見出し画像

ここにいるよ「命の騒めき」菅波光太朗と犬井桃太郎物語《後編》(『おかえりモネ』二次小説)

前編の続き

 気仙沼市に到着し、タクシーに乗り換え、気仙沼大島大橋を渡って、百音さんの実家のある亀島へ向かった。百音さんの身体を気遣ったお母さんが少し前から実家に呼び寄せてくれていたのだ。寄り道したせいか日が暮れてしまっていた。東京の桜はとっくに散ってしまったけれど、気仙沼の桜はまだ咲き始めという感じでこれから見頃を迎えそうだった。
「会いたかったです、サヤカさん。初めまして、犬井くん。そしておかえりなさい、光太朗さん。」
「ただいま。」
百音さんが僕らを出迎えてくれた。
「会いたかったよ、モネ。体調は大丈夫なの?」
「この人がコータロー先生のお嫁さんのももねさん?はじめまして。」
「体調は変わらず、妊婦のわりに元気な方だと思います。そう、私は菅波百音です。言いにくいだろうからモネでいいからね。」
「うん、ありがとう。モネさん。」
「サヤカさん、よくいらして下さいました。犬井くん、初めまして。百音の母です。光太朗先生、おかえりなさい。今、おじいちゃんとお父さんは未知の研究の手伝いでしばらく東京だから、百音の二人きりで静かだったから、にぎやかになって今夜はうれしいわ。」
「あら、龍己さんも耕治さんも留守だったの。龍己さんとも話したかったのに残念だわ。」
「お母さん、犬井くんのこと、よろしくお願いします。」
「ごめんなさいね、サヤカさん。そんな難しい顔しないで、まずはみんなでお食事しましょうか、光太朗先生。」
夕食にお母さんと百音さんが二人で作って用意してくれていたご馳走をみんなでいただいた。百音さんは和食が苦手になってしまったようなことを言っていたけれど、僕らのために匂いも我慢して作ってくれたのかもしれない。海鮮を中心とした温かくておいしい和食を感謝しながらおいしく食べていた。
「あれっ?もしかして犬井くんは牡蠣苦手?」
犬井くんは牡蠣だけ手をつけずに残していた。
「うん…ごめんなさい。」
「無理しなくていいよ。じゃあ犬井くんの分の牡蠣は先生がもらうね。」
僕は牡蠣が苦手だった当時の自分を思い出していた。牡蠣を食べられるようになったのは百音さんと出会ってからのことで、犬井くんくらいの時に食あたりして以来、苦手になっていた。でもその苦手を克服した僕は残った牡蠣に手をつけるまで成長していた。大人になれた気がして少しうれしかった。なんかこういうのって親子でありそうな展開じゃないか?仕方ないからお父さんが食べてやるよ的な。近い未来に起きるかもしれないことの予行練習ができたと思うとうれしくなった。
「光太朗さんも無理しなくていいよ?あまり食べ過ぎておなか壊してまた牡蠣が苦手になってしまったら悲しいもの。」
「えっ?もしかしてコータロー先生も牡蠣苦手だったの?」
百音さんが余計なことを言うから、僕の大人としての振舞いは台無しになってしまったじゃないか。
「うん…百音さんと出会って、百音さんのおじいさんが作っていた牡蠣を食べて好きになれたんだ。だから犬井くんくらいの時は牡蠣ダメだったんだ。」
仕方なく僕は白状した。
「そうなんだ、コータロー先生も苦手だったなら同じでうれしいな。ぼくも大人になったら食べられるかもしれないし。」
犬井くんは妙にうれしそうだった。

 食事の後、犬井くんと僕は男同士一緒にお風呂へ入り、同じ部屋で寝ることになった。隣の部屋ではサヤカさんと百音さんが一緒に寝ることになった。きっと久しぶりに再会し、二人きりで話したいことが山ほどあるのだろう。サヤカさんからは「モネと一緒にいたいだろうに、私がとっちゃってごめんね。」なんて言われた。一緒にお風呂に入ったくらいだし、もう犬井くんと二人きりで緊張することはなかったけれど、子どもと一緒に寝るなんて不思議な感覚だった。

 絶え間ない波の音が聞こえる寝室に、犬井くんの寝息が混じった頃、僕はまだ慣れない波の音になかなか寝付けない夜を過ごしていた。しばらくすると、サヤカさんと百音さんの話し声がふすま越しに微かに聞こえてきた。
「モネ…少し、話をしてもいいかい?モネの体調が良ければだけど…。」
「もちろん大丈夫です。私も、サヤカさんと二人きりでゆっくり話したかったんです。こんな風に布団を並べて寝るのはあの台風の日以来ですね。」
「ありがとう。あれからもう随分経つね…。モネが菅波先生と結婚して子どもを授かったことだし、もっと長生きして、その子の成長を見守りたいって心から思うよ。」
「サヤカさんのおかげで光太朗さんと出会えたようなものなので、米麻で過ごせたこと、感謝してます。まさかこんなにすぐに授かるとは思ってなかったんですが、授かったら、自然とこの子を守らなきゃって思えるようになりました。病院で初めて子宮の中を確認してもらった時、真っ暗な胎嚢の中で規則的に瞬き続ける小さな命を見せられたら、感動してしまって。星より宝石より綺麗な光に見えたんです。気嵐や移流霧の中で灯る明かりのような希望に思えたんです。この世の中にこんなに美しくてこんなに守りたいと思えるものが存在するんだと気付いたら、泣けてしまって…。かけがえのないこの子をちゃんとおなかの中で育てて、無事に産んで大人になるまで責任を持って育てなきゃって思いが強くなればなるほど、私は、なんだか前より自己中心的な人間になってしまった気もしてるんです。前はもう少し周りの人とか他者のことを考えられたのに、今じゃあ子どもと自分のことばかり考えてしまって…。特に最近は毎日ちゃんと成長してるかなって赤ちゃんのことばかり考えてしまいます。」
そんな風な気持ちが芽生えていたなんて、僕はまだ聞かされていない話だった。
「母親になったんだから、子どものことを一番に考えるのは自然なことだよ。モネは少し周囲の人を心配し過ぎる性格だったから、少し自己中心的になった方が健全だよ。妊娠中くらい、自己中になって子どもと自分のことだけ考えてもいいんじゃない?何も気に病むことはないよ。二つの大事な命を抱えながら生きる妊婦は自分のことを優先していいと思うんだ。」
「サヤカさんからそう言ってもらえると、こんな自分でもいいのかなって思えます。子どもを守るためには仕方ないですよね。犬井くんのお話を母から聞いたんですが、犬井くんって生まれる前に亡くなってしまって、お母さん一人で育てているんですよね?だからこんなことは考えたくないけど、いつか私より先に光太朗さんがいなくなってしまったとしたら、その時、私は一人で育てられるかとかいろいろ考えてしまって…。」
百音さん、大丈夫だよ、僕は我が子と百音さんを残して早逝したりしないからと言いたくなったけれど、犬井くんのお父さんのように不慮の災害や事故の懸念を考慮すると、簡単に約束することはできないと思った。
「あぁ、そうだよ。犬井くんがお母さんのおなかの中にいる最中に、お父さんは津波で亡くなってしまったそうだよ。犬井さんにはお母さんお父さんがいたんだけど、数年前に亡くなってしまって、今では一人きりで子育てしているよ。生きていれば何が起きるか分からないけれど、でも万が一、モネがシングルマザーの立場になってしまっても、きっと大丈夫だよ。誰かが支えてくれるから。生きていれば私もちゃんと協力するし。モネは前より精神的にたくましくなったから大丈夫だよ。あまり余計なことを考えないで、とにかく今は自分の身体を大事にするんだよ。妊娠初期が一番大事な時期だからね。」
「犬井くんのお母さんは苦労されているんですね…。そうですね、あまり考えすぎないようにします。今の私にはサヤカさんもお母さんもみんながついてくれていますし。ありがたいです。光太朗さんやお母さんからもよく言われます。無茶しないで、もう少し身体を大事にしなさいって。」
少しの沈黙の後、サヤカさんは自分の過去をゆっくり語り出した。僕は勝手に聞いてはいけないかもしれないと思いつつ、聞いてしまった。
「モネも知っての通り、私は四回の離婚歴があってね。誰と結婚してもなかなか子どもは授からなかったんだ。もう諦めてもいたよ。私のところには赤ちゃんは来てくれないんだって。でも…39歳の時、たった一度だけ、そっと人知れずほころぶ花のように授かることができたんだ。さっきモネが言った通り、病院で我が子の心拍を見せられたらね、彩雲より虹より流れ星より何より尊い光だって思えたよ。この世にこんなに素晴らしい奇跡が存在するのかって。母親としてこの子を守らなきゃ、何より大切にしなきゃ、もっと言えばこの子以外何も大切なものはないくらいに思っていたんだけどね…。子どものことは大事にしていたのに、自分の身体のことは過信していたんだね。つわりもほとんどなくて動けるし、自分は健康だし元気だし、これくらい大丈夫って思って、妊娠前と同じように重い物を持ち上げたりして過ごしていたら、ある日突然出血して、流産してしまったの…。医者から胎児の心拍が止まっていると告げられた時、私は甘くて浅はかだった自分の行いを後悔したわ。悔やんでも悔やんでも小さな命が息を吹き返してくれることはなかった。まだ9週だった…。たった9週だけ、私はあの子に母親にしてもらったの。母親失格の行動をしてしまったけど、母親だったあの9週間は今でも宝物みたいな時間だよ。産んではあげられなかったけれど、たしかに私の中にあの子がいて、小さな命が生まれよう生きようと密かに輝いてくれていたあの期間は生涯忘れられないよ。」
「サヤカさん…流産してしまった経験があるんですね…。赤ちゃんがいたなんて、全然知りませんでした。」
「身ごもっているモネに流産の話は不謹慎かもしれないけど、私のような思いはしてほしくないから教えたよ。出産、育児の経験はないからたいしたアドバイスはできないけど、命って奇跡の連続なんだよ。まず授かることが奇跡、無事に産まれることも奇跡、そして大人になるまで生きられることも奇跡なんだ。我が子と一緒に過ごせることも奇跡だし…。早く忘れないとつらくて死んでしまいそうって思った時期もあったけれど、今となっては完全に忘れてしまった方が寂しいって思えてね。産んで育ててあげられなかった分、忘れないことしかできないって思うんだ。だからちゃんと覚えているし、時々あの子のことを思い出すようにしてるの。だってあの子がこの世に生を与えられたことはもはや私しか覚えていないんだもの。生まれてないから、誰とも出会えていないし、誰もあの子のことを知らない…。私まで忘れてしまったら、あの子が生まれようとしてくれたこと、何も残らないものね。せめて自分だけは死ぬまで覚えていて、なるべく長生きして自分の中であの子という存在を生かし続けたいと思っているよ。あの子の代わりに木を育てながらね…。いつか死んでしまって、あの世であの子と再会できたらと考えたりもするけど、どこかでとっくに生まれ変わって生きていてほしいという気持ちもあるよ。この世界の美しい景色を見せてあげたいって思ってたから。太陽の光、木の匂い、波の音…。何も教えてあげられないまま旅立たせてしまったから、せめて生まれ変わってこの世界を感じてほしいんだ。」
「つらいことを思い出させてしまってすみません。でも教えてくれてありがとうございます。ほんとに授かったこと自体、奇跡ですよね。無理せず、もっとちゃんと自分の身体を大事にしなきゃって思いました。どうしてもつわりが軽いと動いてしまいがちですよね。私もそうなので…。サヤカさんから教えてもらったので、私もサヤカさんのおなかの中にいた子のこと、大事にして忘れません。時々思い出すようにします。だからサヤカさん、一人じゃないですよ。きっとサヤカさんの近くに生まれ変わっていて、この世界の美しい景色を見ていると思います。サヤカさんの思いはきっと届いてますよ。」
悪いと思いつつ聞いてしまったサヤカさんと百音さんの話を聞いているうちに、なんだか僕は無性に泣けてきてしまって、布団をかぶって涙を堪え始めた。
「モネにもあの子を認識してもらえてうれしいよ。モネに覚えてもらえたら、もういつ死んでも安心だ。」
「いつ死んでも安心なんて言わないで、長生きして、私の子が大人になるまで見届けてください。側にいてください。私…赤ちゃんができてこの上なく幸せでうれしい反面、怖さや不安も増したんです。また大きな地震が起きて、津波が襲ってきて、命が脅かされる事態に直面することもあるかもしれないし、世界レベルで考えれば戦争だって起きている。事故や災害が起きたとして、私はどうやってこの子の命を守れるだろう、守り切ることができるだろうかってずっと考えてしまいます。だから私のことを見守ってくれる頼れる人がいてくれたら、本当に心強いんです。」
「妊娠中は幸せな分、同じ分だけ不安にも襲われるものだからね。大丈夫だよ、モネには菅波先生がいるし、気仙沼の家族も友だちも米麻の仲間も私もみんなついてるから。命が続く限り、お節介させてもらうから。でもね、たとえ災害や戦争が起きてしまったとしても、それで失われてしまう命もたしかにあるけれど、でも命が途絶えることはないんだ。どんな過酷な状況だとしても妊娠して出産する女性がいる限り、命は途絶えることなく、次の世代に命のバトンは託されるんだよ。戦時中だってさうやって命をつないでくれた人がいるおかげで、今の私たちが存在するんだからね。地震が起きたから、戦争が起きてしまったからと言って妊娠をストップすることはできないし、どうにかして産もうとするものなんだ、母親っていうのはしぶといものだよ。ほら私たちだってお互い、大きな台風が直撃した日に生まれたじゃない?厳しい状況で産んでくれた母親と命を救うため必死に協力してくれた人たちに感謝しないとね。みんなが命懸けで助けてくれたおかげでモネや私はこうして今も人生を歩めているんだから。」
「そうですね…。どんな災害が起きても、戦争が起こっても、産んでくれた女性たちがいるから、今の私たちの命が続いているんですよね…。もしかしたら疫病の流行や不安的な世界情勢など鑑みてこんな時代だから産まない方がいいと授かることをためらっている人もいるのかもしれないけれど、そんな中でも命の営みが途切れることはないから、未来に希望を見出せるんですよね。私もこれから先、何が起きたとしてもこの子の命を守り切って、がんばって産もうと思います。何しろ最近更新された最新の出産予定日が10月半ばで秋だし、もしかしたら私と同じように台風が発生している最中に生まれるかもしれないと不安になっていたんです。でももしもそうなったとしてもサヤカさんのお母さんや自分の母のように何が何でもがんばって産みます。三人とも台風の日生まれになる可能性は十分にありますね。」
「なんだか暗い話をしてしまってすまなかったね。でもモネにとって何か得られるものがあったなら、話して良かったと思うよ。それから自分の子には会えなかったけど、モネと出会えて一緒に暮らせた時期があって、こうして今があるから私は幸せ者だよ。ありがとうね、モネ。ついつい長話をしてしまったね。身体を大切にとか言っておきながら、妊婦の睡眠時間を削ってしまったよ。そろそろ寝ようか、おやすみ、モネ。とおなかの赤ちゃん。」
「サヤカさんの話を聞けて良かったです。こちらこそありがとうございます。おやすみなさい、サヤカさん。」
やっぱりサヤカさんには敵わないなと涙を拭いながら僕は結局最後まで二人の話を聞いてしまった。

《誰も知らない 命の騒めき 目を閉じて ひと粒 どこにいたんだよ ここにいるんだよ ちゃんと ずっと》
《何か探していたの そして失くしてきたの 細く歌う小さな灯火》
《どれほど弱くても 燃え続ける小さな灯火》 「Flare」

 翌日、百音さんのお母さんの提案でなぜか僕は犬井くんとキャッチボールをすることになった。お母さんがいつも勉強を見てあげている子どもたちの息抜き用にと、グローブやボールを一式用意しているらしかった。キャッチボールは当然、僕の苦手分野だ。ボールだけでなく、全般的に僕は投げられるものを手でキャッチする能力が低い。いつか百音さんが投げるものなら何でも受け止めますなんてかっこいいことを言っておきながら、未だに百音さんが投げてくれるものさえ、取りこぼしてしまうことが少なくない。とは言え、昔と比べたら、特に百音さんが投げるものならまぁまぁ拾えるようになったと思う。
「コータロー先生、ぼく、キャッチボール苦手なんだけど…。」
「大丈夫だよ、犬井くん、僕もキャッチボール苦手だから。」
全然大丈夫じゃないじゃないか。キャッチボールが苦手な者同士でキャッチボールをしようとしても、お互いに落としてばかりで、おもしろいわけがない。
「二人とも全然キャッチボールになってないね…。」
近くで眺めていたサヤカさんからは呆れられてしまった。
「光太朗さん…昔から何でも受け取るの苦手ですから…。」
百音さんも渋い顔をしていた。
「苦手でも、投げ出さず、とにかく続けることに意味があるのよ。」
なんて言ってお母さんだけは微笑ましそうに見つめて、へなちょこな僕らを信じてくれた。
 二人してボールを追いかけてばかりじゃ、もはやキャッチボールではなく、ただの球拾いの練習だ。この状況をなんとか打破しないと。もしも男の子が生まれたらこうしてキャッチボールをする機会があるかもしれない。その時のためにも、僕はキャッチボールを克服しないといけない。そう思い立った僕は、気合を入れ直した。そして猫背気味だった背中をしゃんと伸ばした。
「犬井くん…どうやら僕らは技術ではキャッチボールをマスターできない気がするんです。スポーツで言う根性、精神面を鍛えるしかないのではないかと。」
「たしかに…でも精神面ってどうやって鍛えるの?」
「僕は…この通り、キャッチすることが昔から苦手です。でも百音さんが投げるものなら何でも受け取ってやるという強い気持ちがあって、わりと受け止めることができます。つまり相手を思いやり、相手と自分自身を信じることが大切なのではないかと。」
試しに百音さんにボールを投げてもらうと、僕は何とかキャッチすることに成功した。犬井くんに偉そうなことを言ってしまった手前、落とすわけにもいかなかった。
「コータロー先生、モネさんのボールならキャッチできるんじゃないか。相手を思いやり、相手と自分を信じることか…。先生はぼくのボールはキャッチできないから、ぼくのことは信じてくれてないんだね…。」
「いや、信じているよ。これからもっとちゃんと信じるよ。だから犬井くんも僕のことを信じて、気持ちを込めて投げてみて。」
そんな綺麗事を言ってしまったからには、何が何でも彼のボールをキャッチしないといけなくなった。
「うん、わかった。じゃあ…コータロー先生、投げるよ?」
「犬井くん、任せて。」
僕は全神経を犬井くんが投げるボールに集中させた。そして見事にキャッチすることができた。
「やった、コータロー先生がぼくのボールを取ってくれた。」
「やったよ、犬井くん。じゃあ今度は犬井くんの番だ。僕のこと信じてね。」
「うん、わかった。がんばるよ。」
犬井くんも僕のボールをキャッチすることに成功した。
「あの二人…少しずつ息が合うようになってきたね。」
サヤカさんや百音さんも微笑みながら僕らを見守ってくれるようになった。
 当然、百発百中とはいかないけれど、五割以上はキャッチボールが成立するようになった。
「ぼく、キャッチボールが苦手だから、友だちが野球とかしていても混ぜてってなかなか言い出せなかったんだ。でも少しはできるようになったから、今度は混ぜてって言ってみようかと思う。」
犬井くんはぽつりとそんなことを言い出した。
「そうだったんだ。自分から勇気を出して仲間に入れてって言ってみることも大事だよね。これだけ努力して少しはキャッチボールできるようになったんだから、大丈夫だよ。自信もって。」
「うん、ありがとう。本当はお父さんがいたら、こんな風に一緒にキャッチボールができたと思うんだ。練習に付き合ってくれたと思うし…。ぼく、一緒にキャッチボールしてくれる人いなかったから、コータロー先生が一緒に練習してくれてうれしいよ。本当にありがとう。」
もしかしたらお母さんは犬井くんがこんな風に自発的に変わってくれることを信じて、あえて苦手なキャッチボールを勧めてくれたのではないかと思った。
「そうだったんだね。僕で良ければこれからも、米麻に帰っても、時々キャッチボール付き合うよ。僕の方こそ、百音さん以外の人が投げるものも受け取れるようになれたから、ありがとう。犬井くんのおかげだよ。」

《いろいろと下手くそな僕はこの道しか歩いてこられなかった 出来るだけ転ばないように そして君に出会えた》 「Small world」

 キャッチボールを楽しんだ後、犬井くんと百音さんと三人で浜辺へ行った。
「うぁー海だ!」
犬井くんはやけにうれしそうだった。
「海にはあまり来たことないの?」
百音さんが尋ねると、
「うん、お父さんが津波で死んじゃったから、お母さんに海に連れて行ってほしいとはあまり言えなくて…。お母さんは海を憎んでいるみたいだし。」
そう言って寂しそうに微笑んだ。
「そっか…。たしかに時に海は命を奪ってしまう恐ろしい一面も見せるけど、穏やかで美しい面もあるのにね…。私は津波で家族を失っていないから、そう思えるのかな。犬井くんのお母さんのように津波で大切な人を亡くしてしまったら、やっぱり海を憎んでしまうかもしれない。」
「特に漁師さんたちは海の恐ろしさを知っているけれど、それでも海に出ることをやめないのは、海には魅力もあるからだよね。津波を経験しても、海が好きな人は海を嫌いになれない人は海の町に住み続ける。人は海から魚などの命をもらって恩恵を受けて命をつないでいるから、海を完全にスルーすることはできないよね。犬井くんのお母さんもそれは分かっているんだろうけど、愛する旦那さんを奪った海を憎いと思う気持ちを捨てられなくても仕方ないよね。それに犬井くんのことは海の事故から守らなきゃとかいろいろ考えがあって、海に連れてこないのかもしれないし…。」
浜辺で貝殻を拾ったり、砂遊びを始めた無邪気な犬井くんを見守りながら、僕らはそんなことを話していた。

 日曜日、僕ら三人は米麻に帰ることになった。
「すっかりお世話になってしまって。亜哉子さん、本当にありがとうね。」
「いえいえ、たいしたお構いもできなくてすみません。少しは犬井くんの気分転換に貢献できたでしょうか…。」
「十分だよ。さすが教師だった亜哉子さんはすごいね。直接説教したりするんじゃなくて、さりげなくより良い方へ気持ちを導いてあげるというか…。子どもの自主性を信じて、そっと見守って、転びそうになったら手を貸すより、転んでも起き上がり方を知っているよねとその子自身の力を引き出そうとすることが大切なんだね。私も勉強になったよ。」
サヤカさんの言う通り、お母さんは面と向かって一対一で犬井くんに偉そうに話すようなことはしなかった。ただ、こうしてみたらとか、がんばってとか提案し、犬井くんが努力すればよくがんばったね、えらいねとちゃんと褒めていた。犬井くんのことをいつでも信じていた。
「少しでも犬井くんやサヤカさん、光太朗先生のお役に立てたなら幸いです。」
「私は特に何もできなくてごめんね。」
百音さんが申し訳なさそうに呟いた。
「モネさんのお母さん、モネさんもぼくのこと信じてくれてありがとう。のろまでいろいろ下手くそで不器用なぼくのことをやさしく見守り続けてくれてありがとう。ぼく、友だちのことを信じて、ぼくのことも信じてもらえるようにもう少し学校でがんばってみようって思えたよ。ここで過ごせたことは絶対忘れないよ。楽しかった。」
仮病を使ってまで学校を休もうとしていた数日前とすっかり変わった犬井くんは眩しく輝いて見えた。
 別れ際、サヤカさんは百音さんに何かを手渡した。
「モネ、これは登米神社の安産お守り。良かったら持っていてね。」
「サヤカさん、ありがとうございます。大切にします。」
百音さんが安産お守りをもらうのは僕が把握しているだけでもこれで六個目だった。おじいちゃん、お父さん、お母さん、僕…そして東京にいる未知さんからもお守りが届いたと聞いていた。これほどみんなから大切に思ってもらえている僕らの子どもは本当に幸せ者だと思う。
「犬井くん、いつでもまた遊びに来てね。ここで待ってるから。」
「ありがとうございます。」
「私もまた遊びに来させてもらうよ。」
「もちろんです、サヤカさん。私も安定期に入ったら米麻に行きますね。」
「ありがとう。私はいつでも登米でモネが帰って来るのを待ってるよ。」
笑顔で二人と別れ、この数日で新たな居場所を見つけたような僕らは三人でまたそれぞれの居場所へ戻った。

《もうきっと多分大丈夫 どこが痛いか分かったからね 自分で涙拾えたら いつか魔法に変えられる》 「Aurora」

 亀島から離れ、登米へ戻る前にシャークミュージアムに立ち寄り、僕は誰よりはしゃいでしまった。生まれてくる子にプレゼントしようと、ついつい新しいぬいぐるみも購入してしまった。
「コータロー先生…サメのぬいぐるみなんて赤ちゃんは怖がるんじゃない?」
「大丈夫だよ、僕の子ならきっとサメを好きになってくれると思うから。」
「モネから聞いたよ。独身時代の先生の部屋はサメグッズだらけだったって。この分じゃ子ども部屋もサメでいっぱいになりそうだ。」
サメのぬいぐるみを抱えた僕と犬井くんとサヤカさんが登米行きのバスを待っている間、ぽつりと犬井くんはこんなことを言い出した。
「姫、コータロー先生…これからは僕のこと犬井じゃなくて、桃太郎って呼んでもいいよ。」
「えっ?そうなの?いいの?犬井くん。」
驚いた僕はうっかり犬井くんと言ってしまった。
「先生、犬井くんじゃなくて、桃太郎くん。分かったよ、桃太郎くん。私は元々、桃太郎って名前が好きだったからね。」
「ぼくも努力すればお父さんが考えてくれた名前にふさわしい自分になれると思ったから。ぼく…ずっと弱い自分を変えたいと思っていたのに変われなくて苦しかったんだ。どうせ仲間に入れてもらえないと諦めて、自分から行動することをやめてしまってたんだ。まだ少し怖いけど、勇気を出して仲間に入れてって言ってみるよ。それから…もしもコータロー先生の赤ちゃんが男の子だったら、ももたろうって名前も良いと思うよ。同じ名前の仲間が増えたらうれしいし。」
少し照れくさそうに桃太郎くんは僕に言ってくれた。
「ありがとう、桃太郎くん。弱い自分を少しでも強い自分に変えることができて良かったね。でも僕は桃太郎くんの弱さも嫌いじゃないよ。弱い部分はやさしさでもあるから。弱い分だけ人の痛みが分かる人だと思うし。」
「そうだね、桃太郎くんはそんなに変わろうとしなくても、そのままの桃太郎くんにもちゃんと魅力はあるよ。変わっても、変わらなくても大丈夫。そんなに焦らなくていい、ゆっくりでいいんだ。」
サヤカさんと僕の言葉を聞くと桃太郎くんは
「そっか…ぼくは変われなくても大丈夫なんだね。よく考えてみればぼくは弱虫で学校に行きたくないとか思えたから、こうしてコータロー先生や姫と出会えて仲良くなれたんだ。そしてモネさんやモネさんのお母さんとも…。だからぼくはのろまで弱虫で友だちもいない、桃太郎って名前も似合わない自分で良かったのかもしれない。初めてこんな自分で良かったって思えたよ。」
と以前の自分自身のことも肯定できるようになったらしかった。

 おそらく、キャッチボールを少し克服したくらいでは、すぐに親友になれるような友だちを作ることは難しいかもしれない。小五にもなると子ども同士の人間関係は大人とそんなに変わらず簡単なものではない気がするから。でも、きっと、自分自身を肯定できるようになった桃太郎くんは物怖じせず、人と関わろうとするきっかけはつかめたと思う。何かちょっとしたことで人は人と歩み寄りたりもできるものだから。一歩踏み出す勇気を得た桃太郎くんはきっともう大丈夫だろう。最初は拒否されたとしても、めげずにしぶとく相手にアプローチできると思う。百音さんのお母さんが教えてくれたように、僕は友だちを作ろうとがんばる桃太郎くんの背中をそっと押し、傷付いて帰ってきた時はよくがんばったねと背中をさすって慰めてあげられる立場になりたい。ある意味、僕が初めての桃太郎くんの友だちかもしれないから。子どもや患者というよりは、似た者同士の友だちのように思える。コータロー先生と呼んで慕ってくれる桃太郎くんはいつの間にか僕にとってかけがえのない存在になっていた。

《せめて今 側にいる そうしたいと思うのは そうしてもらったから》
《君を見つけて 見つけてもらった僕は 僕でよかった》 「Small world」

 はしゃぎ疲れた三人組の僕らは何を話すでもなく、登米に帰るまでの時間、バスに揺られながらそれぞれうとうと居眠りしていた。後部座席の真ん中に座った僕の肩にはいつの間にか桃太郎くんとサヤカさんがもたれ、良い夢でも見ているのか安心したように微笑みながら眠る二人の頭に挟まれてしまった僕は、気仙沼に向かう時の緊張感はどこへやら、少しだけくすぐったいような、でもなぜかとても温かくて心地良さを感じられるようになっていた。

《笑うから 鏡のように 涙がこぼれたよ 一度でも 心の奥が 繋がった気がしたよ》 「アリア」

画像2

 数日後、診療時間が終わり、サヤカさんと二人でカフェで百音さんの話をしていた夕暮れ時、桃太郎くんのお母さんがやって来た。
「先日はありがとうございました。桃太郎がたいへんお世話になりました。これ、良かったら召し上がってください。」
お礼にと箱に入ったお菓子を差し出してくれた。
「強引に連れて行ったようなものですから、気を遣わなくて良いんですよ。私たちの方が桃太郎くんがいてくれたおかげで旅を楽しませてもらったんですから。」
とサヤカさんが挨拶した。
「職場の菓子店で作っている、きびだんごなんです。サヤカさんは食べ慣れているかもしれないんですが、コータロー先生にも是非食べてもらいたいと桃太郎が言うものですから…。」
「あのきびだんごなの?ずんだ味とくるみ味があっておいしいのよね。ありがたくいただくわ。」
「犬井さん、初めまして。菅波光太朗と申します。僕は食べたことがないので、うれしいです。遠慮なくいただきます。」
きびだんごなんてあまり食べたことがなかったけれど、鮮やかな黄色のだんごの中に甘すぎないくるみやずんだが入っていて、とてもおいしかった。
「初めまして。息子がコータロー先生がねとよく先生の話をするんです。いつも良くしていただいているようで、本当にありがとうございます。」
「犬井さん、お時間あるなら少しお茶しながらお話しませんか?」
そう言って、サヤカさんは三人分のお茶を用意してくれた。
「すみません、ありがとうございます。それじゃあ…少しだけ。」
お茶を飲みながら、犬井さんは桃太郎くんの話を始めた。
「桃太郎から聞きました。まずは石ノ森章太郎ふるさと記念館に連れて行ってもらって、気仙沼に着いたらご馳走食べさせてもらって、コータロー先生と一緒にお風呂に入って、一緒に寝て、キャッチボールの練習をして、海にも行って、それから、シャークミュージアムにも寄って、とてもとても楽しかったと…。先生だけでなく、サヤカさんや先生のご家族にもやさしくしてもらってうれしかったと何度も話を聞かされました。あんなに楽しそうな桃太郎はひさしぶりに見た気がしました。両親が亡くなって以来、私も余裕がなくなってしまって、桃太郎をどこかへ連れて行ったりしてあげていなかったものですから…。働くことで精一杯で…。」
「桃太郎くんが楽しんでくれたなら本当に良かった。仕方ないですよ、犬井さん。母親一人きりで子どもを育てていたら、精神的にも余裕がなくなってしまって当然です。まして小学五年生くらいになると、小さい子どもとも違うし、接し方が難しくなる年頃よね。」
「桃太郎は…父親がいないせいか、母親の私に心配かけまいと、ほとんど泣き言を言ったことがなくて、やさしい子だから、そのやさしさに私が甘えてしまっていたんです。桃太郎なら一人でも大丈夫だろうと…。でもずっと寂しい思いをさせていたと気付きました。本当は友だちに名前のことでからかわれていたと最近ようやく教えてくれたんです。学校に行きたくないとか言い出した時期があって、でも理由は話してくれないから、病気でもない限り、休んではいけませんと厳しく言ってしまったり…。今思えば、もっとちゃんと理由を聞いてあげれば良かったです。でも今では自分の名前が好きになれたから、もう大丈夫と学校に行きたくないと言うこともなくなりました。サヤカさんと先生のおかげですよね。ありがとうございます。」
「そうだったんですか…。桃太郎くんはやさしいですからね。でも僕たちが特別何かしたわけではないんです。桃太郎くん自身が自分の力で成長したんです。」
「そうよ、私たちはただ桃太郎くんの側にいただけで、桃太郎くんがね、自分の力で自分を信じて強くなったの。」
「私は…母親なのに桃太郎のことを信じてあげるとか見守ってあげることをちゃんとできていなかったのかもしれません。父親のいない息子のために、ちゃんと一人で生きていけるように強い大人に育てなきゃと私は自分の考えを無理矢理押し付けてしまっていた気がします。父親を思い出させると寂しい思いをさせてしまうと思って、海に連れて行ってあげたこともありませんでした。見せないようにしていたんです。父親が亡くなってしまう原因になった海という存在を。父親を恋しがってばかりでは弱い子になってしまうとあえて父親の話はしないようにしていたんです。でもきっとそれは逆効果だったと今となっては思います。もっとちゃんと私だけが知っているあの子の知らないお父さんの話を聞かせてあげるべきだったかなと…。だからこれからは少しずつ、どんな父親だったかとか教えてあげたいと思ってます。キャッチボールでもしながら。」
「仕方ないわよ、私だってもしも子どもがいて、旦那に先立たれていたら、犬井さんと同じように父親のことは話さないようにしたかもしれないもの。一人で生きていけるように強い子に育てなきゃって考えたと思うわ。」
「そうですね、それが間違っていたとは言い切れないと思います。親なら誰しも子どもに対する思いは強くなってしまいますから…。」
「私は、この子がせめて大学を卒業するまではもしも突然私が倒れてしまっても困らないようにちゃんとお金を残しておくことが親の務めだと思い込んで、父親の分も働かなきゃって仕事ばかり優先してしまっていました。将来や未来のことばかり案じて、今の桃太郎を大事にできていなかったんですよね。ちゃんと息子の本当の気持ちを知ってあげられていなかったことに気付いたんです。過去を振り返ってばかりだと寂しがってばかりの弱い子になってしまうと思って、父親という存在にも鍵をかけてしまっていました。過去や今があるからこそ、未来があるというのに…。」
「それに気付けたなら犬井さんはもう大丈夫だと思いますよ。」
「そうよ、これからの今を大事にすればいいんだから。時々過去を振り返りながらね。もちろん未来に希望を持つことも大事だし。」
「そう言ってもらえると救われます。桃太郎に親身になってくれるお二人だから話しますが、私は結婚したばかりの頃、そこまで子どもをほしいと思う人間ではなかったんです。やさしい彼と二人で過ごせればそれで幸せだと。でも亡くなった主人の方が子どもが大好きな人で、早く授かりたいって結婚する以前から、ずっと子どもの名前を考えているような人だったんです。彼と私の名前を組み合わせて、男なら桃太郎、女なら幸子にしようとずっと口癖のように言っていて…。だから私は主人の意志を大事にしなきゃと思って、息子の名前は桃太郎と決めたんです。でも…桃太郎を産むまでは葛藤がありました。子どもはいらないと思っても、いざ授かってみると、本能なのか何なのか分からないんですが、無性におなかの子が愛しく思えて、まだ会えてもいないのに、大好きだ、この子を守りたいって心の底から思えたんです。こんな私も母性を秘めていたのかと驚いたくらいでした。だから大切に育てて、早く産んであげたいと思えるようになって、主人と一緒にこの子と三人で幸せに暮らすことを待ち望むようになりました。でもそんな矢先、妊娠が発覚してまだ9週くらいの時期に、震災が起きてしまって、主人は帰らぬ人となってしまいました。絶望してしまった私はいっそおなかの子と一緒に主人の元へ行くのもいいかもしれないと考えてしまったんです。一方で中絶を考えてしまったりもしていました。大切な子だからこそ、こんな自分一人では守り切れそうもない、子煩悩な主人がいてくれるからこそ育てられると思えた。シングルマザーになってこの子に苦労をかけるくらいなら、せめてこの子は誰よりも我が子に会えるのを楽しみにしていた主人の元へ委ねようかと母親として最低のことも頭を過っていました。私はそれくらい追い詰められていたんです。福島にいて、レントゲンも控えるべきと言われていた時期に微量だとしても放射能を浴びてしまったこともあり、もしもおなかの子に障害を負わせてしまったらと怖くもなっていたんです。中絶したとしても、結局私も後を追うだろうから、やっぱり潔く、二人で一緒にあの人の元へ行こうかと覚悟を決めた時、ふいに出血が始まってしまって、もしかして流産してしまったのではないかと思ったんです。この子を殺めることばかり考えていたから、バチが当ったんだと…。でも病院に行って確認してもらったら、おなかの子の心拍は止まることなく、元気に動いていたんです。順調に育っていますよ、安心してくださいと言われたら、今まで何て残酷なことばかり考えていたんだろう、この子は何があっても、こんなにもしぶとくたくましく生きようと懸命に心拍を刻み続けているのにと涙が止まりませんでした。おなかの中にいた桃太郎が私を思い止まらせてくれたんです。そして私はやっと一人で親になる覚悟を持てたんです。あの子がこんな私を母親にしてくれたんです。こんなに強い子なら弱い母親でもちゃんと育ってくれると信じられるようになりました。」
犬井さんは目に涙を浮かべながらつらかった過去の心の内を話してくれた。するとサヤカさんも僕がいるというのにためらうそぶりもなく、あの夜、百音さんに聞かせていた自分の過去を語り出した。もしかしたらあの時、僕に聞かれていたことに気付いていたのかもしれない。
「犬井さん、その気持ち、私もよく分かりますよ。特に昔は女なら誰もが子どもを好きで当然、みんな子どもが好きで当たり前と思われがちだったけれど、そうじゃない人もいるのよね。私もね、この辺じゃ有名な話だから、ご存知かと思うけど、バツ4で、つまり4回結婚経験があるの。でも犬井さんと同じように、彼と一緒に過ごす時間が好きで、二人きりでも幸せだと思っていたの。まぁ、なかなか授からなかったという理由もあるけれどね。何が何でも子どもがいなきゃ夫婦は幸せになれないとは思えなくてね。授からなくてもそこまで不幸だとは思っていなかったの。でも子どもがいたらどんな感じかなと想像することはあったけれどね。そして39歳の時、奇跡が起きて、たった一度だけ授かることができたの。病院で我が子の心拍を見せてもらったら、私はこの子と出会うためにこの子を授かるために生きていたんだと思えたの。この子は私の人生で最大の宝物だって本気で思えた。それくらいおなかの子が急に無条件で愛しく思えるようになって。母性って不思議よね、赤ちゃんを授かると同時に勝手に芽生えてしまうんだもの。この子は私の人生のすべてで、この子以外何も残らなくてもいいとさえ思えるほどだった。何が何でもこの子を守らなきゃって大事にしてたつもりなんだけど、流産してしまってね…。産んであげることができなかった。命の尊さ、素晴らしさ、儚さ、あの子は無知だった私にすべてを教えてくれて、ほんの9週でこの世から誰にも知られることなく、消えてしまったの…。旦那は落ち込んでいる私を励まそうと、今回は悲しい思いをしてしまったけれど、また授かれるように一緒にがんばろうなんて言ってくれたけど、たとえまた授かれたとしても、同じ子ではないものね…。生まれて39年、こんな私を選んで、初めて私の元に来てくれたあの子を産んであげたかったのよ。他の誰でもなく、あの子に会いたかった…。もう二度と出会えないのかと思うとつらくて仕方なかった。それにたしかに悲しい結果にはなってしまったけれど、あの子と一緒に過ごせたことはとても幸せだったの。だから、その頃から旦那とは少し考え方がズレてしまっていたのよね…。母親になってしまったら、価値観が変わってしまって。私は何もあげられなかったし、してもあげられなかったのに、おなかの子は私に大切なことすべてを与えてくれたと亡くなってしまったあの子に感謝したわ。だから犬井さんがおなかの中にいた桃太郎くんから何かを教えられたって気持ちよく分かります。子どもって本当にすごい存在よね…。菅波先生も生まれたらきっと分かりますよ。」
「えぇ、子どもの偉大さならもうとっくにひしひしと感じてます。僕もすでにおなかの子からいろいろ与えられて、教えられていますから。」
「サヤカさんは流産してしまった経験があったんですね…。すみません、私、全然知らなくて、自分の過去をぺらぺら話してしまって…。」
「気にしなくていいんですよ。私もね、少し前まではおなかにいた子のこと、誰にも話さず、自分の中に大切にしまって秘密にして死ぬまで一人で抱いていようと思っていたんだけど、モネに話したら、モネが私の子のことも忘れずに大事にすると言ってくれて、うれしくなったんだ。その時、気付いたんだよ。つらいことだから蓋をして隠すんじゃなくて、誰かに話すことで、救われて、死んだ子も私以外の人の心の中で生きられれば、報われるんじゃないかとね…。だから分かってくれると信じられる人には話すことにしたんだ。私ももう歳だし、いつ急に死んでしまってもおかしくないからね。自分がいなくなった後も、生まれて来られなかった子の存在が誰かの中で生き続けてくれたらと願うようになったよ。」
「そうだったんですか…。私もサヤカさんのお子さんのこと、忘れません。今日教えてもらったからにはずっと大切にして、時々思い出すようにします。もしかしてコータロー先生の所にも赤ちゃんが生まれるんですか?」
「えぇ、まだ初期なのであまり公にはしてないんですが、生まれるのは10月半ば、秋の予定です。」
「そうなんですか、待ち遠しいですね。」
「菅波先生の奥さんはね、私の孫みたいなものだから、つまり私のひ孫が生まれるようなもので、私もとっても楽しみなんだ。」
「へぇーサヤカさんのお孫さんみたいな人が先生の奥さんなんですか。桃太郎がよくしてもらったみたいですし、私もいつかお会いできたらいいなぁ。」
「いずれ安定期に入れば、米麻にも来ると言っているので、その時は犬井さんにも紹介させてください。」
「楽しみにしてます。先生の奥さんや赤ちゃんに会えるのを。」
笑顔の戻った犬井さんにサヤカさんがそっと呟いた。
「犬井さん、お一人で子育てされていると、忙しかったり、何かとたいへんでしょうけど、全部一人で背負い込もうとしなくていいんですよ。つらい時や苦しい時は私たちに是非頼ってください。私や先生にとっても桃太郎くんは大切な存在だから。子どもはみんなの宝で、みんなの未来だもの。肩の力を抜いて、たまにはこのカフェや診療所に遊びに来てくださいね。桃太郎くんと一緒に。」
そしてサヤカさんは犬井さんの背中をやさしくさすった。
「サヤカさん…本当にありがとうございます。いつも桃太郎は一人で来て、みなさんのお仕事のお邪魔かもしれませんし、時間のある時は私もついてくるようにします。」
「邪魔なんてことはないんですよ。桃太郎くんはもはや僕の友だちですから。」
「私もそう。ひ孫でもあり、歳の離れた友だちでもあるのよ。」
犬井さんはすっかり長話をしてしまってすみませんと謝りつつ、来た時より朗らかそうな表情になって桃太郎くんが待つ家に帰って行った。

《例えば未来 変えられるような 大それた力じゃなくていい 君のいない 世界の中で 息をする理由に応えたい》
《失くしたくないものがあったよ 帰りたい場所だってあったよ 君のいない 世界の中で 君といた昨日に応えたい》 「クロノスタシス」

 4月30日、米麻診療所から一旦東京へ帰る日。犬井くんとサヤカさんが僕の見送りに来てくれた。
「コータロー先生、また登米に戻ってくるんだよね?」
「うん、大体二週間交代の勤務になったから、今度登米に来られるのは5月半ばかなぁ。」
「絶対、元気に戻って来てね、約束だよ。どこも痛いところがなくても病気じゃなくてもコータロー先生が戻ってきたら、また診療所に行ってもいい?」
「何もなくても、どこも痛まなくても、いつでも来ていいですよ。僕は二週間ごとに、ここにいるからね。」
「ありがとう。良かった。」
「菅波先生、今度来る時は、登米で常勤してくれる産婦人科医も東京から連れて来てくださいよ。登米には分娩できる病院がなくなってしまったんです。お産引き受けてくれるお医者様がなかなか見つからなくて…。結局、登米の妊婦さんは石巻や大崎の病院を頼っているんですよ。地元で分娩できたら、みんな助かると思うの。」
「今の時代、個人病院はお産をやめている病院が多いですからね。出産に携わる産婦人科医ってハードですから。なかなかいないんですよ…。でも探してみます。一緒に登米の病院で働いてくれる産婦人科医も。まぁ、こういうことは中村先生に頼んだ方が早いとは思いますよ。」
「中村先生にもちゃんと頼んでいるのよ。でも父親になったコータロー先生も頼りになりそうだなと思ってね。」
「ぼく…勉強苦手だけど、将来お医者様になって、コータロー先生と同じ病院で働こうかな。お医者様になれば、コータロー先生とずっと一緒にいられるかもしれないし。」
「それは名案ね、桃太郎くんが米麻診療所の未来のお医者様になればいいのよ。」
「そうだね、桃太郎くんと僕は性格がよく似ているから、勉強だってがんばればきっと僕と同じように医者になれるよ。」
「うん、ぼく、コータロー先生を見習って、努力するよ。勉強…教えてね。」
「もちろん大歓迎だよ。ただし、僕は勉強を教えるとなるとけっこうスパルタだよ?まずは勉強のスケジュール考えてくるよ。」
「なんだか、昔、モネに気象予報士試験の勉強を教えていた頃の菅波先生みたいだわね。そのうち縄跳びを桃太郎くんにプレゼントするんじゃないの?」
「あーそれはいい考えですね。今度縄跳びを買って来るからね。」
「縄跳び?なんで?」
「縄跳びは集中力を鍛えるのにぴったりなんです。」
「ふーん、そうなんだ。じゃあぼくは勉強よりまずは縄跳びをがんばるよ。」
「並行して勉強もちゃんとがんばってください。」
こんな話をしながら、僕は一人でバスに乗り込んだ。三人で乗った時と違って、同じ後部座席がなんだかとても広く感じて寂しさを覚えた。

《今日が明日 昨日になって 誰かが忘れたって 今君がここにいる事を 僕は忘れないから》
《一緒じゃなくても 一人だったとしても また明日の中に 君がいますように》 「Gravity」

 仙台に到着し、バスから降りると明日から5月だというのに、季節外れの雪がちらついてきた。
「コータロー先生、登米は雪が積もったよ。」
桃太郎くんからの雪の画像付きのメールが届いた。
「光太朗さん、気仙沼は今、雪が降ってます。冷えるので帰り気を付けてね。それから私も名前、考えてみたんだけど、音太朗(おとたろう)や百光(ももこ)はどう?」
同じ頃、百音さんからも画像付きのメールが届いた。
そしてみぞれに近い仙台の雪を頬で感じた後、僕は新幹線に乗り込んだ。
「桃太郎くん、登米の雪すごいね。仙台も寒いよ。風邪ひかないようにね。」
と桃太郎くんに返信し、百音さんには
「気仙沼も雪なんだね。仙台はみぞれに近い雪だよ。名前…音太朗や百光も良いけど、やっぱり百太朗は譲れないかな。」
と返信した。

 あぁ、なんだか東京に帰りたくないな…。早くも登米や気仙沼に戻りたい気持ちになってきた。すっかり宮城が僕の第二のふるさとになってしまったみたいだ。でも僕のことを「おかえり」と待ってくれている患者さんが東京にもたくさんいるのだから、僕は東京でもどこにいてもがんばらなきゃ。この世界に生を与えられ、いつでも僕の心の中にいてくれる、ここにいる百太朗に恥じることのない父親になろう。

《闇雲にでも信じたよ きちんと前に進んでいるって よく晴れた朝には時々 一人ぼっちにされちゃうから》
《ヤジロベエみたいな正しさだ 今この景色の全てが 笑ってくれるわけじゃないけど それでもいい これは僕の旅》
《いつか また会うよ 戻れないあの日の 七色》 「なないろ」

画像1

※写真はすべて登米市長沼フートピア公園にて撮影したものです。

★続き→大切な二人のあの子たち「雪音と百音」新田サヤカと深山楓の物語

#おかえりモネ1周年 #おかえりモネ #俺たちの菅波 #菅波先生 #桃太郎 #サヤカさん #モネ #妊娠 #赤ちゃん #登米 #気仙沼 #仮面ライダー #地震 #小学生 #子ども #出会い #命 #親子 #出産 #受胎告知 #母親 #サメ #シャークミュージアム #旅 #手当て #成長 #お母さん #BUMP #バンプ #オマージュ #小説 #物語 #Flare #Aurora #Gravity #アリア #Smallworld #クロノスタシス #なないろ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?