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TVアニメ『シャインポスト』と『Extreme Hearts』の明暗:アイドルアニメから見えてくる才能・努力・自己肯定感の連関

はじめに

誰かを幸せにするということ、それには3つのタイプがあると思う。まず、世の中の多くの人を幸せにできる人。自分の周りの身近な人を幸せにできる人。それと、自分を幸せにできる人。でも、今ならわかる。誰かを幸せにするってことは、結局は、自分が幸せになるってことなんだと。

(『Wake Up, Girls! 新章』第13話より)

 2022年7月期に放送されたTVアニメ『シャインポスト』『Extreme Hearts』は、どちらも女性アイドルグループの奮闘を描くことを通じて、ありのままの自分を受け入れることの尊さを謳い上げた作品だった。しかし、視聴者に投げかけられたメッセージの表層とは裏腹に、この二作品は人間の才能について対照的な理解を示しており、結果的にアイドルアニメとしての巧拙が際立つことになった。
 『シャインポスト』は、株式会社コナミデジタルエンタテインメントが手掛けるメディアミックスプロジェクトの一環として制作・放送されたTVアニメである。ライトノベル作家・駱駝が原案となる小説を執筆し(アニメの脚本も一部担当)、『ウマ娘 プリティーダービー』で一躍時の人となった及川啓が監督を務め(アニメ制作もスタジオKAIが担当)、『ラブライブ!』の担当プロデューサーとして名高い木皿陽平が音楽プロデューサーを務めるなど、ある種の権威主義的な視聴者には喜ばれる布陣の作品でもあった。『シャインポスト』の主人公が誰なのかはなかなか難しい問題だが、嘘をついている人が輝いて見える特殊能力を持ったマネージャー・日生ひなせ直輝(CV: 山下大輝)が「伴走者」のようにアイドルを導く物語だと言えば、間違いはあるまい。『シャインポスト』はマネージャーである直輝の前で輝いていたアイドルが輝かなくなる過程を描き、ありのままの姿を見せることを称揚して幕を下ろす。
 『Extreme Hearts』は、シナリオライターの都築真紀が原作・脚本を、西村純二が監督を務めたオリジナルTVアニメである。『Extreme Hearts』の物語は、売れないシンガーソングライター・葉山陽和ひより(CV: 野口瑠璃子)のもとにアーティスト契約終了の通知が届くところから始まる。陽和は所属していたプロダクションからハイパースポーツの大会「エクストリームハーツ」に出場することを提案される。ハイパースポーツとは、身体能力を向上させる「エクストリームギア」を装着して対戦する複合競技型のホビースポーツであり、音楽会社が主催する芸能人大会「エクストリームハーツ」は大人気イベントとして名を馳せている。「エクストリームハーツ」で勝ち進んだ芸能人は、自分たちの音楽を紹介してもらえたり、ステージで歌う権利をもらえたりする。陽和は紆余曲折を経て集まった仲間たちと力を合わせて神奈川大会を勝ち上がり、優勝を果たしてファイナルイベントのステージに立つ。『Extreme Hearts』においては、得手不得手がバラバラのメンバー/チームメイト間の補い合いが相互にありのままの姿を肯定することになっている(詳細は後述する)。
 本稿では、『シャインポスト』と『Extreme Hearts』の比較を通じて、アイドルアニメに求められる「分節」を成立させるための前提条件について論じる。これまで筆者はアイドルアニメにおける「分節」の重要性を再三強調してきたが、アイドル同士の「分節」が成立する前段階に焦点を合わせた議論は深められていなかった。まずは『シャインポスト』と『Extreme Hearts』の分析を端緒として、才能・努力・自己肯定感の連関について考えていくことにする。

ありのままの姿で:主観的な達成としての自己肯定感

 『シャインポスト』は惜しい作品である。通常、「輝き」とはアイドルの放つ魅力や努力の結晶を表現した言葉であるところ、嘘をついている人が輝いて見えるマネージャー・日生直輝の目を通すことによって、芸能界では「輝かない」ほうが逸材であるという発想の転換を成し遂げたのは「コロンブスの卵」と呼ぶにふさわしい。しかも、本作は一見凝った世界観ながら、前半ではアイドルアニメの「王道」を外さずに直球勝負をかけており、急激なパラダイム・シフトではなく漸進的な発展を志向しているように見えて、その点も好印象であった。
 第1話で鳴かず飛ばずのアイドルグループ・TINGSティングスのマネージャーを引き受けた直輝は、第3話で「TINGSに引き立て役なんて必要ない。全員が主役になれるすごい才能を持った子たちが集まったグループだ」と語る。全員が主役たりうるとは、アイドル同士で「各人に各人のものを」(suum cuique)の精神が実現されているということだ。すなわち、各人が並び立つ隣のアイドル/メンバーの輝きにかき消されない輝きを放ち、各人から発散する個性が釣り合った状態で、遮蔽物によって影が生まれない(原理的には誰も抜きん出ない)、重畳のない「分節」が成立しているということである。本作の前半では、青天国なばため(CV: 鈴代紗弓)の抜群の観察眼と調整力、玉城きょう(CV: 蟹沢萌子)の安定感、せい理王りお(CV: 夏吉ゆうこ)の歌唱力といった個性が釣り合って、TINGSのメンバー間で「分節」が成立する過程が描かれる。「分節」の成立にあたっては、嘘を見抜く直輝の眼力が重要な役割を果たすことになるが、直輝が言葉を交わさずに感応する「エスパー」や「さとり」でないことには注意を要する。直輝は相手の「心を読む」わけではなく、相手に質問を投げかけ、会話を通じて相手の真意を引き出す「嘘発見器」的なカウンセラーの役割を果たしている。直輝は会話を通じて、自分の本音や欲求を抑圧する健気なアイドルに「気づき」を与え、各人の個性を開花させる手伝いをするだけであって、アイドルに自分の主義主張を強要することはしない。
 直輝のカウンセリングの実例を一つ紹介しよう。第4話において、直輝は輝きながらセンターポジションを固辞する杏夏の説得に乗り出す。学校では優等生で通っていた杏夏は「誰かにとって特別な存在になりたい」という思いからアイドルを志した。「君だけの特徴が見えてこない」という理由でアイドルオーディションの不合格が続くなか、杏夏はスカウトによって芸能事務所への所属を叶える。しかし、杏夏は同僚となった春の圧倒的な才能を目の当たりにして自分の限界を痛感し、センターポジションで歌詞を飛ばしてしまうという失敗も相まって、「特別な存在は、特別だからこそなりえる」という結論に妥協するようになった。「特別な存在」になれないことを思い悩む杏夏に対して、直輝は次のように語りかける。

アイドルはグループ内でも戦いがある。役割がある。それを理解してしまったから、君は自分の場所を自分で見極めたんだね。正しい側面もあるよ。だけどね、アイドルは正しいことをやるんじゃない。やりたいことをやるんだ。本当はやりたいことがあるのに、自分に向いていないと言い聞かせて我慢していた。それが君の悩みの正体。でもそれは本来の君の姿じゃない。誰よりも冷静で、誰よりもしっかりもので、そして、誰よりも野心家なのが、玉城杏夏だ。

 杏夏は直輝の言葉に励まされ、再びセンターポジションに立つことを決意する。公演当日、杏夏は古参ファンの声援に勇気づけられ、重圧をはねのけてセンターポジションを完遂する。直輝はステージ上で歌い踊る杏夏を眺めながら、「杏夏、君はもうなれているんだよ。誰かにとって、特別な存在に」と独白するのだった。
 このエピソード自体は、きわめて明快に自己肯定感の重要性を伝えている。他の誰かと比べて自分は輝けていないとか、自分には才能が足りないなどと卑下しても仕方がなく、まず自分に熱い視線を向けてくれる身近な人を大切にしよう――そんなメッセージが第4話からは伝わってくる。これは言い換えれば、自己肯定感は「分節」が成立していると思い込むことによって得られるということだ。実際にメンバー間の個性が釣り合っているかどうかは二の次でよいということだ。一般に、「アイドル戦国時代」以後のアイドルアニメは何らかの客観的な指標に依拠した達成(たとえば、大会での優勝や大規模公演の成功)を物語の終着点に据える傾向にあり、達成までの過程で才能と努力のせめぎ合いが描かれることも多い。これに対して、本作は自己肯定感の獲得という主観的な達成に高い評価を与えており、視聴者に対していっそう射程の広いメッセージを伝えるポテンシャルはあったと言うことができる。
 ところが、本作は最終的にメンバー間の「分節」の成立を主観的な思い込みでは終わらせず、特定のメンバーの潜在的な才能の発現によって客観化する挙に出た。本作の後半において、鳴かず飛ばずだったTINGSは「ありのままのTINGS」を見せる境地に達して、スターダムへ駆け上がっていく。最終回(第12話)、直輝は中野サンプラザのステージへ向かうTINGSを見て、「輝いてなかった。初めて立つ大きなステージ。不安だっていっぱいあるはず。なのに、虚勢を張ることもなく、意地を張ることもない。嘘一つない顔で、自然体で、隠し事もない。ありのままで、全力のみんな」と語る。しかし、自らを偽ることなく、ありのままの姿を見せて評価される前提条件に潜在的な才能というものを置くのは、かえって自己肯定感が損なわれるようなあべこべの結末を招き、視聴者に伝えたいメッセージが的確に伝わらないどころか、歪なメッセージに転化して伝わってしまうのではないか、と筆者は危惧している。この点について、節を改めて分析を進める。

残酷な平行線:平板な才能観による自己肯定感の毀損

 編集者・ライターの川野優希は、「電ファミニコゲーマー」に掲載された記事(2022年10月4日公開)のなかで、『シャインポスト』が「何も無い人間なんて居ない。何かを持って生まれてきて、何かを成すために生き続けている」というメッセージを伝えていると述べたうえで、それは「綺麗事かもしれない」けれども、「きっと、僕もあなたも『持っている人間』なのだ」というエールとして好意的な評価を下している。

 本作は、制作を担当する主要スタッフの新型コロナウイルス感染者急増を受けて放送スケジュールが変更となり、放送終了が2022年10月中旬にずれ込んだ。そのため、川野の記事が公開された時点では、本作は最終回を迎えていなかった。いま、同じ評価を下せるかどうかは再検討が必要である。
 本作は後半に入って、春の過去に言及し始める。春はかつて、今をときめくトップガールズユニット・HY:RAINハイレインのメンバーだった。春は幼なじみの大親友・黒金蓮(CV: 芹澤優)と二人でオーディションに合格したが、瞬時に振り付けを覚え、誰よりも上手に踊れる圧倒的なアイドルの才能を開花させ、それによって蓮を傷つけてしまう。「どこまでもいけるのは、春だけだった。春は天才だったの」と蓮は語る(第11話)。「私の才能、私の本気が大切な人を傷つけてしまう」(第9話)ということを知った春は、アイドルを一度辞めた。
 春はHY:RAINからの脱退後、スカウトによって再びアイドルの世界に舞い戻ることになったが、同じ轍を踏まぬよう、TINGSのメンバーの前では一度も本気を出さず、精一杯我慢をしていた。しかし、TINGSのメンバーである祇園寺雪音(CV: 長谷川里桃)と伊藤紅葉(CV: 中川梨花)が春の一人での練習風景を垣間見てしまったことで、春が本気を出していないことが露見し、雪音と紅葉はプライドを傷つけられてしまう。雪音と紅葉は春に本気を出させるためにTINGSを脱退し、春を脅かすライバルとなろうとするがうまくいかない。努力が空回りする二人に対して、杏夏は「雪音、紅葉、TINGSに戻ってきなさい。これは命令です」、「私たちの本気の思いを春にぶつける以外に、春を本気にさせる方法なんて思いつきません」と告げる。杏夏の言葉に触発されて、雪音と紅葉は「いまの私たちなら、本気の春を必ず受け止めてみせる」という思いでTINGSへの復帰を果たす。二人の復帰を受けて、直輝は「みんなを、TINGSを信じてくれないか」と春にお願いをする。ダメ押し的に、杏夏はメンバーを代表して、「あなたの本気を見たくらいで、傷つく私たちではもうありません。ぶつけてきなさい、青天国春。あなたの本気を」と春に発破をかける。こうして周囲の人間に支えられ、春はとうとうTINGSのメンバーと一緒に本気で歌い踊ることができるようになる(第9話)。
 春は自分の本当の実力を隠していたが、世界中の人にアイドルを好きになってほしいという信念には真っ直ぐであった。だから、直輝から見ても、他の者から見ても、春は二重に「輝かない」。そんな春が第8話にいたって、「私は本気なんて出さないほうがいい!」と叫びながら初めて輝きを放ち、第9話でようやく過去の呪縛から解き放たれていくのは美しい構成だ。居並ぶ者たちを圧倒し、劣等感を植えつけ、絶望させるほどのアイドルの才能というものが漠然としていて説得力に欠ける点を措けば、ここまでの流れは主観的な達成としての自己肯定感を重んじたという意味で、文句なしに冴えている。
 ところが第10話以降、HY:RAINのリーダーである蓮が春を連れ戻しに現れたことで、本作の雲行きは急速に怪しくなっていく。蓮はTINGSのメンバーを春のバックダンサー・添え物と評し、杏夏に対しては「間違えない、でもそれだけ」と言い放つ(第10話)。蓮はアイドルの天才たる春の全力の輝きにかき消されないよう、ダンスや歌にいっそうの磨きをかけてきた(その意味で、蓮の努力の方向性は雪音や紅葉のそれと同様である)。しかし、これは自己肯定感の重要性を伝えようとするなら、作劇上悪手と言わなければならない。なぜなら、人間はストイックに努力すればするほど、ありのままの自分の姿を肯定することが難しくなり、かえって自己肯定感が損なわれるからである。
 蓮の登場によって、蓮とTINGSのあいだにはどちらのほうが春をステージ上で輝かせられるかという対立が生まれ、本作は一人の天才を凡人たちが取り合うような見た目となってしまった。第10話以降、主観的な達成としての自己肯定感を重んじる基調は雲散霧消し、才能と努力がせめぎ合うなかで客観的な達成を追求する旧来の図式が前景化してくる。さらに悪いことに、本作は最終回(第12話)にいたって、春と杏夏のツートップで中野サンプラザの客席を沸かせるという挙に出た。ありのままの姿を見せることを称揚しつつ、実は杏夏は春とツートップを張れる程度の潜在的な才能を持っていたのだというオチをつけるのは、視聴者に対して「実はあなたも気づいていないだけで、一晩で劇的に変わるような潜在的な才能があるかもしれないよ」――川野に言わせれば「僕もあなたも『持っている人間』なのだ」――という気休めを言っているようなものだ。この気休めを素直に肯定するのは、あまりに弊害が大きいと言わざるをえない。
 本作は結果的に、圧倒的な才能の持ち主の脇にいる優等生や凡人を励ますことに失敗しており、強い才能によって弱い才能は淘汰されるという弱肉強食の世界観のもとで、実はあなたも強者になれるかもしれないという幻想を視聴者に与えるにとどまっている。しかし、視聴者の末路は杏夏ではなく、蓮かもしれないのだ。蓮は中野サンプラザで、自分の努力で繋ぎ止められなかった親友が別の才能の持ち主と釣り合う様子を見せつけられ、事実上春から身を退くことになった。本作は、HY:RAINから排斥された春をTINGSが暖かく受け入れるという筋書きを採用していない。だからこそ、春がHY:RAINではなくTINGSを選ぶのは、純然たる才能の差に起因しているようにも見えて、ひどく残酷な選択に映る。どちらのほうが春をステージ上で輝かせられるかという対立は才能をめぐる平行線として維持され、決着がつかぬまま、いまも視聴者の前に投げ出されているのである。

補い合う欠片たち:良識的な才能観による自己肯定感の再評価

 『シャインポスト』は、一方で主観的な達成としての自己肯定感を称揚しつつも、他方で客観的な「分節」を成立させるための前提条件に完全無欠の才能なるものを混入させたために、全体としてちぐはぐな出来となった惜しい作品であった。対照的に、『Extreme Hearts』は、それぞれ別の世界で活躍するポテンシャルを持った少女たちが奇縁によって交わり、複合競技型のハイパースポーツ大会で勝ち上がる様子をドラマチックかつ丁寧に描くことによって、「分節」の前提条件として才能と努力を調和させ、結果として健全な自己肯定感の獲得過程を模範的に見せることに成功した。
 『Extreme Hearts』の分析にあたっては、劇中のハイパースポーツ大会「エクストリームハーツ」が音楽会社の主催する芸能人大会であり、そして複合競技型の大会であるという二点を押さえることが肝要である。第一に、「エクストリームハーツ」には「キャプテンだけじゃなくて、チームメイトも芸能人、少なくとも芸能で生きていくことを志してる人間でないとダメ、というのがルールというかマナー」(第2話)という制約が課されている。第二に、「エクストリームハーツ」は毎回違うスポーツ(野球、フットサル、バレーボール、バスケットボールなど)で対戦する大会である。かかる設定の妙のおかげで、本作ではアイドルアニメに求められる「分節」を明快に提示するハードルが低くなっている。なぜなら、「エクストリームハーツ」で勝ち進むためには一種目だけに特化した練習では不十分だが、あらゆるスポーツに秀でたアスリートなどいない以上、メンバー/チームメイトは互いの得手不得手を補い合ってチームワークを練り上げる必要が生じるからである(なお、競技にあたって足りない人数はプレイヤーロボットが埋め合わせることになる)。
 本作の主人公・葉山陽和はスポーツこそ素人だが、駿足という特性を活かして「エクストリームハーツ」に挑むシンガーソングライターだ。陽和は数少ない自分のファンでサッカー経験者の小鷹咲希(CV: 岡咲美保)、咲希の幼なじみで野球経験者の前原純華(CV: 優木かな)の力を借りて特訓に励み、めきめきと各競技の腕を上げていく。さらに、陽和たちはソフトボール経験者の強打者・橘雪乃(CV: 福原綾香)、動画投稿者の空手少女・小日向理瀬(CV: 小澤亜李)をメンバー/チームメイトに加え、五人体制で神奈川大会の並み居る強豪にぶつかっていく(具体的な試合運びについては、ぜひ読者の皆さんご自身の目で確かめていただきたい。特に第11話のバスケットボール対決は終始息を呑む出来になっている)。
 なお、繰り返しになるが「エクストリームハーツ」は音楽会社が主催する芸能人大会であるため、咲希・純華・雪乃・理瀬の四人は陽和の立ち上げた「葉山芸能事務所」に所属して、陽和から歌唱やステージパフォーマンスのレッスンを受けることになる。第2話において、陽和は歌に自信のない咲希と純華を、グループアイドルは基本的にパート分けをせず、同じ音程をみんなで声を合わせて歌う「ユニゾン」唱法を採用するから大丈夫だと励ます。この一例にとどまらず、本作ではスポーツ未経験の歌手と芸能活動未経験のスポーツ選手が互いに教え合う構図が頻繁に見いだされる。
 さらに、咲希・純華・雪乃・理瀬の四人が、それぞれの事情で一度はスポーツの世界から離れた少女たちであるということも、物語に彩りを添えている。咲希は独りよがりなプレイとチームメイトに対する高い理想のせいで、仲間はずれにされたことがあった。純華は自分の全力投球を受け止められるキャッチャーに恵まれなかった。雪乃は家族の事故死により実家の剣道場を継ぐ使命に駆られ、大好きなソフトボールを続けることを諦めていた。理瀬は空手の試合で対戦相手に大怪我を負わせたことがきっかけで、全力を出せなくなっていた。本作はそんな少女たちがハイパースポーツを通じて互いを癒やし合う物語でもある。陽和の歌に救われた咲希は、恩人の陽和を大きな舞台で歌わせてあげたいという一心で奮闘する。純華は幼なじみの咲希とその恩人のために奮起し、自分の豪速球を受け止めてくれた雪乃と通じ合ってバッテリーを組むにいたる。理瀬は満身創痍となって自分の全力を受け止めてくれた咲希のために再起する。チームキャプテンを務める純華は、陽和を「自分に足りないもの、チームに足りない力を必死に考えて、努力して身につけてくれる。だからあたしたちも、ひよりんに負けないように強くなる。頼れるチームメイトで、競い合えるライバルで、一度は競技から離れたあたしたちに新しい夢をくれた子」と評する(第3話)。才能だけでは届かない地点への活路を努力によって切り拓くこと、すなわち才能と努力の調和を端的に伝えている点で、このセリフは美しいと言わざるをえない。
 以上述べたように、本作の美点は「分節」の前提条件に才能を置きつつも、各人のピーキーな秀でた点をどのように競技で活かしていくか、実力や経験の差をどのように埋めていくかという現実的な目線を備えていることだ。本作は、人間には向き不向きがあって、ある分野で一流の人間も他の分野では素人であるとか、専門性が強まれば強まるほど大衆からは理解されない偏った人間になりがちであるといった至極普通の事実を把捉している。本作が平板な弱肉強食の世界観に抗っているのは実に頼もしいことだ。加えて、「エクストリームハーツ」は芸能人が出場するハイパースポーツの祭典であるため、試合において勝者と敗者が生まれるとしても、出場する芸能人たちは試合が終われば敵・味方の区別なく互いを認め合うことができる(各グループのホームグラウンドは別にあるから、敗者とてすべてを失うことはない)。これこそ、健全な自己肯定感の定式化と言うべきであろう。なぜなら、ありのままの姿を受け入れるということは、自分の強みも弱みも含めて受け入れるということだからである。
 最終回(第12話)、神奈川大会優勝の栄冠に輝いた陽和たちはファイナルイベントのステージに立つ。これまで喜怒哀楽の感情を思い切り表に出すことを控えてきた陽和もとうとう感極まり、声を震わせて歌えなくなってしまう。すると、陽和の前に咲希・純華・雪乃・理瀬の四人が移動し、ダンスで陽和を勇気づけるではないか! 陽和は平静を取り戻し、再び歌い始める――「ハートを合わせよう/いつだって孤独ひとりじゃない/どんなときもずっと」。こうして、五人はライブステージの上でも釣り合いの取れた、「分節」が成立したユニットへと羽化を遂げたのである。本作は「分節」(及び横断的連帯)を描いたアイドルアニメのお手本と言うべき秀作であるが、それにとどまらず、ハイパースポーツというこれまで見たことのない画面(ただし、取り組むスポーツ自体は実在)を駆使して健全な自己肯定感を定式化したという意味で、「アイドル戦国時代」以後のアイドルアニメ史に重要な足跡を残すことに成功した傑作であるとも言える。

おわりに

 天賦の才能というものを、筆者も否定はしない。しかし、それは使い方と共に歩む仲間次第で毒にも薬にもなる。まず、自分に凹凸があること、強みと弱みがあることを認めなければ、弱点を補強することも相手に頼ることもできずに孤立してしまう。「分節」は差異・対立のなかからしか生まれない。孤島や山奥に一人佇んでいても、それは「分節」とは言わない。視聴者を「自分を幸せにできる人」(島田真夢、第三の定式)にしたいのであれば、『シャインポスト』は完全無欠の才能なるものを安易に持ち出すのではなく、個々の才能の限界に具体的に肉薄した描写を貫徹すべきだったのではないだろうか。これに対して、『Extreme Hearts』が提示する良識的で奇をてらわない才能観は、アイドルアニメという危ういジャンルを逆用することの意義を再認識させてくれる。美少女アニメの一種であるアイドルアニメは、美少女を免罪符にして扇情的なメッセージを流布したり、感傷的な質感を装って美少女を消費することを正当化したりする方向に堕落しがちであるが、良識的な筋書きを伴えば下手なお説教よりも有効なメッセンジャーとなりうる。筆者は今後も、アイドルアニメを「美少女でなければ成り立たない話」にさせない努力が認められる作品を評価していきたい。2022年7月期においては、アイドルアニメの真の「輝く道標シャインポスト」は『シャインポスト』ではなく、『Extreme Hearts』だったと言えよう。

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