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最期を支える人々  −母余命2ヶ月の日々−

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2016年9月の記事一覧

2015.9.1 「共有できません」

 このところ饒舌な母は、ヘルパーによる介助方法の違いについて不満を訴えていた。介助方法が違うと、少ない力をどこに集めてよいかわからないし、痛みが出ることがあると。

 その日のヘルパーは介助がとても上手な方だった。全てが丁寧なのだ。ひとつの動きの前に、母に何をするか伝える。ひとつ動くごとに、母の姿勢を確認し、整える。一見、時間がかかるようだが、痛みがなく、動いたあとの姿勢が安定しているため、次の動

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2015.9.2 「殺したいなら」

 Y病院から「病室が空いたので、明日か明後日の入院はいかがでしょうか。」と電話があった。まだ気持ちも物も準備ができていなかった。

 すぐに看護師に相談すると、「いまは痛みが上手にコントロールできているので、まだ自宅にいても大丈夫でしょう。」とのことだった。

 母に「入院できるけれどどうする?」と聞くと、「私を早く殺したいなら、入院させればいいっ」と絞り出すように言った。それほど嫌なのか、と驚い

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2015.9.3 「背中をみていたから」

 緩和ケア病棟への強い拒否を示した母は、翌日、信頼する訪問看護師に相談したようだった。

 その日のメモが残っている。

 —入院については、どうしようかとても悩んでいる、こんな体になって悲しいとおっしゃっていました。緩和ケア病棟と自宅のメリットデメリットをお話しています。その中で、少しでも気持ちが傾く方へ決めていいですよとお話しています。−

 その日私が行くと、母は「今日は看護師さんとよくしゃ

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2015.9.4 「動きたい」

 入浴の日。思うように体が動かなくなった母は、珍しく、「お湯につかっている間は、浮力があるから楽だわ」と嬉しそうにしてした。

 入浴後、仙骨付近に貼ってあるフィルムを交換する。床ずれの初期段階である発赤と擦り傷を悪化させないよう、看護師が貼ったものだ。

 床ずれは、一般的には「体を動かさずにいて、同じところに体重がかかり続けるからできる」と考えられている。けれど、母の様子を日々観察していると、

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2015.9.6 「わからなくなっちゃった」

 母の体は毎日衰えていく。昨日できたことが今日はもうできない。コールボタンを押す回数が増えた。コールを押せば必ずヘルパーが訪問してくださっているのだが、「押したのに来てくれない。」と言うことがあった。

 「なんだかわからなくなっちゃったわ」と時間と出来事とに混乱が起き始めたようだった。

 食事量も減った。尿はしびんをあて下腹部を抑えると出てきた。それでも、失禁は数えるほどだった。母のプライドだ

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2015.9.7 「頑張ってきたから」

 その日、私は東京の自宅で過ごしていた。夕刻、看護師さんから電話があった。いまとなっては、その内容を詳しくは覚えていない。

 いよいよです。とか今日が峠です。とかいった、ドラマで聞いたような言葉では無かった。いつもの通り穏やかに、ヘルパーからの連絡で予定外の訪問をしたと告げ、「これからこちらにいらっしゃるのは難しいですか。もし都合がついたら、お母さんの元に行かれた方がいいと思います。」その声に緊

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2015.9.7 「わからないので」

 母の元に駆けつけると、うとうと眠っていて、声をかけると目を覚まして言葉を交わした。けれど遅い時間に私が訪れたことに疑問を示さなかった。あぁちょっとまずいな、と思った。

 1時間半が過ぎた頃、「苦しい、苦しい」と訴え始めた。看護師さんに電話して指示を仰ぎ、痛み止めを追加した。そのうちに呼吸が荒くなり、顎で息をするようになった。いよいよだな、これがいつか本で読んだ下顎呼吸だ、と思った。

 看護師

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2015.9.8 「教えていただきました」

 母が息を引き取ったあと、訪問医に連絡をした。30分も経たずに、駆けつけてくださった。ふと時計を見ると、日付が代わっていた。

 丁寧に死亡確認をし、診断書を書いてくださった。母と共に暮らしていた叔母の往診から始まったご縁。叔母のため、家族のために頑張る母の姿を知っていて下さる先生だった。

 ぽつぽつと言葉を選びながら、母のことを話してくださり、父を励ましてくださった。最後に「骨折した、食欲がな

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2015.9.8 「お化粧しますか」

 訪問医が帰ってしばらくして、看護師が到着した。何時だったのか、どんなことを話したのか、その場に誰がいたのか、今となってはほとんど思い出せない。ただ、彼女が今までの訪問と変わらず、穏やかで淡々とした様子だったことにほっとしたのを覚えている。もし、母や私たち家族に対して悲しみや哀れみを少しでも大げさに表したなら、私はそれに反応し、取り乱したろうと思う。

 看護師さんが処置をしてくださったあと、一緒

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数日後 「花を絶やさずに」

数日後 「花を絶やさずに」

 余命宣告を受けたあと、病状の進行に従い、近しい人から順に母の命がわずかなことを知らせていた。お見舞いをとの申し出もいただいたが、母は会いたくないと言った。

 母が長年手紙をやりとりしていた高校時代の友人にも連絡をとるべきではないかと考えた。だがそうすれば、母に残された時間が短いことを突きつけてしまうようで、踏み出せなかった。

 結局、母が亡くなってから、手紙で知らせた。すぐにお電話をくださっ

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その日々 「あぁ、帰って来た」

 実家の家族が母なしで生きていけるように生活を立て直すこと。母の療養のために様々な手配をすること。タスクを背負い、家族を想い、過去を悔い、ひりひりと心が痛む日々だった。

 実家での1日を終え、母におやすみと告げると、首都高速横羽線を羽田に向かう。今日できたこと、できなかったこと、明日すること。運転しながら整理する。大きなトラックの後ろを同じスピードで走り続けていると、ふと思考がとまる。「このまま

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その日々 「今日はどうだった」

 嵐のような毎日だった。例えて言うなら、複雑に絡み合い締め付け合った糸の塊を解きほぐすようだった。時間が迫ってもハサミで切り刻むことは許されなかった。緊張のなか、頼り甲斐のある笑顔の娘でなければならなかった。

 忙しさのあまり、受験を控えた二人の子供達に手も目もかけられないことが心苦しかった。

 そんな苦しい毎日を支えてくれたのは夫だった。家事や子供の世話をしてくれたのはもちろんのこと、何より

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あれから半年 「お墓参りに行ける?」

 うららかな春の陽射しのなかで、長女が中学校を卒業した。息子の卒業式も間もなくである。

「もう半年なんだね。早いね。」と息子がポツリと言う。小学校6年生の息子には、死にゆく母と向き合うことは難しかったと思う。怖くてどうしていいかわからなかったのではないだろうか。それでも心のどこかで母を想っている。

 春休みをのんびりと過ごす娘に「明日、おじいちゃんの家に行くけれど、一緒に行く?いろいろあって忙

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