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日本人の魂のゆくえ

死んだら、魂はどこに行くのか。

老人の私は、そろそろ気になってきた。


以前、YouTubeでドゥフアニメを見てたら、事故死したタカちゃんの魂を、「ご先祖さま」が迎えに来ていた。


【アニメ】あの世からお迎えきちゃったやつwwwwwwwwwwwwww(たすくこま)


日本古来の祖霊信仰は、まだ若い人にも生きてるんだな、と思った。

その場合、魂は、ご先祖さまと同じところに、「何々家の墓」的に、集住するのだろうか。

でも、むかしの家には、写真があるかぎりの先祖の顔写真が飾ってあったりしたけど、いまの人は、「ご先祖さま」にどれほど親しんでいるのだろうか。

しかも、アニメでは、そのご先祖さまと「天国」に行こうとする。


たすくこま「ドゥフアニメ」より


天国? なんかキリスト教がまじってない? と思った。


祖霊のいる場所


祖霊信仰とキリスト教は、「あの世」の考え方で対立する。

キリスト教では、生前に福音を聞いて回心した者だけが天国に行ける。

だから、キリスト教を知らなかった日本人の祖先は、みな地獄にいることになる。

日本で新たにキリスト教徒になった者は、あの世で先祖に会えない。

「ご先祖さまが気の毒だし、キリスト教に入るとご先祖さまに会えない」

と日本人は感じる。

これは、ご承知のとおり、ザビエルの時代からの問題で、日本でキリスト教があまり広まらない理由の一つでもあるだろう。


数年前、大和カルバリーチャペルの大川従道牧師が、「人は死後でも回心できる」という、いわゆる「セカンドチャンス論」を主張して、神学論争が起こった。


大川牧師は、日本での伝道のために、キリスト教と祖霊信仰を融合させようとしたのだと思う。

だが、セカンドチャンス論は聖書に根拠が乏しく、正統派神学者からはバッシングされていた。



キリスト教なんかは、このように、死後の魂のゆくえに厳格だ。

その点、日本では、むかしから魂のゆくえが曖昧ではなかろうか。

日本人の魂がどこに行くか、あんまりちゃんと考えてない。

だから、ドゥフアニメみたいな「あの世」の扱いをみても、べつに変に思わないだろう。

大きくは、「靖国問題」がある。

本来は、日本人の魂はどこにいくか、という宗教問題のはずで、もちろんそれが忘れられたわけではないだろうが、右も左もメディアも、政治問題としてだけ考えがちではなかろうか。


明治以前の「無神論」


明治以前も、日本人は「あの世」について、定見があったように思えない。

日本人の死後の観念は、10世紀の源信「往生要集」が決定づけた、と教科書で習った気がする。

念仏を唱えたら極楽浄土に行ける、という。

しかし、よくは知らないが、あれは中国化した仏教思想だし、日本古来の思想とは言えないだろう。


司馬遼太郎によれば、庶民はともかく、明治以前の教養ある日本人は「無神論者」だった。

武士は、儒教と、仏教でも無神論的な禅宗を、日常の振る舞いの規矩とした。

そして、死んだあとのことは、あまり考えなかったという。


幕末の志士たちは、生死の境をさまよって、たとえば、死んでゆくというときに、南無阿弥陀仏も唱えなければ、アーメンも唱えず、南無妙法蓮華経も唱えないわけで、死んで天に帰るということを考えているだけで、死んでまた生きかえってきて、どこかで生まれ変わるだとか、あるいは極楽にいけるんだとかいうようなことを考えない。ヨーロッパ人なら、その安心感がなかったら、容易に死ねないと思うんだけど、当時の江戸幕府の教養人および志士たちは平気で死んでいく。(略)神道ではなくて、無宗教ですね。
(河上徹太郎×司馬遼太郎「動乱を生きた一つの青春:吉田松陰をめぐって」1969での司馬の発言、河上『幕末維新随想』2002所収)


こうした考えは、橋爪大三郎式に言えば、ヒンズー教などと同じく、この世の自然の法則(天)だけを信じて、それに身を任せるしかない、というものかもしれない。(その意味では、無宗教というより、唯物論的なのかもしれない。)

それはともかく、神道は、たしかに、日本人の魂のゆくえについて、あまりはっきり指示していないように思える。

古事記に記されたような日本の神々は、日本人の死後の世界に、責任をもってくれないのだろうか。

アマテラスを皇祖とするはずの皇室も、そのあたりははなはだ頼りない。中世には、天皇自身が頭をまるめて仏教に帰依し、極楽浄土にあこがれたのだ。


明治の「あの世」論争


肉体を離れたあとの日本人の魂に、日本の神々はもっと責任をもつべきではなかろうか。

日本人のあなたが死んだあと、あなたの魂はこうなる、と、仏教などの外来宗教に頼らず、語れるべきではないか。

という問題意識を、少なくとも江戸時代の国学者たちはもっていたようだ。

しかし、本居宣長などの「実証主義者」は、はっきりした文献的根拠がないから、死んだあとのことはわからない、と率直に語っていた。


その本居宣長のような態度を批判して、死後の世界(霊界)について論じたのが、宣長没後の門人である平田篤胤だ。

平田篤胤は、日本人の魂は、生きているうちはアマテラスが責任をもち、死んだら、黄泉の国をつかさどるオオクニヌシが責任をもつ、と考えた。

アマテラスのつかさどる生者の世界と、オオクニヌシの死者の世界は重なっており、生前のおこないがよければ(それはオオクニヌシによって審判される)、日本人の魂はいつまでも子孫のそばで子孫を見守ることができる、と。


明治時代が始まり、キリスト教を解禁しなければならなくなったとき、為政者たちは不安だった。

キリスト教は、死後の世界まで面倒見がいい。天皇を宗教的権威として押し立てたいのに、神道はこれに対抗できるのか。

そこで、平田篤胤の「一神教的」な神道を、「国家宗教」のようにしようという案も、政府内で検討されたようだ。

(三ツ松誠「平田篤胤の弟子とライバルたち」=河野有理編『近代政治思想史』所収=を参照)


結果的には、ご承知のとおり、そうはならなかった。

明治政府は、神道をむしろ「宗教以上」のものと位置づけ、その教義をキリスト教的に洗練させることはしなかった。

その代わり、明治天皇を「現人神」とし、彼の「教育勅語」を日本人の道徳律として国民に押し付けた。


このあたり、ことの経過についても、評価についても、いろいろ議論があるだろう。

ただ、いまだに「日本人の魂のゆくえ」について、曖昧であるのは事実ではなかろうか。

日本の保守や右翼は、「日本は素晴らしい、皇室は素晴らしい」と言うけれど、このあたりの「無責任」について、どう考えているんだろう。

日本の神々は、頼りなさすぎないか?


前にも書いたけど、いまも日本人は、神道や仏教などを漠然と信仰しながら、こうした死後の世界の曖昧さについて、不安なのではなかろうか。

だから、日本の思想家には珍しく、死後の世界(霊界)を積極的に語った平田篤胤には、いつまでも需要がある。

といったことを、「ムー」最新号の特集が「平田篤胤」なのを知って、考えた。


月刊ムー 2023年12月号



<参考>


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