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なぜ「お経」で悪霊が退散するのか

「エクソシスト」の新しいやつ、「エクソシスト 信じる者」が12月に公開されます。

「エクソシスト 信じる者」


ああいう、カトリックの神父の悪魔祓いと、「怪談和尚」三木大雲さんとかがお経で悪霊を退散させるのとは、どうちがうのか。


三木大雲「怪談和尚」


最近の映画・アニメや、怪談師の怪談を見ていると、お坊さんが、まるでエクソシストのように、悪霊を退治している。

これは間違いではないか、と以前から考えているんですよ。

以下は、宗教を知らない素人の妄言なので、あまり真剣に聞かないでほしいですが。


私は以前から、仏教文化圏での悪霊は、ある種の「神経症患者」だと考えています。

少し前、老人の「妄執」について書きましたが、悪霊はいわば、この世への妄執が形質化したような存在ではないか、と。


強迫障害の神経症患者が、家の戸締りが気になって家から出られないように、悪霊は、この世から出られない。

この世での恨みとか、悔やみとか、とにかく何かにこだわりすぎて、次のステージに進んでいけない。

ひとつの観念にとらわれて、「あるべき活動」に支障をきたす。それが、神経症患者と悪霊に共通です。


現代の神経症治療、とくに認知行動療法では、患者への「説得」によって、そのこだわりの不合理さに気づかせる。

大阪メンタルクリニックは、強迫性障害にたいする認知行動療法を、以下のように要約しています。


<強迫症状>
玄関のドアにきちんと鍵がかかっているかが気になり、何度も確認する症状がある。

<認知の修正>
医師や治療者に正しい知識や情報を提供してもらって、一緒に行動実験をし、「心配する必要はないかもしれない」と考えるようになる。

<行動の修正>
確認行動をしないで、がまんする練習をくりかえして行う。

<馴化が起こる>
確認しないでいることへの不安に、だんだん馴化(徐々に慣れていくこと)していく。


お経は、同じような説得と行動の促しを、悪霊にたいしておこなっています。

お経には、色即是空とか、諸行無常とか、「すべてのことは流れていく」「流れていくのが正しい」「何かにこだわるのは間違いだ」という教えが書いてある、と聞いている。

この「流れていく」というイメージを患者につかませるのが、ひと昔まえの森田療法では重要でした(森田療法はもともと仏教から着想されている)。

お坊さんがお経で悪霊に伝えたいことは、認知行動療法で治療者が患者にわかってほしいことと同じ、つまり「そこにこだわる必要はない」「こだわるからあなたは苦しんでいる」というメッセージなのです。


だから、お経による「悪霊退散」は、暴力的なものではなく、基本的には「治療」のはずです。

仏教圏での悪霊は、メンタルを病んだ「患者」です。たいがい悲しそうな、淋しそうな、青ざめた病人の顔をしている。


いっぽう、カトリック文化圏でのエクソシズムは、もう少し暴力的なイメージがある。

なぜキリスト教の聖句や十字架が、悪霊にたいして効力があるのか、私にはわからない。

私の勝手な想像では、それらによってキリスト教の「神」の存在を悪魔にわからせて、悪魔をビビらせる、ということをやっているように思う。

それは、「うちのバックには、〇〇組の若頭のナントカさんがついている」的な脅しと、変わらないような気がする。間違ってたらすみません。


とにかく、西欧のエクソシズムの印象は、「説得」ではなく、力によって抑え込む感じです。

もし「治療」だとしても、外科的で、悪性腫瘍をレーザー照射で焼き切るようなイメージ。

お経という、「言葉」による説得とは、だいぶ違う。

それは、あちらの「患者」が、より悪質だからでしょう。

キリスト教圏の悪魔は、サイコパス的で、神経症患者のような意思の疎通ができない。了解不能の絶対的な悪だから、まあ力で押さえつけて、どこかに監禁しておくしかない。

その表情も、仏教文化圏の幽霊のように青ざめておらず、精力的、愉快犯的でおそろしい。


私としては、キリスト教と仏教のちがい、悪霊の性質のちがいに配慮して、今後は怪談の「悪霊退散」の場面をつくってほしい。

とはいえ、仏教のお経が西欧の悪霊にも効くのか、というクロスオーバー、(医学的?)実験にも興味がある。

三木大雲和尚主演の「エクソシスト お経を読む者」みたいな企画が待たれます。




<参考>


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