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『アイカツ!』が活写する分節と横断的連帯の成立:「アイドルアニメ」の擬似的デモクラシー空間について(旧稿改題)

※本稿の「はじめに」及び「おわりに」は全文書き下ろしである。

はじめに:「アイドルアニメ」の基準点を求めて

iuris praecepta sunt haec: honeste vivere, alterum non laedere, suum cuique tribuere.
法の原理は三つある。すなわち、誠実に生きること、他人に損害を与えないこと、各人に各人のものを分け与えることである。
――ユスティニアヌス『法学提要』、1.1.3
(Corpus Iuris Civilis, Bd.1, hrsg. v. P. Krueger & Th. Mommsen, Berlin 1889, S. 1)

 2010年代に入ってから、声優歌唱コンテンツは雨後の筍のごとく急増し、玉石混淆の様相を呈している。その「雨」が「ラブライブ!μ’s First LoveLive!」(2012年2月19日開催)だという史観を受け容れるかどうかはともかく、TVアニメに出演する声優が担当する役柄に扮して観客の前でライブパフォーマンスを行うことは、もはや珍しいことではなくなっている。なお、声優歌唱コンテンツの始点となるのはTVアニメばかりではなく、アーケードゲーム・家庭用ゲーム・スマホアプリ・雑誌の企画など様々な媒体がその端緒となりうる。どの媒体を端緒とするにせよ、声優歌唱コンテンツは「メディアミックス」(当然その中には「アニメ化」も含まれる)を巧みに利用しながら、栄枯盛衰を繰り返して現在に至っている。この状況に声優自身の歌手活動やユニット活動を加えれば、到底全てを追いかけることはできない氾濫状態が消費者の前に広がる。
 前述の声優歌唱コンテンツの代表格は、言うまでもなく「アイドル」ものである。声優が観客の前でライブパフォーマンスを行うことに必然性を与えるため、歌って踊れる「アイドル」を題材とするのは単純ながらも分かりやすい仕掛けだ。声優によるライブパフォーマンスの伴う「アイドル」ものは、既に述べたように様々な媒体で提供されているが、後追いの容易さで言えば、TVアニメが最も優れた媒体のように思われる(アーケードゲームやスマホアプリはサービス終了で回収不能となる)。そこで、本稿では「アイドルアニメ」に絞って、その魅力がどこにあるのか、言語化することを試みる。
 とはいえ、「アイドルアニメ」と一口に言っても、それがどのようなカテゴリーなのかは自明ではない。代表的なアニメ評論家が2010年代の「アイドルアニメ」をどのように論じているのかを確認すると、そのことがよく分かる。藤津亮太『ぼくらがアニメを見る理由:2010年代アニメ時評』(フィルムアート社、2019年)に収録した「『アイドル』の〈あり方〉」という論攷(初出は2014年7月4日)の中で、「アイドルアニメ」を現実の「アイドル」ブームを前提とした作品群と位置づけている。

 昨年あたりから女性アイドルを題材にした作品に注目が集まっている。……近年の女性アイドルアニメの集中はいうまでもなく、現実に女性アイドルグループが人気を集めていることが大きな背景としてある。この市場に対してアニメ業界と近接する音楽業界からのアプローチが、こうした作品群となっているわけだ。
(藤津亮太『ぼくらがアニメを見る理由:2010年代アニメ時評』フィルムアート社、2019年、280頁)

 藤津はそのうえで、「みんなちがって、みんないい」式の議論を展開していく。例えば、メインターゲットが女児となる『アイカツ!』は、女児の「憧れ」を受け止める形で「アイドル」を魅力的に描き出すのに対して、メインターゲットが男性となる『THE IDOLM@STER』は、各キャラクターの「自己実現の物語」を見せることで「ストーリーの見届け人」たる男性ファンに「応援」の機会を提供している、といった具合に様々な「アイドルアニメ」の特徴を論じた後で、藤津は次のように論攷を締め括っている。

 女性アイドルアニメとひとくくりに言っても、「アイドル」というものをどう描くか、その回答の出し方はそれぞれなのだ。(同書285頁)

 藤津はどのような「アイドルアニメ」であっても否定的に論じることを避けている。藤津は前掲書の序文で、自身の文章について「“採点表”のようなわかりやすさもないし、快刀乱麻を断つごとく“世相”を斬ったりもしない」、「ずいぶん時代遅れの姿勢」(同書2~3頁)と自ら述べている。しかし、野暮を承知で指摘するが、藤津式の議論では「アイドルアニメ」が無内容なカテゴリーになってしまうという難点がある。
 「アイドル」と呼ばれる人々が登場するから「アイドルアニメ」であって、その増加は現実の「アイドル」ブームを反映しているという論法は間違ってはいない。しかし、「アイドル」及び「アイドルアニメ」という言葉を無定義に用いることで、「アイドル」の定義はたゆたう現実に左右されることになってしまう。この欠陥は社会学的アプローチの跳梁跋扈を許す悪材料となる。「社会あるところに法あり」式の議論が蔓延ることで、「あれかこれか」ではなく「あれもこれも」の無内容な記述が横行し、「アイドルアニメ」を観る基準点は永遠の相対化の中に埋もれてしまう。もちろん、「アイドル」概念の変容を社会学的・歴史学的に解明するのが藤津の職務でないことは承知の上だが、「アイドルアニメ」というカテゴリーを用いて論じるのであれば、その範囲をある程度限定する定式化がやはり必要なのではないだろうか。本稿はこうした問題意識を背景として書かれている。
 本稿は、私が過去に執筆した『アイカツ!』第1シーズン(2012年10月~2013年9月)、第2シーズン(2013年10月~2014年9月)に関する総論を一部修正して再掲し、「アイドルアニメ」を観る一つの基準点を提供するものである。『アイカツ!』は分節を前提とした横断的連帯(いわばデモクラシーの基礎)の清々しさを描出した文句無しの秀作であり、群像劇としての「アイドルアニメ」の基本形と評価できると考える。もちろん、『アイカツ!』はその後継作品も含めて、一部の例外はありつつも、基本的には声優と歌唱担当を分離する方針を採用しているため、声優歌唱コンテンツの代表格と言うことはできない。しかし、声優歌唱コンテンツについて論じる前に、まずはその培地となっている「アイドルアニメ」について整理しておきたいと考え、『アイカツ!』を取り上げることにした。なお、上記趣旨に鑑みて、本稿では『アイカツ!』に出演する個々の声優の演技には言及しない。あらかじめご了承いただきたい。

『アイカツ!』第1シーズン 総論

(この節は2014年12月に同人誌に掲載した論攷を一部修正したものである。)
 あるアイドルについて「個性」という言葉を用いるとき、そこで前提とされているのは、そのアイドルが他のアイドルからはっきりと切り離されて理解されるということである。アイドルはソロで活動する限り、この分節(articulation)から逃れることはできない。他のアイドルと被らない強烈な個性を実装しなければ、アイドル戦国時代の中であっという間に蹴落とされてしまうだろう。
 『アイカツ!』第1シーズンは、星宮いちごと霧矢あおいという仲良しコンビが揃ってスターライト学園に入学するところから始まるが、入学したてのいちごとあおいに与えられた「神崎美月の一日マネージャー」のチャンス、その枠は一つだけであった。このことは改めて強調されるべきである。というのも、「一日マネージャー」をめぐるオーディションは、ソロアイドルである以上避けることのできない分節の第一の試練だったのだから。ところで、紫吹蘭の「仲良しでいられるのも今のうちだよ」という不穏な予告が実現することはなかった、という見方は根強い。しかし、この蘭のセリフは分節の厳しさを伝えるものとして解釈されるべきであって、ただ一つの枠をめぐって争うことによる関係の破綻を予告するものではない。スターライト学園を去っていった蘭のかつてのルームメイトも、蘭と仲違いして飛び出したわけではないということを思い出そう。蘭が注意を促す「仲良し」とは、あくまで自分と相手が渾然一体で混じり合うような「馴れ合い」のことだ。だから、第1シーズンは開始早々、分節という問題を提示してきたということになる。分節の苛酷さ、すなわち個性を確立することの難しさはその後も繰り返し描かれる。いちごもあおいも、サイン会やキラキラッターにおいて(一時的とはいえ)ファンとの距離感を見失ってしまう。この流れで見ると、「地下の太陽」三ノ輪ヒカリの強さは、序盤における分節の一つの極限状態を示している、と言うべきだろう。
 こうした分節を前提として、友情なるものが育まれる。アイドルは各自の個性=ウリを前提とした上で、横並びに結合していく。ライヴ、ドラマ、ファッションショー。舞台は違えど、各々のアイドルが各々のステージで輝きながら、各々のキャリアを形成していく。このsuum cuiqueの美しさが友情というモティーフの根底にあり、それは横断的連帯(solidarité horizontale)という外観を呈することになる。有栖川おとめ、藤堂ユリカ、北大路さくらといった「新キャラ」の登場は、基本的にアイドルの横断的連帯が不断に延長していくプロセスとして理解できる。スターライト学園は、アイドルの横断的連帯で敷き詰められた特別な空間なのである。
 そして、ソロアイドルの盤石の分節と横断的連帯の発展を受けて「トライスター&ソレイユ」編が始まる。ここに至って、いよいよアイドルユニットというテーマに第1シーズンは踏み込むことになった。ユニットとはその名の通り単一体・統一体を意味するが、物理的に見れば複数のアイドルから構成されている。しかし、ユニットは単なるソロアイドルの寄せ集めではなく「一」なる単位である、ということには注意しなければならない。ユニットの内部には当事者のみに開かれた特別な空間が広がっており、その中では表面的ではあれ自他の区別が失われる。すなわち、ユニットの内部では分節の融解が生じ、これまで「一」であったアイドルはユニットという一段階上の「一」へと包摂されることになる。アイドルユニットとは、当事者とは独立に包括的人格を有するアイドル複合体なのである。従って、ユニットを共に担うための当事者の連帯は、分節を前提とした横断的連帯より高次の関係でなければならない。「トライスター」内部での蘭の苦悩は、蘭という「一」の喪失の危機に直面する中で、神崎美月や一ノ瀬かえでと高次の連帯を取り結ぶことができるのか、というものなのである。他方でユニット活動といえども、対外関係においては(すなわちユニットの外部では)鋭い分節が新たに生じるのであり、「トライスター」と「ソレイユ」というヴァージョン対抗の構図、そして「ぽわぽわプリリン」という第三極の登場によるユニットの鼎立は、ユニットという包括的人格レヴェルでの分節のあらわれである。このように、「トライスター&ソレイユ編」は、ユニットの内と外を巧みに描いてみせたのだった。
 恐るべきことに、第1シーズンはまだ終わらない。夏季限定ユニット「スターアニス」編の幕開けである。「スターアニス」編は話数こそ少ないが、スターライトクイーン・神崎美月を含めた連帯のあり方を提示したという点であまりに重要である。美月は自他共に認める絶対的なトップアイドルであり、アイカツランキングというヒエラルヒーの頂点に君臨している。だから、全てのアイドルの憧れ、目標であるという縦一文字型の関係(relation verticale)ばかりが注目されるのもやむをえないことであった。しかし、美月は誰よりも水平性を望んでいた。垂直性ではなく、水平性を。それなのに、美月は二度も高次の連帯の構築に失敗してしまった。一度目は同級生三人とのユニット、二度目は蘭を入れた「トライスター」。分節が融解するユニット内部で特定のアイドルばかりが強い輝きを放つのは、高次の連帯を阻害する。この点で高次の連帯とは「バランス」である、と理解して構わないだろう。
 そんな美月がついに到達したのが「スターアニス」だった。「スターアニス」は夏季限定という点で「寄せ集め」のドリームチームであり、だからこそ純然たる横断的連帯を貫徹することができた。部屋に入るタイミングを窺う美月。それを見られて照れ笑いする美月。ガールズトークに花を咲かせる美月。束の間のオフタイムを心待ちにする美月。美月は「スターアニス」の活動を通じて、トップアイドルからいちごたちと一歳しか違わない一人の少女へと脱色された。「スターアニス」とはスターライト学園に在籍する全アイドルの代表(représentantes)であり、たとえ神谷しおんのように参加を辞退するアイドルがいたとしても、観念的にはスターライト学園の全アイドルがそこには含まれている。つまり、「スターアニス」は多数の力で女王をヒエラルヒーの頂点から末端にまで引きずり下ろし、堅牢な垂直性を打ち崩したのである。
 そして極めつけに、美月は無理が祟って過労で倒れてしまう。絶対的なトップアイドル、無敗の女王という称号(いわば権原=titre)と、脆弱な肉体を保有する一人の少女でしかないという実態(いわば占有=possession)との乖離が問題とされるほどに、美月(の権威)は相対化されてしまったのだ。そのピンチを救うのが元祖レジェンドアイドル、マスカレードだというあまりに美しい構成は、完璧の一言に尽きる。この「手から手へ」の途切れることなき継承は、第2シーズンを貫いて劇場版まで続いている。劇場版でついに明示された師資相承の起点が第1シーズンのクライマックスであるというのは、やはり「できすぎ」であると言わざるをえない。何度観ても、いや繰り返し観れば観るほどに、舌を巻くシリーズ構成である。

『アイカツ!』第2シーズン 総論

(この節は2014年12月に同人誌に掲載した論攷を一部修正したものである。)
 『アイカツ!』第2シーズンを語るにあたっては、厳格な入学・編入試験を課してアイドル候補生をふるいにかけるスターライト学園と、「なりたい」という夢を最も重視して多くのアイドル候補生を受け入れるドリームアカデミーという二大学園の理念の緊張関係に言及しないわけにはいかない。なお、新規参入してきたドリームアカデミー側の分節と横断的連帯の成立(音城セイラ、冴草きい、風沢そら、姫里マリアの相次ぐ登場、そしてクールエンジェルスの結成あたりまで)については、第1シーズンの総論で書いたことと同様であるのでそちらを参照されたい。早速だが本論に入っていこう。
 まず、二校の理念は原理的に両立不能であり、一方を立てれば他方が立たず、という鋭い緊張関係に置かれている、ということを確認しておきたい。二校の理念の差異がどこから生じているのかについては議論の余地がある。二校の学園長はかたや元祖レジェンドアイドル・マスカレードのヒメ=光石織姫、かたやIT業界上がりの夢咲ティアラ。生き様も社会的経験も全く異なる二人なのだから、差異が生じて当然とも言える。しかし、いずれにせよ決定的に重要なのは、二校の理念が決して交わらないほどに違っており、いずれの理念が正しいのか一義的には定まらないということである。従って、二校のうちいずれが勝利を収めるのかということも一義的には定まらない。その判断は各々の視聴者に委ねられたままとなり、二校の理念の緊張関係が解消されることはない。「あなたがドならわたしはレ」という定式のきりのなさは、終局的な決着をつけることができない二校の関係をよくあらわしている。だが、これほどまでに二校の理念が平行線を描くがゆえに、却って一方が他方を完全に排除することも封じられることになる。お互いを好敵手として認め合う織姫とティアラや、引き分けを繰り返しながら「制服が違っても仲間だ」という観念に到達するいちごとセイラの美しさは、実は奇妙にも二校の理念の和解不能性に裏打ちされているのである。
 次に、系譜(généalogie)という観念も第2シーズンの大きなテーマの一つである。第1シーズン終盤で、いちごの母親であるりんごが元祖レジェンドアイドル・マスカレードのミヤであったことが明かされて以来、『アイカツ!』は親子(特に母娘)というテーマに大々的に踏み込むことが可能となった。第1シーズンの総論でほのめかした師資相承も系譜の一種であると言えるかもしれないが、ここでは親縁(lien de parenté)を重視した系譜を考えたい。系譜とは、実質的な血縁(lien du sang)から直ちに導かれるものではなく、後代の末裔が自らのルーツを求めて先祖へと遡っていく過程で生じるフィクションである。このことは養子縁組を考えれば一目瞭然であり、血が繋がっているかどうかというのは些細な問題だ。従って、あくまで重要なのはいちごがりんごの母胎から産み落とされたということではなく、いちごがりんごの庇護下で無事に成長を遂げたということなのだ。その事実によって、いちごはアイドルの先輩たる母親=りんごと紐づけられ、レジェンドアイドルの系譜の中に位置づけられることになる。同様のことは、女の子をかわいくプロデュースする「魔法」を母親から受け継いだきいや、ボヘミアンのミミに感化されてデザイナーの道を歩み始めたそらについても言える。幼少の頃の親縁が各々のアイドルの人生設計に大きな影響を与えるという構図は、先輩アイドルから後輩アイドルへの師資相承とはまた別に、第2シーズンを鮮やかに彩っている。
 そして、光石織姫がスターライト学園の「学園マザー」であるならば、スターライト学園は一つの家族(famille)であるということになり、観念的にはスターライト学園に在籍する全てのアイドルが家母(materfamilias)たる織姫の娘であるということになる。ここに言う家族とは、線で捉えられる親縁のことではなく、家母を頂点とする一定範囲の集団のことを指しているが、アイドルはこの集団から抜けだしたときに新たな一人前の家母となる。その新たな家母の誕生を「卒業」と呼ぶのである。第1シーズンのクライマックス、スターライトクイーンカップの決勝戦で、お互い一歩も譲らない接戦を繰り広げた(織姫の)二人の娘、いちごと美月は対照的な未来を辿った。いちごは一旦スターライト学園を離れてアメリカへ渡ったものの、結局はスターライト学園に復帰して元の鞘に収まった。旅をさせていたかわいい娘は家族の中に戻ってきたのである。他方、美月はスターライト学園を後にしたまま戻らず、ドリームアカデミーを一時的な居所(habitation)としつつも、そこにすら長くはとどまらなかった。美月のアイドルの世界への復帰は、夏樹みくるという金の卵を伴った新しい事務所=住所(domicile)の設立という形で実現されることになったのである。この「ダブルエム」が織姫によって容認されたということは、美月が母権から解放されたこと(émancipation)を意味しており、この段階で美月は一人前の家母となったと理解することができる。
 そして、二人の娘の因縁は、みくるやセイラを巻き込んで第2ラウンドを迎えることになる。第2シーズンのクライマックス、トゥインクルスターカップである。マスカレードに憧れてアイドルを目指した美月と、マスカレードの片割れとの親縁を持ついちごとの再戦は、師資相承の原理と系譜の観念との正面衝突を意味している。今回は最終的に系譜の観念が競り勝ったものの、ここでの師資相承の原理も系譜の観念も偉大なるマスカレードを起点としているという点では共通しており、従っていずれが勝利を収めてもおかしくはなかった。現に師資相承の原理は失われていない。マスカレードから神崎美月へ、神崎美月から星宮いちごへ、星宮いちごから大空あかりへ、という「手から手へ」の途切れることなき継承、それこそが「SHINING LINE*」なのだろう。こうして見ていくと、いちごは師資相承の原理と系譜の観念との結節点そのものであり、この独特の二重性こそがいちごの凄さの源なのかもしれない。

おわりに:デモクラシーの感覚と「アイドルアニメ」

 誰か特定の声の大きい人、影響力の大きい人、徒党を引き連れた人の決定・判断に対して、雪崩を打って屈従することのないようにするためにはどうすればよいのか。水平的に開かれた、抜け駆けを許さない空間とはどのような姿をしているのか。これらの問いへの答えを、『アイカツ!』は女児向け販促アニメであるがゆえに、却って直截に見せてくれる。『アイカツ!』に代表される「アイドルアニメ」は、分節を前提とした横断的連帯を活写することで、デモクラシー不在の本邦において、擬似的ではあれ、デモクラティックな空間というものを我々に垣間見させる。作品のメインターゲットたる女児でない者でも「アイドルアニメ」を観るべき理由はそこにある。
 先日投稿した『彼女、お借りします』評の中で言及した通り、作家・批評家の丸谷才一は日本における市民社会の欠如を補綴するものとして花柳界を位置づけていた。

 本稿も丸谷同様に欠如モデルに依拠して、「アイドルアニメ」を日本におけるデモクラシーの欠如を補綴するようなカテゴリーと評価している。だが、「アイドルアニメ」とデモクラシーを結びつけて論じる姿勢に賛同しない者もいることだろう。ギリシャ・ローマ研究者の木庭顕(東京大学名誉教授)は近年の著作の中で、デモクラシーと「高度な思考」及び「複雑な解釈手続」との不可分性について、次のように述べている。

 デモクラシーと人権は固く連帯しているのであり、衝突するように言うのは、デモクラシーを多数支配と混同するからです。多数決は政治のロジックです。
 ですから、第一に政治とデモクラシーの区別がいかに重要かがおわかりですね。そして第二に、デモクラシーは、大衆化のことではなく、高度な思考と不可分だということを決して忘れないでください。ギリシャで、悲劇、哲学、歴史学等々と一卵性で生まれたことを考えればたちまち納得できるでしょう。
 デモクラシーまでエリーティストにするのか、と愚かなことは言わないでください。政治的空間自体に多くの人が関わるようになるのはそのとおりです。そういう人たちは高度な哲学には無縁なのだろう、哲学などという難しいものは一部エリートのものだ、と勝手に考えるほうが人びとを馬鹿にしているのではないですか。自分が高度な哲学を苦手にしているからといって、みんな苦手だと決めつけないでください。
(木庭顕『笑うケースメソッドⅡ:現代日本公法の基礎を問う』勁草書房、2017年、29頁)

 今回の授業の最大の難点は、大前提である政治の成立を主題としえない点である。そのためには、ホメーロスとヘーシオドスを複雑な手続で読みこませなければならないが、これはギリシャ語を通じて、そして複雑な解釈手続を通じて、かつ厖大な時間をかけて、のみ可能である。これができない以上は、不正確で近似的な伝達を余儀なくされる。
(木庭顕『誰のために法は生まれた』朝日出版社、2018年、291頁)

 まさに「アイドルアニメ」は木庭の言う「不正確で近似的な伝達」の極北と言わざるをえないため、デモクラシーを考える素材としては使い物にならないと切り捨てる人もいるだろう。しかし、仮に木庭の言う「複雑な解釈手続」が古典ギリシャ語を読めという原理主義的な抑圧ではなく、フィロロジーを喚起するための挑発的な例示に過ぎないのだとしても、このように言われて古典ギリシャ語と向き合える人はそう多くないだろう。そんな中で、デモクラシーの感覚とでも呼べるものを理解させるためには、便法を講じざるをえないという問題がある。「アイドルアニメ」を分節と横断的連帯を描くカテゴリーと位置づけるのは、その便法の一つだということになる。こうした私の姿勢は「人びとを馬鹿にしている」のかもしれないが、その謗りを受けても、私は「アイドルアニメ」を出発点に据えることを諦めない。
 『アイカツ!』におけるいちごたちの姿がスターライト学園という架空の空間における御伽話のように見えるとしたら、そう見えてしまう自分の瞳を曇らせている「現実」とやらが何なのか問うてみればよい。仮に「アイドルアニメ」でしか横断的連帯を描けない、成立させられないのだとすれば、このカテゴリーはままならない「現実」に屈服してしまう人間の姿を浮き彫りにする批評性を帯びてくる。だが、人間が想像できることは、人間が必ず実現できる。人間は客観的に実在する所与としてのリアリティ(モノとしての「現実」)を読み取るだけでなく、そこにアクチュアリティ(コトとしての「現実」)を重ね合わせて実践的に生きている。アクチュアリティとは「抜き差しならない当面の現実」と対決する人間の存在様態のことである(木村敏「リアリティとアクチュアリティ――離人症再論」中村雄二郎/木村敏(監修)『講座生命2』哲学書房、1997年、93頁)。アクチュアリティを体現するいちごたちの姿は、横断的連帯のために立ち向かう勇気を我々に与えてくれる。すなわち「アイドルアニメ」は、単なる作中人物及び出演者の自己実現の舞台にはとどまらず、女児でない視聴者層に対しても、綺麗な衣装を身につけて輝くステージで歌い踊ることへの漠然とした「憧れ」とはまた違った形でのエンパワーメントに成功していると言うことができる。だからこそ理想的で、清々しく、思わず泣かされるのである。

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