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「人生が何回あるかわからんやん、けどな、少なくとも最低ひとつの人生はここに与えられとるんやから、これ楽しまな損やで、せっかくの人生や、楽しまなもったいないやん」

私達は一度しか生きられないのか、それとも天国で永遠のいのちを手に入れられるのか、それとも地獄で永遠に苦しむのか。

そういったことは、数々の宗教が説明してきているが、科学的なエビデンスはまだ誰も出せていない。

ただ、友人はこう言っていた。「人生が何回あるかわからんやん、けどな、少なくとも最低ひとつの人生はここに与えられとるんやから、これ楽しまな損やで、せっかくの人生や、楽しまなもったいないやん」

彼女はイタリア人で、これをイタリア語で言ったのだが、関西弁に直すとすんなり入ってくるので勝手に加工している。

私達は、きょう死ぬかもしれないし、150歳まで生きるかもしれない。それは誰にもわからない。ただ、クリスチャンとしては、それは神様にすべてを任せるしかないのだと思っている。とはいっても、理不尽な死に方が目の前に迫っているときにそう思える自信は全くない。

まだ来ないから未来と言うんだと、誰かが言っていた気がする。過ぎ去ったから過去と言うんだと。こういったときは、過去はもう過ぎ去ったことでもうどうにもならなくて、編集も削除もできない。未来はまだ来ないから、どんなものになるのかまだわからない。いまは、あなた次第でどうにでもできるポテンシャルを持っている。楽しむも悲しむもあなた次第。だから「現在(present)」は「贈り物(present)」と呼ばれるんだ、といったことを言われたのを思い出す。苦しいときにこんなことを言われても「知るか」としか言えないのだが…。

英語のテンスでpresent perfect(現在完了)というものがあるが、この単語自体は「贈り物」「完璧」という意味もあるのだと思うと、英語って面白いなと思う。英語は多義性が多い言語だと言われている。ひとつの言葉にたくさんの意味がある。だから英語の辞書をつくるのはとくに大変なのだという。

ただ、「現在完了」と「完璧な贈り物」が同じ単語で表されるのは、偶然ではないと思う。

現在完了がテンスかアスペクトかについては、ここを参照した。

https://www.quora.com/Is-present-perfect-tense-or-aspect-Is-it-wrong-to-say-present-perfect-as-tense-or-aspect

私は希望論は嫌いだ。絶望しているほうがまだ自分に正直だからだ。無理矢理希望を持とうと思うと、そこには必ず自己欺瞞と偽りと嘘が満ちてしまう。

生きている過程には、たいがい痛みが伴う。病気をしたり、けがをしたり、こころを病んだり、ストレスがからだにのしかかってきたり、こういったことはすべて「痛み」だ。

そして死ぬときにも、大概のひとは苦しんで死んでいく。ある場合にはさよならすら言えずに、ある場合には果てしない孤独を感じながら。

そんなある意味救いがないといえてしまうこんな世界に、両親の一瞬の気の迷いで生まれてきてしまった私達は、自殺するか、生きるかという選択を常に強いられている。私達がこの楽しみも苦しみもあるけれど苦しみのほうが多いと感じられる舞台から自主的に降りるためには、自殺という選択肢くらいしか方法はない。ただ、覚えておきたいのは、自殺というのはあくまで精神的にひどく追い込まれた場合に最後の自己防衛として起きる行為なのであって、自殺したひとあるいはしようとしているひとは決して弱いわけでもなく、決して悪くないということだ。そして、私は自殺を推奨していない。自殺は楽に死ねるわけではないケースがほとんどだからだ。

となると、惰性でも自己欺瞞でも嘘でもなんでも、生きていくしかない。ただ、生きていくしかないと思うと余計にしんどくなるのが人生だ。いつでもこころに青酸カリを持って、死にたかったらいつでも死んでいいと思いながら生きたほうが、結局自殺しないですむし、結局幸せに生きられるのだと私は経験則から悟っている。なぜなら、「いつでも死ねる」ということは、「いま死ななくてもいいでしょう」ということと同義だからだ。

「今度旅行に行くから、それまで生きよう」とか、「あしたいいことがあるかもしれないから」とか、そういった生き方だっていい。どうか、生きていてほしい、そう読者の皆さんに思うのは、それは100パーセント私のエゴで、誰かが死んだと聞いて悲しみたくないという汚い自分の意志なのだが、それでも思う。どうか、生きていてほしい。そうすれば、美味しい食事が最低1回は食べられる機会があるだろうということを、私は確信している。そしてその食事は、ずっとあなたを支えてくれる。

人生を楽しめと言われても楽しめないのが人生だろう。そう簡単に楽しめたら苦労などしない。ただ、人生が100パーセントの希望でもないように、100パーセントの絶望でもないのが人生だ。たまにきらきらした瞬間があって、そのときに「私はまだ立ち上がれる」と思えるのが人生だ。過度なオプティミズムはあなたを躓かせるが、過度なペシミズムもまたあなたのこころを蝕んでしまう。結局、ペシミズムとオプティミズムの間を綱渡りしていくしか、生きるということは説明できない。

綺麗なものでもないが、そんなに汚いものでもないと、遠くから人生を見てみると思うことがあるかもしれない。そのときにきらきらした希望になってくれるのが、美味しい食事だ。私は愛されている、私は誰かを愛せる、私は生きていける。そういったことを考えさせられるのが、美味しい食事の効用だ。私は大真面目に言うが、精神科のおくすりを何十錠あるいは何錠も多剤併用するだけのお金があれば、そのお金で美味しいものを食べたほうが、幸せになれると確信している。そういった論文でも書けそうだ。

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