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TVアニメ『ラブライブ!スーパースター!!』が曝け出す対立のメルトダウン:「沼地」のスクールアイドル・序論

はじめに

「この国は沼地だ。やがてお前にもわかるだろうな。この国は考えていたより、もっと怖ろしい沼地だった。どんな苗もその沼地に植えられれば、根が腐りはじめる。葉が黄ばみ枯れていく。」

(遠藤周作『沈黙』新潮文庫、2003年、231頁、フェレイラの言葉)

 TVアニメ『ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会』第1期は「アイドルアニメ」ではなかった。それに比べて、TVアニメ『ラブライブ!スーパースター!!』(以下、『スーパースター』と略称)は「アイドルアニメ」ではあった。ただし、「アイドルアニメ」としては、どうしようもなくダラクしていた(*)。

(*)本稿では「アイドルアニメ」という言葉を、アイドルたちの分節(簡略化して言えば個性の確立)を前提とした横断的連帯を活写することで、デモクラシー不在の本邦において、擬似的ではあれ、デモクラティックな空間を垣間見させるポテンシャルを持ったカテゴリーとして定義している。さしあたり、詳細は下掲記事に譲る。

 東京オリンピック・パラリンピックの中継の影響で、NHK教育テレビ(Eテレ)での放送終了が2021年10月17日にずれこんだ『スーパースター』は、『ラブライブ!』シリーズの第4作にあたる。本作はシリーズ初の中国人キャストとして、人気コスプレイヤー・歌手のLiyuu(黎狱)を迎えたことで注目を集めた。中華人民共和国駐大阪総領事館も2021年10月15日のツイートで本作に言及しており、Liyuu演じる唐可可タンクゥクゥ(táng kě kě)を「中国人らしい性格」と評している。

 これらのツイートは、日本のアニメが中国でも受け入れられているなどという単純な発信ではなく、中国のソフトパワーが日本を席巻しているという同胞向けの広報として読むべきだろうが、いずれにせよ、本作が現代の中国人の雰囲気や典型的性格を割と丁寧に写し取っているのは一面の真理ではあるだろう。可可は「~アル」「~ヨ」「~ネ」といった語尾を連発する従来のインチキ中国人キャラではない。可可は独特な「の」を操るという、日本語を喋る中国人のリアルな質感を伝えている。たとえば、可可は第10話で「ムリです! 大切なラブライブの最初の課題ですよ! 二人よりポテンシャルが低いのこの人に任せるわけには……」と言うが、これは中国語では形容詞と名詞をつなぐ際に「的」が必要となることに起因する典型的な翻訳調の日本語である。なお、キャストのLiyuuもツイッターではしばしば似たような「の」の使い方をしている。

 ともあれ、本作の真の主人公は澁谷かのんではなく、唐可可であると言うべきだろう。本作におけるスクールアイドル活動の言い出しっぺは可可であって、可可がいなければ本作の五人組スクールアイドルユニット・Liella!リエラ は始まらなかった。風来坊や異邦人が主役となって物語を牽引するのはままあることだが、日中ハーフ設定とはいえ、中国人が起点となって新設校のスクールアイドルが立ち上がる構図は実に面白い。なぜなら、可可が開拓者となることによって生じた反照に着目することで、本作が「アイドルアニメ」としてダラクしていることが明らかになるからだ。
 本稿は『スーパースター』をオフィス(顕職;office)とメリット(資質;merit)の対立に注目して分析する。そこで見えてくるのは、オフィスとメリットの対立が対立として十分に意識されず、なあなあに調和させられる、いや完膚なきまでに融解させられる過程である。決定的な対決が回避される本作の筋書きは、遠藤周作の言う「沼地」としての日本をあらわにしているが、この特質は可可という明確に主張し抵抗する中国人の姿勢によってさらに際立つことになる。
 なお、本稿では、個々のキャストのパフォーマンスについては言及しないので、あらかじめご了承いただきたい。

オフィスとメリットの相克:澁谷かのんの「天籟」について

 本作の舞台である新設校・私立結ヶ丘女子高等学校(以下、「結ヶ丘」と略称)は、音楽科と普通科という二つの科類に分かれている。しかし、この二つの科類は完全に対等な関係には置かれていない。結ヶ丘は神宮音楽学校をその前身とする、音楽に力を入れる新設校であって、その花形は音楽科とされている。第1話において、結ヶ丘の第1期生を迎え入れた理事長(CV: 朴璐美)は、入学式の壇上から次のように語りかける。「この地に根付く音楽の歴史を、音楽科の生徒は引き継ぎ、大きく羽ばたいていってほしいと思います」。このように音楽科の生徒を名指した挨拶を取り入れることで、本作は音楽科への在籍が特権的な性格を帯びているということを視聴者に印象づけている。かかる特別待遇を分析するにあたっては、オフィス(顕職;office)とメリット(資質;merit)の対立に注目するのが有効である。まずは、オフィスとメリットという道具立てについて説明する。
 オフィスとは地位の高い公職・官職を指す言葉であり、メリットとは称賛・褒賞に値する美点を指す言葉である。オフィスとメリットは対立的でもあり、相互補完的でもある。一般に、人はオフィスを極めれば極めるほど、それに見合ったメリットを備えるのが困難になる。人の肉体は脆弱であり、精神は高邁には程遠い。出世の階梯をのぼり、「えらい」地位に就くことができたとしても、その地位にそぐわない矮小な自分というものをかえって強く意識させられてしまう。
 ここで、もう少しメリットという言葉の理解を深めるために、田中英夫編集代表『英米法辞典』(東京大学出版会、1991年)を引いてみる。『英米法辞典』をmeritという単語で引くと、meritsおよびmerit systemという二つの項目が見つかる。

merits (請求の)実体;(訴訟の)実体的事項;本案□原告の請求または被告の反駁の実質的内容。原告がその求める救済を受ける権利、または被告がその防御において勝つ権利を決定する諸要素。訴訟の実体的当否に関する事項。

merit system 《米》能力主義(人事制度)□能力に基づいて、公務員の任用、昇進を行う人事制度

 つまり、オフィスとメリットの対立とは、形式と実体の対立と言い換えることもできる。形式と実体の乖離が大きくなることは、形式自体を危機に陥れる。高位聖職者よりも路辺を放浪する無宿者のほうがまともな説教をするのであれば、高位聖職者を「えらい」とみなす根底がぐらついてしまう。現代的には、非弁活動・非医師の医療行為・「ネット論客」の有料記事などについても同様のことが言えるだろう。だから誰だって、すぐれた形式にはすぐれた実体が伴っていてほしいと願ってやまない。しかし、肥大した権限を有する貴顕の地位を凡人が担えないのは必定であり、オフィスはメリットによって絶えず苛まれることを免れない。教会組織の外側にいる哲学者や大学の外側にいる人文主義者といった人々が、体制側から権威を貶める危険分子と目され、しばしば弾圧の対象となってきたのは、こうしたメリットの破壊力によるところが大きい。そして、メリットの重視は時空をこえてオフィスの体制を突き崩す原動力となる。形式を重視する法学が厳格主義リゴリズムに陥り、衡平の観念を見失ったとき、形式を破るようにしてエクィティや自然法といった対抗的な言説があらわれてくる――そんなダイナミズムを生み出すのがメリットの観点なのだ。
 以上の議論を踏まえると、本作では音楽科という形式的な肩書きがオフィス、実体的な音楽の才能がメリットに対応すると言うことができる。本作は、歌が大好きな少女・澁谷かのん(CV: 伊達さゆり)が音楽科の入学試験に失敗するところから始まる。かのんはいざというとき、人前で歌えなくなるという症状を抱えた少女だ。第1話において、かのんは音楽科の入学試験に挑むも、課題曲の独唱を果たすことができずに落第、結局普通科に入学することになってしまう。不本意な普通科の制服に袖を通し、ヘッドホンで耳をふさいだかのんは、音楽にあふれる喧騒の目抜き通りを逃れるように裏路地へ向かう。そこでかのんは音楽科に合格できた中学時代の同級生に出くわし、「まさかかのんちゃんが音楽科落ちちゃうなんて」と言われてしまう。この言葉こそ、嫌味ではなくかのんの音楽の才能、すなわちメリットの徴憑である。
 かのんの才能は、後に続くミュージカル風の演出によって明快に示される。実際に街角で歌っているかどうかはともかく、かのんの伸びやかな歌声は一瞬にして、通りがかりの中国人留学生・唐可可タンクゥクゥ(CV: Liyuu)の心を奪う。可可は日本人の母親を持ち、日本のスクールアイドルに憧れて、上海から結ヶ丘の普通科にやってきた少女だ。可可はかのんを「素晴らしい声の人」と認識し、かのんの歌声を天籟てんらいになぞらえる(この点については後述)。そして、普通科の教室でかのんと再会した可可は、かのんに対して猛烈な勧誘を仕掛ける。

可可  かのんさんの歌は素晴らしいです! なので、可可と……スクールアイドルを始めてみませんか?
かのん スクールアイドルって、「学校でアイドル」ってやつでしょ?
可可  スクールアイドルがやりたくて、日本に来ました。かのんさんの歌は素晴らしいです! ぜひ、私と一緒にスクールアイドルを……!
かのん ごめんね、やっぱり私は遠慮しておく。
可可  なぜですか?
かのん こういうのやるタイプじゃないっていうか……。
可可  そんなことありません! スクールアイドルは誰だってなれます。(中略)歌が、お好きなんでしょう?
かのん 嫌いじゃ……ないけど。
可可  絶対好きです! 可可、わかります。だからかのんさんと一緒に始めたい。その素晴らしい歌声をぜひ、スクールアイドルに……。

 ここで注意すべきは、可可が「スクールアイドルは誰だってなれます」と言いつつも、あくまで「素晴らしい歌声」というメリットに着目してかのんを勧誘していることだ。可可はかのんの才能を見抜き、スクールアイドル活動に引っ張り込む主人公格の役柄を務めている。そんな二人の前に立ちはだかるのが、結ヶ丘設立者の娘で音楽科の顔となっていく葉月恋(CV: 青山なぎさ)だ。恋はスクールアイドル活動が結ヶ丘にふさわしくないと主張し、「この学校にとって音楽はとても大切なものです。生半可な気持ちで勝手に行動することは慎んでください」と二人に警告する。スクールアイドル活動が「音楽科の生徒の邪魔」になるという恋の発想は、普通科の生徒による創造的な音楽実践を否定するものだ。本作がこの段階で提示しているのは、音楽の神ミューズに愛されるために必要なのは音楽科オフィスに在籍することか、それとも才能メリットを持つことかという問題だと定式化できるだろう。そして逡巡の末、「やっぱり私、歌が好きだ!」という結論に到達し、スクールアイドルとして歌うことを決意するかのんは、音楽科オフィスに真っ向から立ち向かうことを選んだも同然である。
 かのんの選択はまた、自分の歌声メリットを大好きと言ってくれた可可のために歌うようなものでもある。かのんは十分に理解していないだろうが、可可は初対面のときからかのんの歌声メリットに心酔していたのだ。可可は興奮した様子でかのんに中国語で話しかけていたが、その際にかのんの歌声を天籟てんらい」(天の響き)になぞらえていた。

你唱歌真的好好听啊! 简直就是天籁
(あなたの歌声を聴くと、ホントに高まります! いわばまさに天籟であります!)

 「天籟」とは、『荘子』「内篇」に含まれる「斉物論篇 第二」にあらわれる表現である。「斉物論篇 第二」は楚の哲人・南郭子綦しきとその弟子・顔成ゆうの問答で始まる。子綦が「汝聞人籟、而未聞地籟、汝聞地籟、而未聞天籟夫」(汝は人籟じんらいを聞くも、未だらいを聞かず。汝は地籟を聞くも、未だ天籟を聞かざるかな;金谷治訳注『荘子 第一冊(内篇)』岩波文庫、1971年、40-41頁)と言うと、子游は次のように問う(子綦の応答も含めて以下に引用する)。

子游曰、地籟則衆竅是已、人籟則比竹是已、敢問天籟、子綦曰、夫吹萬不同、而使其自己也、咸其自取、怒者其誰邪、

子游曰わく、地籟は則ち衆竅しゅうきょうこれのみ。人籟は則ちちくこれのみ。敢えて天籟を問うと。子綦曰わく、れ吹くことよろずにして同じからざるも、しかも其の己よりせしむ。ことごとく其の自ら取るなり。はげます者は其れ誰ぞやと。

(同書44頁)

 この箇所について、中国思想史研究の第一人者である福永みつは次のように解説している。

「籟」は響きの意で、「人籟」は、人が楽器を奏でて立てる音、「地籟」は……大地の発する響き、すなわち風の声である。

(福永光司『荘子 内篇(新訂 中国古典選 第7巻)』朝日新聞社、1966年、34頁)

子綦によれば、天籟とは人籟・地籟のほかさらに天籟と呼ばれる別のひびきがあるのではなくて、地籟を地籟として聞き、人籟を人籟として聞くことが、そのまま天籟だというのである。世俗の立場では、すべての響きは響きを発せしめる「何か」もしくは「誰か」がその背後にあって、すべての響きが響きとなると考えられる。あらゆる現象の奥には、現象を現象として成り立たしめる一者(神)が存在するというのが世俗の立場である。……彼は万籟の響きは、みな自己自身の原理によって響きとなるのであって、それを背後において響きとならしめる何物も存在しないという。「天籟」とは、この自己自身の原理によって響きとなる万籟を、そのまま万籟として聞くことにほかならない。子綦において、天とは人と地とに対立し、もしくは人と地とを超越する何ものかではなくして、人が人であり、地が地であることそれ自身なのである。換言すれば、天とはあるがままということであり、自然ということであり、分別(因果的思惟)を超えているということなのである。人はこの天の立場に立つ時、一切をそのまま肯定することができるであろう。

(同書36頁、強調は筆者による)

 かかる理解を前提とすると、かのんの歌声が「天籟」だという評価は、かのんがかのん自身の原理によって鳴っているという称賛にほかならず、まさにかのんのメリットをありのままに肯定する態度である、と言えるのではないだろうか。一聴してメリットを言い当て、半ば強引にかのんをスクールアイドル活動に引っ張り込んだ可可は、やはり主人公格なのである。しかし、せっかくのメリットを重視する発想も回を追うごとに希薄となり、とうとう第8話から第9話にかけて雲散霧消してしまう。『スーパースター』は、作品としての掴みは圧倒的によかったが、全体として見ると不条理ギャグにも正攻法の「アイドルアニメ」にも振り切れない、きわめて中途半端な形態に甘んじたと言わざるをえない。
 次節では、オフィスとメリットの対立が融解させられる過程を追いかけながら、融解を引き起こす土壌について議論を深めていく。

抵抗の放棄、転向の実践:対立の融解過程について

かろうじて維持される対立:平安名すみれ・嵐千砂都の加入

 第2話のオープニング映像が始まると、視聴者は「おや?」と思うはずだ。音楽科の二人も普通科の制服を着ているではないか! 第1話の挿入歌「未来予報ハレルヤ!」のライブシーンでは、Liella! のメンバー五人は各々在籍している科類の制服を着用していた。音楽科の白い制服と普通科の紺色・灰色の制服が同居しつつ、五人が横一列に並び立っているという状態は、分節(簡略化して言えば個性の確立)を前提とした横断的連帯のきざしと言いうるわけだが、そこから制服が統一されるのは自明のことではない。ユニット(アイドル複合体)が結成されると、その内部では自他の区別が融解してユニット自体が「一」なる単位に格上げされるため、メンバーのなかに落伍者がいないかどうか、不断のチェックが求められることになる。メンバーが相互に引けを取らないかたちで並び立っているという前提が崩れてしまえば、制服の統一は一部のメンバーの意思を抑圧し、個性を塗り潰すことになりかねない。制服の統一を行うなら行うで、それなりの準備作業が必要なのだ。後から振り返って考えると、第2話のオープニング映像の段階ですでに、音楽科vs普通科という科類の対立がウヤムヤになることは予告されていたとも言える。本作が「アイドルアニメ」としてダラクしているというのは、制服の統一過程を見てみればすぐにわかることだ(この点については後述)。
 第2話は、可可のスクールアイドル部設立申請が、恋を中心とした暫定生徒会によって不受理とされるシーンで幕を開ける。当該処分に関するかのんと恋の折衝は、メリットの論理とオフィスの論理の鍔迫り合いが見られる数少ないシーンである。

かのん わかんないよ! だって部活だよ? 生徒が集まって、やりたいことをやって何がいけないの?

 わからないのですか! 音楽科があるこの結ヶ丘は、少なくとも音楽に関してはどんな活動であっても、他の学校より秀でていないと、この学校の価値が下がってしまいます。(中略)音楽活動に関しては、他校に劣るわけにはいかない。どうしてもやりたいのであれば、他の学校に行くことですね。

 折衝が平行線をたどると、可可は「我々に自由を! 自由に部活動ができないなんて、間違ってます! 部活動はつねに、皆に平等であるべきです! そう思いますよね? さあ、皆さん、ともに戦おうではありませんか!」と訴えて、「街頭の政治」に打って出る。結局、可可の示威行為には誰も同調せず、理事長の鶴の一声によって仲裁がはかられる。ここでは民主的なデモンストレーションは中国人留学生に一任されており、明確に主張し抵抗する中国人と事大主義に拠って立つ日本人という差異が際立っている。この差異は、中国文学者・評論家の竹内よしみが「方法としてのアジア」(1961年)のなかで指摘していたことに通じている。竹内は五・四運動当時の中国に対するデューイの見立てに依拠して、中・日両国の近代化を「内発的」な動機の有無によって比較している。可可の示威行為は、以下の引用箇所にいう「挺身」する学生に重なって見える。

 当時の中国というのは、救いようがない、混乱状態で、そのまま解体してしまうというふうに国際的に見られていた。その中において、学生が挺身して、自国の運命を担って立ち上がった。この青年の元気、そういうものを通して彼デューイは、中国文明の見かけの混乱の底に流れている本質を洞察した。世界において今後発言力をもつことを予見した。見かけは進んでいるが日本はもろい。いつ崩れるかわからない。中国の近代化は非常に内発的に、つまり自分自身の要求として出て来たものであるから強固なものであるということを当時言った。1919年にそういう見通しを立てたという点、私はえらいと思う。

(竹内好『日本とアジア』ちくま学芸文庫、1993年、453頁)

日本の場合ですと、構造的なものを残して、その上にまばらに西洋文明が砂糖みたいに外をくるんでいる。中国はそうでなくて、デューイの考え方によれば、元の中国的なものは非常に強固で崩れない。だから近代化にすぐ適応できない。ところが一旦それが入って来ると、構造的なものをこわして、中から自発的な力を生み出す。そこに質的な差が生ずるということです。表面は混乱しているけれども、西洋人の目から見た近代性という点でははるかに中国のほうが日本よりも本質的であるということを言っております。

(同書461頁)

 この引用箇所は、オフィスとメリットの対立を融解させる土壌を考えるうえでも重要なので、のちほど竹内の別稿と照らし合わせながら再検討する。
 ともあれ、かのんと可可は、近々開催される「代々木スクールアイドルフェス」で一位を獲ることを停止条件にスクールアイドル部の活動を認めてもらう言質を理事長から取る。二人は音楽科に在籍するかのんの幼馴染・嵐千砂都(CV: 岬なこ)からダンスのプライベートレッスンを受けて、フェス本番に臨むことになる。第2話の終盤では、室内から漏れ聞こえる声楽と室外で泥臭く汗を流すスクールアイドルが対比され、オフィスとメリットの対立がまた表層に浮かび上がってくる。第3話では、千砂都がかのんに味方することによって、正面衝突とは異なるかたちでオフィスとメリットの対立が描かれる。

   フェスで醜態をさらせば、この学校の評判にも関わります。
(中略)
千砂都 とにかく、やれることをやってみようと思う。まだ時間はあるし、理事長先生は許可してくれているんだから、別に問題はないでしょう?
   嵐さんの練習の邪魔にならなければよいのですが。

 千砂都はかのんの幼馴染だが、所属上は音楽科の生徒である。だからこそ、メリットの論理に依拠してオフィスの論理を突き崩すのではなく、むしろオフィスの論理を逆用して、上位の権威を笠に着るやり方で恋をやり込めることができるのだ。
 そんななか、フェスで一位を獲るべく特訓を重ねるかのんと可可に大きな壁が立ちはだかる。去年の東京代表・サニーパッションのフェス参戦が急遽発表され、一位を獲るハードルが一気に高くなったのだ。大舞台で歌うことにまだ不安が残るかのんは、自分の落ち度で可可が夢を諦めなければならなくなったら申し訳ないと涙を流すが、可可の熱烈な激励を受けて奮起を誓う。本番当日、ステージ上で自分以上にド緊張する可可の手を自分から取ったかのんは、「歌える……一人じゃないから」と呟いて、無事に歌い出す。結局、二人は一位に届かなかったものの、新人特別賞を獲得するにいたる。かのんは次のように独白する。

私たちはスクールアイドルを続けられないかもしれない。でも、全然後悔してないんだ。だって、可可ちゃんと約束した最高のライブができたから!

 ここまでの筆運びは熟達しており、第3話が最終回でもよかったとすら思える出来映えだ。しかし、第4話以降、「スクールアイドルを続けられないかもしれない。でも、全然後悔してない」とすら言ってのけた輝き、すなわちメリットに裏打ちされた輝きは急激に翳っていく。第4話の冒頭で、かのんと可可は新人特別賞の獲得を理事長から評価され、野良スクールアイドル(そんな概念が成立するのかはともかく)として放り出されることなく、同好会の設立を認められ、神宮音楽学校時代の「学校アイドル部」の部室を割り当てられる。あたかも教皇インノケンティウス3世がアッシジのフランチェスコの新修道会を認可したように、メリットはオフィスの側から巧みに利用されるようになってしまう。思えば、第2話で恋とかのんの対立を仲裁したのも理事長その人であった。理事長の裁可はやがて、ユニット内部の制服の統一にも影響を及ぼすことになる(この点については後述)。
 とはいえ、メリットを重視する姿勢、そしてオフィスとメリットが対立する構図はまだかろうじて維持されている。第4話では、普通科に在籍するあんすみれ(CV: ペイトン尚未)がスクールアイドルとして脚光を浴びる可能性に懸けて同好会を訪ねてくる。すみれはいわばメリットなき少女である。万年脇役の元子役タレントで、幼い頃から主役に憧れているがどうしても主役を射止められない。スカウトを待って連日原宿に通い詰めても声はかけられない。校内のスクールアイドルセンター選挙でもかのんに大差をつけて敗れてしまう。打算的に参加したスクールアイドル活動でも目立てないという現実を突きつけられ、すみれは「センターになれないんだったら、こんなところいる意味ない」と言って部室を飛び出してしまう。かのんは学習性無気力から脱することができた先達として、すみれを改めてスカウトする。「センターが欲しかったら、奪いにきてよ」。かのんの挑発的な言辞は、メリットの次元で勝負を挑むものであり、メリットなき少女にメリットを見出そうとする姿勢のあらわれと言える。第4話の終わりで、かのんは「諦めないかぎり、夢が待っているのは、まだずっと先かもしれないんだから」と言う。これはある種の千年王国思想であり、メリットの論理の極致とも言いうるだろう。現在におけるメリットの不在をオフィスの論理で糊塗するのではなく、未来にメリットが発現することを信じる。この発想は、かのんが必ず人前で歌えるようになると信じた、可可の徹底したメリット志向と響き合っている。
 第5話から第6話にかけては、千砂都がスクールアイドル活動に合流するまでのいきさつが描かれる。かのんたちは前述のサニーパッションからホームグラウンド・神津島でのライブにゲストとして招待されるが、千砂都はかのんたちに同行せず、別行動を選択する。千砂都は幼少期にいじめっ子から庇ってくれたかのんに恩義を感じており、「いつか、かのんちゃんを助けられるようになりたい」と思い続けてきた。千砂都がダンスを始めたのも「かのんちゃんのできないこと」をできる自分になるためであった。千砂都は自分が「かのんちゃんの横に立てる人」であることを証明するためにダンス大会に出場し、優勝を果たす。かのんと千砂都の感情の機微についてはこれ以上詳述しないが、重要なのは千砂都が「スクールアイドル活動に専念したいため」という理由で、普通科への転科届を提出したことである。
 2021年9月3日、菅義偉首相(当時)は「新型コロナ対策に専任をしたい」とのことで自民党総裁選に出馬しないことを表明した。事実上の首相辞任宣言である。スガにメリットありというわけでは毛頭ないが、かかる偶然の連関を念頭に置いたとき、スクールアイドルの本質とはオフィスを辞してメリットの側に立つことなのだと言うことができるだろう。ここで、オープニング映像(およびエンディング映像)のなかで五人の制服が普通科のものに統一されていたことを思い出すと、なるほど転科というギミックは面白い、みんなで音楽科を辞めるのか、と否が応でも視聴者の期待は高まることだろう。しかし、その期待はきわめて残念なかたちで裏切られることになる。

対立の完全なる融解:葉月恋と「学校アイドル部」の帰趨

 「音楽科と普通科の溝」は、第7話から第9話にかけて、たいへん不自然なやり方で埋め立てられる。第7話において、恋は「普通科と音楽科が手を取り合う学校を目指し、この秋の学園祭をともに盛り上げていくことを約束します」という耳触りのよい公約を掲げて、結ヶ丘の初代生徒会長に選出される。恋が正式に生徒会長に就任したため、かのんは恋とスクールアイドル活動の今後について改めて話をすることを決意する。かのんは恋がスクールアイドル活動に頑強に反対する理由を聞き出そうとするが、恋からはにべもなく「別に何もありません」とはねつけられてしまう。その後、恋は生徒会長の就任演説で「最初の学園祭は音楽科をメインに行うことと決定しました」と突如発表したため、普通科の生徒は公約違反に怒り、リコールの署名運動を始める者すら現れる始末となる。かのんたちは恋を尾行し、邸宅に押しかけるが、そこで明らかになったのは、恋が複雑な家庭環境に置かれているということだった。海外赴任が決まっていた恋の父は、恋の母による結ヶ丘の設立に反対し、家を出ていった。結ヶ丘の設立に奔走した恋の母も亡くなり、恋の手許には使用人を雇う金もなく、学校を運営していく資金も底をつきそうだ――もはや一人の使用人と犬以外誰も残っていないがらんどうの邸宅で、恋はそう告げるのだった。
 葉月家のプライベートな事情が突然張り出してきたことによって、これまで再三繰り返されてきた、スクールアイドル活動が結ヶ丘の価値を下げるとか、音楽科の生徒の邪魔になるといった理屈との不整合が生じていることになった。第8話で、恋は「母が遺した学校を、この街で一番の高校にしたい。より多くの生徒を集めなければ、その目標を成し遂げることはできません」と語るが、プロモーション上の課題(経営目標)とスクールアイドルへの反感は直ちには結びつかない。「スクールアイドルだけは、やめてほしいのです! この学校で活動しないでほしい」とまで恋に言わしめる事情とは何なのだろうか。なんと、それは単なる私怨であった。
 第8話において、神宮音楽学校時代、学校を廃校から救うために「学校アイドル」として活動していたのが恋の母だったことが明かされる。しかし、恋の母たちの尽力もむなしく、神宮音楽学校の廃校は阻止できなかった。「学校アイドル」活動が不奏功に終わったこと、そして「学校アイドル」活動の記録も残っていないことから、恋は「母は後悔していたのではないか」と思い込むようになった。ところが、「学校アイドル部」の部室に安置されていた鍵付きの箱のなかから、「学校アイドル」活動の思い出の記録が出てきたことで、恋は自身の思い違いに気づくことになる。その記録には次のように書かれていた。

学校でアイドル活動を続けたけれど、結局、学校はなくなることになった。廃校は阻止できなかった。でも、私たちは何一つ後悔していない。学校が一つになれたから。この活動を通じて、音楽を通じて、みんなが結ばれたから。最高の学校を作り上げることができたから。一緒に努力し、一緒に夢を見て、一緒に一喜一憂する――そんな奇跡のような時間を送ることができたから。だから私は、みんなと約束した。「むすぶ」と文字を冠した学校を、必ずここにもう一度作る。音楽で結ばれる学校を、ここにもう一度作る。それが私の夢、どうしても叶えたい夢。

 「廃校は阻止できなかった。でも、私たちは何一つ後悔していない」というくだりは、シリーズ第2作の『ラブライブ!サンシャイン!!』で提示された強がりにも似た結論をインスタントに援用したものと言えようが、これは『スーパースター』第3話におけるかのんの独白(以下に再掲)とも重なる。「第3話が最終回でもよかったとすら思える」と前述した所以である。

私たちはスクールアイドルを続けられないかもしれない。でも、全然後悔してないんだ。だって、可可ちゃんと約束した最高のライブができたから!

(第3話より)

 第8話が説得力に乏しい要因としては、シナリオ自体が支離滅裂なのもさることながら、史料の取扱いが決定的にまずいことも挙げておかなければならない。記録が残っていないのは意図的に廃棄したからであって、廃棄したのは自分にとって不都合だったからだろうという推論は危うい。仮に視聴者が公文書を平気で廃棄するような政権を見慣れているのだとしても、それが当たり前だと考えるべきではない。一次史料一点で歴史観が変わるなどという発想は歴史修正主義の前段であって、エセ考古学的な議論のすっ飛ばしである。既存の史料を再解釈したり、オーラル・ヒストリーの手法を利用したりせずに、史料の有無だけで常識が変わるような描写はダラクしていると言わざるをえない。
 ともあれ、自らの過ちを認めた恋を、かのんは生徒たちの面前でスクールアイドルに勧誘する。恋はスクールアイドルの一員に加わり、学園祭のステージでセンターを立派に務める。そして、第9話で恋の制服が普通科のものとなるにいたって、オフィスとメリットの対立はとうとう完全に融解させられて、ウヤムヤになる。恋は「科によって制服で区別するのではなく、自由に選べるようにしたほうがいいと、理事長から提案がありまして」と言う。そう、恋は音楽科に在籍したまま、普通科の制服を選べるようになったのだ! もはや音楽科と普通科という科類の区別は何の意味もなさない標識と化してしまった。裁可する権限を持つ大人の気まぐれに振り回されるのは「スクールアイドル」の宿命なのかもしれないが、それにしても、恋が延々とオフィスの論理を弄してきたこと、千砂都が音楽科から普通科への「転科」を遂げたことが作劇上ほぼ無意味なものになっていることを、ダラクと言わずに何と言うのだろうか。文脈こそ違えど、第12話でかのんは「ひどいよ、ひどすぎる、こんな仕打ち! あんまりなんじゃない!?」と嘆息するが、それはこちらの台詞であると言いたい。
 以上のような過程を経て、オフィスとメリットの対立が完膚なきまでに融解させられてもなお、可可は最後まで徹底したメリット志向を貫き通す。第10話において、念願のセンターに推されながらも、センターを務めることに自信を持てないでいるすみれに対して、可可は次のように言ってティアラを渡す。

可可があなたに任せたのは、あなたがふさわしいと思ったからです。練習を見て、その歌声を聴いて、Liella! のセンターにふさわしいと思ったからです。それだけの力があなたにはあると思ったからです。だから受け取りなさい! 私が思いのすべてを込めて、あなたのために作ったのですから!

 これほど強靭なメリット志向は、残念ながら他のメンバーには見られない。第11話においては、中途半端なメリット志向が自助努力の強制に転化するという最悪の事態が生じる。千砂都が中心となって、人前での独唱になお不安を抱えるかのんを、むりやり母校の小学校での凱旋ソロコンサートへと追い立てる展開はシバキ的である。千砂都は次のように述べて、かのんが一人でやり遂げる重要性を説く。

千砂都 かのんちゃん、みんながいるから、一人じゃないって思えるから、歌えるんだと思う。
可可  それはよくないことなのですか? 仲間がいるから歌えるって素敵なことだと思いますけど。
千砂都 私もそう思ってた。でもね、それって本当に歌えることになるのかな? ずっと今みたいな不安は消えないんじゃないかな?

 しかし、かのんだけに孤独・孤高を強いるのはメリットの論理の濫用だ。オフィスと対峙し、オフィスの論理を突き崩すことを回避しておきながら、都合のよいときだけかのんのメリットを信じるのは卑怯な所業であろう。可可がきわめて良識的な反応をしているのがまた、千砂都の残酷さ――明確な嗜虐心と意識されないからこそ、かえって厄介な残酷さ――に拍車をかけている。
 なぜ、オフィスとメリットの対立が対立として十分に意識されないのだろうか。なぜ、可可以外の日本人メンバーはメリット志向に固執することができないのだろうか。最後にこれらの問題を検討していこう。竹内好は前述したように、日本の近代化の過程には「内発的」な動機が乏しかったと見ていた。竹内は「中国の近代と日本の近代」(1948年)のなかで、日本文化をいっそうアイロニカルに糾弾している。この文章は戦後間もない時期に発表された日本特殊論であって、放言と言わざるをえない点も多く含まれている。しかし、竹内の指摘はいま読んでも、事実無根と切り捨てるには惜しい真実味を帯びているため、少し長くなるが以下に引用する。

 ヨーロッパでは、観念が現実と不調和(矛盾)になると(それはかならず矛盾する)、それを超えていこうとする方向で、つまり場の発展によって、調和を求める動きがおこる。そこで観念そのものが発展する。日本では、観念が現実と不調和になると(それは運動ではないから矛盾でない)、以前の原理を捨てて別の原理をさがすことからやりなおす。観念は置き去りにされ、原理は捨てられる。

(竹内『日本とアジア』、31頁)

主体性の欠如は、自己が自己自身でないことからきている。自己が自己自身でないのは、自己自身であることを放棄したからだ。つまり抵抗を放棄したからだ。出発点で放棄している。放棄したことは、日本文化の優秀さのあらわれである。(だから日本文化の優秀さは、ドレイとしての優秀さ、ダラクの方向における優秀さだ。)抵抗を放棄した優秀さ、進歩性のゆえに、抵抗を放棄しなかった他の東洋諸国が、後退的に見える。

(同書44頁、強調は筆者による)

 転向という現象も、特殊な日本的性格の産物だろう。日本の優秀文化のなかでは、優等生になってダラクするか、ダラクを拒否して敗北するか、よりほかに生きる道がない。優等生が良心にしたがって行動すれば、転向という現象は必然におこる。もし転向しなければ、かれは優等生でなくなる。新しいものを受けいれる能力を失ったのだから。

(同書47頁)

 回心は、見かけは転向に似ているが、方向は逆である。転向が外へ向う動きなら、回心は内へ向う動きである。回心は自己を保持することによってあらわれ、転向は自己を放棄することからおこる。回心は抵抗に媒介され、転向は無媒介である。回心がおこる場所に転向はおこらず、転向がおこる場所に回心はおこらない。

(同書48頁)

 日本文化は、伝統のなかに独立の経験をもたないのではないか、そのために独立という状態が実感として感じられないのではないか、と私は思う。外からくるものを苦痛として、抵抗において受け取ったことは一度もないのではないか。自由の味を知らぬものは、自由であるという暗示だけで満足する。ドレイは自分がドレイでないと思うことでドレイである。「呼び醒まされた」苦痛は、日本文化には無縁でないのか。そうでなければ、わざわざ呼び醒まそうとして近代や絶望や実存や、その他さまざまな対症薬を持ち出すことが行われるはずがないではないか。

(同書53-54頁)

 『スーパースター』においてオフィスとメリットの対立が融解させられたのも、「ダラクの方向における優秀さ」が遺憾なく発揮された結果と言えるのではないだろうか。抵抗を放棄し、転向を実践し続ける「日本の優秀文化」のもとでは、メリットの側に居直ることはきわめて難しい。決定的な対決を無効化するこうした土壌は、遠藤周作の言う「沼地」と大部分重なっているように思われる。遠藤は『沈黙』(1966年)のなかで、舶来の思想を根底から腐らせ、枯らしてしまう日本の土着文化を「沼地」と表現した。これは簡にして要を得た比喩であり、『スーパースター』がわざわざ描いてみせたのは「沼地」のスクールアイドルの物語だったと整理できるだろう。

 ここで改めて、『スーパースター』のオープニング映像に立ち返ろう。映像のなかでは、新国立競技場を模した「神宮競技場」において、ナショナリズムと容易に結びつく「アイドル」という少女たちが歌い踊っている。彼女たちの上空にはブルーインパルスから噴出された染料を思わせるカラースモークがたなびいている。このような映像を東京オリンピック・パラリンピックの前後に公共放送(NHK教育テレビ)で流していたとはなんとも時代迎合的に思えるが、実際には特定の立場に固執しない「自称中立」の色彩が濃かったのかもしれない。そうだとすれば、「沼地」のスクールアイドルの宣伝映像としてはこの上なくコンセプトを押さえたものと言うことができ、脱帽するほかない。

おわりに

 「スクールアイドルがやりたくて、日本に来ました」。なんてむずがゆい言葉だろう。日本発の輝かしいスクールアイドル文化に中国人が憧れるという構図には、日本の先進的・魅力的な文化によって無知蒙昧なアジアを啓発するという上から目線が透けて見える。現代において、実際のアイドル留学のメッカとして、中国人やタイ人からアメリカ人にいたるまでを包摂する多国籍ユニットを輩出しているのは韓国だというのに! 本作の視聴者の多くは嫌中と夜郎自大(イキリ)との間で引き裂かれているが、日本のアイドル文化の輝きは凋落国家の鈍い曙光を反照したものであるということを見つめ直してはどうだろうか。
 吉野作造らが強権に抵抗する運動拠点として結成した「黎明会」の活動に、李大釗が「黎明的曙光現了!」と述べて支持を表明し、中・日の連携と改革が叫ばれてから百年以上が経過した(米谷匡史『アジア/日本(思考のフロンティア)』岩波書店、2006年、86-87頁)。「日本文化は、外へ向っていつも新しいものを待っている。文化はいつも西からくる」(竹内『日本とアジア』、53頁)。日出づる処の曙光はこの30年の経済低迷によってすっかり鈍くなったが、その鈍い曙光に引き寄せられて、「黎」の文字を冠する「女神」が西から、しかも李大釗らが中国共産党を創立した上海という都市からやってきた。「太陽の光」を反照して輝く黎狱(最闪亮的自己)に、筆者を含め多くの日本人は魅了されている。日本人が彼女の魅力に抗う術を持っているのかどうかは、知る由もない。

参考文献

金谷治訳注『荘子 第一冊(内篇)』岩波文庫、1971年。

福永光司『荘子 内篇(新訂 中国古典選 第7巻)』朝日新聞社、1966年(講談社学術文庫、2011年)。

遠藤周作『沈黙』新潮文庫、2003年。

竹内好『日本とアジア』ちくま学芸文庫、1993年。

米谷匡史『アジア/日本(思考のフロンティア)』岩波書店、2006年。

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