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「勧進」としての怪談

少し前に、宗教の本質の1つは「カネ集め」であり、それを日本では「勧進」と言った、と書いた。


その「勧進」のために発明されたのが「怪談」であろう、という話をしたかったのを忘れていた。

あなたは宗教を信じなければ、悪霊に襲われたり、地獄に落ちたりするであろう。という「怪談」ほど、「勧進」に貢献したものはないだろう。

しかし、人々が、単に脅されてカネを払ったとは思わない。娯楽の乏しかった時代、宗教家の語る怪談は、最高の娯楽でもあったはずだ。

だから、怪談は、当初から宗教活動であり、同時にエンターテイメントであった。

戦国時代、尼僧の宗教勧誘部隊「熊野比丘尼」が、地獄絵を持って全国を回りカネを集めた話をしたが、時代を下ると、比丘尼は遊女と変わらなくなり、ある種アイドルともなった。宗教活動が、サービス業やエンタメの世界になるのである。

下は、15世紀の絵解比丘尼、地獄太夫を描いた月岡芳年の「地獄太夫悟道の図」。地獄太夫は、美女ゆえ山賊に捕らえられ、遊女に身を落とした。その人生経験から、地獄絵を見せて仏道を説き、かつ歌を歌ったりして人々を楽しませた。稲川淳二ら「怪談師」のルーツの1人である。

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勧進映画としての「エクソシスト」


ウィリアム・フリードキン監督の「エクソシスト」(1973)という映画が、ホラー映画の金字塔であることを否定する人はいないだろう。半世紀前の映画だが、テンションの高さで、今見ても興奮させるものがある。

そのテンションの高さは、フリードキンの異常な演出から生まれた。悪霊から投げ飛ばされる場面でエレン・バースティンは実際に腰に障害を負った(その苦痛の表情はリアルだった)などのエピソードは有名だ。しかし、それだけではない。

エンドクレジットに、協力者として、名前に「reverend」がつくキリスト教会の聖職者が何人も出てくる。名前のあとの「S.J.」はイエズス会員(Societas Jesu)であることを示している。

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その他、出演者にも実際の聖職者が出てくる。こんなホラー映画に、なんでお堅いキリスト教会が協力するんだろう、と若い頃は思っていたが、その後、キリスト教会が協力していることがこの映画のキモだとわかってきた。

あの映画は、キリスト教会の「勧進」なのである。悪魔の存在を信じさせ、キリスト教会に人を集めるのが目的だ。少なくとも、キリスト教会が全面的に協力したのはその目的のためであり、ほかのホラー映画とは気合いが違うのである。

あの映画では、神父と、悪魔に憑依された少女リーガンとの対決が、クライマックスだと誰もが思うだろう。

しかし、映画が本当に言いたいことは、そこではない。その騒動が去った後、普通の少女に戻ったリーガンが、神父の襟のカラーをみると、思わず感謝の思いで抱きつく。キリスト教会がヒーローとして讃えられる。あそこが「勧進」としていちばん大事な場面なのだ。

(その意味で「エクソシスト」は、最近亡くなったゴダールなどの影響下にあった1960年代の映画の左翼傾向から、「ダーティ・ハリー」などとともに映画が保守化に転じた象徴的な映画、と見る見方がある)


「祭り」の構造


今の若い人はピンと来ないかもしれないが、お祭りというのは神社の門前で行われるもので、大口寄付者の名前が鳥居のあたりに掲示される、それ自体が「勧進」の意味があった。

そして、最も大事な出し物は、神社の境内に設営される。

それは、見世物小屋や、お化け屋敷だ。それこそ、今の若い人は知らないはずだ。ポリコレ時代になったから、もう二度と見ることはないだろう。見世物小屋で「へび女」を見たのは、私の世代(60歳代)がギリギリかもしれない。

とにかく、見世物小屋やお化け屋敷は、境内の、本堂に近いところ、いわば一番いいところに、いつも設置されていた。

一番神聖なところに、一番卑俗なものが置かれているようで、私は子供の頃に違和感があった。

しかし、今ではよくわかる。見世物小屋や、お化け屋敷こそ、宗教への勧誘に最適な、つまり「勧進」の肝心要な出し物なのだ。

人の運命は宗教にすがらない限り救われない、ということが言いたいわけだ。親の因果が子に報い、というポリコレ警察に逮捕必至のフレーズこそ、「勧進興行」であるお祭り全体のテーマであった。


怪談師の正統と異端


私はYouTubeでよく怪談師のみなさんの怪談を楽しんでいる。

今の怪談師で「勧進」の趣旨を一番守っているのは、三木大雲さんであろう。

現役の坊主が怪談を語って仏教に人を勧誘するのだから、これぞ「勧進としての怪談」である。

その三木大雲を正統派だとすれば、「月刊ムー」のようなオカルトは異端である。

しかし、オカルトにも「勧進」の意味はあり、1970年代に「ムー」などが創刊されてオカルトが流行ったことが、1980年代にオウム真理教などのカルト宗教をはびこらせた一因であることは誰でもわかる。

「月刊ムー」にその気がなくても、間接的に新興宗教の「勧進」となったのは間違いない。

三木大雲のような人は別として、怪談や「こわい話」を語る人のほとんどは、それが宗教のセールストークだとは意識していない。聞く方も意識しない。そこが、このセールスの最も優秀で効果的な点だ。


「物語」の説得力


仏教のお経に何が書いてあるかは知らないが、「色即是空」「この世は虚しい」みたいな哲学を語ったところで、聞く人は少数である。

しかし、幽霊が出て来る「こわい話」を語り、そのあとで、お経によって幽霊が退散すると聞けば、それに価値があると人々は信じる。

その話では実在と思しき人の人生が語られ、さまざまな人間的エピソードで彩られて真実味が増すだろう。「この世は虚しい」という哲学で、なんで幽霊が退散するのか、肝心な部分の因果関係はまったく不明でも、人々はそれを信じてしまう。それが物語の力というものなのだろう。

考えてみれば、こういう商売は、私が出版界でやっていたのと同じだ。真面目な本や小説を読む人は少ないが、それで頭がよくなるとか金持ちになれるとか幸福になれるみたいなストーリーを作って宣伝すれば読む人は増える。


怖くなくても怪談は面白い


前に書いたように、年を取ると、ホラー映画や怪談の類いは怖くなくなる。ああいうものは、生命感にあふれた(それゆえに死が怖い)若者のためのものだ。

老人は、自分が幽霊やゾンビに近くなっているので、そういうものがもう怖くない。

だが、老人の私にしても、依然、ホラー映画や怪談、オカルトの類が好きだ。

怖くないけど、面白い。もしかすると、幽霊やゾンビの立場から話を楽しんでいるのかもしれない。

三木大雲の怪談説法含め、ああいうものは一切合切、嘘である。

だけど、その面白さに対して、カネを払っていいと思う。私としては、なるべく宗教に貢ぐことなく楽しみたい。

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