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映画『トラペジウム』におけるエゴイズムの再評価:客観的指標の不在と横溢する自意識の肯定

※本記事は映画『トラペジウム』のネタバレを含みます。未鑑賞の方はご注意ください。


はじめに

 究極的に、アイドルはエゴイストでなければならない。エゴイスト同士がぶつかり合い、しのぎを削るアリーナ、それこそがアイドルの世界である。この異種格闘技戦によって育まれるのが、多様性と呼ばれる水平的な散らばりである。その意味で、アイドルの世界は外界への準用の可能性を秘めている。

 2024年5月10日に劇場公開されたアニメ映画『トラペジウム』は、高校生のアイドル活動の蹉跌を題材にとり、人間のエゴイズムに関する洞察に長けた秀作であった。本作はアイドルに焦がれる高校一年生・あずまゆう(CV: 結川あさき)が東西南北の美少女、正確にはゆうが住んでいる市内の他校に通う女子高生を各校一人ずつ巻き込んでローカルタレント活動を開始し、ローカル番組への出演をきっかけに憧れのアイドル活動への飛躍を遂げるも、四人でのアイドル活動の破綻と空中分解に直面するという一連の過程をテンポよく描き出している。そこで際立つのは、ゆうのアイドルデビューに向けた戦略なき戦術と内省なき行動である。ゆうにとってアイドルになることは手段ではなく目的であり、それゆえゆうは何のためにアイドルになるのか、アイドルになることが自分の人生のなかでどのように位置づけられるのかという中長期的な戦略(strategy)を欠いた状態で、アイドル活動の準備行為に邁進している。他方で、当該準備行為に関しては綿密な計画を立て、それに沿って個別具体的な戦術(tactics)を実行に移している。かかる戦術への注力ないし傾倒は、ゆうが内省(self-observation)をおろそかにしていること、言い方を変えれば肥大した自我(ego)を客観的な要素を持つ自己(self)に高められていないことを示している。しかし、これはゆうに限った話ではなく、多くの人間(特に「成功者」とみなされる人々)に当てはまるのではないだろうか。本稿ではまず、ゆうの具体的な行動を分析し、彼女がいったい何をしているのかを解き明かす。次に、彼女がそのような行動にいたる原理や動機を探る。ここでは、彼女を駆り立てる言語化できない衝動と向き合わざるをえず、議論は理性や知性の次元を超えていくことになるだろう。最後に、本作の提示する価値観を整理して筆を擱くことにする。

 なお、本作は乃木坂46一期生の高山一実が現役アイドル時代の2018年に刊行した小説を原案としているが、本稿では本作を高山の実体験が反映された私小説的なものとみなしたり、本作のなかに無意識的に込められた高山の信条や欲望を解読しようとしたりはしない。また、本作を舞台のモデルとなった千葉県館山市に即してパルチザンの観点から理解しようともしない。何となれば、本作は『Wake Up, Girls!』、『普通の女子校生が【ろこどる】やってみた。』、『ラブライブ!サンシャイン!!』、『ゾンビランドサガ』といった作品群ほどには、都会と地方、あるいは中心と周縁という主題を明示的に掘り下げてはいないからである。『トラペジウム』に地方の閉塞感や鬱屈を見て取ることは不可能ではないかもしれないが、本稿ではそのような視角は採用しない。あらかじめご了承いただきたい。

出力:東ゆうの行動を分析する

 東西南北の美少女を集めるというのは、表現としても実態としてもオカルトな妖しさに満ちている。ゆうはこの妖しい所業に真剣に取り組む人間である。ゆうは自分一人の力でソロアイドルとして見出されたり、勝手にインディーで活動したりする道を選ばない。正確に言えば――ゆう本人が選り好みをしていた可能性は否定できないとはいえ――ゆうは複数のオーディションに落ちてしまったため、自分一人の力でコンテストを勝ち抜いてデビューをこじ開けるのではなく、タッチポイントを増やすことによって大人(特にテレビの業界人)や大衆に見つけてもらうルートでデビューしようと画策するようになった。そのために、ゆうは人為的な物語・運命を作出すべく、市内の他校に通う女子高生の物色を始める。ゆうは手始めにお嬢様学校として知られる「聖南テネリタス女学院」に侵入し、『エースをねらえ!』に登場するお蝶夫人に憧れてテニス部に入ったものの、理想像とのギャップに苦悩する少女・華鳥蘭子(CV: 上田麗奈)に声をかける。ゆうはアイドルという単語を一切出さず、友達を作るために来たと告げ、初対面にもかかわらず蘭子に「南さん」という渾名をつける。蘭子は渾名をつけられる関係は初めてだと喜ぶが、この渾名は蘭子の通う高校の名前に由来する没個性的な命名にすぎず、「二号さん」といった呼び方と大差はない。続けて、ゆうは男子だらけの「西テクノ工業高等専門学校」のロボット研究会でプリンセスと扱われている少女・大河くるみ(CV: 羊宮妃那)に接近する。高専ロボコンでの優勝を目指すくるみは、「リケジョ」や「サイエンス・エンジェル」よろしくメディアで持て囃されることに辟易する一方で、同年代の女子との交流に飢えており、ゆうはくるみに協力を申し出て、放課後に同じ時間を共有することによって、くるみの信頼を得ることに成功する。そして、ゆうは書店で小学校時代の同級生・亀井美嘉(CV: 相川遥花)と偶然再会を果たす。美嘉はいじめられていた過去と訣別するために顔を整形し、自分が進学した「城州北高校」とは別のコミュニティを求めて、地域のボランティア活動に参加をしていた。ゆうはこれを奇貨として、アイドルデビュー後に過去を掘られることを見越して、好感度稼ぎのために蘭子とくるみを誘ってボランティア活動への参加実績を作ろうとする。ゆうにとって、車椅子の子供たちの登山を介助する活動は四人の結束を固めるまたとない機会に映ったが、当日四人が同じ班になることはなく、ゆうは思惑が外れて不機嫌になる。ゆうは支給された弁当を無言で受け取り、虫が入ったみそ汁は飲まずに捨ててしまう。結局、山頂でのピクニックを経て四人の距離は縮まり、車椅子の子供から感謝されることにもなるため、「終わりよければすべてよし」と言ってよいのかもしれないが、それにしてもゆうの豹変は観客に強烈な印象を残す。

 ボランティア活動の幅を広げる過程で、ゆうの計略は功を奏し、四人は女子高生ボランティア仲間として話題を集め、ローカル番組へのスポット出演を果たす。これを契機として、四人はゆうの畢竟独自の世界観が現実と噛み合ったかのように、「東西南北(仮)」としてなし崩しにローカルタレント活動およびアイドル活動に入り込んでいくことになる。芸能事務所への所属も決まり、すべては順風満帆に思えたが、歌やダンスのレッスン、スタジオ収録やロケに明け暮れる、いや押し流される日々のなかで、四人の関係は少しずつ変容を迫られていく。転機は大別して二つある。一つ目は、美嘉にアイドル活動前から交際していたボーイフレンドがいた事実が発覚したことである。この発覚を受けて、ゆうは苛立ちを隠そうともせず、舌打ちをし、「聞いてない。彼氏がいるんだったら、友達にならなきゃよかった」という言葉を吐いて美嘉を責める。冷静に考えると、ゆうは最初からアイドルのスカウトとして美嘉に接触したわけではなく、アイドルの世界における「恋愛禁止」なる不文律を明示してもいなかったのだから、美嘉には何らの報告義務も発生してはいなかった。それなのに「聞いてない」と言えてしまうあたりに、ゆうの認知や考え方の特徴がよく表れているが、この点については次節で掘り下げる(なお、ゆうは美嘉に怒鳴ったことについて、日を改めて謝罪はしている)。二つ目は、元々あまり人前に立つことが得意でなかったくるみが過密スケジュールと進路への不安から心身に不調をきたしたことである。精神的に追い詰められ、泣き喚いてアイドル活動の続行を拒否するくるみを見ても、ゆうは少しも労り寄り添う姿勢を見せず、くるみを説得しようとする。蘭子はゆうを静止し、くるみは限界を迎えており、脱退を認めて休ませてあげたほうがいいと主張する。美嘉もアイドル活動を最優先し、落伍する者に対して峻厳な態度をとるゆうに怖さを感じる。しかし、ゆうは中途半端な覚悟でアイドルの世界に入ったという甘い考えを詰るように大声を出し、自分と異なる価値観を受け止めるそぶりすら見せない。ゆうは「綺麗な服を着て、かわいい髪型をして、スタジオでいっぱい光を浴びて――それがどれだけ幸せなことかわかってる!?」、「慣れていけばきっと楽しくなってく! だって、アイドルって大勢の人たちを笑顔にできるんだよ? こんな素敵な職業ないよ」とまくし立てるが、アイドル活動に疑問を抱いた他のメンバーを納得させるにはいたらない。最終的に、蘭子・くるみ・美嘉の三人は事務所を脱退し、アイドル活動を休止する道を選び、一人ぼっちになったゆうも事務所を辞めることを余儀なくされるのだった。

 以上の行動や言動に鑑みて、ゆうを計算高い、打算的、狡猾、悪性格といった言葉で形容するのは正しいだろうか。ゆうはたしかに自意識過剰な少女かもしれないが、他人を傷つけたり不幸にしたりすることに悦びを感じているわけではないし、自分の目的を達成するためなら他人を手段として扱うことを躊躇しない人物でもない。言うなれば、ゆうに振り回された周囲の人間が勝手に不幸になっているだけなのである。ゆうはそれほど頭がいいわけではなく、直観的で無軌道な人間と評したほうが実情に即している。これを幼稚の一言で切って捨てる向きもあるだろうが、本稿ではもう少しだけ粘り強く、ゆうの行動原理や動機を探ることを通じて、本作の持っているある種の優しさに迫ることにする。

制御:東ゆうの思考における言語化の限界

 ゆうは、アイドルに興味やこだわりのない人間をアイドルの世界に引っ張り込むことができるという意味で、アイドルアニメの主人公格と言える。ただし、ゆうは他を圧倒する才能や美貌を持ち合わせているわけではない。実際、ゆうは「東西南北(仮)」としてテレビ出演するようになった後も、蘭子の強烈なキャラクター、くるみのロボコンアイドルという真似しがたい属性、美嘉の整形によって得られた万人受けするルックスに比肩する個性を打ち出せておらず、SNSアカウントのコメント数やリアクション数といった指標でも他の三人に劣後していた。また、ゆうはメンバーの精神的支柱の役割を果たしていたわけでもない。ゆうは魔性と呼べるほど他人を翻弄し悦楽の虜にするのが巧くもないし、カリスマと呼べるほど人心掌握に長けてもいない。そんな彼女を主人公格たらしめているのは、徹底的な計画・実行・検証・改善のサイクルの継続である。このサイクルは、偶然や運命を装って東西南北の美少女を集結させ、アイドルへ押し上げるというシナリオを実現するために精密に実践されている。それにもかかわらず、ゆうを卓越した策士と見るのは正確ではない。何となれば、ゆうの計画・実行・検証・改善のサイクルは戦略(strategy)ではなく戦術(tactics)として実践されているにすぎないからである。

 ゆうは自分の精神状態も人生もコントロールできている、あるいはコントロールできるはずだという前提に立っている(少なくとも彼女の認知としてはそうである)。ゆうは頸部に指を当てるという特定の動作で緊張を和らげ、ノートに野望、計画、計画の進捗、それに対する評価とフォローアップを細かく書き込んで管理している。しかし、重要なことに、本作では精密に管理・制御を行うおおもとの欲望・動機はほとんど説明されない。ゆうは幼少期にアイドルの輝きに魅了され、アイドルを志望するようになった。ゆうは「はじめてアイドルを見たとき思ったの。人間って光るんだって」と動機らしきものを語ってはいる。だが、この程度の説明では、第三者に対してアイドルの魅力は伝わらないだろう。これは、ゆうがアイドルの輝きを自明のものと捉え、説明を放棄しているということを意味しない。ゆうにとっては、「人間って光るんだって」という表現が、この表現こそが雷に打たれたかのような自分の体験をかろうじて言語化するすべなのである。ゆうは自分のみずみずしい感覚が第三者に的確に伝わらないからこそ、行動し続けなければならない。試行回数を増やし、チャンスを最大化するために複数の戦術を組み合わせて立ち回らなければならない。動画や投稿を「バズらせたい」と考える者が「バズらせる」ための個別具体的な方法に注力する一方で、なぜその事柄をテーマに選んだのかを「面白いと思ったから」以上に説明できないということがしばしば起こるように、ゆうはアイドルになるために必要なスキルや振る舞い方を追求する一方で、アイドルになることによって得られるものや生み出せるものが何なのかについては沈黙している。同様に、ゆうはかわいい子がアイドルをやらないのはもったいないという確信を抱いているが、なぜアイドルでなければならないのかという必然性を言語化することはできない。言い方を変えれば、ここでは「アイドルが光っているように見えたのは誤解や勘違いだったのではないか」という振り返りや点検はなく、「自分に火がついた以上はもう止まらない」という衝動に忠実な生き様があらわになっている。ゆうが美嘉の流出騒動に苛立ちを隠せず、くるみの脱退を認められないのも、「この四人の仲間で一緒に成功したい」からではなく、「一度アイドル活動が始まった以上、今更後戻りはできない」と考えているからなのである。これは知的営為や批判的思考には程遠い、きわめて直観的で近視眼的な思考と言わなければならない。

 ゆうは自己分析や自問自答、すなわち自分を客観視する内省(self-observation)をおろそかにしたまま、輝くことを志向している。ここでは、自分がただこの場にいることを他者から承認してほしい、自分が生きた証がないまま消えたくないという強烈な欲求と、運命に対する受動的な態度(passion)が結びついている。換言すれば、ゆうのアイドルになることに向けられた情熱(passion)はプライドの高さに起因する受け身の姿勢と密接不可分である。ゆうは最後まで、蘭子・くるみ・美嘉の三人に東西南北の美少女を集めるというオカルトな計画を明かすことはない。ゆうが唯一計画と本音らしきものを話した男子高専生・工藤真司(CV: 木全翔也)もその後のゆうの人生に大きく関係することはない。そして、ゆうは人畜無害な「ステッキ・ボーイ」と言っても過言ではない真司にさえ、自分がオーディションに落ちたという事実を告げることができない。ゆうはいつか来たるXデーに備えて、いつでも準備万端の状態を整え、自分という素材を磨き上げて、声がかかるのを待ち構えているのだ。要するに、ゆうは孤独を強いられる賢くない生き方をしている。だが、賢く生きられたら、とっくにそうしているのだ。ゆうは陰口を叩いている同級生に対して毅然とした態度で応じるが、その後一人になると凹んでしまう。ゆうは自分が「嫌な奴」として受け取られていることを自覚したとき、涙を流してしまう。ゆうは他人を欺いても何も感じない冷血・冷徹な人間などではない。一生懸命取り組んだ結果、それが思ったようにうまくいかなくて苦悩する、普通の少女なのだ。こうした自意識過剰や理性の鈍麻は、多くの人間に程度の差こそあれ当てはまる。蘭子・くるみ・美嘉の三人だって、ゆうの描いたシナリオに抗って、初めからアイドル活動を拒否することはありえたはずだ。それなのに三人がアイドルの世界に飛び込むことを選んだのは、ゆうがプロデューサー気質によって押しに弱いアイドルの原石を見抜いていて、初めから万事を仕組んでいたからではなく、三人もまた言語化できない、コントロール不能な何か(何かとしか言いようがない)によってアイドル活動に駆り立てられたからである。賢くあろうとすれば、そもそもアイドルになどならないほうがいいに決まっている。賢くない生き方をしているのは、何もゆうただ一人ではない。

入力:アイドルの輝きとエゴイズムの関係

 前述の空中分解を経つつも、本作の結末においては、アイドルになるという夢を叶えたゆうの姿が描かれる。この点に関して、本作はご都合主義とはまた違った優しさを持っていると言うことができる。すなわち、本作は人生とは往々にして衝動や偶然に左右される安定性・予測可能性の低いものであるとの前提に立ったうえで、自分を客観視するという知的営為を不得手とする人間が、不得手なままに輝いたっていいという価値観を提示している。この価値観はエゴイズムの肯定ないし再評価と結びつく。「自分である」という自我(ego)を「自分がある」という自己(self)に高めていくこと、すなわち主観の世界を脱して客観的な視座を手に入れることが「大人になる」ということであり、それこそが望ましい成長なのだ(その意味で、自我の状態にとどまる者は「自己決定権」を論ずる資格がない)という通念に対して、本作は疑いの目を向ける。本作の提示する価値観は、本作のエンディングテーマであり、劇中では「東西南北(仮)」の四人が共同で作詞したことになっている「方位自身」という楽曲の歌詞によく表れている。以下では、「方位自身」の歌詞を引用しながら、エゴイズムについて検討を行う。

 まずは、「方位自身」の最後の一節から遡及して考えていくことにする。

欲しかった方位磁針
ずっと探してた 自分自身
もう 迷うことない
夢があれば 星が光る
輝く道を 進もう

歌い手はなぜ方位磁針が「欲しかった」のだろうか。それは客観的な指標が自分の外側にあれば迷わないで済むから、気楽だからである。しかし、実際には「手がかりは星あかり/方位磁針はない」。「問題 解探し/広げたノートが笑みを乞う」、「存在価値探し/遠回りしたよ」――歌い手は客観的な「解」が欲しくて、第三者から「存在価値」を規定されたくてたまらなかった。より本質的には「自分自身」、すなわち外界に対して揺るがない強靭な自己(self)を求めてやまなかった。ところが最終的に、歌い手は自分を冷静に見つめる自分、すなわち自己(self)の確立を諦め、エゴイズムを認めることを選ぶ。「もう 迷うことない」のは自意識過剰な過去と訣別して大人になったからではないし、いわんや客観的な「解」が見つかったからでもない。ここで重要なのは、「夢があれば 星が光る」という順序である。自分に内在して燃える原動力としての夢を前提として星が光るというのは、星を客観的に存在する光源ではなく、自分の夢(どうありたいか)をもとに計測して見つけるものと捉える現代的な考え方である。そして、この夢は偶然性の観念と親和性が高い。つまり、アイドルの輝きに瞬間的に魅了され、言語化不能な衝動をかき立てられた後、その衝動ないし情動(passion)に駆り立てられて行動するうちに、おのずと道は拓かれるというわけだ。これは自分で自分に何を植えつけ刻み込むかを自由に選べるとか、意識次第で自己(self)を変革することができるといった考え方とは根本的に異なる。本作は、冷静さや客観性を欠き、衝動のままに行動するという愚かな生き方を選ばざるをえず、しかしそのなかでは計画的に物事を進めているという滑稽さを人生の本質として肯定する作品だ。なんとなく始めたことがライフワークや専門分野になるとか、なんとなく入った組織や業界に長年とどまることになるといった受動性を人生の常として受け入れる本作は優しく愛おしい。

 端的に言えば、本作はゆうが挫折を経て成長を遂げる物語ではなく、蘭子・くるみ・美嘉の三人がゆうのエゴイズムを認める物語である。「方位自身」は「東西南北(仮)」の活動終了後、少し遅れて完成を迎える。三人がアイドル活動を辞めたにも関わらず、作詞という積み残した宿題をやり遂げた理由を明晰に説明しきることは難しい。何となれば、「東西南北(仮)」を崩壊させたゆうのエゴイズムが、再び三人を引き寄せ束ね上げる輝きでもあったとしか言いようがないからだ。名は体を表す。「東西南北(仮)」はその名のとおりユニットではなく、バラバラな四人の寄せ集めにすぎなかった。ユニット、シスターフッド、連帯――呼び方は何でもいいが、本作にはそのような中間的な次元が存在していない。だから、「東西南北(仮)」の活動終了から8年後も、四人が定期的に連絡を取り合い、一同に会する機会をもっているとしても、四人を友達と呼ぶべきなのかはわからない。ゆう以外の三人にとっても昔のアイドル活動はいい思い出であって、現在は四者四様に違う道で頑張っているけれど、あの時の輝きは未来に向けた原動力として眩しく残り続けている、などと綺麗にまとめることには抵抗がある。むしろ、アイドルになる夢を叶えたゆうと三人との非対称は維持されているように見える。その証拠に、ゆうは成功者となった後も、自分のアイドル活動はたまたまオーディションに合格したところからスタートしたという体をとっており、外部に向かって開かれた素直さと高いプライドが同居する人格は健在である。さらに、ゆうは夢を叶えた人にしかわからない境地があるという趣旨の独白をしているが、ここでもやはり「なぜその夢を抱いたのか」という動機はブラックボックスのままであり、無内容な発言となっている。このような透徹したエゴイズムの描写に励まされる人は少なくないだろう。本作は繊細な感性を売りにする賢しさも、反対に図太さを称揚する力強さバイタリティも持ち合わせておらず、怜悧でなくとも、何かしらの受容体が欠落しても、それをとやかく言われる筋合いはないという叫びをあげているにすぎない。だが、正面を切って言いにくい叫びを自嘲や屈託なく、しかも青春特有の欲動とか、若者のあり余る行き場のないエネルギーや怒りの炸裂といった時限性へ逃げ込むことなく、まっすぐぶつけてくる姿勢は嫌いではなく、むしろ強く惹かれざるをえない。

おわりに

 最後に、キャスティングの観点からも本作の特質を補足しておく。本作には、高山一実・西野七瀬の乃木坂46一期生二人がボランティア団体の老人役で出演している。内村光良の声に続けて高山・西野の声が流れると、どうしても老人三人組の演技には聞こえないので、このシーンは明らかな違和感・引っかかりを残す。突然投げ込まれるこのキャスティングはまったくもって意味不明であり、作品全体の真剣さや統一感を損なっていると言わざるをえない。実際のところ、これは原作者とその同僚が記念出演している以上の意味などないのかもしれないが、夾雑物・ノイズ・蛇足が作品に入り込むことによって、結果的に人生とは予測可能性の低いものであるという前提が一貫性をもって浮かび上がってくるように思える。作品を完璧に整頓された、隅々までコントロールされたものに仕上げたいのなら、このような意味不明なキャスティングはとらない。すなわち、本作が賢しらな作品でも露悪的な作品でもなく、コントロール不能な何かを認めようとする非理性的な(だからこそ好ましい)作品であるということは、高山・西野の起用からも窺い知ることができる。

 繰り返しになるが、究極的に、アイドルはエゴイストでなければならない。ただし、その次の段階をどう観念するかについては、まだ決着がついていない。ユニットのような中間的な次元はエゴイズムが成立しなければ高次の関係として取り結ぶことができず、「集団の和を乱さない」といった通俗的で息苦しい同調圧力に堕してしまうと順当に考えることもできる。また、まず中間的な場が成立し、そこからあなたと私が分かれるという現象学的な考え方をとることもできる。ここからは、本作を見て何らかの衝動に駆られた観客一人一人が行動する番であろう。本作が引き起こした波紋が忘却されないことを祈って、筆を擱くことにする。

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