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音楽文化が日本社会の中できちんとリスペクトされる状況を目指したいよね

8月に茨城・国営ひたち海浜公園で開催される予定だった音楽フェス「ROCK IN JAPAN FESTIVAL 2021」が開催まで1ヶ月に迫ったタイミングで中止となりました。→主催者によるお知らせ

上記リンクでは総合プロデューサーの渋谷陽一氏の言葉で経緯がまとめられています。

安全なフェスの実施の為に1年以上の長い時間をかけて細部まで検討され、会場や地元自治体との協議を重ねてきた今フェスですが、1ヶ月前になってから茨城県医師会が茨城放送の本社を訪問され、要望書を茨城放送の代表に手渡し、受け取ったところを写真に撮っていったといいます。要望書には「開催の中止または延期の検討」または「更なる入場制限措置等を講ずるとともに、観客の会場外での行動を含む感染防止対策に万全を期すこと」が書かれていました。

既にグッズ制作、スタッフの確保、宿泊の手配、関連映像の制作、装飾物のデザイン・制作など、多くの準備が大詰め段階まで進んでいて、40組の参加アーティストらもそれぞれ、このフェスの為のみのグッズ制作、リハーサル、スタッフの確保などの多くの準備がなされていました。
 
既にチケットは発売され、売り切れとなった日も出て「万に近い落選者」も出ていて、新たな入場制限は不可能。また時間的にも再抽選に現実性はない。「観客の会場外での行動を含む感染防止対策」も多様な解釈が可能で、もし文字通りの解釈をするならばフェスに参加した方の会場外の全ての行動に対して感染対策を行わなければならないがそれは不可能。きっとそうではないのでしょうが、「会場外での行動」が何を示しているのか細部を議論する時間的余裕はない、とのことで中止を決定したようです。試算によると、この決定による経済損失は77.3億円にのぼるといいます。

昨年も中止になっており2年ぶりの開催だったことに加え、今年5月に行われた同社主催のJAPAN JAMというフェスがクラスターも発生せず成功裡に終わったという実績が、多くの人々にとって期待感につながっていたため、今回の中止は落胆の声が非常に大きくなっています。

要望書を提出した茨城県医師会は、1度写真をホームページにアップロードしたあとに何故か削除。中止発表後に問い合わせが相次いだためか、再掲したようです。

ロッキン自体が2000年からほぼ毎年開催されており、今年の開催日程も6月1日に発表されていたにも関わらず、開催まで1ヶ月近くというタイミングになってから曖昧で実現困難な要請を出したことや、県内での他の大規模イベントやオリンピックなどには要請を出していないことから、多くの批判が集まっています。写真掲載の経緯から、茨城県医師会は「パフォーマンスとして一応要請を出したポーズをとっておいてヒーローになるつもりが、まさか本当に中止になるとは」という状況ではないか、という見かたもできます。





未だ根強い"音楽 = 不要不急"という観念

この件について僕も多少の憤りを感じていますし、指摘されるべき点は多くの人が批判しているとおりだと思うのですが、一方で医療の大変な状況が長く続いていることも理解できますし、開催に100%賛成か、と言われると、そう言い切れない気持ちもあります。

(その気持ちは多くの音楽ファンの方々もそうだと思うし、そんな中で対策やマナーに気を付けて開催実現に向けて努力してきたからこそ、それを無下にされた怒りは大きいのだと思いますが)

オリンピックの開催の可否についても同様で、賛成か反対かという部分ではどちらとも言い切れない非常に難しい問題だと思うし、その話とロッキンの問題をどこまで結びつけるべきか、という部分でさえ、なかなか難しいところです。

ただ、イベントについて「開催賛成か反対か」という単純な話ではなく、「多くの分野において自粛・我慢・損害を被ることを強いられているのに、オリンピックだけが開催が推し進められているのはおかしい」というダブルスタンダードな状況が、1番の不満の根源なのではないでしょうか。

そこから選挙や政治参加の話とか政権批判の話に持っていくことは簡単ですが、それは音楽関係なしに一国民として大切な前提だと思うしそれは他の方の議論に譲るとして、それよりも音楽文化そのものの課題として、音楽が大切にされていない、ということを考えなければならない気がしています。

2020~2021の一連の流れの中で、音楽文化として露呈した問題はやはり、「不要不急」論だと思います。これまでコロナ禍において様々な問題が発生してきましたが、医療崩壊とかそういう大変さも理解した上で、やはり音楽業界全体や、音楽文化そのものがコケにされているということが悔しいのです。

多くの政治家や医師会、またはイベントが不安な一般市民の方々にとって、音楽文化というものはリアリティが無いのでしょう。理解が乏しい・よくわからないものに対して、拒絶したり恐怖に思ったり、不要なものだと片付けてしまうことは、ごく自然な感情だと思います。

まっとうに働いているひとにとって、社会での様々な仕事が、様々な学問や高度な技術とあらゆる人の労働や努力によって成り立っているという理解は当然深まるでしょうが、一方で、音楽というものがそのカテゴリに入らず、どうでもいい娯楽に成り下がっているから、「不要不急」ということになるのです。

音楽に感動したことがあったり、救われたことがあったりすれば、そこに理解や愛は生まれるはずです。社会を動かす人々が、音楽体験に乏しいのだと思うのです。1つの音楽に、アーティストだけでない、数えきれない裏方スタッフだったり様々な分野のプロフェッショナル、企業が関わっているのだという、当事者にとっては当たり前のことも、外部の人間は知らなければわからないままでしょう。

そしてそれは、「音楽サイド」がこれまで壁を作ってきた結果ではないのか?とも思うのです。「どうせ一般人にはわからないしミーハーに見つかりたくない」みたいな態度があらゆる音楽ジャンルに蔓延していなかったですか?「このくらいの知識や理解はあって当然」みたいなマウント意識はなかったですか?

僕は今まで、様々な音楽ジャンルを知ろうとして、そこにある価値観の違いや多くのハードルを感じたことが何度もあります。壁を作るようなそういう態度が音楽文化の地位低下に繫がっている気がしてならないのです。

もっと、音楽を面白いと思ってもらおうよ。裏側を知ってもらおうよ。それには、ただひたすら惨状を訴えたり、音を押し付けて「ただ楽しめ!」だけじゃない、色んな工夫が必要じゃないのか?と思ったりします。




そろそろ"音楽好き"の再編の時期ではないか?

では、音楽に興味の無い一般人に、音楽に興味を持ってもらうとして、何を紹介するのか?どこに誘い込むのか?と考えたときに、やはり「音楽」というものの価値観の多様さ、分野の多さ、バラバラ具合が非常に問題になってくると感じます。

冒頭のフェス中止問題で、主語が「音楽ファン」「音楽文化」のように、さも音楽全体の問題のように書いてしまいましたが、正確には今回は「邦ロックファン」「フェス文化」の話であり、その外側には一般人だけでなく「邦ロックに興味の無い(クラシックやジャズなどの)音楽ファン」や「音楽好きだけど特にフェスに無知で興味がない人」もたくさん居る、ということが、抜け落ちていると思います。

邦ロック目線の人に対して、「その外側に別の分野があるでしょ!」という方向の指摘と同時に、外側の人にも逆に「音楽好きだけど邦ロックやフェスのことに詳しくないでしょ!」という指摘もできると思います。要は相互理解が乏しいんですよね。

ジャンルによらず多くの音楽ファンは「自分の知る音楽の世界」と「その外側の一般層」という二項対立で捉えがちで、あらゆる音楽分野どおしの相互の理解やリスペクトというものが無さすぎる気がします。

僕は今までいろんなジャンルのことを知ろうとしてきましたが、何度も書いているとおり価値観・文化の違いによる壁はとてつもなく分厚いと感じてきました。

ここを解消していかない限り、音楽界に明るい未来は無いような気さえしてしまっています。

それぞれの畑にいる音楽人たちが、自分の分野に閉じこもって論をこねくり回すのではなく、既存の壁を超えて音楽を理解してもらえるような団結があってこそ、社会の中での音楽の理解の促進や地位向上につながるのではないでしょうか。


新しい文化がうまれる?

ただ、これまではそれぞれの「現場」に固有の文化が存在していて、それをひとつひとつ確かめていくしかない、という途方もない作業が必要だったのが、コロナ禍で一旦リセットされるのではないか?とも思うのです。

現場で産みだされ育まれていくものと、個人の家で産みだされネット上で育まれていくものは、まったく別の性質があります。音楽の歴史を見ても、戦争や差別問題、業界の対立など、さまざまな背景によって、ジャンルが発展したり衰退したりしてきています。現場の制限が続く中で、それと無関係なところで新しい音楽文化や価値観が生まれて育まれていくような気がしていますし、価値観をアップデートしてその変化に付いていけるかどうかが試されている気がします。

フェスやリアルライブの現場に、何物にも代えがたい感動があるのは間違い無く、その現場が危機にあるという現実は続きますが、音楽そのものが滅びることはありません。オンラインライブなどで、現状ではコロナ禍が終わるまでの代替手段で「リアルライブの下位互換」でしかない場合も多いですが、一方で「リアルライブと全く別の種類の感動」を模索した表現も登場しています。

そしてそこには、今まで現場だけでは訴求できなかった層に届く可能性があり、それが新しい音楽の楽しみ方や文化に発展する可能性まであると思います。

歴史的に、映画というものも登場当初は下等な娯楽でしたが、技術の発展に伴って文化としての地位を確立しました。レコードも、単なる演奏の記録でしかなかったものが、編集や録音技法の発展により、ライブとはまったく別の"録音作品"という概念になりました。コロナ禍の背景と技術の発展によって、2020年代、また新たな何かが生まれて発展していくことを期待してみんなでワクワクしてみませんか。


 

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