軽々しくわからないと言わないクラスルームづくり

 なんとでも言える教育言説の素軽さを活かして逆のことを言ってみるというのはアリなのか?ということです。

 そもそもわからないことを受容するクラスルームにこそ存在価値があるというのが昨今の子ども観としては隆盛のように感じております。

 しかし、それは授業の設定次第ではないのかという率直なギモンです。場の設定によるモノの見方というのは最近私が良くやる手法です。これはこども一つとっても様々の側面があるということ。しかしそれは昔から多面的ということで円柱を例に出して言われたことです。円柱は見る角度によって形が違うので。しかし場の設定はこれまでは波か塊かで分類していた光が波でもあり塊でもあるという見方をすることで両方の性質を持つことを説明できる文系特有の手法を自然科学に応用してしまったわけです。自然科学に勝てることなんて昨今まあまあないので、きちんと採用していこうというわけです。

 特に何でもかんでわかんないと言ってやめてしまう子がいるクラスルームというのはあまりよくない雰囲気が伝染してしまう側面があるからです。
 しかも最近よくやる授業設定として問いかけの入り口として「うーん」と考え込ませるようなタイプの深さを全面に持ってきて、さあみんなで考えてみようよ!というのような授業づくりを試してみることが多くなってきたような気がします。個人的に。
 その場合、入り口の部分で「わかんない」共感が広がることはできる限り避けたいわけです。こっちの側としては。そこでその共感が広がってしまうと後に待っているのはこっちの側が答えさせたい「正解」をなんとか子どもの口から言わせることだけに注力する授業になってしまうからです。
 そうしたゲームをよく研究授業と言われる形式で見かけます。私が思うのはその正解、本当に合ってんの?ということです。算数ならそれでもいいのでしょうが大抵昨今の研究授業というのはいわゆる「答えのない問い」もしくは「問いの生成」に注力したものが流行っているのでその答え合ってんのか?はよくある研究授業への問いになってしまいがちです。
 方向性を修正するとか目標達成のために教師として助言することの重要性はわかります。しかしながら「正解」や「見栄えの良さ」に誘おうとする行為は学びの豊かさに導くこととは逆方向であるように思えます。(まぁ学びの豊かさなどという耳障りの良い言葉で塗りつぶしてしまうのもどうかと思いますが・・・)

 わかんないけどなんとかしたい。そういう欲望を引きずり出したいわけです。(言い方は非常に良くないですが)こうしたことが主体性とか学びへのコミットとか成果の深さに繋がるような気がしています。
 単に勢いやテンションやポジティブさだけで突っ走っているような子どもをよくよく観察していると単純な答えはわかっているけど、深さが全然ないことに気づくからです。後に残るものも少ないです。教師にとってもそういう子どもはとっても助かる存在なのですが、クラスルームとしてはあまり「使用価値」は高くないのかもしれません。(あえて断っておきますが価値が高くないとは言ってないので)
 子どもがそうなのだから、教師の側がそうでも同じなのではないのかなぁというようなことを最近よく考えるようになりました。というのは最近の主体的対話的深い学びを標榜するような授業はそうしたその場だけの勢いや異常なテンションの高さやポジティブな意識だけを評価ポイントとして、採用するような授業が特段多いように感じるからです。もちろんそういう授業の全てが悪いとは言いません。そこに大きな課題があると担任が判断するのなら良いのかもしれません。(わたしは性格の問題に積極的にコミットするのはどうなんだろと思いますがね)

 さらっと言っておきますが、わからないは時と場合によると思います。そもそも言えない子は意地でも言わないしね。そもそも何がわかんないかわかんない人を以てわかんないというのです。わかんない内容を思い付くことも言語化することも説明することも不可能です。そこは忖度する必要があると思います。そこを説明できる人間はわかんないんじゃなくてやめたいんです。
 やめたい子を授業の真ん中に据える必要はないです。そもそもこちらがわかってると思っている子もほんとにわかっているかはアヤシい。

 授業と子どもはわかる、わかんないで見ない、聞かない、言わない方がいいんじゃないですか?なぜなら学習はやることそのものに意味があるんだから。


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