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TVアニメ『虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会』が描いた侑と9人の絆:ある僭主の「百日天下」とその手口

はじめに

Verfluchter Fürst! ich irr' / kan der ein Fürste seyn /
An dem nichts Fürstlichs ist / auch nicht der minste schein?
我過てり、呪わしや!
はたして君主たりうるか、
およそ君主に相応しき資質を持たず、
君主たる上辺も持たぬ其奴めが?
――アンドレーアス・グリューフィウス『レオ・アルメニウス』、第三幕第五場
(Andreas Gryphius, Leo Armenius. Trauerspiel, hrsg. v. Peter Rusterholz, Reclam, Stuttgart 1996, S. 70)

 TVアニメ『ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会』(以下、『ニジガク』と略称)は「アイドルアニメ」ではない。
 2020年10月期のTVアニメにおける二大「勝ち組」コンテンツは、間違いなく『ニジガク』と『D4DJ First Mix』だ。株式会社ブシロードの創業者である木谷高明は、日経クロストレンドのインタビュー記事(2020年10月23日公開)の中で、「SNS時代、消費者は勝ち組にしかくみしない」というマーケティング戦略を打ち出している。木谷は次のように言う。

……SNSが広がった現代では、1人で趣味を楽しむことがなかなかできないという面があるのだと思います。
 昔は音楽にしろ本にしろ、仲間と楽しむのとは別に、こっそり1人で趣味を楽しむことも多かった。「みんながそっちを好きでも俺はこっちが好きだぜ」とあえて推すような熱量を持つ人も珍しくなかったと思います。でも今はSNSで仲間同士がつながるから、少数派になりたくないんですよ。そこそこの多数派でいたい。個人的には仕方がない傾向だと思います。

 こうしたファンがファンを呼ぶヒットの構図に当てはまるオリジナルコンテンツは、『ニジガク』と『D4DJ』だと言って差し支えないだろう。しかしそれにしても、この二つのTVアニメは対照的な途を辿ったものである。「アイドル」という語を冠する『ニジガク』よりも、『D4DJ』のほうがはるかに「アイドルアニメ」の文法に従って、分節を前提とした横断的連帯を活写することになるとは誰が予想しただろうか。なんなら、同時期に再放送していた『ウマ娘 プリティーダービー』第1期(2018年4月期)を「アイドルアニメ」の範例として挙げてもいいくらいだ。いったい『ニジガク』は何を描いていたのだろうか。我々は何を見させられていたのだろうか。
 本稿は『ニジガク』の主人公・高咲侑がいわば僭主(Tyrann)であって、『ニジガク』が僭主の誕生からその放逐までを描いた物語であることを明らかにするものである。また、僭主の誕生が軍師や参謀に憧れる消費者の欲望によって後押しされている可能性も指摘する。『ニジガク』に出演する個々の声優のパフォーマンスについては言及しないので、あらかじめご了承いただきたい。

セグメンテーションの形成と拡大

 まず、本稿に言う「アイドルアニメ」なるカテゴリーがいかなるものを指しているのか、改めて確認しておきたい。『アイカツ!』第1・第2シーズンの総論(下掲記事)で述べたことの繰り返しになるが、「アイドルアニメ」とは、分節を前提とした横断的連帯を活写することで、デモクラシー不在の本邦において、擬似的ではあれ、デモクラティックな空間というものを垣間見させるようなカテゴリーである。

 分節とは、あるアイドルが他のアイドルからはっきりと切り離されて理解される(分かりやすく言えば、個性が確立される)ことを指す。この分節(個性の確立)を前提として、アイドルは横並びに結合していき、各々のアイドルが各々のステージで輝きながら、各々のキャリアを形成していく。この状態を横断的連帯の成立と呼ぶ。そして、横断的連帯の成立を受けて、内部的には自他の区別が融解するユニット(アイドル複合体)の結成に耐えうるような高次の連帯を取り結ぶことができるのかという課題がいよいよ生じる。以上が、筆者の「アイドルアニメ」に関する見立てを簡潔に整理したものである(詳細は前掲記事を参照)。
 これに対して、『ニジガク』では分節が十分に成立せず、侑を頂点としたセグメンテーション(枝分節)が最終回直前まで維持される。セグメンテーションについては、ギリシャ・ローマ研究者の木庭顕による解説が簡にして要を得ているので、以下に引用する。また、マニトバ大学文学部人類学科(Department of Anthropology)のウェブサイトにはセグメンテーションのGIF画像が掲載されているため、適宜参照されたい。

 部族社会原理のほうをまず簡単に図式化しておくと、諸集団がテリトリーをわかって暫定的かつ不安定ながら並び立っています。人の区分はジェネアロジー、つまり系統樹によって与えられますが、この区分は性質上無限に重畳するということはおわかりですね。さらなる下部をどんどん細分することが可能です。ジェネアロジーを神話化して固定化し、この一帯は誰それを祖先とする人びとのもの、向こうはその弟を祖先とする人びとのもの、などと区分するのですが、婚姻などの物語を通じて下位集団が神話的にも実際的にももぐり込む。
 結果、どのテリトリー上の単位をとっても、ジェネアロジーの観点から複合的である。つまり必ずA族とB族が混在している。またどのジェネアロジクな集団をとっても複合的である。つまりいくつかのテリトリーに散っていたり、またがっていたりする。これを社会人類学の用語でセグメンテーション(segmentation)といいます。
(木庭顕『笑うケースメソッドⅡ:現代日本公法の基礎を問う』勁草書房、2017年、44-45頁)

 それでは、侑を頂点としたセグメンテーションが形成される過程を具体的に見ていこう。第1話で、私立虹ヶ咲学園に通う侑(CV: 矢野妃菜喜)とその幼馴染・上原歩夢(CV: 大西亜玖璃)の二人は、学園のスクールアイドル・優木せつ菜(CV: 楠木ともり)の屋外ライブを偶然目にする。「なりたい自分を我慢しないでいいよ」「夢はいつか ほら輝き出すんだ!」と叫ぶせつ菜の輝きに二人は眩惑され、スクールアイドルに強く惹きつけられる。皮肉にも、このライブが侑の獣性を目覚めさせることになる。歩夢がスクールアイドルを志したのに対して、侑は決してスクールアイドルにならないまま、学園のスクールアイドル同好会に接触を図り、スクールアイドルの間に割り込んでいく道を選んだ。「自分の夢はまだないけどさ……。夢を追いかけてる人を応援できたら、私も何かが始まる。そんな気がしたんだけどな」という侑の言葉は、僭主として頭角を現す前の、最後の無邪気な言葉であった。
 侑の覚醒によって、『ニジガク』は恋愛シミュレーションの舞台へと変貌を遂げる。侑の武器は「トキメいちゃった」という呪文だ。侑はこの呪文でスクールアイドル=攻略対象の警戒心を解きほぐし、攻略対象の悩みや抱える問題を不可解な言葉の力で次々に解決へと導く。攻略対象は侑の啓示に感銘を受け、一目置くようになる。こうして侑は攻略対象を一人また一人と落とし、周囲に侍らせては、自身の決定になびかせていく。オープニングムービーで椅子に一人腰掛ける侑は、玉座に坐する君主のようにも見える。スクールアイドルという肩書だけの少女たちは、僭主の廷臣として侑に奉仕することになるのだ。
 第2話で侑の最初の餌食となる中須かすみ(CV: 相良茉優)は、理想のパフォーマンスを巡ってせつ菜と喧嘩したにもかかわらず、せつ菜と同じく自分の理想を他人に押し付けてしまったことを悔やんでいた。侑は「困ってるの? へへ、なんか様子おかしかったから」「悩んでるかすみんも可愛いよ」とかすみをたらし込んで、次のように語りかける。すると、かすみは悩みを吹っ切って心のうちを歌い上げる。

たぶんやりたいことが違っても大丈夫だよ。うまく言えないけどさ、自分なりの一番を、それぞれ叶えるやり方って、きっとあると思うんだよね。探してみようよ。それに、そのほうが楽しくない?

 第3話では、優木せつ菜の正体が生徒会長の中川菜々であることが明かされる。侑はせつ菜の正体を知る前から、彼女を熱意溢れる言動で圧倒する。「せつ菜ちゃんの言葉が胸にズシンって来たんだ……。歌であんなに心が動いたの、初めてだった……。私、夢中になれるものとか全然なかったんだけど、あの日からスクールアイドルにハマって、今すっごく楽しいんだ」。菜々は感銘を受けるが、「なんでやめちゃったのかな、せつ菜ちゃん……。(中略)でも、時々思っちゃうんだよね、あのライブが最後じゃなくて、始まりだったら最高だろうなって」と続ける侑に対して、次のように一方的に言い捨てて立ち去る。

勝利に必要なのは、メンバーが一つの色にまとまること――ですが、まとめようとすればするほど、衝突は増えていって、その原因が全部自分にあることに気付きました。せつ菜さんの大好きは、自分本位のワガママに過ぎませんでした。そんな彼女が、スクールアイドルになろうと思ったこと自体が、間違いだったのです。幻滅しましたか?

 注目すべきは、この時点ではまだ部外者の朝香果林(CV: 久保田未夢)と侑の応酬だ。いずれもスクールアイドルの当事者ではない者の発言であり、本来であれば対等に吟味されてもよいところだが、なぜか同好会の各員の気持ちは侑を支持する方向に傾いていく。

果林 本人がやめると言ってるんだし、無理に引き止める必要、ないんじゃない?
  本当にやめたいのかな……。
果林 なんでそう思うの?
  皆さんはどう思いますか? せつ菜ちゃん、やめてもいいんですか?
一同 それは嫌だよ!

果林  でも、結局はあの子の気持ち次第よね。
かすみ また水をさすようなことを……。
エマ  確かに、果林ちゃんの言うとおりだよ。
   はい! 私が話してみてもいいですか?

 不相応にもせつ菜の説得に乗り出す侑は、前述の「幻滅しましたか?」という問いに対して、「私は幻滅なんてしてないよ」と答える。「もし皆さんがまだ、スクールアイドルを続けるなら、ラブライブを目指すつもりなら、皆さんだけで続けてください」「私がいたらラブライブに出られないんですよ!」などと自責の念に駆られるせつ菜に対して、「だったらラブライブなんて出なくていい!」とまで言い放つ。侑のクドキは次のように続く。

私はせつ菜ちゃんが幸せになれないのが嫌なだけ。ラブライブみたいな最高のステージじゃなくてもいいんだよ。せつ菜ちゃんの歌が聴ければ、十分なんだ。スクールアイドルがいて、ファンがいる。それでいいんじゃない?(中略)こんなに好きにさせたのは、せつ菜ちゃんだよ。

 せつ菜は侑のクドキに参ってしまい、「あなたみたいな人、初めてです」「分かっているんですか? あなたは今、自分が思っている以上にすごいことを言ったんですからね! どうなっても知りませんよ」と喜色満面に言う。こうして、第1話で侑を触発したかつてのせつ菜は消え失せて、せつ菜=菜々は侑の掌中に落ちる。第10話になると、せつ菜は次のように述べて、侑の夢を応援する宣言までするに至る。事ここに至れば、もはや隷属状態から抜け出すのは難しい。

私が今スクールアイドルをできているのは、あの時の侑さんのおかげです。侑さんの言葉がなかったら、きっと大好きを叫べないまま、自分を押し殺して生きていました。だから、私の大好きを受け止めてくれて、ありがとう。

侑さんからはそんなふうに見えてるんですね。私たちに見えるのは、ステージからの景色だけですから……。あの、いつか侑さんの大好きが見つかったら、今度は私に応援させてください。

 なお、第3話における「かすみんと全然違うせつ菜先輩がいてくれないとダメなんだと思うんです」というかすみの言葉は高次の連帯の萌芽と見ることができるが、これも侑の闖入によって芽吹くことなく摘み取られたのだった。
 第7話では、苦学生の近江彼方(CV: 鬼頭明里)と、その妹で東雲学院スクールアイドル部のセンターを務める遥(CV: 本渡楓)のすれ違いが描かれるが、侑はこの姉妹の問題すら仲裁に入って解決の糸口を示す。彼方は妹のために家事とアルバイトを一身にこなし、奨学金を打ち切られないために学業にも精を出している。そんな姉の健康を案ずる遥は、自分がスクールアイドルの夢を諦める決心をする。互いに自己犠牲を厭わない姉妹は衝突し、遥は「お姉ちゃんの分からず屋!」と叫んでその場を飛び出してしまうが、なぜかそこで瞬発的に「私、見てくる!」と言って遥を追いかけるのは侑なのである。侑は落ち込む彼方のカウンセリングも行い、彼方が身を引く選択肢を「それはダメ!」と強く否定する。侑は続けてこう述べる。

彼方さん、遥ちゃんはもう、守ってもらうだけの人じゃないと思う。だってそうじゃなきゃ、お姉さんのことを助けたいって、あんなに真剣にならないよ。

 この言葉は彼方に妹との過去のやり取りをフラッシュバックさせる契機となり、彼方は「なんとなく、分かったような気がする」と述べて、妹のためにステージに上がる。これは聞く耳を持たない妹に対して、姉が自身の覚悟を見せるという構図ではない。あくまで近江姉妹の和解は侑にお膳立てされたものであって、整序するのが姉妹の問題であるだけに、侑の言葉の力の不可解さはますます際立って見える。
 上記を踏まえ、『ニジガク』における侑を頂点とするセグメンテーションを図示すると、以下の通りである(まだ触れていない登場人物については後述する)。

ニジガク系統樹-3

 ωとは原典(Urtext)を示す記号だが、ここでは人が物事を始めるきっかけとなる「輝き」のようなものを指している。『ニジガク』が「アイドルアニメ」の文法から外れているのは、ωの伝染が一部セグメンテーションを形成しているからである。誤解のないように言っておくと、ωに触発されること自体は悪いことではない。スクールアイドルであれば、必ずスクールアイドルを志した動機があるはずだ。そして、その動機は各々異なって構わない。各々のスクールアイドルが各々のωによって、「輝き」の世界へと引きずり込まれることには、特段の違和感はない。『ニジガク』の問題は端的に言って、ω=身バレ前のせつ菜が発した「輝き」が、スクールアイドルでない侑というプリズムを経由して各人に放射されていく点にある。侑はスクールアイドルではないから、スクールアイドルと同僚の関係に立つことはできない。「10人目」など幻想なのである。同僚制の破綻、すなわち分節と横断的連帯の不成立を前にして、『ニジガク』が選んだのは、スクールアイドルを統御する特権的な地位を侑に付与することであった。侑はスクールアイドルの間に入り込み、ωによって覚醒した獣性を剥き出しにして、スクールアイドルを一人ずつ自分の支配圏へと引きずり込む。侑はスクールアイドルの僭主に変貌を遂げ、まさに鶴の一声によって「スクールアイドルフェスティバル」(後述)を提唱するに至る。こうした侑の支配圏は極めて不透明で重層的なセグメンテーションの外観を呈することになる。
 しかし、侑の支配圏が及ばない登場人物が二人いる。それは宮下愛(CV: 村上奈津実)エマ・ヴェルデ(CV: 指出毬亜)である。この二人について、節を改めて見ていこう。

主人公格の三人:侑の支配圏とその限界

 『ニジガク』には、主人公格の登場人物が三人いる。侑、愛、そしてエマの三人だ。主人公格の証は、問題を自己解決できること、そしてかけがえのない友人をスクールアイドルの世界に引っ張り込むことができることである。第4話では愛が璃奈を引っ張り込み、第5話ではエマが果林を引っ張り込む。第4話で、お台場レインボー公園近くの橋でばったり出会うのが愛とエマの二人であることは示唆的だ。愛とエマはそれぞれ別のωに触発されたスクールアイドルとして釣り合っている。彼女たちは共同体の外側からやってきて「押しつけ憲法」を制定する英雄になる素質、すなわち「アイドルアニメ」の主人公となるポテンシャルを有している。彼女たちは『ニジガク』ではなく、他のアニメの登場人物として生を受けるべきだった。何となれば、侑の支配の傘が広がる空間においては、誰一人として同僚の中の主席となって牽引力を行使することはできないからだ。標語的に言えば、主人公になれない愛、主人公にならないエマと表現することになる。
 「部室棟のヒーロー」と呼ばれる愛は、スポーツ万能・成績優秀・明朗快活と非の打ち所のない完璧超人である。愛はせつ菜のライブに心を動かされ、スクールアイドルに関する下調べもしないまま、天王寺璃奈(CV: 田中ちえ美)を引っ張り込んで同好会の門を叩ける瞬発力を備えている。愛は合流当初から規格外の主人公性能で燦々と輝いており、鋭い感性を武器に堂々と発言して各員を驚かせる。第4話において、全員でユニットを組むのではなく、「仲間でライバル」としてソロアイドル活動を行うという選択肢を最初に皆に意識させたのも愛だった。愛は特に狙い澄ました様子もなく、「かすみんがアイドルはどれも正解って言ってたけど、実際その通りっていうか……。みんなやっぱりタイプ違うけど、すっごく優しくて面白くて、そこがサイコーって感じだし、このメンバーでどんなライブすることになるんだろうって、考えただけでめっちゃワクワクするよ」と所感を述べ、これに対して彼方が「愛ちゃんは鋭いねえ」と応答することで、愛の透徹した視座が強調される。しかし、遺憾ながら、愛が同好会の中で主導権を発揮することはない。言わずもがな、侑がフロントランニングを行うからである。第4話で侑は殆ど喋る機会を与えられていないのだが、ラストシーンで唐突に愛と同じような言葉をねじ込んでくる。これは侑のために特別な尺が用意されていたようで薄気味悪い。

  すごいね……。あれが愛ちゃんのステージなんだ……。私、みんなのステージも見てみたい。一人だけど、一人ひとりだからこそ、いろんなことできるかも。そんなみんながライブをやったら、なんか、すっごいことになりそうな気がしてきちゃった。
彼方 なんか……侑ちゃんもすごいね。

 こうして愛はお株を奪われ、ソロアイドル活動の方向に舵を切ったのは侑であるかのように上書きがなされたのだった。愛の不憫はそれだけにとどまらない。愛が引っ張り込んだ元々の友人である璃奈も、侑の支配圏に入っていく。璃奈は同好会のIT担当と目されているが、第5話におけるせつ菜の屋上ライブ動画を鑑賞するシーンに注目すると、その得意分野ですら侑の影響を強く受けていることが認められる。

  これ、編集りなりーでしょ?
璃奈 うん、侑さんに、アイディアたくさんもらった。
  えへへ、たいしたこと言ってないけどね。

 第6話では、表情を出すのが苦手で、うまく自分の気持ちを相手に伝えられないことに悩む璃奈の姿が描かれるが、ここで侑が口火を切る場面が何度も現れるのは注目に値する。東京ジョイポリスでのライブについて、愛よりも先に「私も手伝うよ」と言うのは侑だ。作戦会議の司会を務めるのも侑だ。「ライブ成功させようね」と璃奈に抱きつき、ライブ直前に心の扉を閉ざした璃奈のもとへ最初に駆け出すのは、流石に同好会に入る前からの付き合いの愛なのだが、それでも最終的に璃奈の心を動かすのは侑なのだ。

 ありがとう、璃奈ちゃんの気持ち、教えてくれて。
 うん、愛さんもそう思うよ。
 私、璃奈ちゃんのライブ見たいな。今はまだ、できないことがあってもいいんじゃない?

 侑の言葉に続けて各員がフォローを入れると、愛は「みんな、どんどん言っちゃってズルいよ」と言うのだが、ここで「ゆうゆズルいよ」と言うことは封じられているように思われる。そしてライブ当日、ステージへ向かう璃奈にフェイスボードを装着するのも侑だ。侑は「璃奈ちゃんボード」がレギュラー入りするきっかけを作ったのである。
 もう一人の主人公格であるエマは、スイスからの留学生だ。エマはスクールアイドルに憧れて来日し、読者モデルとして活躍する果林と友人になる。果林は読者モデルとして忙しい日々を送る中で、最も親しい友人が志すスクールアイドルなるものに少しずつ惹かれるようになっていた。第5話で、果林は「いいんだよ、果林ちゃん。どんな果林ちゃんでも、笑顔でいられればそれが一番だよ。だから、きっと大丈夫」というエマの言葉に背中を押され、同好会の仲間入りを果たす。このエマの論法は第3話でせつ菜を説得した侑の論法とパラレルになっており、エマが引っ張り込む力を持った主人公格であることを如実に表している。しかし、果林の加入を受けて侑が言い放つ「あ~、また応援する楽しみが増えちゃう」という言葉は、果林もまた侑の掌中に落ちることを予告するような不吉な響きをもって聞こえる。
 案の定、果林についても璃奈の場合と同様のことが起こる。第9話で唐突に方向オンチ設定が付加された果林に対して、侑は「意外だけど、かわいいです!」「果林さんも(生真面目)だよね。なんだかんだ言って世話好きだし」と発言して、果林を照れさせる。これは第6話で、璃奈が練習を無断で休んだことに拗ねる果林に対して、かすみが「果林先輩も可愛いところあるんですねえ」と言ったときの反応とは対照的である。果林にとって、エマと侑は特別であることが窺われる。第9話では、果林が同好会の代表として、学外の音楽フェス(DIVER FES)のステージに立つことになる。なぜ果林が推薦されたのかはよく分からないが、注目すべきは侑が更衣室のカーテンの内側にエマと一緒に入っていることだ。同好会の各員は果林の着替えをカーテンの外側で待っているが、侑は果林の着替えに立ち会って、カーテンの内側から出てくるのである。ここでも侑の特権的な地位がほのめかされているが、第5話で侑はエマの着替えに立ち会うことができていない。侑の玉座の権力は寄留外国人には及ばないようで、エマは治外法権に守られているかのごとく侑の支配圏から解き放たれている。それでもエマはまさしく日本的な処世術に従って、分を弁えた姿勢を貫き、主人公の座に躍り出ようとはしない。『ニジガク』のリヴァイアサンのもとで生き残るにはこの道しかないのであった。
 侑の僭主としての特質は第9話の終盤で極大化して描かれる。果林は『D4DJ』第3話の大鳴門むによろしく、ライブ直前の土壇場に怖気づいて逃げ出してしまう。同好会の各員は縮み上がる果林に寄り添い、ハイタッチで果林をステージへ送り出す。これは横断的連帯の可能性を感じさせるが、同僚でない異物が一人だけ混ざっているのは歪であり、やはり「アイドルアニメ」の構文は破格に陥ってしまう。驚くべきことに、侑は果林と同好会の関係者としてハイタッチをした直後に、「ちゃんと果林さんを応援したいんだ」と言いながら客席へ駆け出していく。このように突然観客目線へと引いていく(いわゆる彼氏面後方支援を決め込む)侑は、物語の外部と内部を自由自在に往来できる「キャラクターの間に挟まる」存在である。Queen – The Show Must Go On(1991)が歌い上げるように、スクールアイドルはいかなる苦境にあってもステージから降りるわけにはいかない。それに対して、侑はいともたやすく物語の外部に飛び出して、スクールアイドルを客観視するアウトサイダーに姿を変えられるのだ。

The show must go on
The show must go on, yeah
Inside my heart is breaking
My makeup may be flaking
But my smile, still, stays on

 プレッシャーに押し潰されそうになる果林の等身大の姿を描いた直後で、すぐに侑の特権的な地位を見せるのは台無しにも見える。しかし、スクールアイドルの身辺と客席を自由自在に往来できる権能こそが、却って侑の支配権を揺るがすアキレス腱となるため、この非対称は注目に値する。これはシリーズ構成の悪意と言って差し支えないだろう。そう、『ニジガク』のシリーズ構成の妙味は、何重にも張り巡らされた悪意に見出すことができる。次節では、歩夢と侑の関係に着目して、最終回における僭主の暫定的な放逐に至る過程を追いかける。そして、僭主の誕生を後押しする消費者の欲望について論じた上で、最終回の展開がそのような消費者に対する意趣返しとなっている可能性も指摘する。

シリーズ構成の悪意と消費者の欲望

 『ニジガク』は初見と二回目以降で全く異なる視聴感を与える。初見では恋愛シミュレーションとして、二回目以降は世話物狂言及びバロック悲劇として、視聴者の前に現れてくるのだ。第11話における歩夢のヒステリーが耳目を集めたのは、視聴者を欺こうとするシリーズ構成の悪意が成功を収めた証左である。侑を押し倒し、「私、侑ちゃんだけのスクールアイドルでいたい……。だから、私だけの侑ちゃんでいて?」と耳元で囁く歩夢の激情は、初見ではどこか唐突に感じられ、視聴者は二回目の『ニジガク』の旅へと誘われる。そこで視聴者は、歩夢のヒステリーに至る伏線があまりに滑らかな筆運びで配置されており、初見ではほぼ気づきようがないことを知る。この巧みな伏線の集積が感情の奔流となって、とうとう歩夢のストッパーを決壊させたとき、視聴者はようやくシリーズ構成に化かされたことを悟るのである。第1話の以下の会話が、第11話に向けた壮大なフリになっているなど、普通は思いも寄らない。

歩夢 今はまだ、勇気も自信も全然だから、これが精一杯。私の夢を一緒に見てくれる?
  もちろん! いつだって私は、歩夢の隣にいるよ。

 元々このコンテンツのファンで、「考察」するつもりで最初からテレビ画面を凝視していれば話は別かもしれないが、一般的に言えばこの第1話は盛り上がりに欠けるため、前掲の会話は幼馴染同士のたわいない会話としか視聴者には映らない。こうして、無自覚な発言をした侑と視聴者の視点は一体化し、視聴者は第11話に至るまで歩夢をマークしなくなる。その裏で、シリーズ構成は一発また一発と歩夢にボディブローを入れていく。第2話では、「侑先輩、見る目ありますねえ」とニヤつくかすみに対して、侑が「えっ、そうかな」「誰が見たって可愛いよ」と言うたびに、歩夢は「んっ!?」「ええっ!?」とリアクションを取る。第5話では、「みんな」というキーワードが初めて前面に打ち出される。「侑ちゃんってよく見てるよね、歩夢ちゃんのことも、みんなのことも」と喝破するエマに対して、侑が「えへへ、私、スクールアイドルにほんとハマっちゃって。だからみんなを応援したくて」と返すと、歩夢は「えっ?」と戸惑いを見せる。第7話では、彼方の妹である遥にも精通する侑を見て、歩夢は「侑ちゃん、他校のスクールアイドルもチェックしてるんだね……」と引き気味でコメントする。これら一連の歩夢のリアクションは、節操のない幼馴染に呆れる様子として受け取れるようにあっさりと描かれており、歩夢が「重い女」ないし「メンヘラ」であるかのように言うのは後知恵であると言わなければならない。
 歩夢と侑の距離が露骨に強調され始め、急転直下の結末を迎えるのは第10話以降のことだ。第10話において、侑はこれまでになく饒舌となり、「みんな」というキーワードを駆使して言霊を操る。夏合宿の初日に各員のやりたいこと、理想のライブ案が提示された後で、侑は「みんな、ほんとにバラバラだね。でも、すごいライブができそう。個性がぶつかり合って、お互いを刺激し合えるような」「私は……。みんなのステージが見られるだけで、トキメいちゃう!」と総括する。そして、セグメンテーションの構築をあらかた終えた侑は、決起演説のごとく長い口上を述べて、自分の希望に各員を釘付けにする。

スクールアイドルの夢……。そっか、あのとき歩夢が勇気を出してくれたおかげなんだ。歩夢の夢を一緒に追いかけて、今の私がいる。そして、みんなとも……。周りにどんどん輪が広がって、いつの間にかスクールアイドルが好きな人たちですごく大きな力が生まれてた。ありがとう、歩夢。私も勇気を出して、今の自分にできること、やってみる。

今度の私たちのライブ、虹ヶ咲だけじゃなくて、もっと大きなライブにしたい。あのね、この間のDIVER FES、ほんとすごくって。それってきっと、観客の応援とステージが一つになったから生まれたトキメキがあって、それが会場に溢れてたからじゃないかって。そんなトキメキを生み出せるような、あの時以上のライブがしたい。スクールアイドルもファンも、全部の垣根を越えちゃうような。ニジガクとか東雲とか藤黄とか、そんな学校とかも関係なく、スクールアイドル好きみんなが楽しめる、お祭りみたいなライブ。知らなかったスクールアイドルに出会ったり、ファンの熱い声援に勇気をもらえたり、そこにいるみんなの心が強く響き合って、新しい大好きが生まれる。そういう場所で、みんなに思いっきり歌ってほしい。

 挙句の果てに、「にしても、侑って本当、すごいこと考えるわね」と持ち上げる果林の言葉を受けて、侑は「それでもやってみたい。アイドルじゃない私だからできることもあるって、そう思うから。私もそこから何かを始めたい」と言って、お台場をスクールアイドルでジャックする「スクールアイドルフェスティバル」の開催を提唱する。こうして、集団にとって利益となる侑の正しい決定によって、侑との一対一の関係に固執する歩夢は「最後の一人」へと追い詰められていく。
 第11話になると、歩夢は侑が自分に内緒でピアノの練習に励んでいたことをせつ菜から聞かされる。その場では平静を保った歩夢だったが、その後侑の部屋に招かれ、部屋に置かれたキーボードを目にすると、とうとう隠していた感情が悲鳴を上げる。

歩夢 どうしてせつ菜ちゃんには教えたの? 私には言えなくて、せつ菜ちゃんには……。
  えっ? なんでせつ菜ちゃんが出てくるの?
歩夢 せつ菜ちゃんの方が大事なの!?
  違うよ。歩夢に伝えたかったのは、もっと先のこと。私ね、夢ができた――
歩夢 嫌! 聞きたくないよ……。私の夢を一緒に見てくれるって、ずっと隣にいてくれるって、言ったじゃない……。私、侑ちゃんだけのスクールアイドルでいたい……。だから、私だけの侑ちゃんでいて?

 一応の解決編に当たる第12話でも、侑は一貫して自分本位のままだ。自分の思いを一方的に伝えるだけで、反省の契機は全くない。侑は「待って歩夢! 昨日のこと、ちゃんと話そう」と歩夢に語りかける。その後のやり取りにおいても、侑は自分の話さえ聞いてもらえれば納得してもらえるはずだという確信に満ちていて、見るに堪えない。

よくないよ! こんなモヤモヤした感じ、絶対よくないって。私、昨日、歩夢に伝えたいことあったんだよ。私ね、やりたいことが、夢ができたんだ。せつ菜ちゃんが知ったのは偶然で、歩夢には最初に言うつもりだったんだ。内緒にしてたのは悪かったけど、ちゃんと考えて決めたから。だから、歩夢には聞いてもらいたいんだ。いいかな?

 当然と言えば当然だが、歩夢はこうした自己都合の押しつけでは納得せず、次のように喚き立てる。

やだ……。それって私と一緒じゃなくなるってことでしょ? 分かるよ……。だって侑ちゃんがこんなこと言うの初めてだもん! やだよそんなの、私のスクールアイドルの夢はまだこれからなのに! 侑ちゃんが一緒じゃなきゃ、私は一歩も前に進めないよ……。

 この袋小路を打開する契機となるのがファン(モブキャラ)の影だということは、最終回を考える上で見逃せない。歩夢はせつ菜との会話をきっかけに、スクールアイドルフェスティバルの準備を手伝ってくれているファンというものを明確に意識するようになる。

せつ菜 (ファンの)その気持ちに応えるためにも、私たちはどんどん進んでいかなくてはいけませんね。
歩夢  でも私……。私、もう動けないよ。私がスクールアイドルを始めたのは、みんなのためじゃないんだ……。見てほしかったのは、たった一人だけだったの。
せつ菜 侑さんですね。
歩夢  だけど今は変わってきてて、こんな私をいいって、応援してくれる人がたくさんいて、その気持ちが嬉しくて、大切で、今は私の大好きな相手が侑ちゃんだけじゃなくなってきて、本当は私も離れていってる気がするの。でも……。

 歩夢の吐露を受けて、せつ菜は「私も我慢しようとしていました、大好きな気持ち……。でも、結局やめられないんですよね。始まったのなら、貫くのみです!」と力強く言う。歩夢はハッとして、「止めちゃいけない、我慢しちゃいけない」と自分自身に語りかけ、スクールアイドルフェスティバルの会場予定地へと走り出す。第11話における侑への強い当たりを踏まえて考えると、歩夢が他のファンへの思いを「我慢」していたというのはいかにも唐突ではあるが、これもシリーズ構成の悪意の所産と言うべきだろう。歩夢と侑に焦点を絞った世話物狂言の見せかけは剥がれ落ち、『ニジガク』は君主殺し(Fürstenmord)を主題とするバロック悲劇に類似した急転直下の展開を見せることになる。
 第12話において、侑は最後まで揺るぎない。会場予定地では、「あのね、私……」と言いかける歩夢を遮って話し始め、「変わらぬ想い」というローダンセの花言葉で諍いをごまかしてしまう。侑は歩夢との話し合いを諦めて、怒った彼女を宥める彼氏のような行為を見せつける。その後も侑は懲りる様子もなく、「ワガママ言ってる歩夢も可愛いよ」「歩夢を最初から可愛いって思ってたのは私なんだからね」と呪いの言葉で歩夢を縛りつけようとする。しかし他方で、会場予定地で歩夢が侑に抱きつくとき、もはや二人の関係は完全に閉じたものにはなりえないことが示される。他のファン三人がたちまち「ああっ! ズルい!」と叫んで介入すると、歩夢は侑を含めた四人を抱きしめて、「みんな、大好き!」と言うのだ。これは侑の支配圏を揺るがすファランクスとなる。第12話の終盤で「今までありがとう」の応酬から、ライブシーンの儀礼を経て「これからもよろしくね」に至る歩夢と侑は、一見すると元の鞘に収まったように見える。しかし、この時点で既に二人の思惑は食い違っていた。歩夢にとって、侑は単なるファンの一人になりつつあった。侑の「百日天下」の終わりは近い。
 最終回では、「スクールアイドルフェスティバル」当日の様子が描かれるが、事ここに至って、侑の支配圏は徹底的に無効化されていく。フェスティバルの開始直前、各員が円陣を組んで手を重ねる際に、侑は一番上に手を置くことを許されてはいるが、「私たちの虹を咲かせに!」の掛け声を主導するのはかすみである。侑は裏方として各員のサポートに徹しようとするが、その役割すら貫徹することができない。機材トラブルは先に駆けつけた璃奈に解決され、突然の悪天候には呆然と立ち尽くすことしかできない。極めつけとして、雨天によるフェスティバルの終演時刻延長を学園に交渉したのは生徒会副会長なのである。第11話でスクールアイドルに興味を持った副会長にグイグイ迫っていた姿が嘘のように、侑は何もできない、何もしない無能君主へと変貌していく。いや、セグメンテーションが広がり、頂点に権限が集中すればするほどに、結局は脆弱な一人の人間に過ぎない僭主は緊急事態の前で決断不能に陥る。戦間期ドイツの思想家ヴァルター・ベンヤミンは、僭主(Tyrann)について次のように述べている(藤崎剛人による関連記事も併せて参照されたい)。

支配者の権力と支配能力との間の齟齬は、バロック悲劇に、独自の一見階級風俗画的特色をもたらすこととなったが、この特色は、君主権の理論を背景としたときにのみはっきりと照らし出される。それは、専制君主の優柔不断(die Entschlußunfähigkeit des Tyrannen)ということである。非常時態(原文ママ、Ausnahmezustand)に対する決定権は君主にあるのであるが、その君主は、すでに最初に直面した状況のときから、決断など下す能力などほとんどないことが判明する。
(ヴァルター・ベンヤミン(川村二郎/三城満禧訳)『ドイツ悲劇の根源』法政大学出版局、1975年、66頁)

 フェスティバル最後のステージを前にして、侑は歩夢から「このステージは、客席から見ててほしいの」と依頼される。ステージに登壇した(歩夢以外の)8人は順番に、これまで侑が多用してきた「みんな」という言葉を使って、客席及び中継ビジョン前のファンに感謝を述べていく。そして、歩夢は侑のいる客席に向けて、「これからも、つまずきそうになることはあると思うけど、あなたが私を支えてくれたように、あなたには私がいる」とメッセージを送るのだ。「あなたのための歌」である全員歌唱曲の「夢がここからはじまるよ」は、各員と侑との思い出が走馬灯のように映し出されるライブシーンのせいで、侑ただ一人のための歌にも聞こえる。しかし、第12話で成立したファランクスを前提とすれば、「みんな」という集合名詞と「あなた」という二人称の使用によって、侑は複数二人称(=you)で名指される群衆の中に埋もれていったと考えるべきではないだろうか。
 こうして、スクールアイドルの僭主は客席へと暫定的に放逐されて、ファンの一人に過ぎない状態となった。オープニングムービーで侑が腰掛ける椅子は玉座から客席へと転じて、侑は傍観者となったのである。この悲喜劇を回避するためには、侑は第9話で客席へ駆け出せる自分を誇示しないほうがよかったのかもしれない。ちなみに、代表的なバロック悲劇の一つであるアンドレーアス・グリューフィウス『レオ・アルメニウス』(1650年)では、暴君(Tyrann)と呼ばれるビザンツ皇帝レオ(5世)はクリスマスの未明に叛逆者たちの手で殺害される。『ニジガク』の最終回がクリスマス直後に放送されたのは、偶然とはいえ面白く、歩夢は「アイドルアニメ」ではない『ニジガク』の影の主人公だったと言うべきだろう。
 それでは、なぜ『ニジガク』は数多くの「アイドルアニメ」としての先行事例に逆らって、僭主の誕生からその放逐までを描くことを選んだのだろうか。この問いを考える上で、このアニメの原作が「ラブライブ!スクールアイドルフェスティバル ALL STARS」(通称スクスタ)というスマホアプリであるという事情は無視できないだろう。スクールアイドルの僭主として振る舞う侑は、「スクスタ」におけるプレイヤーキャラクター=「あなた」が独立した表象を獲得したものだ。「スクスタ」は「あなたと叶える物語」をキャッチフレーズとして、「あなた」とスクールアイドルの関係を描き出す。「あなた」は決してスクールアイドルの同僚としてステージに立つことはなく、スクールアイドルを一方的にまなざし、操縦する特権的な地位にある。この地位は提督、プロデューサー、マスターなどと呼ばれる地位に酷似しており、軍師や参謀に憧れる消費者の欲望を陰に陽に刺激してやまない。僭主の誕生と消費者の欲望の関係は鶏卵問題とも言えようが、少なくとも『ニジガク』の主人公が同じ学園に通う少女という表象を獲得したのは、男を登場させると烈火のごとく怒る消費者に「配慮」した結果と言うべきだろう。消費者の煮えたぎる欲望に訴求しつつも、それを暴露されることを極度に嫌がる消費者に「配慮」を欠かさぬために、「あなた」は用意されたのだ。
 しかし、実際に『ニジガク』の最終回が我々に示唆するのは、「あなた」がどこまでいってもスクールアイドルの傍観者に過ぎないのだということなのではないだろうか。『ニジガク』の最終回を観て、多くの視聴者はスクールアイドルから「各々の道で頑張って」と鼓舞されているように思い、涙するのかもしれないが、このように単純に理解すると、またもやシリーズ構成に化かされるおそれがある。畢竟、『ニジガク』におけるシリーズ構成の悪意は、分節を前提とした横断的連帯の価値を理解できない・評価できない消費者を見透かした上で、表面的には消費者の欲望を満たしつつ、裏側では消費者の欲望に批判的な問いを投げかけるものだったと言えるのかもしれない。無論、その悪意が優れた構成美として現れていると評価できるかは別の問題である。

補論:孤立事例としてのSolitude Rain

 補論として、本稿の最後に、侑を軸とした物語の例外にも触れておきたい。第8話では、同好会と演劇部を兼部する桜坂しずく(CV: 前田佳織里)にスポットライトが当てられる。しずくは自分を曝け出すことに怯え、変な子だと思われたくない、嫌われたくないという動機から、役者として仮面を被った少女である。演劇祭で担当する役柄について、自分を曝け出すことを要求されたしずくは困惑し、「できないよ……。曝け出すなんて」とひとりごちて自分の殻に閉じこもってしまう。白いしずくと黒いしずくの葛藤は、『ド級編隊エグゼロス』(2020年7月期)における常人をはるかに凌ぐ性欲量を隠そうとする星乃雲母を彷彿とさせて面白いが、何にせよたわいない話である。同学年の璃奈は「私には愛さんがいた」と述べて、一人で思い悩むしずくのもとにかすみをけしかけるが、これは「アイドルアニメ」へ回帰しようとする脚本の無意識の乱れと見てもよいのかもしれない。第6話における璃奈の立ち直りの経緯に鑑みて、侑というフィクサーは無視できないはずだが、ここでは都合よくオミットされている。しかも、璃奈に触発されてしずくの説得に乗り出したかすみは「私としず子の仲でしょ」と言うが、これは明らかに唐突な発言としか言いようがない。アニメの中で与えられた情報だけからは、二人がどういう関係なのか、視聴者は知ることができない。従って、その後の「私、やっぱり、自分を曝け出せない」「表現なんてできない……。嫌われるのが、怖いよ……」というしずくの言葉もやはり唐突の感を否めない。二人の関係を脳内補完すればよいという無理筋の擁護や、二人の関係は「スクスタ」のシナリオを読めば分かるというファンのコメントは、『ニジガク』のアニメとしての実力を如実に表している。すなわち、侑を関与させなければたちまち説明不足に陥ってしまうというバランスの悪さと、なぜかしずくの当番回だけ侑をオミットするという一貫性のなさを際立たせているのである。なお、しずくが演劇祭で歌う「Solitude Rain」は、第8話の孤立性を象徴するような曲名で大変よろしい。

おわりに(追記あり)

 『ニジガク』のキーワードである「トキメキ」とは、自分自身が「輝き」を放つわけではないという意味で、僭主の主観、換言すれば消費者の仄暗い欲望をよく示している。第1話冒頭の「生まれたトキメキ――あの日から世界は変わり始めたんだ」という侑の独白に立ち返れば、なんと世界は暗く、先行きの不安な、ひとりよがりのものに姿を変えてしまったことか。『ニジガク』が「アイドルアニメ」に転向できる最後の機会は、第11話における「かすみんBOX」を用いたパブリックコメント手続であった。侑はみんなの希望を全て満たす単一の決定を思いつかずに悩むが、「かすみんBOX」への投書を踏まえて各員と話し合い(正確には話し合ったと称し)、最終的に「一つに絞りません、全部でやります」という決定を下す。ここでは侑自身が納得できるかどうかのみが問題となっており、「一億火の玉」とでも言うべき状態が顕現している。外見的立憲主義のごとく、見せかけの水平的な討議空間は僭主によって主導されてしまったのである。
 かくなる上は、スクールアイドルを隷属状態から解放するために、君主殺しを成し遂げる以外に方法はない――のだが、『ニジガク』はそこまで踏み込めず、僭主を暫定的に放逐するにとどまった。最終回における侑のいない部室のシーンは、侑を完全にオミットすることで、『ニジガク』の第2期が「アイドルアニメ」と呼べるものになる可能性を残しているように思われる。しかし、君主殺しを成し遂げていない以上、侑が再び頂点に返り咲く可能性は否定できないのだ。侑は「音楽をやりたい」という夢を見つけ、音楽科への転科試験に挑む。これは、侑が作曲担当として同好会に復帰する道が封じられていないことを意味している。僭主が正統性を有してしまったら一体どうなることだろうか。
 だからこそ、同好会に代わって、我々が君主殺しを成し遂げなければならない。無論、打倒しなければならない相手は侑ではなく、侑の背後に控える無数のまなざす者たちである。横断的連帯の萌芽を摘もうとする彼らのとめどない欲望が、現代的には僭主と資本の野合を促進し、侑役を務める矢野妃菜喜に「ヒトリダケナンテエラベナイヨー」と叫ばせている。こうした状況を打開するための第一歩として、軍師や参謀に憧れる消費者の欲望を暴露するのは有効であろう。とはいえ、ただ一つの点に限っては、彼らの功績を顕彰しなければならないだろう。何となれば、彼らはこの上なく情熱的に、『ニジガク』に出演する個々の声優のパフォーマンスやパーソナリティについて、記録を残してくれているのだから。これは現在の筆者の手に余る仕事である。
 『ニジガク』は「アイドルアニメ」ではない。いや、正確に言えば「アイドルアニメ」の前日譚なのかもしれない。『ニジガク』の未来は我々の手にかかっている。

(2022年8月23日追記)
 本稿の続編にあたる『ニジガク』第2期評を公開しました。本稿を楽しんでいただけた方は、こちらも是非お読みください。

参考文献(2022年1月12日追記)

木庭顕『笑うケースメソッドⅡ:現代日本公法の基礎を問う』勁草書房、2017年。

ヴァルター・ベンヤミン(川村二郎/三城満禧訳)『ドイツ悲劇の根源』法政大学出版局、1975年。

Andreas Gryphius, Leo Armenius. Trauerspiel, hrsg. v. Peter Rusterholz, Reclam, Stuttgart 1996.

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