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みんなが美味しい食事を食べられる世界にするために、私達にできること

写真: 有馬温泉で食べたお肉

写真: 有馬温泉で食べたお肉

11人に1人は飢餓に直面している

世界の飢餓人口は約7億3500万人。 11人に1人が飢餓に直面している。
しかし、食料が足りないから飢えるのではない。食料が正常に分配されないから飢えるのだ。
世界には私達が食べられるぶんの食料は既に確保できている。それが平等に割り振られ、食品ロスが減らせれば、誰も飢えることのない社会というのは決して遠い目標ではない。

https://www.researchgate.net/publication/241746569_We_Already_Grow_Enough_Food_for_10_Billion_People_and_Still_Can't_End_Hunger

このリンクによると、地球は既に100億人を飢えさせずに育つことができるぶんの食料を持っている。この先人口が20億人増えても、私達はそれをちゃんと分け合えば生きていけるだけの余裕があるのだ。

それなのに、約7億人が飢えているという現実がある。
それは間違いなく、世界の不均衡がある。そして、世界の「中心」と「片隅」があることを意味する。

誰も端っこで泣かないように、君は地球を丸くした

これは私が度々引用する、RADWIMPSという日本のアーティストの「有心論」という歌詞の一部だ。
地球は丸い。
それは誰が何と言おうと、宇宙から見ればわかる。
ここでは地球平面論説などを語る気はない。
現代の科学と映像技術は、地球が丸いことを証明している。

それでも、私達が生きている地球について私達が想像している姿は、実は平面なのではないかと思うことがある。
私は地球平面論者ではない。
ただ、もし地球が一枚の世界地図だとするならば、そこには必ず隅があり、そして中心がある。

日本で売られている地図は、日本を中心として描く。
欧米で売られている地図は、ヨーロッパを中心として描く。
オーストラリアで売られている地図は、オーストラリアを中心として描く。

世界地図ではなく、地球儀を掲げたい

地球儀を見ると、そこにはどこも等しく平らで、光が当たっている。
私達が求めるべき社会は、世界地図のように中心と隅があるものではなく、地球儀のように誰もが公平な場所だ。
しかし、いくら地球が丸くても、そこには必ず隅に追いやられるひとたちがいる。
そして、そのひとたちが「はずれくじ」を手にする。

世界のひとたちが騒ぐことはなく、静かに空腹のまま死んでいく。
世界のひとたちが見るテレビやインターネットや新聞に載ることなく、世界の片隅で夜の暗さや冬の寒さに耐えきれずに、死んでいく。

そして、そういった「片隅」は、当然日本にもある。

日本の狭い部屋の中で生きる私達と、醤油を借りる昭和の時代

昭和時代には、「醤油を借りる」という文化があった。
インターネット通販もないし、スーパーマーケットも遠かった時代、そしてそれらがはやく閉まってしまう時代、醤油が切れているとその日の料理にも困る。
そして、買いに行く手段がないし、手に入る手段もない。

隣人の家に行って、醤油をくださいと言う。
隣人は快く醤油を貸す。

ただ、醤油は「借りられる」ものや「返せる」ものではなく、当然「なくなる」ものだ。
「あなたは57ml使ったので1ml=1円として57円払ってください」など言えたものではない。水道代とはわけが違うのだ。

では、私達はなにを借りたのだろうか?
私達が借りたのは醤油ではなく、「借り」だ。

次に隣人があなたのもとを訪ねて、味噌が足りないから貸してと言う。
あなたは快く味噌を貸す。

日本ではキリスト教信者が1パーセントだということが知られているが、実はその核心である「隣人愛」の思想は、意外と身近なところに根付いているのだと思うことがある。

現代では、みんなが豊かになって、社会も成熟してきた。
わざわざ隣人の家のチャイムを鳴らして、心苦しい思いをしながら醤油を借りずとも、深夜でも早朝でも、コンビニエンスストアに行けば良くなった。
ただ、その便利さと引き換えに、私達はなにかを失ったのだろう。

ただ、みんなが孤独の海に溺れ、インターネットの承認欲求の波に埋もれていく。
昭和が良かった、戻りたい、といったノスタルジアを語りたいわけではない。
そして、たとえば地球環境をより良くするために石器時代に戻ろうとか、そういったことを言いたいわけではない。
世界は変わったのだ。ひとをより頼りにくくなるような方向に。

孤独死と過労死の共通点

孤独死は、マンションの部屋などで孤独に死ぬこと。
過労死は、働きすぎで死ぬこと。
どう見ても違いはないように見えるかもしれないが、「分け合えば救われたかもしれない」という共通点がある。

健康上の悩みや不安、心配事、近所づきあい、お友達などがいれば、救われたかもしれない孤独死したひと。
仕事が均等に割り振られ、労働による圧力を誰かに共有できていれば、救われたかもしれない過労死したひと。

結局、人類は食事を世界中のみんなと共有することも、悩みや仕事を共有することもできないのだろうか。

誰もが美味しい食事を食べるには、美味しい食事を分け合うこと―ウクライナのコーヒーについてお友達から教わったこと

あるウクライナの友人に、私はこんなことを聞いた。
「ウクライナのコーヒーは美味しいと聞くし、とくにリヴィヴのコーヒーは美味しいと聞くけれど、ほんとうに美味しいの?」

彼女は一瞬の迷いもなく、私の言ったことを否定した。
「ウクライナはコーヒーが美味しいわけじゃないよ。でも、お友達とコーヒーを飲みあうから美味しいんだよ。ひとりで飲んだコーヒーはどれも不味いし、みんなで飲んだコーヒーはどれも美味しい」

美味しい食事は、それだけでももちろん美味しい。
ただ、分け合うともっと美味しくなる。

イタリアのcaffè in sospesoという概念

イタリアには、caffè in sospesoというものがある。
イタリア人にとって、コーヒーは欠かせないものだ。
毎朝バールに通い、立って新聞を眺めながらコーヒーを飲み、職場に向かう。
そういうライフスタイルをとっているイタリア人は案外多い。
新聞は家庭の郵便箱には届かないから、バールで無料の新聞を読む。
店員さんやお客さんと世間話をする。
現在のイタリアでは、1ユーロ程度でコーヒーが飲める。
しかも、それは美味しい。

イタリアには、コーヒーを「次のひとに譲る」という考えがある。
第二次世界大戦のナポリにおいて、コーヒーすら飲めないほど貧しくなった一部の市民のために、まだお金に余裕があった一部のひとがコーヒーを奢った。
これがcaffè in sospesoというものだ。

少し長いが、これについて書かれたものを載せる。

Un caffè in sospeso
Sono entrato in un piccolo bar con un amico e mentre ci stavamo per accomodare al nostro tavolo, sono arrivate due persone che si sono avvicinate al bancone: "Buongiorno, cinque caffè, per favore.
Due per noi e tre sospesi". Hanno pagato, hanno preso i loro due caffè e se ne sono andate.
Per curiosità ho chiesto al mio amico: "Cosa sono i caffè sospesi?".
Ed il mio amico mi ha risposto: "Aspetta e vedrai".
Dopo poco sono entrate altre persone, due ragazze hanno ordinato un caffè a testa, hanno pagato e se ne sono andate, in seguito sono arrivati tre avvocati che hanno chiesto sette caffè, tre per loro e quattro "sospesi".
Mentre continuavo a chiedermi quale fosse il significato dei caffè sospesi, all'improvviso, un uomo con indosso dei vestiti consumati che sembrava un mendicante è arrivato al bancone e ha chiesto gentilmente: "Hai un caffè sospeso?".
Il barista gli ha servito un caffè. Alla fine ho capito che la gente paga in anticipo un caffè da offrire a coloro che non possono permettersi una bevanda calda.
Questa tradizione è iniziata a Napoli, ma si è diffusa in molte parti del mondo e in alcuni posti è possibile ordinare non solo il "caffè sospeso", ma anche un panino o un pasto completo...

次の人へのコーヒー
友人と小さなカフェに入り、テーブルに座ろうとしたとき、2人がカウンターにやってきた。
おはようございます、コーヒーを5つください。彼らはお金を払い、2杯のコーヒーを飲んで出て行った。
好奇心から、私は友人に尋ねた。
すると友人はこう答えた。
しばらくして他の客が入ってきて、2人の女の子が1杯ずつコーヒーを注文し、お金を払って出て行った。
飲まなかったコーヒーの意味は何なのだろうと思い続けていると、突然、着古した服を着た物乞いのような男がカウンターにやってきて、"次の人へのコーヒーはありますか?"と丁寧に尋ねた。
バリスタは彼にコーヒーを出した。やがて私は、温かい飲み物を買う余裕のない人々にコーヒーを提供するために、人々が前払いしていることに気づいた。
この習慣はナポリで始まったが、世界各地に広まり、「コーヒー」だけでなく、サンドイッチや完全な食事を注文できるところもある......。

日本でも、お金のあるひとが食事チケットを買い、お金がないひとに「寄付」するというフードリボン運動(といった名前だったと思う)がある。

そういったことが、地球を世界地図から地球儀にすること、世界のみんなと食事を分け合うことにつながるのだろう。

みんなが美味しい食事を食べられるように

分け合って、余裕のあるひとは誰かに奢って、そしてみんなで美味しいものを食べよう。
誰かに食事を奢ることも、愛のかたちだ。
誰かから食事を奢られることも、愛のかたちだ。
自分にご褒美をあげることも、愛のかたちだ。
その視野をもうすこし広げてみよう。
地域に住む貧しいひとを支援するために。
世界中の片隅にいるひとを支援するために。
ひとりでも多くの人が「美味しい食事を食べられた。満たされて、幸せだった」という経験ができるように、世界をつくっていこう。


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