見出し画像

続・今でもなお。・カミングアウトが自己紹介になる日 21.2.19

一般小説に「ゲイ」が出てくるとやっぱり身構えるな。
笑い者にするつもりなのか、主人公(男)につきまとうストーカーか、逆に悲劇のヒーロー(ヒロイン)にするのか。

著名作家の小説指南本で、犯罪者が出入りするハッ●ン場(後述)が出てくる自作を例に上げ、
「ホモ」という言葉を使って説明し、「知恵を絞って書いた」と語っていたのがカチンときた。

どんなに売れている大物作家でも、リスペクトなくゲイを単なるネタとして消費されると腹立たしい。

そしてそれは、今でも決して珍しいことではない。


引き続きその小説を読んでいると、その主人公に告白し(てフラれ)たゲイは、スポーツマンでなかなかな好青年として描かれている。ノンケ(異性愛者)の主人公も「LGBT」の彼の心情を思いやり、告白には応えられないものの理解をしようとはする。
ふむふむ、わかってるじゃん、と安心してその先を読み進めたら、突然――

『お前らそういう仲だったわけー?』
『マジで気持ち悪いんだけど』
『ほら、キスしろよ、キスキスキス!』

と、陰で覗き見していた主人公の先輩による悪態尽くしに、思いっきりボディーブローを喰らう。

ムカムカを抑えきれずにまず、その小説の奥付けを見る。2020年発行。つまり、去年だ。
そのためか、主人公は「LGBT」の知識・認識はあり、ゲイの青年の描かれ方も好感の持てるものである。しかし、先輩は――。

もちろん、この男(先輩)はこの時点では、悪く言えば根性がねじ曲がった、意地悪な男として設定されているし、このようなゲイ差別も現実にはまだ残っているだろう。
だが、この男が「本当はいい奴」的に描かれていくのが、どうにも納得がいかない。

別の例を挙げる。
先週、BSで放送されたドキュメンタリーで、閉館した成人映画館の特集を放送していたのだが、常連客の青年がインタビューに答え、

「前情報としては(成人映画館が)『ハッ●ン場』という情報もある」

と語り出し、画面にはご親切にも「ゲイ同士の出会いの場」と表示される。
「中・高のころゲイいじりをしてゲラゲラ笑っていたけど、実際そういう場に出くわして、自分と違う人間も存在している。(この映画館は)そういう人たちにとって大事な場所なんだなぁ、と(思った)」

悪意など一切ないのであろうが、なんかモヤっとくるのは、ゲイにとってデリケートな問題を放送で公にしておきながら、「自分はゲイのこと理解してます」的に語っているところだろうか。

で、小説の「ゲイ差別先輩」の話に戻るが、ここまで無神経で悪意に満ちた発言をするキャラを、僕が作者だったら“善人”として扱うことはできない。たとえ、のちに「あのときはごめんな」と謝ったとしてもだ。

何度か書いているが、「ゲイ差別」は長らく異性愛者の“娯楽”として大っぴらに行われてきた。最近になってやっと当事者や理解者がそれに反対する場面も増えてきたが、「自分LGBTQのこと理解してます」的に、ゲイのことを語ったり触れたりすることが、逆にゲイを傷つけかねない行為に繋がっているのは決して珍しいことではない。

これが、現実なのだ。
2021年の今でもなお。



やっぱり「ゲイ差別先輩」、すぐさま謝っていた。小説の中での話。
このまま、「実は彼にもいろいろありまして」みたいな展開になりそう。
「ごめん」で済ませるにはあのセリフは、強烈すぎたな。

急に読むスピードが遅くなり、この小説への興味も失われていく。
まぁ、最後まで読むけど。


*  *  *


あらためて↑の小説を読了。

うーん……。

まず、この「ゲイ差別先輩」は、やはり「人生いろいろあって素直になれないけど本当は良い人」にされていた。
それでいていちおうの謝罪はしたものの「男のくせに」とか、やはり無神経な発言は見られる。

さて、ゲイ青年のその後だが――

まっすぐな性格の彼は、主人公に告白したように、信頼できる仲間へのカミングアウトを考えていた。ところが、ある仲間に「自分はゲイである」とだけ告げたはずが、好きだと告白したという噂が流れ、ゲイ青年が所属していた集団から疎外される。耐えきれずゲイ青年は、親にもカミングアウトし、母親はその集団を訴えると言い、父親からは「一家の恥」と言われる。

このように、ゲイ青年のエピソードは、ストーリーにかなり大きく関わってくる。


ただ、全体としては爽やかな青春小説であり、ラスト近くでは、カムアされた仲間が全部話して謝罪し、その集団をまとめる人物にゲイ青年はこれまでのいきさつをすべて話し、集団内でミーティングを重ね、徐々に元通りになっていった、とある。
さらに、「ゲイ差別先輩」が結果的にゲイ青年を立ち直らせました、という展開もプラスされる。

小説としては、ハッピーエンドだ。
しかし、どうにも引っ掛かる。

なぜ、ゲイは何もかも、告白しなければならないのか。

たまたま集団の長が「理解のある人」だったが、もちろんそうでないケースもある。その場合、ゲイ青年はさらに傷付き、孤立するだろう。

要するに「たまたまうまくいっただけ」、なのだ。
なお、親との関係が修復されたかは、最後まで不明。


一昔前の創作物に出てくるゲイは、「歩くカミングアウト」とでもいうべき、大っぴらにオネエ言葉を使い、一目ぼれした主人公(男)を追い回す「役割」を与えられていた。



今でもそれはなくはないが、この小説のように、ゲイの描かれ方も少しずつ変わっている。ただ、相変わらず「カミングアウトの呪縛」からは逃れられていない。
なぜだか、ゲイであることをバラし、苦悩させたがる。

その意味で、かつて放送された『腐女子、うっかりゲイに告る』(リンク先は成人向けバナー広告あり)に似たような傾向を感じた。
「わざわざ雨降らせて地固まらせる」とでもいうのか。

「自分はLGBTQのことを理解している」、と考えている異性愛者からすれば、それを公にできる世界が望ましいのだろうし、先日の『逃げ恥』正月SPでもそのようなメッセージが色濃く見られた。ただし、このドラマにおけるカミングアウトは、「雨を降らせる=本人を孤立させる」手段としては用いられていない。

一方、一部の異性愛者から見たカミングアウトは、「LGBTQが乗り越える『べき』壁」であり、それをすることで、本来の自分らしくいられる手段、と思われている気がする。

もちろん、本当の自分を飾らずに生きていければ、どんなにかすばらしいことだろう。
しかし、以前よりは理解が進んだとはいえ、いまだに根強く偏見を持つ人物も少なからずいる。
建前としては、一般人よりも高邁な品格が求められるであろう(元)政治家ですら、昭和で時間が止まっているのだろうかと疑いたくなる発言をカメラの前でする者もいる。

自分たちの意に沿わない生き方をしている人を否定し、傷つけ、侮辱するシーンを見て、怒りを通り越して、唖然とした人も多いだろう。それだけではなく、この発言を支持する一定の層もネットでは見られる。


このような現状で、創作の中であっても、「カミングアウト→孤立→和解」のテンプレートをゲイのキャラクターに辿らせるのは、僕自身はかなり抵抗がある。
傷つけられ、侮辱されないと和解(多数派に理解して『いただく』)が手に入らないのなら、それを最初から避けるのも一つの生き方であり、架空のキャラクターであっても同じと考えるからだ。


もちろん
カミングアウトが単なる自己紹介レベルまでになれば、また別だが……。

2021年においてもまだ、この状況はすぐには変わりそうにはない。


【あわせて読みたい】



この記事が参加している募集

いただいたサポートは、飛田流の健全な育成のために有効に使わせていただきます。(一例 ごはん・おかず・おやつ・飲み物……)