大学教員の教育実践の捉えの弱さの正体
あえて「の」が4つ重なる文章になってしまった。
しかしそれこそあえてそうする方が良いと思う。
東京学芸(そもそも筑波や東京学芸が日本の教育研究の中枢だという古い考えはいつまで引きずられるのだろう。すでに野球界では六大学と東都だけの時代は終わっているのに。特に筑波附属の国語教育のグループの実践は見るに耐えない。)の藤井某のいうようなお粗末な教育実践が実践の全てであるという捉え自体が「実践なき理論」を基底にした「物足りなさ」を想起させられずにはいられない代物である。
驚くべきことに彼やそのグループが「理論なき実践」や教育実践の「物足りなさ」を指摘したのは2013年、彼がもう60近くになってのことなのである。ものを知らない大学教授というのはそこら辺に転がっているにしてもこの指摘にはお粗末以上の感情を抱かざるを得ない。どういう根拠に基づいてそんなことを言っているのだろうと思って全国数学教育学会誌なるものを読んでみたら、なんのことはない教育学の論文を読み齧ってコピペしただけでの感覚的私見に過ぎない。
まあさらに彼の研究室のHP(退官したならきちんと消しておくべきである)はきちんとデジタルタトゥーとして残っているのだが、卒業論文や修士論文の紹介をしている中にはどこにも先進的な視点や目新しい研究的手法のかけらもない論文の題名ばかりが転がっている。どういう指導をしたらそこそこ偏差値的に優秀であるはずの学生の論文がこんなものになってしまうのだろうか?この人が研究の中心になっている科研費申請を見ても日本の教育現場に役立ったものは一つもないと断言できるものばかりである。なぜならその題名が基礎研究としても発展的な題材としても令和の日本型教育の改革に出てくることがないからである。
この10数本の研究にそれぞれ数百万単位の税金が投入されているのである。
そりゃ蓮舫も二番じゃダメなんですかって言うわ。山中伸弥さんのような超エース級には湯水のように科研費を投入すべきだと思うが、老害の溜まり場のような自称一流研究者が日本には溢れて過ぎているということをもっと国民は理解すべきである。
彼らが大学教授を名乗ること自体が国益の損失である。大学にとってただの無駄メシ喰らいであるだけでなく、無能な上に既得権を守ることに固執し、挙句現場を嘘と意図的な無理解で攻撃するような何重もの利敵行為を行っている人間たちだからである。
さて本題。つまらない前置きが長かった。反省。
なぜこうした無理解がマスコミの批判や無能な大学教員および自称知識人によって、いつまで経っても垂れ流されてしまうのか?
これらを指摘を熟読して指導案づくりのタネにさせてもらおうと思っているのだが、そのときにはたと思い当たったことがある。
大学教員は当たり前だが、「通常の授業」を知らないのである。
通常の授業構成には、覿面の注意のための意図的な経路変更というのがある。
有名なところではクラス内で問題が起きた時に学級会を開くようなものがある。最近こうした学級会に若干の脚色を加えてクラス会議などと宣って売り出して小銭を稼ごうとしている人たちがいるが、もうすでに口伝されていて別に金銭的価値のある代物ではない。これは口伝が消滅している地域や彷徨える個人に対して情報商材を売る情弱ビジネスである。こんなもんが知りたいのなら、引退教員の茶飲み話の相手になってやればいくらでもタダで聞ける話である。しかもナマの声なので経験の少ない情報商材の書き手よりはネタが豊富に出てきます。私は耳タコなので聞きたくないけど。
この学級会のネタというのは、当たり前だけど事前に用意されたものではない。しかしこの課題に対する覿面(何かの課題に対して新しいうちに、すぐに、それも反省材料が目の前にきちんとある状態で・・・)というのはなかなか狙った場面で出てくることがないわけです。
でも、長い長い学校生活の中ではよくあってウデのある教師はそれを子どもの成長に直結させていきます。どんな課題もきちんと覿面に注意できる引き出しや経験を持っています。なんなら出逢ったことのない症例であってもありものを使ってそれなりに調理していきます。
そしてこの覿面注意の場面というのは、授業の中でもよく出てくるんですよね。先にあげた数学教育研究者たちはこの実践内における教員が気づいているかいないかを「顕在的」「潜在的」と称して新しく気づいたかのように言っているけど、残念ながらそれは1999年にある大学院生がJackson.P.WのHidden Curriculumを援用してすでに修士論文で述べているのでそこから借りたことを明らかにすべきですよねということです。
それ以前にもそうしたことが実践に存在しているらしいことについては、佐伯胖なども指摘していることです。そういえば佐伯胖ってまだ生きているんだなぁ。昔散々こき下ろしてしまってごめんなさい。
その教員が気づいていない覿面について顕在化するのは結構なことなのだが、そのことにあまり意味がないんじゃないかということはすでに現場では何度も何度もコスっているハナシである。
しかもこの教員が気づいていない指導内容についての指摘も現場の授業検討ではお定まりの光景である。
つまりこれらの大学教員からの指摘にはなんの意味もないのである。
さらに重ねてこの指摘に意味がないのは授業におけるこの覿面注意を授業実践に活かしている教員はこれらを誇らしげにマニュアル本に書いたりはしないのだけれども、きちんと口伝しているのである。
実際にどうやればこの覿面注意の授業展開ができるかということではない。これは黒閃みたいなもんでやり方がわかっているだけではできっこないもんだからである。しかしそのチャンスに一度繰り出せれば、不思議とあとはスコスコ出せる技である。授業を何の気なしに見ているとたまに黒閃を連発する教員がいるけどそれを自慢げに語っていることはない。しかし教員の感覚の中には授業が思った以上にうまくいった感触がしっかり根付いていくのである。
呪術廻戦で黒閃の解説を聞いた時、ミョーに納得したのはこの覿面注意ときっちり重なる部分があったからである。漫画を読むことは役に立つ時があるというのは堀江貴文と同じ感覚である。
ICTの商業的に利用している企業は擬似的にこのチャンスを不正解という形で作り出しているのだが、ここでアプリが着目するのは問題は間違えたことだけである。特にAI頼みのアプリでは永遠にここ止まりになってしまう。学校教育の中で教員が着目したり、反転教授などで子ども同士が学ぶときに着目するしたりするのは、どう間違えたかということである。どの思考形態のもとでこの結論に達したか、または結論に至れなかったのか、そうしたことも明らかにしていくのである。もちろんここで子どもの思考過程は全てが顕在化されないし、される必要もない。なぜならそれらが全て学びに直結していくからである。アプリやオンデマンドに学びを手渡そうしている輩がわかっていないのはこの部分である。それは潜在的とか顕在的とかで分ける必要のない学びの総体である。それら全てを含めてが学びのプラグマティズムであるといったのはすでに古典的な教育論と言われる類のものたちである。こうした先行研究や知見を活かして実際の授業では路線変更してこの辺を深掘りすることは日常的である。
大変残念ながら大学教員たちはこの日常に出逢わない。出逢わせてあげてられる訳もない。
なぜならほとんどの研究授業や研究発表においてこうした深掘りは許されていないからである。大学教員の大好きな「研究」にだけ真実があるわけではないのである。
そしてその深掘りに出逢えない授業しかしない人間しか実務家教員にはならない。なぜなら大学教員は自分の見た授業の中でしか教員を評価できないからである。自分の知っている実践の枠組みの中で語る人間しか理解できないからである。理解できないものは評価できない。
これが大学が実践から遠ざかっていく構造である。残念ながら最近自然科学もノーベル賞から遠ざかる理由はこれに近い。早晩日本のノーベル賞受賞者は外国の大学に所属する人間と企業に属する人間に限られてしまうようになるだろう。
現場の実践の捉えのアンテナが弱まってしまった人間にクリエーティブとかイノベーションとか言ってあげること自体が無理筋である。そもそもこのような人間、しかも自分が上級だという認識がある人間には凡事徹底すらおぼつかない。
とあるICT系著名大学教員のnoteが1週間おきに更新で8回ほどで終わってしまっているのが証左である。
少なくても2000文字以上125日連続投稿の1ヶ月残業88時間の教員として一言苦言申し上げる。
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