研究授業がいらない理由 雰囲気編
ちょっと煽り気味なタイトルであるけれど、この間感じたことを少し書いてみます。
授業というのは授業者によってびっくりするくらい雰囲気が変わります。それはわかったいるつもりだった。しかしこないだはこのびっくりの度合いがそういう感覚を飛び越えていた。ここまで違うんだということをまざまざと感じたわけです。なまものなんだなぁということも含めて。
一つには研究授業というのは雰囲気に影響を及ぼすということです。人間は緊張するとそれを制御することができなくなります。子どもはいささかその耐性に特徴があります。忘れっぽいというところです。逆に気にしすぎるというところもあるのですがそれは個人的な感情であることが多い。どちらかといえば全体的な、大きな流れとしては忘れっぽいという方が採用されると考えます。
それでも45分一塊として考えるとほぐれるまでの時間というのは余計です。
「いつも通りやって」という日本語のニュアンスが伝わらないということです。とにかく子どもには伝わらない。今回は「全力でやって」が伝わらなかった。つまり雰囲気作りは口で言って伝わるものではないということです。
さりとて実は特別支援教育でよく使われる言葉に視覚優位という言葉がありますが、私は教育…少なくとも初等教育においてこれを広く採用することを認めません。本当に誤解なきように言っておきますが全く採用するなとは言っていません。本当に必要である場合に留めるべきだということです。視覚優位の便利さが伝わるにつれ、全てを視覚においてなんとかしようとする「サボり気味」の教員と子どもが全国で大量発生することになってしまったということに対する懸念があるからです。
何書いてるかよくわかんないけど、自分の記事を読み返してみるのもいいものです。(反省)
口で言っても視覚でも伝わらないならどうすれば・・・ということです。クラスルームでは誤読、誤配というのは一般的です。しかしその学習集団にはどうすれば伝わるかというのは担任はわかっているのです。教科担任にはわからないけれど。
それを言語化するのは非常に難しいわけです。
一つ言えるのはこれができない学級担任は学級を壊します。壊さないまでも統率が効きません。一対一になればなんとかなるにしてもそれを学級経営とは言わない。
おそらくチームとか教科担任制とか、もう少し広く言えば特別支援教育もこうした一対一を作り出そうとしていることで学級経営の問題を解決しようとしているのだろうけれどもこれは明確に分断であり、問題解決においてはすり替えに過ぎないのだろうということです。
(別の主張になることを承知で挟みます。指導というのはなるべく多人数に広く伝わる方が効率的ですし、何より一律性が保たれます。一つの学校を一人の人間が指導するということがもし可能であれば、それが一番効率的で効果的であるということです。理由は簡単。教える方の教えたいことが統一されていて方法的に恒常である方が伝わりやすく浸透しやすいからです。私は個人的に教育は、特に初等教育は、内容の問題よりもパッション及び方法にその学びの価値があると考えています。内容などは後ほど大人になってからでも、家に帰って個人でも、なんとでもなるからです。しかしそれは一人の従業者の授業をオンデマンドとかオンラインとかそういうことを意味しません。それでは双方向の授業ではなく、凡事徹底覿面注意が不可能だからです。私はこれらのものの効能をさほどは教育としては考えていないということです。伝達方法としてはOKですが・・・。しかし今述べたことは現在の物理学的には無理な話です。記憶や経験を同時並列化した上で分身できたり、パラレルワールドを行き来できたりするなら話は別なのでしょうが。であるなら解決策は簡単です。学校を担任だけにしてクラスルームの単位を20人前後のクラスにするということです。加えて特別支援教育対象児童に重みづけをして5人分手のかかる子は5人としてカウントすれば済む話です。そのクラスは15人学級ということです。おそらくこの意見は人権侵害のそしりは免れないでしょうが、今の特別支援担当教員という名の1日あたり一人の子どもを何分も支援しない、ただいるだけの教員を配置するくらいならカネの面でも教育効果の面で何百倍も効果のある施策であることになります。それが私の考える教育学の結論ということになります。)
そんな理由があって私はクラスルームと学級担任制度を壊すべきではないと思っています。それどころが小学校学級担任制を、すべての教育制度において援用すべきだと考えているというわけです。
雰囲気を作ることができるのは学級担任だけです。これが一斉授業という形態においては非常に重要だということです。
話を元に戻せば、この雰囲気があまり良くなかった1時間という一塊の一斉授業というのは、教育効果から見ると効率的ではなかったということになります。もちろんそれがダメとは言っていない。そこに学びや思い出、経験を創出する子どもがいないと断言することはできないからです。教える方はそうしたある意味の不自由さに縛られているとしても学ぶ方は完全自由だからです。そこに思わぬ学びが転がっていることを否定するわけにはいかないんです。
その前提を踏まえても研究授業というスタイルでその雰囲気を整えることはなかなか難儀な作業です。特に私のようにちょっとしたおふざけを以て授業の雰囲気を整えるタイプの人間は最近は不適切に分類されることが多いからです。訳もわからず「教育的意味」だけを語る年嵩の女性に私は初任の少しの間悩まされていました。その「教育的意味」は理解できなくもない。しかしそれは彼女の中で醸成された個人的な意味づけに過ぎないし、それを対話の俎上に載せる気もない。今考えても全くのドメスティックルールでしかないものでもって若者を想いのままに罵倒しようとする姿に汚穢しか湧いてきません。似たようなことを行政は今でもやっています。
それましたが、そうであるなら研究授業なんていらないんじゃないの?そう思ったわけです。一時期コロナのせいで研究授業がオンデマンドや別会場になった時「雰囲気が伝わらない」という苦情がありました。おそらく全国津々浦々であったはずです。しかし授業と違って見るだけなら双方向である必要はありません。自分が着目したい場面を見たいという人間は、その授業を見てイチャモンをつけたいだけの授業研究の手法がわかっていない人間であると私は思います。俯瞰で見て自分の経験や知識と重ね合わせるならオンデマンドの方が便利なはずだからです。このエピソードは授業研究というものがわかっているかどうか、及びものを生産的に議論する気があるかどうかを判別する上では個人的な物凄く役に立った指標でした。
そもそも雰囲気を壊しているのはあんたら観覧者だからね。もちろん私もその一員です。なので私は研究授業では「一言も声を発さない、メモを取らない」地蔵化を旨としています。なるべくウロウロしたくもないのですが最近目も耳も耄碌してきたので近づかないと見えない聞こえないがあります。自分のクラスなら予測でなんとかなるのですが、他所ではそうもいかない訳です。
今の形態の授業研究はそろそろやめにしませんか?準備や見学に時間を割く品評会スタイルは色が白くて真っ直ぐな野菜や毛艶の良い牛を見せるため「見栄え」のためだけの会になってしまうことぐらい教育者なら誰にでもわかるはずです。(あー研究者にはわからないんだった。)
しかしながら、その代わり何をしますか?と言われたら対話しましょうぐらいしか今の私にはありません。このヌルッとした感じになることが現場の大部分を占めるカッチリしたい層にハマらないんですよね。伝えたいことはいくらもあるんですがそれが押し付けがましくなるのも避けたい。何かしていないと仕事した気にならないそうした生真面目層はなかなか厄介な仲間なんですよ。単純労働では力を発揮するけれども・・・
そうした連中に正対できる自分でありたいと思いますが、そこにはまだ辿りつけていません。修行が足りない。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?