【連載小説】 本屋で暮らす Vol.5
私たちは生きることを許されているのか?
罪を犯した書店員と元書店員。
二つの魂は答えのない問いを求めて彷徨い続ける。
果たして行き着く先はあるのだろか?
『贖罪』とは何かを問う、現代版『ああ無情』――。
各章見出し
Prologue――孤独と不安
Chapter.1――書店員との出会い
Chapter.2――銀メッシュとの交流
(以上、Vol.1)
Chapter.3――暗号の交差
Chapter.4――初めての美酒
Chapter.5――自己犠牲の精神
(以上、Vol.2)
Chapter.6――記憶の錯綜
Chapter.7――父母の愛
Chapter.8――本屋の倒産
(以上、Vol.3)
Chapter.9――堕天使との契り
Chapter.10――古本屋の経営努力
Chapter.11――自由価格本の脅威
Chapter.12――檸檬の悪戯
Chapter.13――万引の常態化
(以上、Vol.4)
Chapter.14――人殺し達
Chapter.15――スリルの誘惑
Chapter.16――後悔と号泣
Chapter.17――刃先と血
(以上、Vol.5)
Chapter.18――手首の傷跡
Chapter.19――黒い染みの恐怖
Chapter.20――漫画の効き目
Chapter.21――まぁちゃんの笑顔
Chapter.22――世界を敵に回しても
Chapter.23――店長からの赦し
Chapter.24――赦しの理由
Chapter.25――償いと決意
Chapter.26――良心の呵責
Chapter.27――奉仕の精神
Epilog――新たな船出
Chapter.14――人殺し達
我に返って入口を見ると、雪の姿が目に入った。蒼い顔をして立ち竦んでいる。
「雪ちゃん、どうしたの?」
声をかけても返事がない。近付いて、
「雪ちゃん!」
少し大きな声で呼びかけながら肩に手をかけるとビクッと飛び上がるように震え、それから恐るおそる私に視線を向けた。
「あ、優子さん……」
安心したように答え、一瞬、雪の目から恐怖の色が消えた。
「雪ちゃん、大丈夫? どこか具合でも悪いの?」
重ねて聞くと、
「いえ……大丈夫です」
答えたものの、肩は小刻みに震えている。まるで何かに怯えているようだ。
今の騒ぎがショックだったのだろうか。
雪は蒼い顔で震えながら、
「すみません……今、支度してきます。少し待ってて下さい」
呟くような小さな声を残して店の奥へ入って行き、ほどなくして戻ってきた。
「お待たせしました」
雪の様子が気になったので、少し高いが落ち着いて話せる静かな小料理屋へ行くことにした。背中を支えるように腕を回し、ゆっくり歩く。
「雪ちゃん、凄く顔色が悪いわ。本当に大丈夫なの?」
声をかけるが、雪は「大丈夫です」と繰り返すだけで、ぼんやり歩いている。支えていないと立ち止まってしまいそうで、こんな状態でお酒なんて飲ませて平気かと心配になり、
「今日はお酒はやめて食事だけにしようか?」
聞いてみたが、
「……いえ、大丈夫です……お酒がいいです」
小さな声が返ってきた。
私は雪の背中に手を回したまま、商店街を途中で外れて住宅街の方へ入っていった。しばらく住宅の間を進むと、マンションの一階に小さな提灯が見え、
「あそこよ」
こぢんまりとした割烹風の店の前に着くと、引き戸を開け、中に入った。雪も後に続く。
店内ではカウンターに数人の客がくつろいでいた。奥の座敷には客がいなかったので靴を脱いで上がり、座布団に座った。
「緑茶割りでいい?」
と、聞いた。
「あ、はい……」
私は緑茶割りと刺し身の盛り合わせを頼んだ。
雪は相変わらず蒼い顔をして黙り込んでいる。いつの間にか運ばれてきた酒にも刺し身にも全く手を付けず、虚ろな表情のままだ。
――先ほどの騒ぎで動揺しているのだろうか?
「雪ちゃん、もしかして万引き犯を見たの初めてだったの?」
単刀直入に聞いてみた。
雪は怯えたように、
「いえ……何度か見てます」
暗い顔をして答えた。
――何度も見ているのに、この怯えたような素振りはなんなんだろう?
「この前、万引き犯を見たのはいつ?」
「……よく覚えてないです」
――覚えてない……雪の本屋では万引きが少ないのだろうか?
「雪ちゃんの本屋で万引きってあまりないの?」
「いえ、けっこうあります」
――私の頃は常習犯がいたが、今はいないのだろうか?
「常習犯もいるの?」
「います」
「私が本屋に勤めていた頃はなかなか捕まえられなくて大変だったけど、今も同じなのかしら」
「はい、捕まえられないです」
――それも同じだ。
「若い子が多いの? それとも中高年?」
「若い子から中高年まで色々です」
――どうやら今も本屋を取り巻く状況は同じようだ。
「実を言うとね、私が勤めていた本屋は万引きのせいで倒産しちゃったの」
雪がビクッとした。
――驚かせてしまったかしら? でも、雪ちゃんの本屋が万引きに負けないで将来も書店員でいられるようにはっきり言おう。
「それで書店員を辞めざるを得なくなって、仕事を転々とする羽目になったのね。雪ちゃんも万引きに負けないで書店員として頑張らなくちゃ」
励ましたつもりだった。
だが、何も言わず黙って俯いている。
――本当にどうしたのだろう。万引き犯を目撃したのが原因じゃなさそうだし……何に怯えているのだろう?
お酒にも刺し身にも手を付けず黙り込んでいる雪を見て、このままでは埒が明かないと考えた私は、人のいないところの方が話しやすいかもしれないと思い、
「そうだ。雪ちゃん、これから私のアパートに来ない?」
「え……?」
雪が初めて反応を見せた。
「少し散らかってるけど。その方がゆっくりできるんじゃない?」
「はぁ……いいですけど……」
私はわざと明るい表情を作って、
「じゃあ、さっそく行きましょう」
蒼い顔をほんの少し和らげて雪が頷いた。
店を出て、雪の肩に手を回して歩き出し、
「ここからすぐなのよ」
雪は黙って頷いた。歩きながら、私は秘密を打ち明けるように、
「今のアパートに人が来るのって、雪ちゃんが初めてなの」
「え?……いいんですか?」
雪が心配そうに聞いた。
「もちろん。嬉しいくらいよ」
笑顔で言いながら路地を曲がって少し歩き、アパートに着いた。
階段を上り、奥にある角部屋の前でバッグから鍵を取り出して開け、
「さあ、どうぞ。狭いけど許してね」
部屋のドアを開けて先に入り、雪を招き入れた。
「お邪魔します」
遠慮がちに靴を脱いで入ってきた雪をテーブルの前に座らせ、ベッドの上に脱ぎ捨ててあった部屋着を片付けてから、私は確認するように部屋を見回した。
1DKなのでそれほど広くはないが、昨日掃除したばかりなので整頓されていた。ベッドの横に大きな本棚があり、本やDVDをたくさん揃えて並べてある。
キッチンへ行き、
「ハーブティーしかないんだけど。雪ちゃん、飲める?」
「あ、はい……」
マグカップを二つ取り出し、
「じゃあ、カモミールにしましょうね。リラックスできるのよ」
電気ポットからカップにお湯を注ぎ、
「ティーバッグでごめんね」
謝りつつテーブルに置き、
「何か聴く?」
言いながらパソコンを立ち上げて、インストールしてある音楽の中から比較的静かな曲を選んだ。備え付けのスピーカーから女性ヴォーカルが部屋に流れ始めた。
俯く雪の向かいに座った。相変わらず顔色は悪いが、先ほどより少し落ち着いてきたようにも見える。私はマグカップを手に取り、一口飲んだ。カモミールのほんのりとした甘みが心地いい。
カップをテーブルに戻す。雪は黙ったままだ。女性の歌声が部屋を満たしている。黙って耳を傾けていると曲が変わった。哀切の漂うヴォーカルが響いた。
――ああ、この曲。あの人が好きだった曲だわ……。
想い出が蘇ってくる。
――まだ、覚えてる……広い背中、大きな手、わき腹のホクロ、穏やかな笑顔、低い声……優しく私を呼ぶ声……。
――優子……。
私のかけら……ぴったりだと思ったかけら。
――一緒に行こう。
自分で手放してしまった……離れてしまったかけら……。
――俺と一緒に行こう。
――私は……今の私だったら……いえ、無理だわ……どんな顔をして会えばいいの……。
「……優子さん?」
声をかけられて我に返った。俯いていた雪が、いつの間にか顔を上げて私を見ている。
「あ……あら?」
気付かぬうちに泣いていたようだ。頬に手をやると濡れていた。慌ててティッシュを抜き取って涙を拭い、
「いやだ、私ったら……ごめんなさいね」
無理にぎこちない笑顔を作ると雪は黙って首を振った。
少し逡巡して立ち上がり、本棚から一冊の本を取り出した。雪に手渡し、座った。
――『ぼくを探して』。
「この本、昔、付き合った人にもらったって言ったわね」
本を持ったまま雪は頷いた。
「その人とはライヴハウスで知りあったの。私、洋楽のロックが好きでバンドやってる友だちが結構いたから、よく彼らの演奏を聴きに行ってたのよ。あの人もコンピュータ関係の会社で働きながら自分でバンドを組んで、ライヴハウスでベースを弾いてたわ。好きなバンドとかよく似てて、趣味が合ったから自然と話をするようになって……気が付いたら付き合ってたの」
――今でも覚えてる、あの人がベースを弾く姿……。
「二人とも仕事があるのに、ほとんど毎日会ってた。会えない日は電話で話して、まだ携帯なんてない時代だったのに話しながら電話を切らずに二人とも眠っちゃって、朝、目が覚めたらずーっとつながったまま。電話口でおはよう、なんて事もあったわ。何だか高校生みたいでおかしいわね」
私は当時を思い出して、少し笑った。
「凄く映画に詳しい人だったの。色んな映画を教えてもらったわ。モノクロだった頃の名画から公開したばかりの新作映画まで。邦画やアメリカ映画はもちろん、フランスやロシア、香港や中国映画にも詳しくて、休みの日に……雪ちゃん、名画座って知ってる?」
雪は首を振り、初めてマグカップを手に取った。
「昔の映画を二本とか三本とか、まとめて格安で上映する映画館なんだけど、今はもうほとんどなくなっちゃたわね。当時はたくさんあったんだけど。その名画座をはしごしたりして一日に五、六本くらい映画を観せられた事もあったの。だから、いつの間にか私も映画好きになっちゃった」
私はカモミールを一口飲んで、
「本当にとても大切にしてくれて、私なんかにはもったいないくらい、いい人だった。どちらからともなく一緒に暮らそうって話になって、不動産屋の貼り紙を覗いたりしてた。ああ、このままこの人と結婚するのかな、なんて思ったわ。でも幸せって長くは続かないものね。あの人、会社で新しいプロジェクトが立ち上がって、そのリーダーに抜擢されてアメリカに行く事になったの。いつ日本に戻れるか分からないって話だったけど、あの人、とても嬉しそうだったわ」
――優子、アメリカだ。俺たち、アメリカに行くんだよ。
あの人の明るい声が想い出された。
「あの人、私も一緒に行くものだと思い込んでいたのよ。でも、当時の私は言葉も習慣も違う、新しい世界に飛び込む事に戸惑ってしまって……臆病だったのね。逃げてしまったの。今思うと、そんなこと全然大した事じゃない、あの人を信じて付いて行けばよかったのに……あの人は、そんな私の気持ちを尊重してくれたわ。それで別れたの。でも、そのすぐ後……」
私は一度言葉を切り、
「……妊娠している事が分かったの」
雪は驚いたようだった。
「医者に告げられた時、私、頭の中が真っ白になっちゃって、いつ病院を出たのかも分からなくて、あちこちフラフラ歩いているうちに気付いたらあの人の部屋の前に立ってた。どのくらいそこに立ってたのか分からないけど、仕事から帰ってきたあの人が部屋に入れてくれて、私、打ち明けたの。あの人は産んでいいって言ってくれた。私、迷ったわ。そしたらあの人、とんでもないことにアメリカに行くのを止めるって言い出したの。プロジェクトから抜ける、結婚して子供と三人で暮らそうって。私、驚いた。そんな事したら会社を辞める事になるかもしれないし、もし残れても将来が台無しになってしまうわ。あの人は、そんなの構わないって言ったけど」
――優子と子供のためなら、仕事なんてどうでもいい。
あの人の声が蘇った。
「私はそんな事絶対させちゃいけないって思った。でも、アメリカに付いていく勇気もなかった……それで結局、中絶を選んだの」
私は雪を見て、
「あの人は黙って私の決断を尊重してくれた。産婦人科で中絶の同意書の書類にサインして、いらないって言ったのに費用も出してくれて手術の日も付き添ってくれて、終わるまで妊婦さんに囲まれてずっと待合室で待っててくれた。病院からの帰り道、麻酔が完全に抜けきっていない辛そうな私を見てタクシーに乗せてアパートまで送り届けてくれた。次の日の朝まで一緒にそばにいてくれたわ。全てが済んで、今度こそ本当に別れを告げて、あの人は一人でアメリカへ行ったの」
私は一つ、溜め息を吐いて、
「……私は自分の子供を殺した、人殺しなのよ」
「優子さん……」
部屋に沈黙が流れた。
雪は、しばらく逡巡しているようだったが、何かを決意した目をして腕時計を外した。
「これ、見て下さい」
左手をテーブルの上に乗せ、私の方に差し出した。よく見ると手首に幾筋もの傷痕があった。
「雪ちゃん、これ……」
「私も人殺しなんです。しかも、自分まで殺そうとしたんです」
Chapter.15――スリルの誘惑
「私さ、昨日、駅前の本屋で万引きしちゃった。あそこってトロいヤツばっかだから絶対捕まらないしさ。もう、楽勝って感じ」
高校3年の12月の昼休み、クラスメイトで人気者の聡美の周りにいつも女生徒が集まって女子会が始まる。その聡美がいきなり言い出したので私は驚いた。聡美は派手な顔立ちの美人で成績も良く、明るい性格でみんなから好かれている。
「サトちゃん、お小遣い足りなかったの?」
思わずこぼれた私の言葉に、
「雪、なに言ってんの? お金なんて親に言えばいくらでももらえるじゃん」
小馬鹿にするような表情で言われた。確かに聡美の家は裕福で、小遣いに困る事はなかった。彼女は私に顔を近づけ、ささやくように、
「お金じゃないんだってば。スリルよ、スリル」
――スリル?
私にはよく分からなかった。聡美は続けて、
「店の人の目をごまかしてマンガを懐に隠す時、すっごくドキドキするよ。で、ちょっと店の中をフラフラして隙を見て出てくるだけ。ね? マジ、簡単でしょ?」
聡美はみんなの顔を見回した。
「マンガは古本屋に売っちゃうんだ。北口にある大きな古本屋のマンガのコーナーに、高く買ってくれるマンガのリストが貼ってあるじゃん。それを狙うんだよ」
得意げに話しているところへ、聡美と仲のいい玲子がトイレから戻ってきて仲間に加わった。
「なに? 何の話?」
「ほら、昨日やった万引きの話」
玲子は、納得、という顔をして、
「ああ、昨日のは結構高く売れたよね」
聡美が思い出したように吹き出した。
「玲子ってば、カバンの中にドンドン入れてっちゃうんだもん。さすがに私もちょっとビビったよ。あれ、10冊以上あったんじゃない?」
「12冊だよ」
玲子が自慢気に胸を張った。私はびっくりして、思わず隣にいる親友の真理子を見た。やっぱり目を丸くしている。
――まぁちゃんも知らなかったんだ。
なぜかホッとした。私は本屋で見かけた、当時好きだった小説家の新刊を思い浮かべた。早く読みたかったが、単行本は高額で私の小遣いでは買えない。読みたい本はいつも文庫になるのを待って買っていた。
あまり裕福ではない私の家では、父親に小遣いを上げて欲しいとはとても言えなかった。
県内でもレベルの高い進学校で、毎回、中間や期末のテストの順位を廊下に貼り出し、競争心を煽っている。
玲子が、
「みんなも一回やってみなよ。クセになるよ。スリルいっぱいだし」
聡美と顔を合わせ、笑顔でうなずき合っている。
「そんなに高く売れるの?」
麻子が興味を引かれたようだ。聡美が答えて、
「1冊とか2冊ぐらいじゃ大したことないけど、玲子みたいに12冊も持って行けば結構なお金になるよ。私は大体いつも5冊ぐらいかな」
「そんなに簡単なら、私もやってみようかな」
由美子もつられるように、
「そうだなぁ。今月もう、お小遣いピンチだし」
「でも、マジでお金じゃないんだって。スリルなんだってば」
聡美が繰り返した。私も心を惹かれたが、
――でも……。
ふと、父親の顔が頭に浮かんだ。私は、
「……だけど、もし捕まったら大変なんじゃない?」
「ないない。あの店のヤツら、ホントにマヌケなんだから。絶対、大丈夫だって」
聡美と玲子が大げさに手を振りながら笑った。それを聞いた私は、
――あの本、すぐ読めたらいいな……。
真理子の様子をうかがうと、彼女も気持ちが揺れているようだ。元々、本が好きで仲良くなった2人だった。
――まぁちゃんも欲しい本があるのかな……。
私は真理子に話しかけようとしたが、そこで午後の授業の始まるチャイムが鳴って話は中断し、聡美と玲子が「今の話、他の子たちには絶対、内緒だよ」と言い含めてから席に戻っていった。
放課後になり、掃除を終えた私と真理子は一緒に校舎を出た。
私は、昼休みの聡美たちの話が頭から離れず、黙って歩いていた。並んで歩く真理子もやはり考え込んでいるようだった。
先日、志望していた大学に推薦入学が決まり、「これで好きなだけ本が読める」と嬉しそうに話していた真理子は、どちらかというと人見知りで、いつも決まった友人以外とはあまり会話は交わさなかったが、私とは同じ本好き同士仲良くなり、親友になっていた。
並んで駅に向かって歩いているうちに商店街に入った。私はそれとなく、
「まぁちゃん、昼休みの話……」
「うん、覚えてる。雪ちゃん、どうする?」
「……どうしようか」
歩いているうちに本屋が見えてきた。真理子が、
「雪ちゃんは欲しい本ある?」
「うん、ある」
「実は私もあるんだ」
どちらからともなく歩みが遅くなった。本屋が近付いてくる。その時、麻子と由美子が店から出て来て、駅の方へ駆け出して行くのが見えた。
私は立ち止まり、思わず叫んだ。
「あっ! あの二人!」
真理子も立ち止まって、
「もしかして、やっちゃったのかな?」
「だって走ってったよ」
「そうだよね」
私は感心した。
「ホントに簡単にできるんだね」
思い切って言った。
「私たちもやっちゃう?」
「うん、でも……」
真理子はまだ躊躇しているようだ。
「大丈夫だと思うけど……やっぱ、やめとく?」
「……うーん、やっちゃおうか」
決意したように真理子が言った。私は、
「じゃあ、私が先に入るね。まぁちゃんは本を隠したら、お店の人の様子見てて。で、目で合図したら私、先に出るから後から付いてきて」
「分かった」
私は緊張しながら本屋に入った。少し遅れて真理子も入ってきた。入り口近くのレジにいた店員に、いらっしゃいませ、と声をかけられてドキッとした。
数人の客が立ち読みしていた。ゆっくりと店内を進む。
欲しい本は、店の真ん中にある台の上に積んであった。真理子を探すと単行本の棚の前で立ち止まり、こちらを見ていた。私は真理子を見ないように本の前に立ち、周囲をうかがった。誰にも見られていない。
本に手を伸ばした。1冊取る。中身を見るふりをしながら真理子を見ると、棚から本を抜き出すところだった。本を持ったまま、ゆっくり歩き出す。
店員を探した。文庫の棚の前で本を並べている店員が見えたが、他にはレジに一人いるだけだった。店の奥へ向かう。心臓が大きな音を立てて周囲に響いているような気がした。美術書の棚へ近づく、誰もいなかった。
――今だ!
震える手でコートの懐に本を隠した。真理子を探した。絵本のコーナーから出てくるところだった。本を手に持っていない。
――上手くいったんだ。早く出よう。
私は真理子に目配せし、素知らぬふりで自動ドアへ向かった。真理子が付いてくるのが分かった。ドアが開く。店の外へ出た。
真理子も後に続こうとした瞬間、男性の声で、
「ちょっと待ちなさい」
私は思わず走り出した。真理子が叫んだような気がしたが、パニック状態の私は走り続けた。
走って走って、気が付いたら駅に着いていた。追いかけてくる人はいない。本はまだコートの懐にある。真理子の事が気になった。スマホを取り出し、メッセンジャーアプリをで伝言を流してみたが返事がない。私は改札の前で真理子が来るのを待った。
何度かメッセンジャーアプリで伝言を流したが返事はなかった。思い切って電話をかけてみた。留守電のアナウンスが流れただけだった。気が付くと、1時間以上経っていた。
私は恐ろしくなり、真理子の事を気にかけながらも電車に乗った。
電車を降りて家に向かった私は、盗んだ本を取り出して立ち止まり、表紙を眺めた。
――スリルなんだってば。
楽しそうな聡美の声が蘇る。
――スリルなんて、全然楽しくない。
私は自分に対し、無性に腹が立った。
――こんなの、いらない。
道ばたの雑草の生えた野原に思い切り本を投げた。ガサッと音がして本が落ちた。
Chapter.16――後悔と号泣
家に着き、部屋に入ってベッドに腰かけスマホを見る。やはり既読になっていない。
――捕まったのだろうか?
頭が真っ白になった。
――雪、雪、雪、雪、雪……。
まぁちゃんが呼んでいる。
「入るぞ」
父親だった。
「何度呼んでも返事がない。晩ご飯だぞ」
「私いらない。もう寝るから」
ベッドに入ると、
――雪ちゃん!
まぁちゃんの声が頭の中に響いて眠れない……どれくらい時間が経ったのか、外が白々としてきた。気が付くと汗をびっしょりかいていた。時計は6時を指そうとしている。
――まぁちゃんが学校に来てるかも。
急いで支度をして、学校へ向かった。
生徒が続々と教室に入ってくる。入り口を見つめ、真理子を待った。ホームルームが終わり、1限目が始まったのも気付かなかった。
不意に、どこかで大声が湧き上がった。生徒たちが窓際に集まって校庭を見ている。
「誰か飛び降りたみたいだ!」
叫ぶような声が聞こえた。他の生徒も口々に、
「あれ、担任の田村じゃん! まさかうちのクラスのやつ?」
「今、走ってきたの、まぁちゃんのお母さんじゃない?」
――まぁちゃん?
思わず立ち上がり、急いで窓際へ行き前に出た。
校庭には数人の教師とまぁちゃんの両親の姿があった。
救急車とパトカーがサイレンを鳴らしながらやってきた。救急車は担架と両親を乗せ、走り去った。
副担任が急ぎ足で入ってきて、
「授業は終わりだ! 今日はもう休校だから、みんな早く帰りなさい!」
生徒たちは騒いでいたが、副担任にせかされて徐々に教室から出て行った。私も学校を出たがまぁちゃんの両親の姿が頭から離れない。
ふと、スマホを取り出すとランプが点滅している。まぁちゃんからのメッセンジャーアプリだった。
――雪ちゃん、今まで仲良くしてくれてありがとう。ずっと親友だよ。
まぁちゃんの笑顔が浮かび、涙が溢れた。激しい後悔の念に襲われ、まぁちゃんに謝りながら泣き続けた。
Chapter.17――刃先と血
いつの間にか家に辿り着いていた。
父親はまだ帰っていない。
まぁちゃんの事で頭がいっぱいで何も考えられずにいた。
部屋に入り、まぁちゃんの最後の言葉を何度も何度も読み返す。
――まぁちゃんと私の罪は同じなのに、私だけ生き残ってしまった。それっておかしいよね。
自然と机の上のカッターに手が伸びた。
しゃがみ込んでベッドに背を押し付けた。左手首を目の前に掲げ、カッターの刃先を当て、思いっ切り引いた。少しだけ皮膚の表面が切れ、血が滲んだ。
――これっぽっちしか切れないんじゃ死ねない。
カッターで何度も何度も切った。何度切っても血の量が少ししか増えない。
――これじゃ死ねない。まぁちゃんのところに行けない。
カッターの刃先を左手首に当て、何度も何度も何度も何度も何度も切る。少しだけ肉が見え、左手首は滲み出る血とぐしゃぐしゃになった肉とが混じり合ったようになるが、死ぬ事ができるほどじゃないのが分かる。
――早くまぁちゃんのところに行かなくちゃ。
カッターの刃先を傷口が広がっているところに集中させ、切る、何度も何度も切る。カッターの刃先が折れた。スライドさせて新しい刃を出して切る、切る、切る、切る、切る。
――こんなんじゃダメだ。まぁちゃんの苦しみと比べたらこんなんじゃダメだ。
傷口が広がっているのは分かるが、大量の血が出るわけでもなく、死ぬにはほど遠い。
――まぁちゃん、まぁちゃん、まぁちゃん、待っててね、あたしもそっちに行くから。ごめんなさい、こんなに時間がかかってしまって。
ぐしゃぐしゃになった肉に刃先を当て、深く切ろうとするが刃先が何か固いものに当たってなかなか深く切れない。カッターの刃をスライドさせて折り、新しい刃に替える。
今度こそ、今度こそと深く切ろうとするが、傷口が深くならない。
――どうして死ねないの? まぁちゃんのところに行けないじゃない。
何度もカッターで切っているうちに傷口に滲み出た血が幾筋か垂れてきた。
――もうすぐだ、もう少し切れば、まぁちゃんのところに行ける。
左手を床に置き、ひざまずき、右手に握りしめたカッターを高く掲げて突き刺すように切る。傷口とカッターに距離ができて命中せず、左手のあちこちに刃先が当たり、傷の数は増えるが大量の血が吹き出るほどのものでもない。
――まぁちゃん、うまく死ねなくてごめんなさい、もう少し待ってて、もうすぐ私も……。
右手に持ったカッターを高く掲げた瞬間、右手首を掴まれた。頬に何かが強烈に当たってよろけた。カッターが手から逃げていく。
「雪」
どこからか私を呼ぶ声がする。
――まぁちゃん……。
「雪、しっかりしろ」
両肩を揺さぶられて、ふと見上げると父親が目の前にいた。
「お父さん……」
父親が左手首にハンカチを巻き付けている。
「話は後だ。病院に行って縫ってもらう」
腰に両手を回した父親が私を担ぎ上げ、肩に乗せた。そのまま立ち上がり、部屋から出て、階段を下り、玄関を開けて外へ出た。
クルマの後部座席に寝そべるように乗せられ、走り出した。頭は混乱し、何が何だか分からなくなっていた。
いつの間にかストレッチャーに乗せられ、記憶は途絶えた――。
(2024/03/31 UP)
参考資料(順不同)
こども世界名作童話『三銃士』作・デュマ/文・砂田弘(ポプラ社)
こども世界名作童話『ああ無情』作・ユーゴー/文・砂田弘(ポプラ社)
こども世界名作童話『がんくつ王』作・デュマ/文・小沢正(ポプラ社)
こども世界名作童話『トム・ソーヤーの冒険』作・トウェイン/文・越智道雄(ポプラ社)
こども世界名作童話『フランダースの犬』作・ウィーダ/文・大石真(ポプラ社)
『ぐりとぐら』文・中川李枝子/絵・大村百合子(福音館書店)
『ぼくを探しに』作・シルヴァスタイン/訳・倉橋由美子(講談社)
『新装版 ムーミン谷の仲間たち』作・ヤンソン/訳・山室静(講談社文庫)
『私は本屋が好きでした』永江朗(太郎次郎社エディタス)
『「本が売れない」というけれど』永江朗(ポプラ新書)
『本屋、はじめました 増補版 ――新刊書店Titleの冒険』辻山良雄(ちくま文庫)
『世界の美しさをひとつでも多く見つけたい』石井光太(ポプラ新書)
『こぐまのケーキ屋さん』カメントツ(ゲッサン少年サンデーコミックス/小学館)
『黄色いマンション 黒い猫』小泉今日子(新潮文庫)
『檸檬』梶井基次郎/入力:j.utiyama・校正:野口英司(青空文庫)
『サンドのお風呂いただきます「浜名湖編」』出演/サンドウィッチマン他(NHK)
『古本買取・販売バリューブックス』(https://www.valuebooks.jp/)
*誤字脱字等ございましたら、下記コメント欄にて指摘して頂ければ幸いです。
*週に1度程度UPしていく予定です。
野良猫を育て最盛期は部屋に6匹。最後まで残ったお婆ちゃん猫が23歳3ヶ月で急逝。好きな映画『青い塩』『アジョシ』『ザ・ミッション/非情の掟』『静かなる叫び』『レオン/完全版』『ブレードランナー』etc. ヘッダー画像:ritomaru(イラストAC)