、大学院1年生の12月の後半の頃の話です。

 
 なお、大学院の同期は10数名です。学部からそのまま進学した人と、社会人入学の人が大体半々。女性の数がやや多いという構成です。特定を避けるため、個別な人に関しては、曖昧な書き方になっていますが、時間が経つごとに、比較的、交流が増えてきたと思っていました。


一日

 12月18日。土曜日。

 時間厳守でと言われている事例検討会に出るために、介護による午前5時就寝の毎日なのだけど、自分にとっては朝早く起きて午前8時頃には出かけました。

 地下鉄に乗って、座れたので、少しでも寝ようと思ったら、大柄の人が隣で狭い場所に座ってしまったので、少し後悔しつつ駅が過ぎていって、いつものように、と思いながら、この一瞬、一瞬が、とても貴重なのに、という気持ちが少し薄れてしまっているような気がしていました。

 50歳を前に学生という立場になっている、ある意味で不思議なポジションが当たり前になっていて、それで毎日が雑になっていなければいいな、というような事を思うようになっていました。

 それでも、目の前に課題や発表などがいろいろと次々とやってきて、それを消化するように一応、ベストをつくしてきたら気がついたらもう秋のシーズンが終わろうとしているのが、ちょっと寂しいような気持ちまである、みたいな事はここのところよく考えていますが、入学当時はとてもゆっくり流れていた時間が、夏を過ぎたあたりから早くなって、その早さに慣れないうちに冬になっているような気がしています。

 地下鉄は大学の最寄りの駅に着いて、その電車に多くの大学院の上級生が乗っていることに気づき、そのまま流れるように教室へ向かい、発表者に途中で会って、緊張しているのがよく分かりました。

 それから事例検討会が始まって、なんだか空気が重いままですが、それでも質問をしたり、議論になったりして、比較的穏やかに時間が過ぎましたが、コメンテーターである先生が、あるレベル以上の話をします、というところから教室全体の気配までが変わりました。

 一段固くなるというか、深くなる感じがします。

 そこから出てきた言葉は、やや抽象化すれば、クライエントの深い問題に触れるのを無理をしなくてもいいけれど、でも、心理士側は、重い問題をずっと考え続けること。おそらくそういう専門家でもあるのだろう、というようなことを考えさせるような気がしてきたのですが、こういう場でも、その言葉の説得力や周囲の期待とか、いろいろなものをコメンテーターの先生は、越えて行くから、それでカリスマ的なことを言われるのだろう、というような気持ちもしました。

 でも、その鋭さは、やっぱりどこか孤独というような場所から出ているような気もしました。

 事例検討会が終わってから、昼飯を食べ、発表者と一緒になり、その人は中生ビールを2杯飲み、おいしいと言っていました。

 それから、今度は電車に乗って、少し遠い場所を目指します。

 今日は、大学のサッカー部のOBが集まってサッカーをする日なのですが、そのゲームには間に合わないので、その後の飲み会に参加することを伝えていました。

 サッカー部の後輩の携帯に電話をし、あと1時間半くらいで行くから、と行って電車に乗り、午後3時頃に着きました。なつかしい顔が並んでいますが、中にはずいぶん老けたと思った後輩もいます。そう感じるのは今、毎日若い人間と接しているためだとも思いました。

 それでも、ここ毎年、恒例になっているこの集まりはとてもありがたく、でもさっきまでのサッカーの話には当然ながら入って行けず、残念だったのですが、去年、サッカーをした事を思い出し、あれは本当に嬉しかったと思い返しました。

 今回は助っ人のゴールキーパーの人が来てくれていて、その人がずっと勝つためのサッカーの話をしていて、50近い人間にそれを要求するのは凄いな、と思いつつ、その人の弟が博士課程をおさめていることを知り、だから自分もさらに博士課程に進み、大学の講師にもし雇われることがあれば、母校の大学で同時にサッカーのコーチもする(監督は先輩が勤めているので)、というような道があることも、ほぼ不可能と思いつつ、可能性があると思ってしまいました。

 もしも、お金の余裕があったら、博士課程にも進みたい、と秘かに考えるようになったのは、今の学生生活が想像以上に楽しいからなのは間違いないと思いました。かなり分不相応な夢なのもわかっていますし、大学の頃のひどい成績や学ばない姿勢を知っている、サッカー部の関係者にはとても言えないことでもありました。

ナンバーワン

 12月20日。月曜日。

 今日は義理の姉が来てくれてふすまの紙の張り替えをやってもらい、その途中でガストへ行って、そこでいろいろな話をしたけれど、人格障害うんぬんの話をしている時に、自分が専門家のような偉そうな口をきいているような気がしていて、少し恥ずかしかったのですが、でも少なくとも、そういう心理関係の事を話す時は、今までみたいにあいまいな事や想像ではなく、自分が知っていることと知らないことをはっきりと区別しなくてはいけない、と思うようになりました。

 ただ、もし、これから、そういう話が出る場合には、その目の前の人が困っているに違いないのだから、その人のためになるように、それよりも負担を増やさないように、みたいな事を思いつつ話をする癖はついてきているのを自覚しつつ、それが一種のわざとらしさにつながってもいるかもしれないけれど、そういう慎重さは必要なのだから、と思いつつ話をしていました。

 義理の姉が家に来てくれているので、ちょっと家を早めに出て、大学に着いてから、図書館へ行って本を返して、また借りてをする前に、同期の女性に声をかけられました。

 その人は、今日は講義もないけれど、あさっての研究ゼミの発表のために論文を検索し、読みに来たと言って、少し疲れた顔をしていたが,少し話をしました。私にも、がんばってください、と言ってくれて、学食へ行ったら、誰もいませんでした。

 みそラーメンを食べていたら、違う同期が来てくれて、少し話をしました。

 これから講義です。

 それから講義になったのですが、2日前の事例検討会の発表者の感想や、聞いている側の感想になり、他にもいろいろな話に広がったのですが、それでも一つ一つがかなり身になるような話題でもあり、ある意味ではもっともタメになる授業だったと改めて思いました。

 そして、講義は早めに午後8時過ぎには終わり、それから食事でも、という事になり、外へ出かけました。家に公衆電話で電話をして妻にも義母にも異常がないことを確認してから、中華居酒屋といわれる店に入り、2階に上がり、先にみんなが座っていて、その中で空いている席に座り、私以外には、まだ課題が残っているということで、2人だけでウーロン茶を飲んでいました。

 いろいろなおかずが出て来て、それから酒も飲んでいるうちに、時に率直過ぎる同期と、先生が話をしていて、ちょっとひやひやして見ていたら、なんだか意気投合というか、先生の方がちゃんと受けてくれているように見えます。

 そんなことを考えていたら、ふと、その先生がこちらを向いて、二人で殴り合いでもすると思った?と聞かれ、生意気かもしれませんが、本当によく見ているし、分かっているんだな、と思いました。

 食事が一段落して、外へ出て、その先生とちょっとだけ話したら、その同期の女性のことを、ある意味ナンバーワンだね、と言い、その見立てに改めて感心をし、臨床心理士の凄さのようなものを感じました。ちょっと怖いような気持ちにもなりました。

 それから他の方々は、カラオケに行くというので遠慮して家に帰ってきたら、妻がまだ起きていました。今日の話を少しして、妻を寝かせた後、義母がもうトイレに行く音がしたので1階に降りてトイレに行かせました。

 これから午前5時過ぎくらいまで介護は続くのですが、微妙に寂しい気がしました。

決意

 12月21日。火曜日。

 学内にあるカウンセリング機関での受付の実習のために現場に着いたら、紙に書いた対処法がコルクボードに貼ってありました。

 申し送りというような内容でしたが、そのことで、改めていろいろなことを考えましたし、こうした場所での対応の難しさも感じました。

 その上で、こうした絶対の正解がないことも含めて、考え続けることで、資格を取得したあとも、少しでも真っ当な臨床心理士になれるのではないか。少なくともそういう修練というか、努力はし続けようと、秘かに決意したりしました。

 そうしたことを思いながら、実習の時間が過ぎていき、夕方になり、実習の時間は終わりました。

 良いお年を、などと言いながら実習場所を出て来ました。来週は年末で、この実習も休みです。そういえば、今日は、自分より若い教授の方がケーキを焼いて来てくれて、どうぞ、と言われて食べました。丁寧な味がして、おいしかった。

 実習中で、すきま時間で食べたので、机のすみっこで一人で何も飲まずにほおばるように食べて、ちょっと寂しかったのですが、そうやって気にかけてくれるのはとてもありがたい気持ちがしました。同時に、自意識過剰かもしれませんが、自分よりも年上の学生へ対応するのは、やりにくいのではないか、と思いました。

 講義の前に、学食へ行ったら同期がいたので話をしたのですが、実際に講義が始まると、ああそうか。そうだ、と、すごく納得がいく半面、自分に出来る訳がないのでは、と思い、でもおそらく自分は、人がいかない道へ進む以外に、自分を生かす方法はないのかも、などとも思いました。

 帰る時の地下鉄では、あまり一緒にならない同期の女性と、上級生と一緒でした。同期は降りて、そのあとは上級生と一緒でした。その人の論文を読ませてもらいました。偉そうな言い方になったら失礼ですが、頭がいい人だと素直に思いました。

 家に帰ってからは、義母の介護です。

飲み会

 12月22日。水曜日。

 今日で、今年度の最後の研究ゼミでした。

 前回作ったレジュメを流用した形になったのですが、「恍惚の人」を読み進んだら、実はかなり、この主人公は、働いている主婦でもあるのですが、介護をする側のいらだちや苦悩などがかなりちゃんと書かれていて、すごいと思ったのと同時に、その頃は老人性痴呆とも書かれるしかなく、その老人がどこか幸せとは言わないまでも、それこそ「恍惚」の場所にいる、というイメージがやっぱり出来上がってしまったのかもしれない、という気持ちも強くなりました。
 それは、ベストセラーになったから、やはりこの作品の影響力が強くなった、という事も確かではないか、と思いました。

 そうやって、そのレジュメの内容について検討してもらい、それでかなり納得もいき、感心して終わったのですが、指導教授が帰るところを階段の上から呼び止めて、最後なので、どこかで軽く飲みませんか?という話をしたら、指導教授が、じゃあ、いつも行っている中華料理屋さんで、あんまりきれいでなくてよければ、という話になり、3人で向かいました。

 歩いている途中で、方向音痴の話題になり、自分の事を言ったら、指導教授も、私もそうだった、という事を言ってくれたので、心強い気持ちになりました。

 そうして、ホントに新橋のガード下のような中華料理屋さんで、私だけがウーロン茶で話をして、そして、かなりのボリュームの食事になってしまったのですが、その中で依存の話や、他の事も話し、それから最後は大阪万博の話題になり、指導教授はそれほど年齢が変わらないせいか、あの熱気への記憶はかなり重なるのではないか、とも思えました。

 それから解散になって、地下鉄に乗り、家に帰りました。

 途中で家に電話をしたら、訃報を知りました。毎年のように、こういう事があるのが歳をとった、という事で、それが何よりも、若い人達と違う事で、とは、思いました。

 帰ってからは午前5時頃まで介護が続きます。

ショートステイ

 12月23日。木曜日

 今日から義母をショートステイで預かってもらいました。4泊5日の予定です。

 朝早めに起きて、妻と二人で荷物を持って行って、施設に入ってもらいました。予約したのは2ヶ月以上前になります。一度帰ってきて近所のカレー屋さんに行き、カゼ気味のせいもあって、その辛さみたいなものがありがたいな、ということを秘かに思いながら、妻と一緒に食べて、帰ってから、妻が昼寝するから、というので、そういえば義母がいなければ一緒に昼寝出来るんだ、と思って横になったら1時間くらい眠ってしまいました。

 たぶん、かなりホッとしてしまったんだと思います。それから、前から知っているアーティストの若い人のライブペインティングを見にいこうと高円寺に出かけて、1年ぶりに駅に降りました。

 それ以前に、4回くらいこの駅に来た時は、ここにある予備校の、大学院のための模擬試験を受けに来た時で、あれから1年しか経っていないのですが、あの時は寒い教室のすみで、そばでいろいろな大学院の入試の情報を声を大きめに話す若い女性の声を聞いて、なんだか微妙に悲しくなり、模擬試験は2年くらい勉強しているのにちっとも点が上がらず、大学院に入れるのは何年後になるんだろう、などと暗くなっていたのを思い出します。

 あの時の不安は本物だったけれど、でも先の事は全く分からないにしても、それでも毎日勉強は続けようと決めていました。どこか今よりもとがっていた時間を思い出しますが、もうその実感は完全に今の気持ちとは重ならず、どこかゆるくなっているのではと思ったりもします。

 妻は周りを見て、いろいろなお店の感じが、かわいい、かわいい、すごくいい、というような言葉を連発しつつ、そして、目的のライブペインティングをしている「素人の乱12号店」を探しつつ、行き過ぎたかもと言いつつ、見つけ、階段を登って、でも、あまりにも普通の出入り口だったので、ここなの?と迷いつつ、また1階に戻って確かめてから入りました。

 そこは、絵の具(?)のにおいがたちこめているあまり広くないところに5人も6人もがひしめくように絵を描き続け、その1枚1枚の絵を壁などに貼っていく、ということを続けています。

 1ドリンクという条件があったけれど、どこで飲めるんだろう?、というような学園祭の準備室みたいなところだったのですが、確かに何枚かは欲しくなるような絵があって、それでどれを買おうかと迷ったりもし他のですが、その空間の中でコーヒーを飲みながら、描いている作業を見ているのは、なんだか面白く思いました。

 そうやって時間が過ぎ、もんだみなころ氏の冊子をもらったり買ったり、辛いジンジャエールを飲んだりし、1時間ほどいてから、そこを出ました。

 絵を買います、と言ったら、拍手をしてくれました。
 ここに誘ってくれたもんだみなころ氏を含む3人の人が描いた絵だったのですが、合作という感じがしないくらいの自然さです。

 そこを出て、何件か雑貨屋を見て、ポストカードとかいろいろと小物を買いつつ、アパートメントというカフェを見て、よかったけれど、今日、目標とするカフェに行く、ということにして、また歩いて、カフェのそばの雑貨屋さんで、また妻は買い物をして、それから入り口が高さ130センチのドアのカフェに行き、中にはイラストが描いてある部屋のようなところがあったので、その場所のイスに座りました。

 クリスマスが近いのでキャンドルサービスのような照明で店内は薄暗く、だから、小さいライトで照らしながらメニューを見て、ピザとドリアと、食後にケーキやコーヒーを頼み、ゆっくりと妻と話をしました。

 明日は、大学に行って、夜もいないから、今日がクリスマスの代わりという感じです。

「訳ありの人」の話になり、自分は、そういう感じの人になれなかったけれど、どう違うのか、みたいな話。それから、大学院の講義の話。いろいろなことを話題にしながらも、妻がどの話題にも自然な対応をすることに感心しつつ、楽しい時間が過ぎました。

 帰ったら、午後10時頃でした。義母をショートステイに預けているので、今日は何時に寝てもいいはずです。だけど、なかなか眠れませんでした。早く寝ることに変な罪悪感がありました。

クリスマス

 12月24日。金曜日。

 講義があるので、出かけます。さらに、夜は忘年会とクリスマス会を兼ねた集まりがあるので楽しみでした。妻にはそのことを伝え、クリスマスのプレゼント交換をするので、そのパッケージも手伝ってくれました。

 でも、自分自身はカゼをひいていました。まだそれほど重くないはずだったのに、大学へ行って、話をしたら、声が全然聞こえない、と言われました。いつも、基本的にはしゃがれた声の上に、ややこもっていたり、遠くへ届きにくかったりするのですが、余計に声が伝わりにくくなっていました。

 マスクをして出かけてきて、それでも忘年会&クリスマス会には出ます、と周囲には言っていて、講義が終わるのを待ち、それでもその内容を吸収しようとしていたが、カゼクスリを飲んでいるせいもあって、途中ですごく眠くなり、知らない間に寝ていたそうで、講義が終わってから同期に指摘されました。

 そして、午後9時前には講義は終わったので、それから大学の門のところに行き、そこには何人かの同期がいて、歩いて駅の近くの居酒屋へ向かい、その前に私は家に電話をして妻が大丈夫なのを確認し、それから集まりの場所に行きました。

 丸い大きいテーブルを囲んで、始まり、途中でプレゼント交換で、500円以下、という制限で、中には、ちょっと大人というか学生っぽい感じのものもありました。なんだかなつかしく楽しい気持ちになっています。

 隣の同期の女性に、今年の春と同じ消極的な話をしてしまい、責められ、あやまり、そうこうするうちに、時間が過ぎ、プレゼント交換の時間になりました。それはジングルベル、を歌いながら、回して止める、というようなことをします。

 とてもよくあることですが、自分にとっては、もしかしたら、そんなクリスマスなんて初めてに近くて、若いときの大学時代は、男ばっかりで、もっとむさかったような記憶しかありませんでしたから、今が、すごく楽しいような気がしています。

 でも、あまりにもはしゃぎすぎてもいけないのでは、と周りに一応の気を使ったりするくらいでした。
 それでも、そこにいて、自然にいて、心地よい、というような状況になっているので、それは春から見たら、そして、去年から考えたら、とても想像が出来ないような事だと思いました。

 そして、これも最後というか、来年はこういう会が出来るのかな、というような気持ちにもなり、同時に、もう1年がたってしまったんだ、という事を改めて思います。

 今の生活みたいな感じが長く続けば、と思うくらいの毎日でした。

 今日も義母をショートステイに預けていますし、妻も遅くなっても大丈夫、みたいなことを言ってくれていましたし、本当は、他の若い同期と一緒に朝くらいまでいたかったのですが、カゼをひいているので、終電で帰りました。

 まだ終わってないけれど、とてもいい1年でした。

 翌日の25日はクリスマスで、家にいました。せっかくショートステイで義母が家にいないのに、病気になってしまったのは、情けない気にもなりましたが、介護がないときだから体が安心したのかと思うと、自分でも、微妙に悲しい気持ちにもなりました。

年末

 12月26日。日曜日

 かぜをひいてクスリを飲んでぼんやりしていると、本当に病人らしい気持ちになれます。この感じは、今年の2月に、おそらくノロウイルスにやられて以来の感覚で、今年の4月から学校へ通うようになってからは初めて、これだけ病人っぽくなったような気がします。

 今日は、本当ならば妻の友人の忘年会に一緒に出るはずで、そのために義母のショートステイをこの時期に合わせてとったのですが、起きてからも調子が悪く、家にいて休むことにしました。

 昼頃起きて、妻を見送り、それから妻が買って来てくれたレンジで作れるタンメンを食べて、クスリを飲んで、英語の勉強をしたら、急に眠くなったのが午後2時半頃で、起きるだろう、と思いつつ、今は日没が午後5時前くらいだから、その時に家が真っ暗だと今日は他に誰もいないからぶっそうだろうと思い、玄関や廊下や部屋の電気をつけて、あんかも入れて寝ました。

 さっきまでは、最初に勤めた会社から再び採用通知をもらって、その日に行ったら、昔を知っている人が真っ白な頭になってすれ違ったりしたのですが、なぜか声もかけられず、会社の中をうろうろとしているだけで終わった夢を見ましたが、また寝たら、今回は、やっぱりどこかへ入れないような夢を見て、妙にリアルでした。

 自分が50近い年齢になっていること、最近、一緒に学んでいる人達と比べたら、その後の一通りの経験みたいなものもしているはずなのに、そういう重みとか厚みとか、そうしたものを一切忘れ、そして、そうした経験みたいなものが、いろいろ確かにあったはずなのに、あれは本当だったのだろうか?みたいな事も思うことがあるくらいです。

 夢を見ると、時間の感覚がさらにおかしくなり、今の自分の年齢がウソなのではないか、と思うのは、それだけ生きてきたはずなのに、何の蓄積も成果も上げている気がしないせいだと感じていました。

 今日も神聖かまってちゃんを聞いていました。今年の秋に若い人から教えてもらって聞くようになり、CDを買いました。

 こういう行為は、自己満足だったり、心の若作りだったりもするのかな、と思いながらも、先が分からず、貧乏で、しかも家にこもりがちの生活を送ると、あっという間に思春期の若者と同じようなメンタリティーを持つ、という実証になっているかもしれない、などという気持ちもありました。

 起きたら、午後5時を過ぎていました。
 もう外は暗くなっています。

 妻は出かけているし、義母もいません。一人だと何もしゃべりませんでした。

 誰からも気にかけてもらえないし、気にかける相手もいない。気楽というより、圧倒的に寂しい、というか、つまらない感じがしました。

 何かしゃべる相手がいるというのは、とてもぜいたくな事で、とても恵まれたことなのだろう、と改めて思ったりもします。それくらい、なんだか平坦な時間が流れるだけなのだけど、静かな日でした。

 夜まで、この間の実習の逐語録を起こして、それを直して、もう一人実習に来てもらった人に添付して送りました。

 それから、テレビを見て、M—1を録画しているから、妻と一緒に、と思ったのに、我慢できずに、見てしまいました。ずっと面白いと思っていたコンビがやっと優勝して、でも、順当な結果だと思いました。

 妻は夜になって、楽しかったと言って無事に帰ってきました。
 よかったと思いました。

1年間

 12月27日。月曜日。 

 家にいて、この1年のことを自然に考えていました。

 同期で、今の20代前半というのは、自分も通って来た道で、それはもう25年も前のことで、それが信じられないくらいなのですが、そうした自分の経験などが本当に身になっているかどうかも分からないまま、時間は過ぎていて、ただ歳だけはとっている、というような感覚になることが少なくなかったように感じます。

 ずっと土の中で生活していたような時から比べると、そして、その生活が10年以上も続いたことを考えたら、それはウソのようなハードな事でもあるのですが、そこから学校へ通うようになり、思った以上に気持ちがぐらぐらするような毎日になり、自分の年齢とか経験とかが返ってマイナスになるかもしれない、とどこか取り返しのつかない恐怖みたいなものも感じたりしました。

 そのあとは、なるべく、そういうことを考えないように、とにかく少しでもちゃんと学ぼうとしているうちに、自分の経験や年齢も含めて全てを使えるようにしていかないと先はない、というような発想に変って来て、今はその途中です。

 それでも、自分の年齢が時々信じられなくなるのは、若い人達と一緒に学べているせいだと思いながらも、先の分からなさの不安、というのは、私などより、若い人間の方が確実に大きいのだろうと最近は、思うようになりました。

 少なくとも「こういう事が起きるだろう」というような予測は、この程度の人生経験でも、ある程度は分かるようにはなってきているので、それを生かすしかないのですが、何しろ人間関係の圧倒的な少なさみたいなものに、50近くになって改めて分かるのは、ちょっとつらくて、その劣等感みたいなものがあって、周りに遠慮してしまうものかもしれない、と思っています。

 そんな1年間が過ぎて、この変化の激しさは、就職した年や、介護生活に入った時以来ですから10年ぶりだし、変化は10年ごとなんだと改めて思い、まだ若いというか、それほど老いを感じずにいられるのは、減量してアルコールをやめて筋トレをして、という生活のおかげではあると思いました。

 でも、介護をして、勉強をして、それだけだとストイック過ぎるのでは、などという迷いみたいなものが出てきて、どこかあせるのが、もしかしたら老いる、ということなのだろう、とも思います。

 今日から義母がショートステイから戻ってきます。妻と二人で迎えに行きました。

 また午前5時就寝の日々が再開します。

年賀状

 12月28日。火曜日。

 研究論文のためのインタビューも始めていて、その分析の前にテープ起こしが必要だけど、まだ全然やってなくて、というか、インタビューをしたことで、一つ終わったような気持ちにもなっていて、それが単にだれているということにも近いのだと思います。

 それに加えて、先週の土曜日から冬の休みにはいっているといっても、休みが明けたら発表が2本で、レポートが2本だから、休み中に毎日こつこつやらない限り終わるわけもなく、だから実質はお休み、というわけにもいかず、だけど、講義にはいかないし、実習も休みだから時間はあるけど、でも、今のところまだカゼをひいていて、今日もお医者さんに、今年最後だというので行ってきました。

 混んでいるかと思ったら、私の前に一人スウェット姿の若い女性がいたくらいで、思ったよりも空いていて、それで帰ってきてから、ここのところ、火のつきが悪くて、何度か失敗した後だとボワンというちょっとした爆発音が怖かったお風呂のバーナーも代えてもらい、3万円以上になり、だけどそれで少し安心にはなりました。

 それから、今も夜はせっせと、本当にせっせと、という感じで年賀状を書いていて、今年新しく知り合った同じ大学院にいる人達に出そうと思って、それで一段落をして、あとは明日書こうと思って、勝手に1年の区切りみたいな感じになっています。

 それで、何かをした気になってもいますが、まずは、明日からレポートと発表のための準備を始めていこう、とメモに書いて、まだTATと、研究ゼミのテープ起こしがあるのに気がつき、自分は来年は大量のテープ起こしと、それに伴う分析ですごく時間を使うんだな、と思ったのですが、でも、そうしないと論文としては通らないと思うと、気が重いのですが、それでも本を1冊書くつもりでやらないといけないので、今から始めても全然、早くはないはずです。

 それから、研究ゼミで修士論文の進捗状況の進行表みたいなものも出さないといけないんだ、と思って、ちょっとあせります。けっこうやることがある、と年末年始を思ったのですが、ショートステイから義母も戻ってきましたし、介護していく毎日に休みはないのですが、そのこと自体は苦痛ではなく、学校のことを考えると、今だに楽しく思えます。

 そして、来年は大学院の1年生が入ってきて、それでまた楽しくなったら、いいな、とも思っているのは、とっても欲張りなのかもしれません。

 とにかく時間は進みます。毎日を丁寧に大事に、という気持ちはまだあるので、そうやって暮らしていきたいと思います。今日、妻に嫌な思いをさせてしまったので、そういうこともちゃんと考えないと、と思いました。

 夜中の介護の日々が戻ってきています。

電話

 12月29日。水曜日。

 起きて、洗濯などをして、今日は残りの年賀状を、今年知り合いになったばかりの大学院の修士の1年生の同期の人に、一人はおそらく喪中だから、それを除いて、その他の15人の人に書くことにして、書いていました。

 あて名を書いているだけでも、たった9ヶ月のわりには、それぞれの人にいろいろな思いを持っている自分がいて、そして、こういう思いが出来るなんて、恵まれている、などという気持ちにもなりました。

 1時間くらいは、年賀状を書くのにかかって、それから買い物をして、同期の人の一人に面白いと勧めてもらった伊坂幸太郎の「重力ピエロ」を本屋で買って、年賀状を出して、薬局でも買い物をして、それから八百屋でも野菜を買って、帰ってきてから、妻とお茶をしながら録画してあったテレビを見て、笑って、それから昼寝をしたら、はっと気がついたらまだ30分くらいしかたってなくて、もう1度寝ました。

 それから、あんまり時間がたたないうちにまた目がさめた、と思ったら、すでに1時間以上がたっていて、結局は6時半くらいから寝て、起きたら8時半くらいになっていました。

 微妙にあせって、1階に降りたら妻が笑って、「さっき、ここで飯だー、って言ったの聞こえた?」と言われました。こんなに眠ってしまうなんて、疲れがまだあるのだろうか、という話をしたら、カゼをひいているから、と言われました。まだ鼻がずるずるしていて、鼻水は出ていて、声もまだカゼの声で、確かにまだ病人のままでした。

 自分としては、ずいぶんとよくなったつもりでも、まだカゼをひいていて、確かにちょっとぼーっとしていて、と思ったら、最近やらなくてはいけないことは多いものの変にあせりがなくなったのはカゼでどこかしばらくあきらめているせいかも、などとも思い、何しろ続けていくこと、少しでも前進すること、みたいなことは思いながらも、年末の気分で自分も休んでいいのではないか、と思っているのかもしれません。

 食事をしながら、テレビを録画した番組を見て、途中から映画の「少年メリケンサック」というのを見ました。

 それは、25年ぶりに再結成されるパンクバンドの話で、自分と年齢が同じくらいで、なんだか妙にやる気は出てくるものの、ようするに、自分がやるべきことは、今の勉強だし、その先の仕事だし、それからとにかく書くことと決まっていて、それは、こういう映画のような劇的な盛り上がりなどはないものの、だけど、とにかくやるしかないと思っていました。

 ただ、この映画のリアルなところは中年でボロボロになっても、中味はたいして変っていなくて、というところで、本当にそうだ、と思えるところで、人はそう簡単に成長しない、というようなことだろうな、とも思えて来ます。

 まだ中年でない監督がよくそういう表現を出来ることに感心もしたのですが、それはおそらく、年齢だけを特別視しない、という姿勢で作ったせいかも、などとも思っていました。

 その映画を見ている途中で弟から電話が来て、自分の話をして30分くらいで切れて、今回は、正月に実家にくるので、帰り際に駅で会えないだろうか、というような話で、考えたら久しぶりで、その話にすぐに大丈夫と返事は返しました。

 本当に年末です。



(他にも、介護について、いろいろと書いています↓。よろしかったら、読んでもらえたら、うれしいです)。




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